なぜ世界は存在しないのか(3-4)

超思考について(p114115~)
マルクスガブリエルが「意味の場」と何度も提唱するのは、いささか抽象的な気がしてならない。前回までこのことは単純に解説をしているが(メレオロギー)理系の知識が必要になる。それは「場の理論」である。しかし理系だけでなく、これに準えたような心理学用語でも同じ用語がある。こちらのほうを今回は採用するとする。クルト・レヴィンのもので、その人が置かれた「場」に影響を受けて行動するものだという説で、組織における人間行動を理解するための一つの枠組みとする。場の理論とは、個人の特性を開発するだけでなく、環境の開発を行わなければ、期待行動は現れない、ということが言える。これらのことを「意味の場」と近いものとし、メレオロギーとして繋げていくとすれば、
すぐに限界が来る。これらのことをマルクスガブリエルによると、世界は存在しない、ということになる。意味の場の連携を求めると、例えば素数の1のように孤独な数字ということになります。
今回の超思考とはヘーゲルの「絶対的理念」に値するということなので、
簡単に(とはいきませんが)絶対的理念について少しだけお話しましょう。
まず、第一に「方法」であり第二に「弁証法」であります。弁証法こそヘーゲルの肝で
あります。それではカントと比較して更にヘーゲルの言っていることを感じてみましょう。
カントは、「感性によって思考に対する制限が与えられる」に対し、ヘーゲルは「思考そのものが自らに対して制限を与える」ということを提唱している。
ヘーゲルはここから弁証法によって、アンチノミーもしくは矛盾についての両者の態度の違いを表しています。
次にヘーゲルがカントに抱いた不満について拾いましょう。
まず一つは「純粋理性が固定的なものとして捉えられる点」
二つ目は「理性が陥る矛盾の解決と、そのために理性に課せられる制約」
三つ目「概念的な領域とは異なる感性的経験を通じて与えられる」
ということで、マルクスガブリエルを見るときは理系的な知識を持ち、概念的な
矛盾によく着目することです。そして個人の主観的に留まる「観念」に囚われてないかを
頭を柔らかくして考えることです。
彼は超思考が存在するテーゼを「絶対的観念論」と呼んでいます。
そしてこれは間違えだと言うわけです。彼は主観的に留まる観念に対し、間違えを
提唱しています。
図式がありますが、これは私もよくわかりにくい図式だと思います。ここは理系的な頭で処理をするのが一番かと思います。
次回は「ニヒリズムと非存在」です。

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