朗読者を想う

 「朗読者」ベルンハルト シュリンク

 舞台はドイツ、当時15歳だったミヒャエル・ヴェルクは通学途中で黄疸を患って、一回り年上の36歳のハンナに見つけてもらって看病してもらう。二人はやがて恋人になるが、ハンナは何故か主人公に本を読んでほしいと誘った。その中の一つの「オデュッセウス」は、トロイア戦争のあったミュケーナイ文明時代の紀元前1200年代に起こったと推定されている。前8世紀頃に、ホローメスが「口承」によって語り伝えらえてきた400年ものトロイア戦争を題材に纏めたことになる。(「Iliad」「Odysseus」)

この伝承と事実を、第二次世界大戦後に生まれた主人公がハンナのために読んでいく。

ハンナには秘密が多く、突然彼の前から姿を消した。主人公は彼女の喪失を受け止められずにいたが忘れていく。時間が経って1960年世界中が学生運動が活発なときに、主人公は大学生になった。ナチス戦犯の裁判傍聴のゼミに参加していた時に、立たされていたのは、

嘗て愛した女性、ハンナだった。彼女は強制収容所の囚人の看守だった。

裁判が進むにつれて主人公は、ハンナが読んでと頼んで本を渡したことを思い出した。

彼女の裁判の様子と過去を思い返しながら、主人公はハンナが文盲だと気づいた。

彼女は文章が読めず、読めないのが知られる前に職を転々としていた。

それは、もしかしたら彼女がルーマニア出身のロマだったのも関係があったのかもしれない。彼女は読めない活字の前で、彼の声だけで世界の扉を開いていた。

いつか自身の訪れる運命も知りながら、声が連れていく世界と彼の肌の温もりに浸っていた。裁判は彼女が文盲だということ気づかないまま、彼女にとって不利な終身刑となる。

強制収容所の関係者の裁判で、重要なのは殺意があったか、無かったが問われるが、ハンナは囚人たちに本を読み聞かせをしていたという記録があった。その時点でそれは虚偽であった。

主人公は、ずっとハンナを忘れていたとはいえ他の女性を愛せないでいた。

ハンナの件で、哲学教授の父親に掛け合っていた。そして、漸くハンナは恩赦を受けられたが、主人公の手助けのお陰で字が書けるようになり、ホロスコートの現実が書かれた書籍を目に通して、ハンナは自殺をしてしまう。

*****

 「朗読者」が流行ったときに、15歳と36歳の恋愛に嫌悪感を抱いた感想が多かった。

年齢と肉体だけで判断すると、フィクションとはいえども他人の愛を気色悪いと言うこと、

人間、皮を剥げば魂は平等なのに、そんな事はお構いなしの感想が多かった。けれども、年齢を離した意味を理解していない。この戦争を知らなかった主人公と、世界から審判がかけられる仕事をしていた女性の絡み合いを表現出来たのだろうか。戦犯同然の人間は悪だと人々が決めつけていた時代、お互いの立場を知らない二人には愛しかなかった。私はナチスドイツ政権下について深く考察することはない。これは愛の物語だからである。

現実を取り入れた虚構世界は、現実世界では譲り合えない議論をすり抜けて「愛」を書くことが出来る。

どんな憎しみの中でも愛の可能性が描写出来るのは物語だけだ。

 作家は頭の中で登場人物の声が聞こえると、あるアメリカの作家も言っていた。

文字世界は独特で音も時間も色も無い。その中でどんな孤独や情念を抱くのかは作家によってそれぞれだが、作家にとっては出版というのは産声に過ぎない。

読者の手に取られて、読者は小説世界から受けた世界で第三世界を構築して、自分の小説を理解していく。疑問にも思っていく。そして、思うのだ。

朗読者が欲しいと。(最近は映画化が一番望まれるのかもしれないが)

注意深く探したことがなかったが、朗読者を見つけたときは世界が開いた気持ちになった。

私にとっては自分が愛した作品世界に他者を入れる唯一の存在だからだ。それは映画化ではない。映画化は分解され、損得で会議にかけられてオペのようだ。それも構わないが、朗読者こそ作家の伴侶だった。

朗読は、愛している声しか入れられない。自分の書いた痕跡を綺麗に語ってくれる。

人間は誰しもモノローグを持っている。彼女の人生は二度と希望を持つことが許されない存在だった。
一時の若い彼からの朗読は、新しい世界、自分のモノローグの
代弁者だったのだろう。

作家、ベルハルント・シュリンクが何処まで計算に入れていたのかは謎だが、

朗読されることは、着飾った言葉よりも官能的である。現代は自分の言葉で語ることが

社会性だと思われるが、朗読から重なる共感や、運命、愛する人間の声は本人にとっては、

特別なものになる。オデュッセウスの一文「放浪の人生ほど人間にとって悪いものはない」と、

「あまり永すぎる休息は苦痛なり」この背反する言葉にハンナは本当に行方をくらますことになる。

(あくまでのオデュッセウスの内容であり作中にはそのような描写はない)

愛するミヒャエルは、オデュッセウスの名言のように生きていく未来があった。ハンナにはそのようなものは与えられない。「Odysseus」この古典を選んだ作者は、多くの意味を持たせている。

必ず裁かなければならない人間の中にも、愛があったと。こんなことを書けるのは小説だけだ。虚構の中に許されない愛を書くこと、戦犯にも愛があったと、それを公言出来る現実は何処にも存在しない。

彼女は確かに最終的に文章が読めるようになった。けれども、頭の中で反芻するものはミヒャエルと共に過ごしていた日々と懸け離れていたと思われる。

*****

映画タイトルは奇しくも「愛を読む人」と邦題がついた。

声の形成した愛は、一番早く消えていく。五感の中で一番最初に記憶で失うのは

聴覚(声)である。次に視覚、触覚、味覚、嗅覚となる。

ミヒャエルはハンナのために再度録音したテープを送った。「オデュッセウス」と共に。

しかし、あの頃の声とは違ったのだろう。彼女は彼の愛だと気づけなかった。

自分を更生させるための声だと異質なものになっていたのだろう。

ホロスコートの朗読者は誰だったのか。

頭の中で響いた声は誰の声だったのか、それは分からないが、

新しい朗読者は愛した彼ではなかった。だから彼女は命を絶った。

戦争がなければ、境遇も年齢も超えた同じ魂だった。それなのに分断された悲しい話だった。しかし、審判は愛までは分断出来ない。たとえ引き裂かれても、彼の声が生きていた過去は、記憶から消えても生き続けている。

残滓として「愛」が残っていた。

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