心の中を流れる河

「しかし兄さんはそうはお考えにならない。それは兄さんが気が弱くて、臆病だからです。自分が臆病だから、ペテロまでも臆病者にしてしまうのです。(略)
兄さんのお説教を聴いて魂をゆすぶられたなら、わたしは悦んで洗礼を受けましょう。信じられたら、こんな『為合せ』(しあわせ)なことはないと、もちろんわたしだって考えています」
福永武彦 「心の中を流れる河」

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  これは小品なので簡単に紹介するほうが良いと思う。
 門間良作は牧師であり、ペテロと自分を重ね、共感を寄せては、自分はペテロ以下だとペテロに拘る牧師だった。その理由は、戦時中に憲兵から教会を閉鎖しろと言われ、彼は教会を閉鎖することを選んだことにある。それでも信者達が閉鎖された教会に集まってきてしまったのだ。その度に憲兵に連れていかれるのは牧師である門間良作だった。
やがて、彼は牧師としては戻ることが出来ず終戦まで工場で働かされることとなる。そのときの弱さや、信者を残してしまったこと、その後悔を礼拝の場でペテロの話を準えながら語る。このシーンだけでも文学として読む価値がある。

 ペテロとは、主の教えに熱心に従い、イエスに「あなたは、メシアです」と初めに言った使徒だった。イエスは弟子達に自分の死が近いことと、彼らが主を見捨てると予告した。その中でもペテロは絶対に貴方を知らないとは決して申しませんと言ったが、最高法院でイエスが裁判を受けている間に三度イエスのことを知らないと言ってしまう。彼は、最愛のイエスを裏切ったことが悲しくて、激しく泣いた。その後、イエスの復活後にペテロはイエスに罪を赦された者として生きる決意をし、初代教会における有力な指導者となる。
  今回の引用は門間良作の妹、梢(こずえ)の終盤の台詞である。もしもこの作品を読むことがあるのなら、ここにも注目してほしい。省いてしまったのだが、「キリスト教の信仰は、本当はもっと強いものなのでしょう」と、洗礼を受けていない梢の強さと、キリスト教徒としての弱さを知らない言葉が色んな読者の胸を突き刺してくる。梢は洗礼を受けていない立場でありながらも、「ペテロが赦しを受けた者として導いたのだから、兄さんもそうしてよ、貴方の今のままの態度だったら、ペテロは弱いままよ」というメタファーを混ぜてくる。それは梢の意識とは関係無く、聖書世界の物語による秩序である。彼女は信仰を「幸せ」ではなく「為合せ」と使った。けれども、これが音として入るとするのなら、門間牧師の耳には「幸せ」と聞こえてしまったのかもしれない。何故、彼女は兄の説教を聞き、魂が揺さぶられるとするのなら「幸せ」ではなく、「為合せ」と使ったのか、為合せとは、自分がすることと、他人がすることが合わさることである。彼女にとってのこれは洗礼を受けていないながらも、確信している信仰なのだろう。

門間牧師は、その言葉をどう受け止めたのかは明確なことは分からないが、二人の帰り路は門間牧師の祈りへとなった。
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好 きな作家は?影響を受けた作家はと聞かれると、日本人の作家なら「福永武彦」だと答える。福永武彦と言われても分からない人が多いので、池澤夏樹の父親ですと付け加える。大体7割の人は池澤夏樹は知っている。そしてこれも付け加える。「私はでも、池澤夏樹は全くタイプが違うのです」と。
ただ影響を受けたといっても違うのは何度も読み込んだというわけではないことだ。彼の作品との出会いは予備校の模試の「現代文」の問題だった。そのときに出題されたのは数ページの「忘却の河」、私は初めて文学というものに心を打たれた。問題は回収されるタイプの模試試験で、私に残されたのは解答のみで、ずっと記憶の中で彼の文章が薄れながらも反芻していた。
彼の小説を買おうと思ったが、廃盤になっていて当時は買えなかった上に、ずっと長らく受験生だったので小説は後回しにしていた。(大学受験→司法試験の準備)彼の本を初めて買ったのは、一作品目を出版した後だった。
たった数ページしか見ていないだけではなく、彼の文章を覚えていたわけでは無かった。残っているのは印象のみで、それからインスピレーションを受けて私は私として成長させた。
後で、照らし合わせてみると彼との共通項は不思議と多かったことに気付く。神話、哲学、心理学、そしてキリスト教。 違うのは彼が福音派で、私はカトリックを選んだということだ。
だからこそ、読むときは集中して読むが、1年以上は間隔をあけて読まないようにする。変にコピーロボット状態になってしまうと困るからだ。けれども、彼と私は似ているところがあるのか、原稿をチェックする人は近しいということに気付いてくれる。
決定的に違うのは、私が現代人ということ、彼が「死」を語る作家なのなら、私は「生」の作家だということらしい。それでも、まだ私の姿は色んな人によって色々な印象を与えるようだ。心理テストでよくある自分と他人が認識する自己像の10項目は一致することが多いのだが、それ以降は色々。福永に似てないと言われればそれまでだし、似ていなくても別に構わない。
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 武彦が意図して書いたのかは分からないが、この小品には文学者として
語れる範囲と、牧師や神父しか力を持たないものと分かれている。文章の表現の豊富さは文学者のほうがあるのは当然だが、「赦し」に関しては牧師や神父でないと力が無い。私もこの壁にはよくぶち当たる。この話は牧師は自信を失い、信者でない者が理想(あるべき姿)を語る。その意味に読む側としては気付いてほしいところだ。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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