・子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。
・私は疲労によろめき、お金のこと、道徳のこと、自殺のことを考える。
・私は悲しいときに、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。
・人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけの読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。
・しかし、父は大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。
桜桃―太宰治。(1948年5月)
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◎はじめに
われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(文語訳)
(目を挙げて、私は山々を仰ぐ・新共同語訳)
詩篇、第121
旧約聖書の詩篇の引用から始まる。この続きは「わが扶助(助け)はいずこよりきたるや」と続く。(文語訳)意味は、「わたしは山に向かって目をあげる、わが助けは、どこから来るであろうか」(角川春樹事務所文庫より)
「子供より親が大事、と思いたい」と始まることによって、何て薄情な親なんだと思うか、共感を生むのか、もっと他の意味があると読むのか、様々な読者の「立場」をひきつける。桜桃は短い作品で、この中の父親の名前が著者である「太宰」となっていること、長男の障がいのあること等の一致、妻子を置いて、愛人と心中事件を起こす約一月前に書かれた『桜桃』は私小説扱いでもある。この父親である「私」(太宰)は人を楽しませることや、人の期待に応えようと自分を追い込んでいく。死にたいと思うこと、長男の障がいについて父親は一緒に死にたいと思うことがあると独白で語る。そして贅沢なものでもある桜桃(サクランボ)を子どもに与えず、自分だけがまずそうに食べては種を吐く。
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◎感想
日本語では「うそつき」を「嘘吐き」(ウソハキ)と書くことがある。この最後の桜桃(サクランボ)を食べては種を吐き、食べては種を吐きというのは、嘘吐きのことをあらわしてるのだと思った。私は(わたくしは)まずそうに演じたということは嘘をついたと同等だとし、 嘘とは種に纏わりついた彼の唾液のことだとする。そうなると、何かを実ろうとする小さな種が彼の口から落とされるイメージがすぐにできる。「嘘とは唾液」とは、「吐いた唾は飲めぬ」と、一度口から出した言葉は取り消すことができないということと、私はキリスト教徒なので、植物の種にはなるべくならプラスの意味を持たせるので、意味を分離させた。サクランボの花言葉は「善良な教育」。それを子どもには与えず父親だけがまずそうに食べて種を吐く。植物の種というものは本来は可能性を秘めているが、恐らくこの種は沈黙のまま捨てられるのだろう。
それら全て含めて親の弱さであり、性(サガ)であり、子を想うからこそ、弱いと認識してしまう葛藤を静かに表している。私は子どもがいないのでまだ確かなことは分からないけれども、親になると自身が弱いと感じることは屈辱なんだそうで、そういう弱さを告白することはとても勇気がいることなんだと聞いたことがある。今は親にも余裕を与えてやろうという考えが広がってるので実際はどうなのか分からないが、誰でも子がいると自分の未熟さを感じることはあるというのは、いつの時代も変わらないとは思う。
他にも太宰は文学を書こうとする者なら誰しもが悩む普遍的なことなんだろうと思う。 愛や死の同調で喜ぶ読者を見ると彼等に合わせてしまいそうになる。 特に死の価値観は厄介で、死や儚さの同調について、読者の文学への期待は思いのほか高い。もしかしたら生きることや愛の同調よりも期待が高いかもしれない。それは死の同調が「私だけじゃなかった」という安堵感を与えて、「生」に繋がることがあるからかもしれない。死への同調は、生きることも意味する。これは私の独断だが、そういったことを求めるのは女性が多いのかもしれない。
それは現代の私の周りでも変わらない。男性は愛や哲学的なことを主に理性を求めるけれども、女性は死(生)や、人知れず抱いている夢への感情の同調を私に求めることが多い。(それでも、あまりそれに応えすぎないようにはしている)
似たような人がいるという灯りになること、それが作家の弱さの告白の意味である。そしてフィクション作家であるのなら、何処か現実とは違う何かを見せなければならない。例えば、この前紹介したガルシア・マルケスのようなものが良い例だろう。海からバラの香りがするということ、人はこのようなもう一つの現実を期待する。
死や愛を丁寧に書くとすれば基本は一人身のほうが身軽なのかもしれない。 もしくは一人身ではなくても自分を押さえつけない少数の理解者で充分だったりする。作品を第一に考えてくれる理解者がいるのなら、それで良い。それは気楽かといえばそうでもない。一人身でも自由きままに生きることなんて出来ないが、子は犠牲にしていないというのが私の中で安心する一つである。
子育ても経験にとって重要なのかもしれない。
しかしながら、子が可愛いのなら、子を踏み台にしたような経験はしたくないというのがある。完璧な子育てでなくても子は育つけれども、初めから約束出来ないことを誓うことは出来ない。
未来については、神の計らいによるけれども、今の私はそうだ。
太宰の「桜桃」は作家の葛藤も非常にシンプルに書かれてあるが、妻や子を持った故の葛藤だけで済ませると少し違うのかもしれない。子を持った場合でも持たない場合でも、同じぐらいの課題の重さはある。これは与えられたものに対して、何らかの理由で身軽に動けない人間の葛藤だと私は思う。
だから家庭が無い私にも心に響いたのだと思う。私も家庭が無いことに身軽で極楽トンボだとは感じたことがない。別にあったからといって拠り所になるという理想も今は無い。私は、誰かを泣かせるようなことや、裏切ることや、非道徳的な犠牲が目に見えないだけで、これが正しい生き方なんて自信がないのも私も同じである。これが「私」としか言えない。いえることは、今の自分を必要としてる人がいて、応えたいと思う人がいて、与えられたものは、自分にとって生きるための「かすがい」に違いはない。家庭と違うが、仕事においてはお互い犠牲を払いあって成り立つ関係であるので、感謝すら感じる。
それでも、子や才能(賜物)のように与えられたものによって、身動きが取れなくなるということは多々あり、葛藤があるのだ。
今の私は「桜桃」をそう読む。今回は太宰が残した遺書や太宰の人生とはあまり重ねず作品だけで纏めた。 ただ、太宰は妻以外の女性と心中するときに、子を想う文も残し、生活していけるように印税を残した。残された子について私は詳細不明だが、経歴だけなら立派に成長している。
取り残された妻は、太宰の遺骨は家に入れなかったが作品が残るように活動をした。心中した相手の女性の家族は名誉回復のために長年に渡って活動した。今では彼に対しては賛否両論はあるけれども揺るがない知名度の高い文豪となった。人の吐いた一つの嘘なんて誰かの誠意で綺麗になっていくように、捨てられたはずの種がまるで育ったようだ。
Lord, have mercy.
*今回、太宰治の本を朗読する機会があったので二作続けて書くことにしました。
*長男の行く末に関しては表現が思いつかなかったので省略しました。
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◎参考にした他の書籍の一部
「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。神か富かどちらかを選べ」 (マタイによる福音書・6・24)
信仰は本来、人間の弱さや源として希求されてまいりましたが、その観点を忘れた「いい人間ぶること」がこの頃はやりすぎているように思います。人間は美点もあり醜点もあるのものです。 その相克に苦しむとき、悲しいことながら人間は誰でも多少神が見えやすくなるのでしょうか。
曽根綾子
聖人とは欠点のない完全な人間を言うのではなく、この愛とエネルギーに行き、生かされた人のことですね。
尻枝正行神父
別れの日まで―――作家・曽根綾子とバチカンの神父の往復書簡。
酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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