なぜ世界は存在しないのか(3-1)

「なぜ世界は存在しないのか」(3-1)
 
244a
Stranger
But, friends, we will say, even in that way you would very clearly be saying that the two are one.

You are perfectly right.
Stranger
Then since we are in perplexity, do you tell us plainly what you wish to designate when you say “being.” For it is clear that you have known this all along, whereas we formerly thought we knew, but are now perplexed. So first give us this information, that we may not think we understand what you say, when the exact opposite is the case.—
プラトン「ソフィステス」
この引用に関してはハイデガーの「存在と時間」の冒頭にも使われている「部分」である。
簡単に要約すると、「しかし、友よ、たとえそうだとしても、あなた方は二つを一つということは明らかなのでしょう?」と、Theaetetusに尋ね、彼がその通りだと言うと、また更に客人が、「今まで存在していると当たり前に思っていたことが、困惑の基にもなりうる」と言い出したと、まぁ、そんな感じです。
マルクス・ガブリエルがこの箇所を拾ったわけではないのですが、彼の本を読むということは、大体がこの状態に陥るのではないのでしょうか。何故なら、彼はウィトゲンシュタインの存在論を基盤に置いているだけあって、ハイデガーのように存在の心的な意味までは掘り下げていないのです。現代の存在の意味は心的な希望を皆、持っています。己の存在の意味、今から食べる食材の栄養素、そして、これから買おうとしている化粧品の価値、これらは皆、当たり前のように存在していて、現代人は無自覚に意味付けをし、心にとって必要な栄養素とさえ思っています。反対にネガティブな感情を持ったとしても同じことです。己の存在の意味に絶望し、失敗した買い物であったり、この料理は美味しくなかったなど、何らかしら現代の「存在」には必ず人間の感情が入っています。この心的な作用をマルクスガブリエルは、ほとんどそぎ落としています。これは心的な意味を敢えて掘り下げなかったと私は学派の違いだと現時点では捉えています。ですので、ハイデガーの言った「石は世界無しに在る」というのが一番、マルクス氏に近いのではないのでしょうか。(ハイデガーは三つのテーゼを唱えています。一つ目は、石は世界無しに在る、二つ目は動物は世界が貧しい、三つ目は人間は世界を形成する)
 マルクス氏自体も自分の立場は一種の多元論者だと言っています。一元論、二元論は彼に言わせてみれば間違えだということです。彼はドイツ人ですが、ドイツ哲学の基盤となった二元論の批判に入っています。(二元論と言えばデカルトですが、フッサール哲学の基盤も前半は二元論、後半は二元論から離れています)今回は、存在論を私が唱えるというより、この書物に何が書かれているのかという忘備録ですので、私が感ずるところの説明はこの程度にしておきます。二章「存在するとはどのようなことか」でまず押さえておかなければならないのは、「メレオロギー」というものです。何故なら彼が一元論、二元論を批判するのに重要な要素だからです。
まず、彼のまとめた一元論、二元論、多元論をそのまま載せてみます。
一元論(スピノザ)
たった一つの実態、すなわち超対象だけが存在する。
二元論(デカルト)二つの実体が実在する。考える実体と物質的な延長実体、とである。二元論の考えによれば、人間の精神は身体とまったく別の種類のものである。二元論者のなかには、考える実体が物質的実体から独立に存在することさえありうると考えるものもいれば、考える実体としての不滅な魂など存在せず、二つの異なる種類の実態だけが存在するが、両者は互いに関連していると考える者いる。
多元論(ライプニッツ)
数多くの実体が存在するとさえ主張せざるをえなくなっている。ライプニッツ自身は、このような実態を「モナド」と呼んでいる。モナドは、ほかのすべての実体から完全に独立し、最大限に自立した対象であって、有限な数の特定の性質を備えている。
 メレオロギーの例えを彼はハンドバッグとワニに例えています。
ハンドバッグにはワニの皮で出来ているのもあるという話です(86)私はこのたとえはあまり好きではないのですが、ワニが部分的にハンドバッグでできているということもあるというところですが、マルクス氏は(ハンドバッグをもった女の人をワニが食べてしまったなど)と付け加えています。個々の対象の多くは、さらに別な個々の対象でできています。論理学の文的領域として、部分と全体の形式的関係に取り組む固有の分野さえ存在しています。彼はこれを「メレオロギー」と(ギリシャ語でメロスは部分という意味)言っています。
次の例えのほうが、より分かりやすいかもしれません。
コードレス電話の親機と、子機の存在です。親機と子機、この関係は一組となっていますが、私という存在が左手で握ったとして、親機―子機―左手と結びつくでしょうか?
答えは「否」である。どんな対象でも手当たり次第結びつけば、必ずひとつの新たな複合的対象が出来るわけではないということです。何が本当のメレオロギー的な合成を成すのはいつからだと言えるのか、それはどのような条件のもとでなのか。この点を確定するのに、どのような基準があるのか、ということですが、
彼の考えでは、「多種多様なメレオロギー的な合成へと世界を区分せずに、経験に依存せずに用いることのできる基準のカタログなど存在しない」ということです。
ここで彼の一元論、二元論の批判が始まるわけです。「超対象」というものは存在しない。
そして、二元論は根拠づけとしては曖昧、多元論はアップデートされるべきだということであるということ、
どんな基準でも、それぞれ特定の対象ないし、対象領域に特有の区別に即しているというわけです。基準の無いところには、はっきりとした特定の対象が無いのはもちろん、はっきりと規定されてない対象すら存在しない。輪郭の曖昧な未規定の対象も、あるいは相対的に未規定の対象も、やはり何らかの基準にしたがってそのような対象として定められ、何らかの仕方でほかの対象から区別されなければならない(90
ということです。
****
続きの絶対的区別と相対的区別(3-2)はまた後日。
長くなるので三つに分けることにしました。
なぜ世界は存在しないのか(1)
(2)
(2.5)

youtubeをなんとなく始めました。
司祭は人を愛することが難しい

イコノグラフを想って
「類稀なる誠実な病」
酒井司教、女子パウロ会、松本准平監督、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

アマゾン→https://www.amazon.co.jp/Icon-graph-Chris-Kyogetu/dp/153493037X/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1512118298&sr=1-2

紀伊国屋→https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781976279713

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でブログを始める.

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。