主人公ジョバンニは家が貧しくて孤独を感じていました。同乗していた同級生カンパネルラは裕福でしたが、作品の終盤で実は川に流されて見つからないということをジョバンニは知ります。カムパネルラは恐らく死んでしまったのだということになりますが、その死は読者に最後まで謎を残します。
それでもジョバンニは生きる意味を見出して家に帰ります。 この列車の旅は幸福を探す旅であり、生と死に特等席のような違いがありません。違うのは切符です。
この作品の著者・宮沢賢治は何度もこの作品は書き直していますし、出版される前に死んでしまいます。身体が弱く、仕事が上手くいかなかった彼は、自分自身への問いと同時に、人々に寓意や幸せを与える童話作家として「本当の幸せとは何か」ということを模索したのではないのでしょうか。
残された遺族や団体が更に推敲を重ねましたが、初稿が出版されたり、後になって賢治が訂正した(博士が居ないバージョン)版が出たりとしてるので、銀河鉄道の夜は、どの版のを読んだのかによって、話も印象がそれぞれ違ったりしてるようです。
私はこの話は、呼びかけのようなアナウンスの後に、気がついたら列車の中に居たというような目覚めの感覚が好きです。目を見開いたら窓の外に宇宙が広がってるというのは素敵ですね。
天の河、ケンタウルスの祭り、銀河ステーション、カムパネルラが持っていた黒曜石の黒板、白鳥区の北十字、南十字、蠍の火、 カムパネルラはいつ自分は死んだと気付いたのか、カムパネルラにとっては死の目覚めはいつだったのか、私は職業柄のせいかそんなことを考えるようになりました。
ずっとこの話の視点はジョバンニでしたが、カムパネルラはジョバンニが列車の中で目覚める前から目覚めているのか、ジョバンニの意識の目覚めと共に彼等は現れたのか、どちらなのか、そういうことが過ぎります。
カムパネルラはジョバンニとずっと一緒にいると約束をしたけれども、カムパネルラは石炭袋のところで消えてしまいます。私はそれでも約束が破られたとは思っていません。二人はきっとこの銀河の中で魂の繋がりを約束したということになるのです。
死者と生者が限りなく平等に近い星々の旅で。
「本当の幸せ」と「天国」は、生きている人にとっては似てるのかもしれません。追えば何処までも果てしなく続いていて、降りる駅を決めればとりあえず、そこに少しとどまるのではないのでしょうか。
あと、私は宮沢賢治が、人生の道しるべである老賢者(ユング)のようなブルカニロ博士を途中で消した理由を考えていました。
恐らく、賢者を失うことで生者だけが特別なことを知るわけでもなく、死者だけが特別なものが見れるわけでもなく、ジョバンニとカムパネルラは離れた後も、同じように彷徨いながらまだ旅の途中だ・・・・・・ということにしたかったのだと思います。
(この感想は、 今流通している版を基準に書いています)
切羽詰っているかと思えば、空き時間があると急に銀河鉄道に乗って見たいなと思うようになって、確か主人公のジョバンニは緑の切符を持っていたなぁなんて、作ってみた。宮沢賢治の銀河鉄道の夜は手元にはなかったけど、なんだかインターネットに頼りたくなくて記憶頼りに作ってみた。
後から確認してみたら、緑というのは正解だったけどハガキサイズで、唐草模様が一面にあって十字があるらしい。十字架があったような気もしたけど、賢治は日蓮宗だもんな、気のせいかなとかで書かなかった。(正確には十おかしなばかりの文字・十字架ではない)
駅(行き先)まで覚えてたのに(涙)「突っ込みどころ満載」みたいな出来になってしまったけど、話によると人それぞれ切符のタイプが違うみたいだし、これは私の銀河鉄道切符ということで。
まぁ今回は触りということで。今度また余裕があったら作ろうかな。
・最後に余談・
宮沢賢治の銀河鉄道は生者のジョバンニと、死者のカムパネルラが共に銀河の中を列車で旅をする。初稿にしかいない「ブルカニロ博士」によると、この切符はずっと持っていなければならないし、それぞれの神様の話を聞いて、議論もするし共感して涙も流すだろうというのがあった。
賢治の希望は、博士がいないバージョンのようだ。
私が子どもの頃読んだやつは、ブルカニロ博士がいるやつで友人が読んでるやつは居なかったので話に食い違いがあった。現代でも流通しているのは、この博士がいないバージョンがほとんど。
銀河鉄道の夜、鉄は旧字を使ってます。
短冊をイメージして作りました。
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短冊をイメージして作りました。

この記事はFBで二回にわたって投稿したものを、まとめています。