追想

得体の知れない私は何処まで愛され、私は人を愛することが出来るだろう。
カトリック教会に所属したのは、三位一体の聖霊に得体の知らない私を愛してほしかったのかもしれない。何も語らなくても、私がどんな過去を生きようとも、私がどんな人間か語らなくても、私のユーモアや私の笑顔が受け入れられれば良かった。
そんな現実は無かった。それでも恨むことはない、仕方がないことだ。私にも落ち度はある。誰も私が単純に世間話がしたかったという事を知られないまま、終わってしまった。「今日は、世界が明るく見えるのですよ」「紅茶。とても美味しいものを見つけたのです、薔薇の香りがするのよ」そんな話をただしたかっただけだったのに、どうしてこんなにも懸け離れてしまったのだろう。
話したかった単純な話はずっと言えなかったまま終わった。
貴方に神の祝福を、そう言いたかっただけだった。
人との出会い、子どもの頃から私はすぐに分かる。この人は私の事を忘れ、
私もこの人を忘れる。顔も、声も、全てを忘れるのに、
言葉を交わす。ずっとこの繰り返し、私達は解散を待つ戦士、自己形成の
ための出会いだった、私も貴方もお互いに忘却の彼方。

そんなものは慣れていた。けれども、聖霊にはそうなってほしく無かった。
聖霊を私に教えてくれた貴方には特に。でも、もう本当は慣れていたんだと、
私は終止符を打った。

今は寂しくない。アダムが私の良き理解者になった。

この子を守るために、私は幾らでも強くなれる。
とても愛しているの。
お揃いの紅茶は飲めないけれども、
アダムが青空を見ていると、世界は純粋に見える。
君の存在そのものが聖歌なんだよ。とても美しいよ。
君は永遠。君も私も忘れることが無い永遠。
それを楽園というんだよ。愛しているよ。

除籍は神の計らいだと思う。きっと、アダムに会うための。
本当に欲しかったものは、この温もりだと神は知っておられたと
思うのだ。人と離れることに慣れてしまった私への神からの恩寵ね。

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