愛を識ること








「言葉は聖霊の住むところです」(日本語版 p134)

「こうして私たちは再び、神の内的な神秘についておぼろげながら語ることが
できます。父と子はお互いにお互いを純粋に与え合い、純粋に引き渡しあう運動です。この運動において、両者は豊かであり、その結実は両者の一致です。……三位一体の神秘はこの世にあっては、十字架の神秘に翻訳されなければなりません」

(日本語版 p137~138)

Der der Geist der ewigen Freude ist. (神の霊は永遠の喜びの霊なのです)
derが二回並ぶことについては説明が長くなるので省きます。
(Germany ver : p93)

イエス・キリストの神 ヨゼフ・ラツィンガー(ベネディクト16世)

 洗礼を受ける前に勉強したのは、聖書の他にカテキズムとベネディクト16世の本でした。三位一体の解説の美しさ、ヨハネの福音書の解説、言葉に住む聖霊の神秘に圧倒されました。文学としてもこれだけ美しい言葉を並べられる彼に敬意を表したい。但し、彼の時代はカトリックの問題が浮上した時期でしたので、学問的な、論理性を高めた神学の死を感じました。ですので、もしかしたらこの本は時代遅れかもしれません・・・・・・。カテキズムだと、感動した箇所は天使の項目です。(英訳版:334~336)今となってはそれを生かすことは人間限られているのだなと実感します。それはとても小さなことで、今はチャイルドスポンサーの子どもに、イースターカードのメッセージカードを何て書こうか悩んでいます。
天使についての記事はこちら




 よく聞かれることは、「鏡玥さんにとって信仰とは何か」ということですが、私にとっては「愛を識ること」(知ること)です。特に神は愛というのが強いのはカトリックで、洗礼前はあまり実感が湧きませんでした。というのは神は愛も与えもするが奪いもする、というのが私の捉え方でした。
 私にも大事なものが奪われたことがあった時があり、奪われただけではなくて、奪われる前から生きていることに無意味さを感じたときに、神に奪われたというのなら意味があるように思えました。不幸との対話は、無常との対話ではなくて、神との対話と信じたかったのですね。私の神への信仰の始まりは悲しい。
それでも本来なら洗礼講座を1年受けてから受けられるものを、私はたまたま、特別にその時期だけ試験期間であった夏の洗礼式を受けることになりました。ですので洗礼講座を受けたのは二か月あまりということになります。私みたいな疑い深い人間に対して、まるで招くみたいに入ったわけです。私はどちらかというと、当時は信仰義認のプロテスタント寄りだったと思います。
  洗礼後、幸せがいっぱい待っているかと言えばそうではありません。それでも訪れる不幸や問題を神様への愛で蓋をすると盲目になってしまいます。重要なのは己に返り、己を見つめ、問題点から逃げないことです。洗礼前と変わらない課題もあれば、キリスト教徒だからこそ感じる苦難はあります。洗礼後のほうが自分らしい居場所に連れていかれることがあるかもしれません。
 それと、キリスト教徒になってからのほうが愛が何なのか愛に関することが力動化するようになりました。ギリシャ語ではアガペー、エロース、フィリアー、ストルゲー、とありますが、私にとって翻訳されない愛が何なのか? というのが哲学としても、生き方としても重要になりました。必ず、ギリシャ語の愛だけが全てではありません。日本文学の曽根崎心中を含め、酒井抱一の絵画のような未分化された愛があります。もっと言えば古事記のイザナミとイザナギでしょうか。それを感じ取ることは考え込むことではありません。自分の足で動いて、機会を作り出し心を動かすのです。
 愛は与えらえる喜びもありますが、愛によって失望することもあります。でもそれも愛があるが故なのです。信者になってからのほうが男女の恋愛だけではなく、友愛やいろんな意味での愛への捉え方が深くなりました。それは説教を聞いたからとか、啓示があったとか具体的な理由はありません。信者になってから、遭遇するものによって変わっていくのです。
私の場合はですね。
 以前、神学者でもある和田幹夫神父様からバルタザール(hans urs von balthasaer)の本、7巻セットを貰いました。彼は神学で美を突き詰めた人で、日本語訳になっていないものです。サブタイトルとなっているSeeing the formとは十字架、三位一体のことであり、Looking(意識的にみる)ではなく、Seeing(自然と目に入る)ということに意味があるのでしょう。これから色んな経験を通して、この三位一体の愛の謎について観ていきたいと思います。何せ分厚い本で7巻もありますので、長い時間をかけて読むことになるのでは
ないのでしょうか。言葉に住まう聖霊を忘れずに、いつか十字架の神秘に翻訳されるその日まで。
酒井抱一についての記事

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