天の国のたとえ

天の国のたとえ
天の国は次のように例えられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
マタイによる福音書13章44節
土の中は外部と断絶する。宝物、すなわちこの場合は神にとっての宝物、「私達」のことである。この天の国の例えは全貌を語ろうとはしない。ベルクソンの純粋記憶もこの土の中に埋め込まれていると言えるだろう。これは反復した記憶ではなくこれは自発的な記憶―純粋記憶である。当時は銀行等が無かったので大切なものは土の中し隠していた。これは俗のものであり、反復記憶といえるだろう。神が愛している「私達」という存在は純粋記憶である。しかし、哲学で天の国を語ると、哲学自体が概念のために砂を救ってこぼしていくようだ。イエスの語ることは概念を超えているからこそ価値がある部分がある。人間には到底辿り着かないような気がする。キラリと光るもの、それを買うときは値段なんてものは関係のないのだろう。

私の可愛い子猫ちゃんラグドールのアダムくん。
昨日ようやくお砂の上で💩とおしっこを覚えました!
数日前まで、この子が来る前まで訴訟の準備をしていました。
訴訟で勝てないぐらいなら相手を殺してやりたいとまで
心が歪んでいました。でも、この子が来てから心の歪みが取れ、
相手のことなんて記憶の片隅まで消去に近い状態になりました。
私のことを母猫と思っているらしく、一緒のベッドで寝ますし、
鼻をくっつけてきます♡とってもかわいいです。
かわいくて悶絶状態。あれ?教会ってなんだっけ?
っていうぐらい、この子の存在に愛を感じています。
この子を守るためなら何でもします。

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