
死というものは人間の生の果てであり‟Sein zum Tod”ハイデガーで言うところの
死に向かう存在である。死とは何とするのか、何世紀も議論をし続け科学では脳死からと決まった。日本では1999年2月28日に脳死判断の初適応が始まった。日本では臓器提供のために法的脳死判定を行った場合のみに限られる。臨床的に脳死状態とされても、臓器提供を行わない場合は法的には脳死とはならない。人間は意識がある間は、死という現実に向かって夢想する他ならない。メーテルリンクはオカルトの領域を犯しながら「La Mori(死の存続)」で己の臨死体験と死への考察を残した。文学世界は実は「愛」よりも「死」のほうが多く扱われているという。最も多いのは「愛」と「死」の組み合わせだろう。
福永武彦の「死の島」の主人公で作家志望の相場が相見綾子、萌木素子という女性二人に恋をし、選ぶことができなない三角関係が主軸であり、各々が抱いている原爆被害や希死念慮、芸術家への理想論によって人生が狂った内実を伴いながら文学世界として幻想的に生きていく。福永の死の島の世界は現代でいえばトラウマによる解離症状のようだ。素子は広島の原爆被害によって内面時間を生き、自分の存在そのものを現象学のようにエポケー、いや捨象してしまったのだろう。彼女が触るものは常に実感が湧かない。綾子は過去に恋人と駆け落ちするが、捨てられて自殺未遂をしたという過去を背負っている。彼女は愛の終焉に囚われ内面時間を生きる。しかし、この恋人を捨てた男Kという独白の章では、本当に綾子を愛していて離れたという、お互い重なり合えなかった平行現象を如実に書き出しているのである。
この話は主人公相場の線的に進むクロノス(土星)という時間、相場の想起の章、相場によって語られる登場人物、素子の独白、或る男の独白と構成を整理しなければならない。そこには戦後から高度経済成長へと人々が変わっていく事から置いていかれる哀しみが描きだされている。クロノスとは時の神であり、ギリシャ神話ではゼウスの親である。クロノスの重みと、カイロスという機会という意味を持つ二種類の時間が存在する。
生者は多くを想い語るが、死者は魂という神秘性を名残に沈黙する。
この話は客観的時制、内面世界を交差しながら、原爆を「土星人」(物語では同人誌の設定)とした。クロノスはギリシャ語で土星という意味をする。そして意図したのかは分からないが、占星術的な(トランジットの土星は多くの死をもたらす)意味も含ませている。多くを語っていてとぐろを巻いていた物語は、素子と綾子の自殺によって終盤へと向かう。死を目の前にし、生きているものが思念体になってしまう。それでも生きているという幻を作家志望である相場は、原爆が残した日本人の傷、世界が如何に高度経済成長期を迎えようとも、魂が衰弱していく女性二人の代弁者となっていく。生者という幻が実体を持つためには執筆するしかないとでも言うかのように思えた。我々は死に向かって生きている。生きているという瞬間は常に消えて更新される。死はそれまでは幻想であり、夢想だった。しかし、愛する者の死を見送ることは生者を幻にさせるほどの悲しみを与える。死の栄光と影はそれほど強い。生きている者は愛がなければ、そう、作家、福永武彦が執筆した「愛の試み」であるアガペーやエロース、(キリスト教的なギリシャ語解釈)は愛を失えば、世の残酷に打ち消されてしまう。
「それなら己はどうなんだ。己には何があるのだ、と彼は呟く。死者たちからも疎外されて、彼は今無益にそこに立っている。そうなんだろうか、人生というのはこうした徒労に過ぎないのだろうか。すべては空の空なのだろうか。その反省のうちに、遠くの地平線に燃え尽きた雲が少しずつ薄れて行くように、天蓋を覆う濃い虚無が(夢の中でと同じように) 次第に彼の内部へ侵入し、やがて彼の意識はすっぽりと、音もなく、その中へ吞み込まれてしまう」 福永武彦「死の島」
彼(主人公)はその後に、小説によって「死の行為化」を見出し、思念体となった生者が語ることによって実体化させることを見出して終わる。その度に日本が置き去りにされた「死」生かしていくということを決めたということだろう。そんな不幸の後でも人は愛と愛がぶつかり合って生きていくという証として。
一条の光は彼の立っているほの暗い窓の外へ、明らかな光芒を描いて、目覚めのように
差し込んだ。
福永武彦「死の島」