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ブログの解説と参考書籍等

 

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文学と私刑について

「私刑と文学」

民事の最高の懲罰は「私刑」という皮肉を元に書いた。私の小説の哲学の一つである「鳥の巣の現象学」の補助の二章目。

まずは「だれもいなくなった」アガサクリスティの粗筋から。(外部ページ)

「何故ベルクソン哲学を選んだのか」

「そのために推敲で切り捨てる冷静な目が必要だった。大切な人の死を書いても容赦なく「面白くなかった」と批判が来る。それを受け入れること、聖書を頂点として私の自我はへりくだる。何故なら全部、聖書を頂点として過去の遺産に書かれてある。想像の処女性は無い、それが私の執筆生活の幕開けだった」引用「文学と私刑」

哲学とは、何なのかを考えると私でも骨が折れることがある。哲学は正解があるのかといえば、終着点が見当たらない。聖書は自分の意識と言語が拙いながらも一旦でも善悪に降りられるが、哲学は善悪という定点すら持たないものもある。(理性すらも疑う場合)ただ何故、著名な哲学者を引用するのかといえば私の場合は、自分の感受性や意識の補助として使っている。人間は自分のオリジナルだけの言葉だと信頼関係が成り立たない。この現実は哲学を学ぶ人は知っていると思う。ただし、行き過ぎると自分の言葉がない、と判断されることもある。しかし知らな過ぎてもやっていけない。所詮、一人の想像力で気づいたものは「意識の細分化」に過ぎず、とっくに哲学者が語っているという経験も多い。後の「聖と俗の現象学」へと続く「俗」のパートとしてここで書いた。

「へりくだった」自我について。

デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)がありますが、デカルトは方法序説で自分を夢だと疑った。しかし、最後まで夢なのかもしれないと疑っている自分の「意識」の存在に気づきました。最後まで自分の意識は残る、「我」という存在の確定は「定理」に相当するとした。

フッサールは、この方法序説に立ち返り「真・偽」ではなく真意の判断を停止することを選んだ。フッサール哲学は本質追求に関して長けているが志向性が「静」の要素が強く、殺人や、反射的に判断する日常において、ベルクソンのほうが向いていると当時は判断した。より自我について、身体とは同一視出来ず、多面的なそれを超え、みずからを創造しつづける「自我」の性質として書いていたのが「精神のエネルギー」のベルクソンだった。

自我を頂点とさせないために神を上に置いた。これは単なる気概の一貫である。

・何故自我を統一させないことと「そして誰もいなくなった」だったのか。

そして誰もいなくなった、というミステリー小説は殺人事件であるがこれを事実と変わらず、単なる殺人ではなく「10人の兵隊(インディアン)人形」と同じように象徴として捉えた場合、読者である私は誰に共感しても良い。真犯人であった裁判官の視点は作中では隠されてあり、様々な登場人物達の「自我」が登場した。登場人物が一人死ぬという客観的時間は、実は犯人の内的時間の実行だった。作中の中の登場人物達の内的時間、読者の私としての内的時間が複雑に絡み合っていく様子を表せるのも今回はベルクソンだと判断した。

しかし、最近はgoogleも倫理担当を解雇させたがAI基準によって記事が上がらないようになってくるために、「悪」についての掘り下げがこの程度にしかならなかったことを残念に思う。いずれ書籍で案内したい。

「悪」について考えるとき、それよりも残酷なことを思う時、それは本性であるか、一過性のものか分からない。しかし感覚としてこのミステリーは最後に一番悪人でなさそうな人間を自殺へと言葉もかけずに追いやったことは秀逸だった。これは一種の催眠のようなもので、犯人にとってうまくいかなかった可能性もあったからだ。どのミステリー作家や漫画家もこの島での殺人事件は多く模倣したが、他の殺し方は色んなトリックを加えても、最後の暗示のような追いやり方を真似たら語らずともアガサクリスティ―だと気づいてしまう。彼女はこの殺害方法に自分の存在を残したとすら思う。

犯人も同じである。公刑で裁かれなかった罪、という内包された罪に犯人は目をつけた。純粋に内的な意識が向けられること、純粋持続とはキリスト教的な愛、光や善とは限らない。哲学的な純粋とは、普遍性をさし、倫理に囚われない。制裁による殺意とは、哲学と神学が倫理によって囚われて隠れてしまうものが不文律として浮かび上がる。:引用

哲学を批判的に言っているわけではないが、哲学上の理性とはまだギリシャ哲学か、もしくは宗教的倫理に属している。但し倫理というものは属性を宗教に偏らせないところにもある。例えば婚姻についての倫理観は宗教や国に左右される。不貞や、妻以外を愛することは多妻制を取るところにとっては「悪」ではない。統一出来ない倫理観、このように大体の悪だと認識している事は根拠も知らないまま反射的に反応することである。

よって、判事は正義という審美眼を錯覚したことになる。何故なら、神の望みというものに私刑は望まれない。

倫理観は古典に属しているだけか、もしくは「世間体」のみで判断していることも否めない。この小説の裁判官は裁けなかった人達への懲罰について快楽と共に考察をし、犯行に至った。審美眼と勘違いするかのように――法律の懲罰よりも更に深奥部分ではキリスト教的に罪であるが、これを宗教以外で罪としない理由は何処にあるのだろうか。(私は見つけられていないので到達点をキリスト教神学においている)私は倫理観ではなく「空間」と「純粋持続」(言語・概念・記号を振り払って自己内界に深く入り、そこに直覚的に感得される生動そのものとしての自我・人格の存在形式、を頼りにこの世界を見た。

それは小説を見る上で過ちではない。何故なら自我は私のものであるからである。よって、ベルクソンが一番例えやすかった。それはこの哲学に何が人間として正しくて、間違えなのかを探すのではなく、

流動と持続として、私は彼等の人生劇を見ていた。そしてそれを通して自分の人生において当時の「悪意」を

見つめていた。その時に包み隠せない「私刑欲」があったことは隠さないでおこう。それと私刑は流行っているように思えた。(記載は2022年2月)実行はしなかったが、それほど素直な時間を作った。自我の性質への解明を行ったのである。

「意識に直接あたえられているものについての試論」ベルクソン

この後につづく第二章では、心的状態ひとつひとつ切り離して個別にとりあげることはしない。そうではなく、心的状態をその具体的多様性のうちにとらえ、それが純粋持続のなかで展開されるものとして考察する。

それに数えるのは、我々が意識の深みにはいりこんでいけばいくほど、ますます難しくなる。意識の深層では、我々は感覚や感情の渾然とした多様体を前にしているのであって、それらの感覚や感情を区別するためには分析によるしかない。

一人一人、人形になぞらえて殺されたが、単なる数の集合体ではなかった。これは無秩序な混沌であることであるので分析を要する。「物質的対象」「意識的対象」の区別について調べて今後に役立ててほしい。

・しかし敢えてこのページは難解にし、飛翔点とあるように到着をしていない。分かりやすくこれが悪だとか、私刑を安易に肯定することは賢明ではないと判断した。

「私刑」それは虐げられた、消される魂の承認欲求である。

最後に私刑をMobJusticeとしたが、それはMobの意味を理解してこそ選んだ。

私刑と復讐は似ているようでも区別されるところがある。それは「そして誰もいなくなった」の犯人のように、自分には害はなかったが、世の中の悪い人達を殺したくなった、という快楽的な審判も意味するからだ。

https://www.weblio.jp/content/%E3%83%A2%E3%83%96%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9

参考書籍

ベルクソンの書籍全般

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ヨブ記について

まず、療養中に書いたものなので不完全なのが惜しい。

ヨブ記

神の試練1 

ファウスト博士が神に気に入られる男だったが、メフェストフェレスが神にファウストを試すことを

持ち掛けた話の原型ともいえる。神にヨブの信仰心を試すことが許されたサタンが呼ぶの家族と

財産を奪う。「眠らぬ夜のために」(ヒルティ)でもファウスト博士を堕とすために悪魔が何度も時間を

かけなければならなかったとあったように、神が気に入るほどの忠実な人間には、神と話せるほどの

上等な悪魔がくるようだ。ヨブは誘惑に勝ったが、ファウストは負けてしまう。聖書と文学の分岐とも

思える。ヨブ記での神の試練でヨブが失ったもの7つ

・7人の息子

・三人の娘

・数多くの使用人

・羊7000匹

・らくだ3000頭

・牛 500匹

・雌ろば500頭

神の試練2

神の試練1を克服したヨブ、サタンはまた神に許しを得てヨブの全身を皮膚病にして姿を変えたようにしてしまう。

それでもヨブの神への忠誠心は変わらなかった。

神の試練3

友人との対話

ヨブの惨めな姿を見た3人の友人はヨブが何かしら罪を犯したんではないかと判断してしまう。

ヨブ記8:4「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ 彼等をその罪の手に委ねられたのだ」

ヨブの悔い改め 

若き哲学者エリフとヨブとの教義論争→沈黙していた神が表れる。

ヨブ記38章2節

これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは(38:2)

あなたのことを、耳にしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎみます(42章5節)

ヨブは悔い改め、前よりも増して神の祝福を受けた。

構成 ヨブ記の1~2章と結びとなる42章7節以下は散文で書かれている。

その間の3章1節から42章6節は韻文。

散文ではヨブの悟り、韻文では神の不当性を訴えている。

・ヨブは真実の苦悩を苦しみながらも、納得できないことについて追及することを諦めなかった。


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