「デカローグ」
第8話「ある過去に関する物語」
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」(訳は私)
私が、脇役のこの学生の台詞の意味が分かるのは、キリスト教徒になった後だった。
(解説と感想)
物語の始まりは、一人の少女が大人の手に引かれて暗がりの中に連れていかれるところから始まる。キェシロフスキ関連の書籍によると、戦後のポーランドは、ユダヤ人の移民一世からは元凶であるナチスドイツよりも、ユダヤ人を見捨てた国として厳しい目で見られていた。
大学で哲学・倫理学の教鞭を執るゾフィアには、第二次大戦中ユダヤ人少女を匿うための洗礼の立会人なることを、「偽証してはならない」を理由に断ってしまった過去を持つ。
学部長のところに、自分のポーランド語の英語翻訳を担当している女性がアメリカから来ていて、
彼から、この女性がゾフィアの講義を聴衆したいと伝えられる。
彼から、この女性がゾフィアの講義を聴衆したいと伝えられる。
彼女とは二度目の再会だった。
その女性がいる目の前で、ゾフィアは「人間は感情に捉われている限り、最も善きものを見て最も悪しきことをなす」と、スピノザの引用を語る。
一区切りがついた後、ゾフィアは生徒にテーマを出させる。
一人目に選ばれた女学生は、ある夫婦の話をした。”夫は癌で死にかけて子どもを作れない状態だったので、妻はどうしても子どもが欲しくて他の男との子どもを作った。妻は医者に何度も夫は本当に死んでしまうのかを問うが、この医者は敬虔なカトリック信者で「死の宣告」が出来ない。
妻は、夫が助かるのであれば子どもは堕ろすが、夫が駄目なのであれば産みたいと。なので、医者の死の宣告が赤ん坊の命を左右することになる”
妻は、夫が助かるのであれば子どもは堕ろすが、夫が駄目なのであれば産みたいと。なので、医者の死の宣告が赤ん坊の命を左右することになる”
(この話はデカローグの第二話に収録されている。)
それに対して、ゾフィアもその妻には子どもが生まれたという結末を知っていると話す。
「子どもが生きている、それが最も重要」と語ることに、エルジュビエタは強い反応を示し前に来る。
次の発言は、エルジュビエタだった。
エルジュビエタはあるユダヤ人少女の話をし始めた。
①その六歳の少女は、あるポーランド人宅の地下倉庫に匿ってもらっていたが、その家がゲシュタポに接収される。なので、大人達がその少女のための新しい隠れ家を探さなければならなかった。
②あるポーランド一家に受け入れが見つかるが、キリスト教徒になることが条件だった。そして洗礼をしたという証明も求められた。
③ 洗礼の名付け親(立会人)となる夫婦として、敬虔な信者である若い夫婦が選ばれる。そのための神父を外に待たせ、急いで事を済ませようとするが、妻は「偽証をしてはならない」という理由で断る。
その話を聞いて、一人の女学生が、
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」
と言うわけですね。
キリスト教徒じゃなかった頃は、法のようなものにも生じる矛盾だと思っていたのですが、これが結構な意味を持ちます。
**十戒とイエス**
イエスは十戒で定められていた安息日を守らなかったり、姦淫の罪を犯した女性を許したり、解放的な面がありました。
イエスといえば第一に重要なのは神への愛、第二に隣人への愛と二翼の翼となっていて、片方だけでは成り立ちません。やはり隣人への愛ありきなのです。
ですので、キリスト教徒なら恐らくこのへんを重視するはずですが、(戦時中は分からない)
この妻、ゾフィアは十戒の「偽証してはならない」を選んだ。確かにこれも重要ではあるが、断る第一の理由にしては説得力に欠けるし、違和感を覚える。この不可解なところはエルジュビエタも感じていていたのかもしれません。何故なら後に彼女はキリスト教徒となったようでしたので。(それは定かにはしていない)
やがて、真実を問うとゾフィアはあの当時、誤報に惑わされていて、その少女もゲシュタポ関連者だと知らされてあった。 洗礼に立ち会えば自分達も捕まると思ったと、漸く「偽証してはならない」は本心では無かったということが分かります。
それで結局、ゾフィアは「偽証」してしまったのです。ゾフィアは敬虔な信者だったが、「神という言葉はもう使わない」と、教会にも通わなくなり、哲学・倫理学の教授となった。心の中にいる善意を知っている一人さえいればいいと語る。
彼女は罪を背負って今まで生きてきていた。子ども命が重要だと言うのも、この流れでエルジュビエタへの贖罪のように思える。
エルジュビエタは祈りの時間を作るほどのキリスト教徒となり、ゾフィアを許す。そしてまた自分と関わった人へ話に行く。
戦時中と戦後の善悪の基準の変化、感情に支配されてしまうと見えなくなる恐ろしさと、感情があるからこそ生まれる許しや、贖罪の念がこの55分の短いフィルムで、人間標本のように収められている。
この冷静と静寂の中に、時を超えても人々に想像される感情が詰まっている。
********
「デカローグ」とは。
映画監督の巨匠、クシシュトフ・キェシロフスキが、旧約聖書の「十戒」をモデルに戦後のポーランドを舞台にドラマ化。ただし、十戒の正解に合わせたり、問いを生み出しているわけでもない。これはポーランド人が直面した倫理や道徳、哲学的問題に取り組んでいる。(1988年)
私は 命題の作り方とかは彼から学んだのかもしれない。
画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。
******
酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。