ユダとヴェイユ

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。

 

「生まれなかった方が、その者のためによかった」

 

マタイ26:14-25の一部より。

 

イエスのこの台詞はユダのこの後を察した愛だと言われる。

ユダは首を吊って死ぬ。

 

 

 

ユダとシモーヌ ・ヴェイユ

 

S・ヴェイユは、被造物(beings created by God.)意識・知覚・感覚を他者・他物との紐帯を担保する人類共通とした。表裏一体として不安定な宗教的紐帯に目を向けていた。

 

ユダは一種の「隣人愛」という見えない紐帯を修復出来ずにイエスを売った。隣人愛とは既に一義的な意味では無い。信仰を持つ者は貧しい中で河床の僅かな霊的な砂金を探すものである。しかし、ユダは世俗的な銀貨30枚を選んでしまう。世俗的なその銀貨そのものも当時は価値が無かった。出エジプト記 2132節によると,奴隷の代価は30シェケル(銀貨)だった。当時のイエスは価値がないものとされていたので宗教者達がこの値段にした。

 

シモーヌ・ヴェイユは自我分裂についても触れている。

 

自我分裂の現象過程には、絶対的自己経験といった相対化を拒否する前史が臥している。

 

その不可視・不可触な経験が、存在論を語ろうとする。素粒子を追うような出来事を通して、能動・受動一切の機能を生理機能から自立したように自我を成立させる。人間は自我分裂の循環に依存しながら、恒常的な存在として無自覚で存在している。

 

ヴェイユが直観していた他者とは、そのような自我分裂の証しを受諾し、神秘的に分解した。そのノエマへの愛が「narcissism」に過ぎない。(ラテン語)

 

けれども、ユダはイエスへの愛と嫉妬ともいえる何か、この人間に存在する自我分裂に負けてしまう。世のイエスへの憎悪や攻撃性、暴力性、排他性が昇華していく大きな躍動にユダは負けてしまうのである。ヴェイユでいえば「他のものをしか愛することができない」

存在、この他者的自己の錘がある間は過度な自己愛となる。隣人愛というものを忘れて、奴隷の給料と同じ値段でイエスさえ売る。

 

ノエシスノエマ構造の空位、人は孤独となり、無価値に惑わされる

 

「生まれてこなければよかった」存在となる。

 

空位、そこに愛と聖霊がないのなら生きる価値は無かったのだろう。

神の愛のみでは肉体は生きられない。

洗礼を忘れた者、神はそこまでを愛するか、証明は出来ないが

死と共に墜落した銀貨が教えてくれるだろう。

 

 

シモーヌ・ヴェイユ

 

 

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