私人

「私人」
「もしも芸術が何かを教えてくれるとすればそれはまさに、人間存在の私的性格でしょう。(略)人間を社会的動物から個人へと変身させるのです」
「多くのものは他人と分かち合うことができます。しかし、詩を他人と分かち合うことはできません。芸術全般、特に文学、そしてとりわけ詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結びます」
(私人ーーヨシフ・ブロツキー)
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最近、良いなと思った数行の文がロシア関連だったりする。この前のシャネル5番の調香師の話もたった数行で面白いと思ったら、ロシアだった。(調香師の話はfacebookのみ投稿)

ヨシフ・ブロツキーは1987年ノーベル文学賞を受賞をしていて、「私人」は彼が授賞式で語った演説が収録されている。
文学者は彼のように後世の文学者が育つ道となる持論を残すべきだ。それは「私の自己紹介」「アフォリズム」だけではなく、文学論や詩学等、「何故 文学が生きるのか」という神髄となる持論を語ることだ。こういう人目に立つ人達が語らないと、抽象的世界はエヴィデンスとして残らず、文学は常に大衆の共同幻想に流される。その勢いはどの時代も強いのだから。
結局は芸能と変わらないような姿勢しか持たない作家は意味があるのかすら分からない。芸能は、人の羨望と共同幻想を集めるのが仕事。それを「夢を与える」ともいえるし、アフォリズムを沢山作っていく。
芸術家は夢を与えるだけではなく、墜落も絶望も与えることもある。抽象的や、意味不明も作り上げるし、導きとは限らない。倫理や、宗派を飛び越えたとしても、これが私の「審美眼」だと言えることが重要であり、それで世の常識を新しく増やすことになる。
芸能と似ているけど、決定的な違いは
人のイメージや商品イメージのために生きずに、審美眼に生きることだ。人のイメージ(共同幻想) の先を行くのが芸術家。芸能でも芸術家の域に入っている人はいる。だから時々混合しやすいが、基本はこのように分かれている。
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例えば、「勉強なんて意味があるの?」と問われれば、
「学校(テスト)が嫌い」なのか「学ぶのが嫌い」なのかどちらかを知ることが重要だったりする。
日本の場合は義務教育までは受けなければならないが、それ以降は本来は受けなくても良い。学校に行かずにやれるような目標があるのなら別だが、大体が目標は特にないとか、学校に行かなければならない選択肢が多い。
学ぶのが好きだという子でも、大まかに二種類いる。
大学受験や資格試験等、ある目標地点まで勉強すれば良いというタイプと、
ずっと生涯を通して学んでいたいというタイプである。
文学は後者のために生きる。前者は時々重なるぐらいで考えていれば良い。
そして生涯を通して学ぶことに、階級はあってはならないし、迎合もあってはならない。詩の全般を指すことは出来ないが、「私人」と呼ばれる詩のように他人と分かち合えないものも必要なのである。
分からないということは偏差値が低いとか成績が悪いことではない。「知らない」だけであって知ればいい。何かしら権利を得ようとしたり、それで稼ごうとするのなら「才能」が必要になるというだけのことで、学ぶことには才能はいらない。基本は熱意があれば良い。
そういう人達を学ばせてこそ、感動を与えることであり、夢を与えたり、「才能を開花させたり」することが出来ると言える。
自分が知らない土地、死んだ後の見えないところで、こういったことで人の心に貢献出来ることが、文学者が出来る解放なのではないかとすら思う。

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