
- 聖書と心的機能について
- 私が天使を追及する理由
- ガブンディ・オノレ神父様の「聖書が語る天使の実像」の紹介
- 私が考える聖書を通して学ぶ意味
➀聖書を読むときほど、様々な心理的機能を意識するものはない。これは想像の産物なのか、考古学的に史実なのか、その事実という帰結以前に私達は合理的機能(思考・感情)非合理的機能(感覚・直観)を体感する。心理的機能の提唱はC・Gユングを参考にしているが、キリスト教が国教でない私達はまずこの話が好きなのか、嫌いかで判断するだろう(感情)。次に、聖書の体系を捉えようと(感覚)に到達する。内容を分析する(思考)、そして直観で人は一時的に、例えば創世記のアダムとエヴァの本質を語りだそうとし、何故女性が苦しむのかを熱く語ることがある。それを何度も考えの変化を伴いながらも繰り返すか、嫌いで読まなくなるのか、それは数多の選択肢があり、それでも聖書を手放さなくなる人は外界世界の経験から内面世界の成長へと繋げていく。イエスに倣うというのは、構築された内面世界から外界へと手を差し伸べるときである。
それは奉仕である。それは愛である。それは伝道である。
同時に聖書世界を読むのに必要なのは想像という力動である。空想なのか、夢想なのか、絵空事なのか、いずれにしても明確なのは聖書には口先だけの隠喩が存在していない。オカルティズム、カルトになる人と、エディットシュタインのように模範的なクリスチャンになるのかは、これらの心理的機能の処理が個々によって違うからである。
それを説明するかのように神学者のバルタザールはAngels as Mirrors of the Humanと言った。ここからが、神学の道となる。これを絵空事として切り捨ててしまうのか、私はここで切り捨てた人を置いていく。人間の鏡とする天使、とはカトリックのカテキズムにあるように天使はMessengerである事を表している。先程の説明にあったように内面世界が曇った人間には、天使は映らない。天使は自分の内面世界が曇っていないかどうかを証明する重要な役割なのである。長い歴史の中で詩人や文学者は様々な詩的霊感によって自然に戻ろうとし、哲学や心理学の先行ともなっている。ドイツ神秘主義がなければ現代まで哲学は派生していない。聖書は人間の知恵の歴史として必要な存在であり、まだ未知のものがあることを忘れてはならない。何度も読んで心理的機能を繰り返し、世界の存在に向かってどう進んでいくのかを捉えていくことが重要である。
②私が天使を好きなのは、まず感覚として美しいと思ったからであり、直感的に絵空事の産物ではないと思えるからである。この感覚と直観をどう表現するのか、どう証明するのかをずっと考えてきたが、カトリックでも天使はあまり扱われることがなかった。2018年にローマ教皇様が天使について取り上げても、暫くは日本では話題になっている様子がなかったので、天使についての追及は徐々に諦めていた。
しかし最近になって良い本に出合えた。
③ガブンディ・オノレ神父様の「聖書が語る天使の実像」という本がオリエンス宗教研究所で出版されていた。初めは海外在住の神父様で翻訳者が書いたのだろうと思っていたのだが、手に届いてから日本在住だと知った。一度諦めて磨くことも忘れ何も映らなかった鏡が層雲が晴れるかのように光を帯びた。後は天使が映るだけである。
神父様のプライバシーもあるので、あまり詳細は言えないが日本在住ということが幸運と機会だと思い、コンタクトを取った。神父様はとても優しくて何故この本を書いたかどうかを話してくれた。黙想会で日本各地を回りながら信徒と交流をし、彼等の霊性を深めさせるために天使達の存在と働きに目を向けさせる必要性を感じたとのことでした。
オノレ神父様の書かれた本は学問的でもあり、言葉に聖霊がいるように美しい説明でした。
本の構成はこのようになっています。
- 神に創造された天使
- 天使の位階
- 聖書で言及される特別な天使
- 天使の外観
- 天使たちの罪と運命
- 人間を支配するための悪魔の手段
- 天使に倣う霊的生活
この著作はミサであまり扱われることがない旧約のダニエル書の天使も書かれてあって読み応えがあった。天使が浮遊ではなく飛行するというのは大切な意味を持っている。それは、非聖書的なものは天使と神の同一視、そして浮遊的な使いをするように天使を理解していない。聖書的とは天使は目的を持っていることです。飛行とは目的を持っていることです。飛行と表したのは私ですが、天使がどのような目的で表れているのかを、この著書は大変分かりやすく聖書の天使全体を説明している。
日本では著作の中身の詳細を説明してしまうとマナー違反になるので、簡単な紹介になるが、この本は霊性を深めるだけでなく、著書にまとめられている聖書内の天使の話は並べられているだけでも神秘的で、数々の文豪達が残した天使像の解釈にも役立てることになる。例えばバルザックやリルケ、シェリー等、カトリック的ではないと公言した作品も天使の属性は聖書が元になっているものが多く見られる。人間の求める愛と、天使が与える愛との一致と違い、天使に性別がないということ、人々の想像と創造にダイナミズムがあり、人々に思索されてこそ、また神秘も生きる。人間の夢想と神の偉業が一致するということは、どのようなことなのか。天使の飛行がどのようなものかを辿っていけば
「最も純粋なものを反射すること」(A・ジッド)を実感することが出来るのかもしれない。
④蓄積された記憶や経験、パラドックスに忘却が神秘となり得るのは、信仰のみである。
シェークスピアは「人生は舞台である。人は皆、役者」と言った。悲劇、喜劇、そこには愚かな事や絶望、残酷なこともあった。彼の作品の中で、聖書の戒律を破って幸福になったものは居ない。ハムレットは完全に理性を失い、愛するオフィーリアを狂わせて失ってしまった。シェークスピアに聖書や信仰という基盤が無ければ、このような悲劇は生まれない。彼は脚本という神のもたらす因果応報を熟知していた。ハムレットのように狂わない人生、
天使はそれを内面の鏡(バルタザール)を通して知らせてくれる。悲劇は繰り返されるが、神から与えられたこの世での生き方は、アガペーと感謝によって意味をもたらせる。それは確かだ。ただ人間の憎悪を書くだけでは真髄が捉えられることはない。神がかり的な因果応報や奇跡を見つけるためには、信仰を通して自分の熱量を感じ取っていく必要がある。
そのためには、もっと天使を知る必要がある。天使は三位一体との関連性を説明するとなると更に複雑にするが、この複雑であるという迷宮は最も純粋な存在な空間なのである。純粋が故に堕天使も存在した。劣っていたからではない、天使でさえも見失うのだと知らせてくれる。
聖書内の天使をこれだけ綺麗にまとめている本は珍しいので、是非手に取って貰いたい。
「聖書が語る天使の実像」引用
天使は旧約聖書で少なくとも百八回、新約聖書で百六十五回言及されています
第一章・神に創造された天使
このように堕罪前は、非常に高貴で、崇高な天使であり、知恵と結晶であることが明らかにされました。
第五章 天使たちの罪と運命
天使は全知ではありません。
第七章 天使に倣う霊的生活
神は私達が天使を礼拝することを許しません。使徒パウロははっきりと戒めます
第七章 天使に倣う霊的生活
著者紹介
カブンディ・オノレ神父
Kabundi honoré cicm
淳心会司祭
現在、レジオマリエ東京レジア指導司祭
販売元 オリエンス宗教研究所
https://www.oriens.or.jp/orienssite_shop/seisyo/B113.html

カテキズム(英訳版)の天使の箇所


英訳版は番号が日本語版と違います。英訳版は328~336