The Childhood of a Leader ②


 「何が少年を独裁者として変貌させたのか」


というのがこの映画のキャッチコピーでしたが、この答えを探しに行った人は残念ですが、結論として答えは無いのです。サルトル流で言えば、「虚無」ということになります。

「何が少年を独裁者として変貌させたのか」とは、意識に目を向けさせていますが、
サルトルは意識というより、「存在」に目を向けた哲学者です。
サルトルで有名なのが、「即自」と「対自」です。これは元々はヘーゲル哲学のものでした。
即自とは、意識の自体的な在り方であり、対自とは、即時的な意識が対象化されたものであります。このキャッチコピーはヘーゲルの対自を意識しながら、少年という即自を探させるように見えます。


しかし、実際はこの映画はサルトル哲学の配下です。サルトルの即自と対自は「存在」に目を向けています。サルトルの場合は、即自とは物のような在り方であり、対自とは、自己否定をし自己を改革することであり、人間のことを指します。
少し深く掘り下げるとすれば、即自というのは、客観的な意味や価値の付加によってしか存在が浮かび上がってこない存在、対自というのは、価値の付与が根本的に無関係な在り方をさします。
ここで、私達現代人は心理学を多少なりとも知っていますので、疑問に思うわけです。即自も人間じゃないか、客観的な意味や価値の付加で人間は浮かび上がってくるし、対自についても、価値の付与なんて根本的な無意味なわけがない、人間は評価されたり、過去の分析をして人格を見られるじゃないかとか、色々あると思いますが、「独裁者」「死刑囚」の場合はそうとは言い切れないのです。いくら、過去にトラウマがあって誕生したとしても、その過去に同情することが出来ない。存在として悪しき者として括弧に入れられます。独裁者には特に「対自」というものが合っています。
それこそカミュの「異邦人」の死刑囚ムルソーのように。
問題に対して予め、用意された原因があるわけでもないというのが「虚無」です。
もしかしたら、サルトル以外で考えればこの少年の因果関係は見つかるのかもしれない。
けれども、ここはサルトル世界なのです。サルトルは感情について心理学に頼ろうとは
しなかった。
あるのは、独裁者になるまでの「現象」。

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