なぜ世界は存在しないのか(3-3)

なぜ世界は存在しないのか(3-3)
 マルクス氏も存在の意味に話題に突入します。しかし、その前に20世紀の最高の存在論を説いたハイデガーの「存在と時間」(未完)と、ハイデガーの師匠であったフッサールのことを忘れてはならないでしょう。彼等と比べることによってマルクス氏は我々が呼吸をしている21世紀というものを感じ取ることが出来ます。「フッサールはデカルト的な主観・客観の2項対立図式を乗り越えたノエシス/ノエマ構造を本質とする志向性意識についての認識論的考察と、志向対象としての存在者への考察を現象学的還元を介して批判的に記述することにより、限定的ながらも存在論への道を開いた。もっとも、フッサールの存在論はあくまで認識論の範囲内でのものであり」(wikiより)意識的な存在論に特化している
ハイデガーは、存在とは何かというだけではなく存在の意味を掘り下げていきました。
これが前回話したように存在論に心的意味を持たせるということです。ハイデガーは特に哲学と人生論が結びついています。「投げ込まれた存在」としての自分として、彼は「現存在」という言葉を使いました。「現(=いま、ここ)としての存在、「現―存在」と呼ぶことが出来る。また現存在は「世界の内に存在している」という在り方をしている。
では21世紀のマルクス氏は20世紀の哲学者と一線を画しているのは何でしょう。私はこの観点で読み進めていきます。マルクス氏は「たったひとつの世界なるものなど存在せず、むしろ無限に数多くのもろもろの世界だけが存在している。そして、それらもろもろの世界は、いかなる観点でも部分的には互いに独立しているし、また部分的には重なりあうこともある、と。すでに見たように、世界とは、すべての領域の領域のことです。そして存在することは、世界のなかに現れているということでした。とすると、何ものであれ世界なるもののなかに現れるためには、何らかの領域のなかに現れていなければなりません。したがって、
◎存在すること=世界の中に現れること(ここまでは20世紀哲学)
しかしマルクスは主張したい等式はこうなります。
◎存在すること=何等かの意味の場のなかに現れること
「意味の場」の存在論は、現象している意味の場が存在するかぎり、何も存在しないというとはなく、そこに現象している当の何かが存在している、と。現象とは「現われ」「出来事」「存在」を表す一般的な名称です。しかし現象概念は、より中立的なものです。
「対象領域の例え」
魔女が存在するということは偽ということ、これは真です。それとともに、北欧に魔女がいるとする 間違った(偽)思考の中にたしかに魔女は「現象」しています。しかし、だからといって、もちろん北欧に魔女がいることになりません。間違った偽なる思考も存在する。けれども、間違った偽となる思考の対象は、当の思考によって位置づけられた領域の中に存在しているわけではありません。ここまでは「対象領域」の説明です。
◎現象とは何なのか、というのを大体説明しました。
しかし「意味の場」とは何でしょうか?
 例えば芸術作品が様々な姿で現象するということは、芸術作品に含まれた特徴だと言えます。しかし核子がさまざまな姿で現象するということは、核子に含まれた特徴とは言えません。むしろ核子の意味しているものを理解するには、核子の現れてくる対象領域に精通しなければなりません。意味の場は、曖昧であったり、多彩であったり、相対的に想定不足であったりすることがありえます。これにたいして対象領域は、互いにはっきり区別された多数の可算的な対象からなっています。このようなことは、意味の場にたいしては無条件には言えません。意味の場には捉えどころなく多彩な表現を持つ現象や両価値的な現象も含まれるからです。(99
ここでマルクス氏はフレーゲを扱っています。しかしマルクス氏はフレーゲについては
端折ったかのように説明不足な点があります。これは独自で勉強してほしいということでしょうか? 丸写し感丸出しだと私にとっても恥なので一応、フレーゲのどの部分を取り扱っているかを私なりに簡単に書き出しておきます。実はフレーゲもフッサールも分析哲学と現象学の創始者と言われてますが、二人の共通項だったのは心理主義的な見方を批判するというものです。マルクス氏を理解するために理解すべきフレーゲの哲学は、「客観的なものと現実的なものとを同一視し、存在することを現実的であることと同一視することは誤りである、表象のように主観的なものではなく、感官によって知覚される外的事物でもない第三領域が認証されなければならないのである」ということである。
フレーゲによれば第三領域とは
    表象は目で見られることも手で触られることもなく、匂いもせず、それを味わうことも耳で聞くことも出来ない、それに対し、外的事物は感官によって知覚可能である。
    表象はひとがもつものである。ひとは感覚、感情、気分、傾向性、願望をもつ、或る人のもつ表象は彼の意識内容に属し、外的事物はそれを知覚するものの意識内容に属するものでない。
    表象は担い手を必要とするが、外的事物は担い手を必要とせず自在的である。
    どの表象も唯一人の担い手をもつ、二人の人間が同じ表象をもつということではない
ということである。ここでマルクス氏の話に戻すと、(特に③に注目してください)
問題となっているのは、何頭の馬が存在するのかではなく、端的に馬が存在するかどうかだということです。
「いくつ存在するのか」という問いと、「存在するのか」という問いは「区別」すべきだと
言っています。彼に言わせると、対象領域の概念を、完全に集合概念と融合させてしまったということになります。
マルクス氏は現代の論理学は存在を加算性と取り違えるという間違った展開をしてきたが、
フレーゲの「意味と意義について」で建てられている問は方向性を変えたと言っています。
例えばフレーゲは数字の4は22でも答えは出るし、3+1でも答えは出ます。この2+2や3+1のことを「意味」と呼んでいます。同一命題で等値される2つ以上の表現それぞれの「意味」は異なっていますが、それらの異なった表現が指し示している当のものは同一である。フレーゲルの用いる「与えられた力」という言葉の代わりに私達は「現象」という言葉を用いることにします。すると、意味とは対象が現象する仕方のことである、と定義することが出来ます。マルクス氏に言わせれば、「意味の場」とは何等かのもの、つまりもろもろの特定の対象が何等か、何等かの特定の仕方で現象してくる領域です。
これに対して、対象領域においては、集合においてはなおさらのこと、まさにこの点が
捨象されます。2つの意味の場が同じ対象に関わることもありえますが、その際、当の対象は、2つの意味の場それぞれで異なった仕方で現象するほかありません。(102
◎意味の場の外部には対象も事実も存在しません。存在するものは、すべて何等かの意味の場のなかに現象します。「存在する」とは、何等かの意味の場の中に現象するということに他なりません。(意味とは対象が現象する仕方のことである)
というのがマルクス氏の結論です。
次は漸く本題の「なぜ世界は存在しないのか」です。今のところ何部構成になるか
は分かりません。
以下、彼の意見(105以降)を抜粋。
「私達のような存在者がこの美しい惑星上に存在することには何の関心ももっていません」
「存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません」
「意味の場もやはり意味の場のなかに現象する」
「存在しているのは、無限に数多くの意味の場だけです」
「むしろ逆に、無限に数多くのことが同時に起こっているということです」
◎私のまとめ
19世紀、20世紀までの哲学は人々が欲しかった幸福を、21世紀では手に入れたという感じをマルクス氏の哲学を読んで感じます。ハイデガーは特に人生論に特化していたところから、心的なものを排除しようとしたフッサールやフレーゲ等は20世紀までの哲学には、知恵に対しての幸福論が含まれていました。現代はそれを手に入れてしまったので、無機質に近くなった気がします。それは資本論になり自由主義者となってきたという証だと私なりに思います。これは資本論への批判ではありません。
マルクスガブリエルを使って、自分の信仰心がどうなったのかを冷静に説明すると
まずはメレオロギー、例えばコードレス電話の親機と子機の関係のように対照性がある関係のように、私とカトリックは対照関係でした。それにカトリックと対照的存在の司祭の
彼と付き合うことになり、私‐彼‐カトリックと対照関係にありました。しかし、カトリックの教理に逆らうことに怖くなった彼は私を悪者にして最後は裏切りました。
洗礼を受けたものは私‐カトリックという対照性を持つメレオロギーは崩れません。しかし、私は哲学者として、崩しました。だからガブリエルマルクスを気に入っているのです。それは、私‐彼というメレオロギーが崩れたことで、繋いでいた一元論的な神という存在に揺らぎが生じたわけです。何故なら彼が私とイエスを共有することを拒んだからです。司祭の仕事をしておきながら、私を人間として「嫌いな人」と言って拒んだのです。
彼は私のことを最後は嫌いだと言いました。それによって心的存在を信じなくなりました。イエスという対象者から己自身の心的感情を失ったら、己にとっては単なる言語に過ぎません。私にはイエスの言葉が胸に響かなくなりました。単なる文学的に的を得ている人に過ぎません。恋人だった司祭に限らず、他の神父にも私はバカにされました。例えば質問しに行くと忙しいと怒られ、裏では豪華なディナーを女性と食べていたという私の所属教会の神父です。そして、私の本を暇だったら読むと言い放った神学者の神父です。私は神父全般が今は大嫌いです。この感情こそが私のことをバカにした司祭達への復讐だと思っています。
但し、私が揺らいだのは神でもなくイエスでもなく、カトリックの教理でもなく、
対照関係にあたる人間の醜さによって生まれる「現象」に幻滅しているのです。
そして、信仰とはこの現象が付きまとうわけです。
私はこの現象が憎くて仕方がないので、神父全体の悪口を言わないと気が済まなくなりました。実際に、人の助けにもならずに快楽主義の神父が多くて、酷いのが現状です。誰かこんな私が謝罪したくなるような人格者の神父でもいれば別ですが、今のところ見当たりません。だから私には一元論的な超越する神は存在しないのです。これが私の現状です。
 なぜ世界は存在しないのか(1)

(2)
(2.5)
(3-1)

 (3-2)
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司祭は人を愛することが難しい


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