The Bell (Edgar Allan Poe)

HEAR the sledges with the bells —
Silver bells !
What a world of merriment their melody foretells !
How they tinkle, tinkle, tinkle,
In the icy air of night !
While the stars that over sprinkle
All the heavens, seem to twinkle
With a crystalline delight ;
Keeping time, time, time,
In a sort of Runic rhyme,
To the tintinnabulation that so musically wells
From the bells, bells, bells, bells,
Bells, bells, bells —
From the jingling and the tinkling of the bells.
Edgar Allan PoeThe bell (一部)


エドガーアランポーの詩の良さを知ったのはカトリックを辞めるかどうか悩んでいるときだった。そして辞めて更に彼が如何に素晴らしい詩人かを実感することになる。
 エドガーアランポーはピューリタンに圧力がかけられ酷評も書かれたことがある作家であり、奇談としては評価されるが詩は印象が薄いまま時が過ぎていた。その中でマラルメもボードレールが彼の詩に目をつけた。マラルメの詩を読めば、ポーに影響を受けていると前知識がなくても気づいた。彼等の共通項について私が簡単に言えることは、宗教観を隠すこと、表音性、神秘的感化を調香師がアコードを作るように創作することだったように思える。抽象画家、例えばマレーヴィチは宗教観を必ず論文にして出版したのに対して、彼等のような詩人はそのような事はバタイユを除いてはあまりしていない。
祈りの言葉における神と人間の心の関係は「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように」というように垂直線での繋がりを持っている。しかし、例えばポーの「鐘」はアコード(香水用語のAccordを試みるように祈りの言葉の模倣(ミメーシス)を行い、垂直関係を不透明にする。教会という居場所さえ必要とせず、常に心に神秘の空間をミメーシスするのだ。
だからといって、ポーの宗教観まで深入りすることは出来ない。それが彼の意向なのだろう。これは私のあくまで信仰がカトリックにあった事(過去系)から感じたことである。
信徒は神に誓い、共同体として存在するが、ポーという詩人は何らかしら与えられた象徴を汲み、それらの模倣の空間を創作し、体系に囚われない人生を選んだと思わせる。
 それは調香師がアコードを作り出すことと似ている。例えばピオニー(芍薬)という花は甘い香りがして香りが強いバラに似た花だが、天然香料を取ることが出来ない。その代わりに別の花から採れる香料を併せて似たような香りを作る。調香師は何度もピオニーの香りを嗅いでは記憶し、再現しようとする。しかし、ピオニーをモデルにした香水は様々な種類が出ているが似ているようで香りが違う。それは技術的なものではなく、一つは調香師の感覚質の違いだとも言えるが、恐らく敢えて調香師の芸術的感性を表しているのだと思われる。現代科学において差の無い香りを作ることは実現可能ではあります。例えば柔軟剤の香料なんかが当てはまる。それでも調香師が香水として様々なピオニーを創作するのにあたっては、調香師の夢想が含まれています。キリスト教圏の詩人が信徒にとっての神と祈りの垂直関係を香りとして模倣することと同じと言える。信仰が一本の花としても、それを取り巻くイメージは様々なものがあるからである。
次に、何故、私がエドガーアランポーとキリスト教的な存在から切り離さないで私が解釈するのかとのことですが、
「鐘」といえばキリスト教のシンボルだからです。この詩はフッサール哲学の音楽経験的も彷彿させる。音は消えゆくものだが、内面に残り続ける。鐘の音は音楽ではない。しかし心に残る教会の鐘の音というものは、音楽性以上の連動性を持っている。一様ではない音の伝わり方をポーは見事に簡単な言語で表し、時間を表し空間化させている。
All the heavens, seem to twinkle
With a crystalline delight ;
Keeping time, time, time,
すべての天国が輝いているのです。結晶の喜びは、
ゆっくりと時よ時よ時よ、(私の訳)
クリスチャンに一度でもなったのなら分かることだが、信仰があった者が教会から離れると「天国と」いう言葉を忌み嫌うようになる。無神論になろうとすれば尚の事、天国を拒否する。それは私が経験済みのこと。(過去形)ポーのこの詩の時間感覚は、フッサール哲学に近しいと思います。過去のことなのか、未来のことなのか定かではなく、ただ鐘の音がKeepigと持続され、未来と過去は現在(詩の世界)の中で存在し、過去と未来は重層化されている。天国とはキリスト教観念からすれば、死後の世界だけではなく生きている現世を差すこともあるからである。内面的に連動される鐘の音は連動性を持ち、このKeeping time time timeとは過去を懐かしむものでも、未来を期待するものでもなく、現実世界の訪れては過ぎ去って背後に流れていく時間とはまったく別の質を持つ、いわば創作上の時間であり、弾んだボールが移動していく空間的移動をする時間間隔ではなく、内面時間、意識内での音である。
それはクリスチャンにとっての天国と近しい性質を持つと考えられる。
彼等にとっての天国はただの死後の世界ではない。命と魂を別に考えると、
命の終わりの後に行く場所が天国である。しかし、魂はイエスと共に常に現世でも
天国同様に安らかなのである。
この詩は続きがあり、鐘の音は次第に哀しくなっていく。
この詩は愛の始まりから、愛する人の死まで描かれてある。
一見は時の経過を感じさせるが、ポーが愛した女性の死をモチーフにし、
時間の経過が愛と悲しみが鐘の音に集約され、人々の内面的時間の中で鐘特有の連動性をもたらせる。それは忘却されることなく鐘が教会で鳴り続ける限り、後世の人々に
連想させることになる。ポーの愛と哀しみは音と共に常に生き残り続ける。
ポーは消えゆくことのない時と愛する人との空間を鐘の音と共に創作したと言える。
この詩は過ぎ去り行く詩なのか、常に繰り返される詩なのかと言えば
繰り返される詩に該当する。
それほどポーは彼女を愛していたのだろう。死後も続く愛の温存は難しいものです。
魂が愛を謳う姿を見つけ出すことはとても困難です。それでも
魂が謳うのは言葉有りきだと、
私はそう思うことがあります。

*他にも音楽の現象学については様々な哲学者が挑んでいるが今回はフッサールが一番近しいと思ったのでそうしました。

*天国についての解釈:正教会を基にし、カトリックの体系を差しますがカトリック内でも諸説あります。

*ポーの宗教観は様々な見解があります。日本で多いのはキリスト教的ではないと
の見解です。

*フッサールにするかベルクソンにするか迷ったが、過去をどう捉えるかで
フッサールのほうが近しいと思ったので彼にしました。

*結晶を水晶と訳しなかったのは、スタンダールの愛の結晶を参考にしています。

時間の経過と人生の経験、魂の歌は香水の香りに似ていると持論があります。人肌に消えゆく香りの製造は出版されていく詩と同じです。それはただの出版物ではなく、著者の魂の記号です。そして肌の温もりによって同じ香料が違う香りがするのです。詩を感じるときも同じでしょう。感覚質は違えども、香料は同じです。詩の言葉は同じでも、心の感じ方が違うように。

そして、常に香りは思い出と共に記憶に残り続けるのです。
私は香水愛好家であり、天才調香師を尊敬しています。



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