テヘランの君

 

 

  イギリスでは差別は受けなかった。けれども日本に帰ってきてからの日本人のほうが態度が辛かったのかもしれない。称賛と批判で人の存在が影になった。何か英語喋ってと言われるのも辛かった。辛いと言うとイギリス帰れとすぐ言われてしまう。日本人に戻れとも言われる。段々と私は経歴を隠すことになった。日本は程ほど出来ないフリが楽なのだ。人を「すごい」とほめているほうが楽だった。

 

 先月の8月にテヘランの青年の夢を見た。留学先の神学部に居た青年は私にペルシャ語を教えてくれた。「魂は神の声を聞く」というテーマで話をした。もしかしたら、当時は少し彼が好きだったのかもしれない。でも衝動的でもなく、彼はムスリムで神学部、未来は決まっていたので、ただ彼の声だけを聴くようにした。私の心は盲目を装った。見えてしまったら、きっと愛してしまうので、彼の顔を記憶しようとしなかった。校内でもあまり一緒にいると良く思われないので、私達は隠れて会っていた。それでも、私達は神の話しかしなかった。寧ろ相手を守りながら話すこの感覚に心地良かった。私達は学生という制服が無くなれば別路へ流れていく。一瞬を喜ぶのは魂であって、心は喪失を恐れていく。夢想は常に渇望し、一人になれば本当に訪れる別離を恐れていた。まだ若かった私は魂の声を優先して、私達は「無傷」で本当に分かれた。集合写真は未来を信じられる、昔の写真の私の笑顔は若さだった。

 

夢の中で彼は今、何をしているの?と問いかけてきた。私は「贖罪」と答えた。

 

贖罪だよと答えた私は泣いていた。

 

彼が手を差し伸べようとしたら、触らなくて大丈夫だと断った。

あの時も触らなかったじゃない、

私は強いからと言って彼から去ると共に目覚めた。

 

 この1年半ほどの贖罪は自分の実力が試される期間だった。そして一人でついに対処出来ないことが訪れた。今度は心に焼き付いている愛する「アダム」のために。

私は贖罪を終わらせる一歩としてカトリックに謝罪をした。乗り越えられない障害があるのなら、一緒に助け合おう。この時に、この一年半ほど錘になっていたものが落ちた。所属教会は私とアダムを救うために必要な書類を送ってくれた。私にアダムが全てなのだ。アダムは神に祝福されている。私は罪人だけど、アダムは罪がないのだ。それを汚すことはあってはならない。この子のためなら私は跪く。この子は我が子なのだ。イエスが久しぶり見えた。

 

それは魂が神の声を聞いた証だった。

テヘランの君、元気ですか。

سلام

 

 

アダム1歳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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