綴り

恋愛は心を豊にもするけれども、貧しくもさせる。他人ではそんなに大した事がない事でも、愛する人では汚点に見える。私は恋愛することの重要性はよく理解しているけれども、やはりあまり好きではない。好きでないが、不意に心を開いてしまう。それが人間の性なのだ。

恋愛は些細な事で幼くなっていく。相手の帰りを待ったり、話す時間帯が決まっていくと喪失したときの空虚感が酷いものだ。本来は何ともない価値観のズレで寂しくはならない。人間なんて相対価値なのだから、他人から見れば大した事がない事でも、恋愛となると重要性が増していく。私は、そこから治療するのに時間が要する。大人になると次第にその免疫力や抵抗力が低下していくのか、発熱や不調になっていくようになった。その時になって、自分が気づかないうちに心を開いていたのだろう。

恋愛は、お互いの醜さも知る。それは避けて通れない。何処でそれを許せるか、改善するかは計算ではどうにもならない。最後は酷いお別れをしても、相手の魂をアガペーとして愛していけるとするのなら、少しは神は御赦しになるだろう。

長く熟成させた愛は、小説やドラマのような激情は減っていく。夫婦のセックスレスを問題視する傾向が高いが、それは間違えだと思う。風俗が相手を知らなくても行為を行えるのなら、相手の全てを許せたら恥ずかしくなって脱ぐことなんか出来ないものだ。相手を知らないから脱ぐことが出来る、そうでないだろうか。虚無を埋めるために肌が必要なのだ。快楽を求めないのなら虚無が消えた証拠でもある。それは終わったことでもなんでもない。

確かに、冷めた夫婦愛もあるのだろう。でも相手と離れられない、怒ることはあっても離れはしない、それだけ相手を愛しているのなら、それを尊重せねばならない。

恋愛より愛だとか言う風潮があるが、愛に優劣はないとは私は思う。

愛が瞬間的に火花を散って冷めていっても結晶とは残るものだ。

それを見つけられるか、捨ててしまうかで人生は変わるだろう。

いつかは老いていくもので

いつか死は訪れるのだから

未熟な恋を沢山しようとも、

成熟させた愛と共に生きようとも、

好きに生きればいい。

魂は歌い、精神が病もうとも、

魂は常に強く生きようとする。

それさえ分かるのであれば、

光はいつか見つかる。

カトリックだと、多くの反論が来そうだが、

そうではないだろうか?

(3月12日facebookで記載)

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