メタファーはなぜ殺される











私が学生のときに買って読んでいた本。「なぜ殺される」と言っている間はまだ生存が確認出来ていたからこそ言えたことであり、今となっては「文学」によるメタファーは既に死んでしまったように思えるし、長い月日を経て殺され方も見た気がする。メタファーとは本文に限らず、本文が組み立てた構造から脱構築し、本文の内容を汲み取ることでもある。現代日本では、ほぼ直喩とマスメディアのみで、脱構築をし、本文の旨味を引き出そうとする術は減ったし、皆無に等しい。残っているのは社会行動学に関する隠喩であるが、それだけだと面白みがない。とまで言ってみるが、この決定には曖昧性がある。けれども虚妄とも思えず、誰でも思い当たる節はあるだろう。これは「現実的」であるし、規範定義にもなり得る。但し、常に決定と曖昧は連れそうのである。

この決定が出来ないために、実は徐々にメタファーは死んでいるように
思える。本来なら必要がない決定なような気がするのだが。

この本を久しぶり開くと感じたのは「時代」だった。過ぎ去った抵抗。
そして受け入れてしまった死。


酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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