残酷な話を書くということ

The Cement Garden(セメントガーデン)映画

読んだのは英訳版

セメントガーデンとは、イアン・マキューアンの小説で、


父親が発作で死に、そして母親も病気で死んでしまうと、両親を失い養護施設に入れられると思った子ども達は、父親が趣味で買いだめしてあったセメントに目をつけ母親をコンクリート漬けにし、子ども達だけの楽園にした。隠された腐敗、遠ざけた社会、近親相姦、閉ざされた楽園・・・・・・



 この作品に関しては、まだ大した分析は出来ていないし、今まではこれが上手いのかどうかも分からなかった。(2017年12月)

実際に最近、日本でセメントに母親が我が子を乳児期に埋めて何十年も共に暮らしてきて自首をしたニュースがあった。(あまりこういうのを書くことは好まないが)話を聞くだけで、ストーリー性で言ってしまえば、この事件はイアン・マキューアンを超えている。こういうことが起きるからこそ、フィクションは別の旨味を求められる。それはノンフィクションとは比較されないものを作り上げることだ

それでも、この現実の事件を分析していく間に、マキューアンはやっぱり上手いのだなと気づくようになる。

現実の事件では、以下の点が気になった。

① 殺された乳児達には、生きている兄弟もいて、もう既に成人している。母親がお腹が膨らんで
無くなって戻ってきても、赤ちゃんが来なかったという現実をどう理解していたのだろうか。何を聞かされていたのだろうか。

②母親の収入源は何だったのだろうか。

などなど。

こういった現実での疑問が、マキューアンの小説の法則が少し読めるようにさせた。


小説の話に戻ろう。

  姉が母親が死ぬ前から何処か狂気めいているということだ。イノセントと言えばそれまでだが。何故か、母親が病気だったことは姉のジュリーしか知らない。主人公の長男は14歳。それぐらいの年だというのに母親の病気に気づかなかったとうのも変な話だ。そして、兄弟に母は死んだと告げたのもジュリーだ。

 姉のジュリーが今日は死体を見てはダメと指示をしたので、兄弟が母親の死体を見るまでにも空白はあるし、 コンクリート詰めするのもジュリーが指揮を取る。兄弟で揉めるのはセメントに混ぜる水を運ぶことだ。

残酷なものには他人から見れば、何故そんなの信じたのだろうというのがある。けれども当人達にはその世界が全てになる。

このバランスと緊張感が マキューアンは上手いということに漸く気づいた。



   私は、人を殺したことも埋めたことがない。なので、やっぱり読んだだけじゃよく分からないこともある。単に狂気っぽく書いただけなのかなとか、批判的な見方もあった。

フィクションは現実と比較されない何かを作らなければならない。
それこそフィクションへの追求である。

例えばカミュの異邦人も、ストーリーだけなら
もっと残酷な現実がある。実際はゾディアック事件や、アイリーン・ウォーノスのほうがストーリーとして見れば、面白さが格別だろう。けれども決定的に文学としてたらしめたのは、

最後の死刑執行前に、赦しを与えようとした司祭への反発だ。

「僕は僕自身のためにやった!」

この瞬間を作ることだ。

主人公が人を殺した理由が

「太陽がそうさせたのだ」

というセリフが有名だが、私はそこだけではないと思う。

「俺は俺の意思でやった!」 と言う主人公に司祭は涙を流す。
これには司祭(イエス)は常に赦しを与えようとするという隠喩がある。

   文学は、ただ残酷なものを書くのは好きではない。バッドエンドでも、人を何人殺そうとも小説世界の外での秩序の視線を予測しておくことであり、それを見つけておくことだ。それは神の視線を意識することと似ている。現実は役に立つのはFBIや心理捜査官、法廷かもしれない。 けれども作家は神を探さなければならない。

現代でも現実でどんな残酷なことがあっても、カミュの異邦人は色んな考察によって何度も読める旨味は、形骸化扱いされてしまった司祭が握っている。儀式を形骸化として捉えるのは、それは人々が理屈無き儀式への神秘を忘却しつつある証拠であり、本当に無意味かもしれないという現実が付き纏うことである。

現実との比較でしか読めない人はこの旨味を見つけられない。

   セメントガーデンは何処に秩序が存在していたのか。 私は、幼い兄弟だったと思う。部屋に閉じこもり、終始日記を書き続けていた妹、女装が趣味となり、次第に乳児へと退行してしまった最も幼い弟。この2人の非力な存在がこの楽園を地獄へと認識させる、唯一の秩序だった。コンクリートの隙間に生える草、

上の兄弟は残酷な背景を隠してしまうのだから。

セメントガーデンとは、固められた子ども達ではなく、固められたセメントの隙間に咲く草花のことだ。その小さなガーデンを楽園と言えるか、狭いとするか。その筋を見つけるとこの話が読めた。


******

(私は イアン・マキューアンだったら「贖罪」が1番好きですね)


カミュの異邦人についての書評もあります。
それこそフィクションへの追求である。についてもこちら。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/letranger.html



酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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