Shining

メモ(メモですので無責任な発言もあります)
  シャイニングについて
 短編と長編の違いについて、シャイニングの原作と映画の違いによって説明しやすいことに気づいた。小説を書いている身から見てみると、大体2時間程度の上映時間を制作側は長編として捉えているか、短編として捉えているか、総集編として捉えているか違って見える。主に総集編として捉えているのはアニメや漫画を実写化した場合が多い。

 私にとってはスティーブン・キングの原作は長編で、キューブリック版は短編としてのシャイニングである。短編とは単に省いて、長編の旨味だけを押し出して短くすれば良いというわけではない。短編は短編でまた別の旨味を引き出さなければならない。それをキューブリックは分かっていたように思える。(それが後に原作者と揉める原因になるが)映画版のシャイニングの場合は、ホテルに入ってからおかしくなる前の父親の像ははっきり分かってはいない。淡々と冬の間の閉鎖中のホテルの管理人を任されて、車の中で家族と些細な会話する程度しか分からない。


鑑賞者は一般的な父親像と比べると不気味だということで、父親の様子がおかしいと認識するようになっている。しかし、母子の父親に対しての驚きがそこまでないことと、おかしくなった後の見切り方が早いのが不可解だった。一般的な家庭像の感情と違うところが多い。息子が内向的で、霊感があるだとか、イマジナリーフレンド的な存在と話しているのも、母親が何もかも受け入れている様子も不可解だった。なので、この家族にとって問題点は他にあって、元々良き父親では無かったのではないのではないか、というのが私の予想だった。

だから、原作を読んだのだが、原作では父親のことは善良であるがアルコール依存症での葛藤がある人物として登場する。映画で「魂を売ってでも酒が飲みたい」とノイローゼ気味に言うところは、原作へのヒントである。そして最後はホテルの不思議な現象(悪霊的なもの)に打ち勝ち、息子を守るが、映画版では結末は全く違うものになっている。

しかし、キューブリックは様々な方法で原作の表現を役者にさせている。例えば、昔の父親像とあまりにもかけ離れていたのなら、「お父さん元に戻って」とかそんな台詞が出てきてもおかしくないだろうに、父親を恋しがる様子もない。息子が何者かに首を絞められた跡を残してきたときに、母親がすぐに父親を疑ったことや、息子が父親に大して、「もう虐めないで」と父親に言うところも原作へのヒントである。息子は、どちらかというと冷静に母親の言うことを聞き、ラストでは何もかも受け入れたように雪の中を走って庭の迷路へと逃げこむ。それはなんだか、逃げ慣れているという印象を受ける。というのは、原作では既に父親はホテルに入る前から家庭内暴力を奮っていたという設定だからだ。(映画では少しだけぶったという設定になっている)それは原作で母親が父親に詰め寄るところで明らかにされる。原作を知れば、母親がおかしくなった父親に、すぐにバットを振ったことや、雪の中で息子が逃げるシーンに感情の矛盾がないことが分かる。元々が良き父親だったのなら、少しは立ち止まってしまうだろう。


 短編はより一層、観客の一般的な心理や認識の把握が必要になる。短編は観客の心を動かす時間が短い。長編やテレビシリーズのドラマのように観客に登場人物に愛着を持たせたりする時間があまりない。例えばこの映画のように、父親「頼もしい存在」、母親「子を守る存在」、子ども「親を頼っている」という無自覚に思い込んでいる観客の心を揺らさなければならない。
限られた時間・表現の中でいかに観客を引き込み、少ない情報の中で観客に映像以上のものを「連想」させることが重要となる。そして短編、長編に関わらず、私のように親子の会話の感情の矛盾点に気づかれて二度、三度見られたときに、矛盾が無いようにしなければならない。これが出来れば一流である。父親を助けようとか、恋しがらなかった母子のように。この映画は、悪霊に取りつかれる前から、みんなが理想としている家族像でなかったという秘密が最大の残酷ではないか。




*映画の序盤でホテルの料理人が息子に「人は言葉を交わさずに交流できる」と言っている。これも
この映画の語られない映像描写へのヒントだと思う。

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