太陽と鉄 三島由紀夫について

概要


2018年、自殺未遂後の療養期間に三島由紀夫の「太陽と鉄」を読んだ。そこには彼の小説にも批評にもならない感情が書かれてあった。
夜は「告白」、昼は「批評」そして、どちらでもない時間について彼は書いた。

私は、このどちらでもない時間を2021年まで味わうことになる。

問題の東大生討議(1969)にも取り上げられた著書は、日本では当時は評価を得なかったようだ。私はカトリック離れから、回心までの道のりを
語る上でこの死に至る病を語ることに悩んでいた。ノンフィクションになるのか、無理にでもフィクションにすべきなのか。太陽を選ぶのか夜を選ぶのか。

その中にはカトリックの問題や、日本の今後の政治不安も付随していた。長年、詩情を忘れていたが三島が太陽に向かったことに対して、
2021年、カトリック回心と共に、私は夜(文学)に進むことを決意した。

これは私の解釈が多く含まれている。太陽と鉄の徹底解説出来ないことをお詫びする。
今回は、サルトルでいえば、「主体を持つ他者」である。

「太陽と鉄」は三島由紀夫の執筆の中でも当時は評価が低かったと聞く。長い時を経て、

2018年にこれを読んだが、共感することが多かった。執筆している途中で、小説としても表現しにくいものがある。私もその溝に2017年頃に陥った。恐らくどの芸術家でも

訪れるような気がする。時流や、共通認識に惑わされて自己を確立できないことがある。三島はそれを、告白と批評との中間形態、「いわば秘められた批評」と表した。

夜を告白とし、昼を批評とし、その堺に存在する黄昏の領域に焦点を当てた人は彼しか居ないのかもしれない。

実存と本質について、サルトルはレゾンデートル(存在理由)とし、実存は本質に先立つとしたが、こういった小説と批評の合いの子のような行き場がない思惑は、実存という外皮が分からない、言わば彷徨う内部であり、外界(本質)を知らない胎児そのものである。

それが推論、予想、予言に相当する。結果が表れていない段階で、本質をつかんだつもりでも心元無い。小説といっても振り切れる程の資料が揃わない、批評というのにも、数年後先の想定に過ぎなかったりする。けれども、確かに感じるというのが強くなることがある。

そういった時に、気が狂ったゴッホの絵画を思い返すのである。

彼の絵画は売れないという実存が先にあった。後から、弟のテオの妻がゴッホの絵画の売り込みに成功し、現代に至るまで天才と仕立てあげた。時を経てゴッホの絵画の本質を作り上げていったのである。もしくは世の人が本質に気づいていったのである。

星月夜 / The Starry Night
ゴッホの絵画の中で一番好きな絵である。闇が蠢いているのを、これほど如実に描きだした絵画は知らない。

****

 三島が自身を詩人ではないとこの本で断言しているのは、正解だと思う。詩人はゴッホの絵画のように結果を恐れることがなく、告白と批評の狭間に陥ることがない。ヘルマンヘッセは詩人として天才であり、ルバイヤートもキリスト教徒の批判を恐れることなく舞っている。

イランは詩人が有名なのはその流れがあるように思える。恐らく死(他者の弾圧)を恐れないのだろう。日本人の協調性も、西洋の議論好きにも当てはまらない自由なその熱量は、憧れでもあり、社会経験が増えた結果、もう二度と手に入らないと思うのである。誰もがそれを夢見て走り出すが、ペイシズムから、肉体の苦痛を経て、思惑で作り上げた悲劇や幸福が、次第に現実化していく。

私も若い頃は、畏れ知らずに走り出したはずだった。その中でも微分積分のような喜びや絶望は繰り返され、期待と絶望は実質の現実を超えていたのかもしれない。眠れば朝が来て、日常がまた訪れるという平凡の日常を繰り返していたが、私は本当の絶望が訪れたことがあった。

次第に、失望や幻滅が増えていき、現実世界の大きな実存の中の一部になる。

そうなれば、芸術家は終わりである。個性を失うのだから当たり前である。

元々長らく築き上げていた趣味嗜好が相まって個性的に見せているが、身体が悲鳴を上げている。下手でも良いので夜に詩を書いていた頃が嘘のように思えてくる。

それを敗因と捉えたのがそもそも過ちだった。夜にも昼にも見捨てられた思惑は、

必ず何処かへ向かう。それまでが長く柔軟性の無い鉄のようである。私はそう捉えている。

三島は恐らく、この鉄の要素が太陽となり自決に至ったと私は分析した。

私は、長い時を経て、もう一度夜に返ることを決意した。それがジャーナリスト引退と、

時事に関して表に出さなくなったことが証拠である。夜に生きる人間は人間の感受性という目に見えない存在のために生きる。昼に生きる人間は市場や人間の生きる糧となる。

どちらも必要であるので、どちらが正しいという事はない。

しかし、言論や知識が無駄にある場合はどうも現実の問題を言いたくなる。

その「おしゃべり」を夜まで沈黙することが、文学者の原点ではないのだろうかと思う。

何故自殺未遂をしたのか、回心の過程、それらを直接書くことは無い。その代わりに

夜に記憶や記録が乱反射したように、告白しだすのだろう。

虚構世界―フィクションとして、私の代弁者は男となり、別の女となり、私の心を背負って話が進む。

そこには登場人物という嘘は存在する。しかし、本質は嘘ではない。そこに私の体験が息づいている。

存在しない外皮の中に、経験や体験した内部が存在する。

病んでいる間に三島を愛読した。しかし、長い時を経て私は彼と別の道を選んだ。

この著作の中で彼はこう述べている。

「今の私は、二十六歳の私があれほど熱情を持った古典主義などという理念を、もう心の底から信じていない」

私も、若き日の畏れ知らずのような熱情は無いのかもしれない。彼のこの太陽に向かった自決までの告白を私は共感する。

けれども、今回私が執筆しているピアノ調律師の主人公のように、音は死なないと新しく文学を広げるつもりだ。主人公に絶望を与えた中で、私の内部の光が組み込まれている。

それは神と共に。

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