忘却の河と福永武彦

「忘却の河」と福永武彦

 「私がこれを書くのは私がこの部屋にいるからであり、ここにいて私が何かを発見したからである。その発見したものが何であるか、私の過去であるか、私の生き方であるか、私の運命であるか、それは私には分からない。ひょっとしたら私は物語を発見したのかもしれないが、物語というものは人がそれを書くことによってのみ完成するのだろう。ひょっとしたら私はまだ何ひとつ発見せず、ただ何かを発見したい、私という一個の微小な生き物が何を忘れ何を覚えているか、もし忘れたとしたらそこに何の意味があり、もしおぼえているとしたらそこに何の発見があるかを知りたいと望んでいるだけのことかもしれない。

それはつまりこの部屋のせいなのだ。」

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  未分化された自我から、次第に浮き上がってくる部屋。この巧妙な描写こそ福永武彦だと私は思う。自我が未分化されているということは何という孤独だろうか。せめて人は鏡像ぐらいは友にするものである。この独白はまるで闇そのものである。独白だからこそ男の姿形は朧気で、まるで病床で寝たきりの妻の視点そのもののようだ。男が朧気だから、抱かれる女や、自分の自我と向き合う娘たちの艶や色気が浮き出てくる。

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