収容所の被害者

Johan Liebert is the titular character in “Monster“but Not drawn by the author. It’s a homage.
Author unknown. Additions are required.

あの時、あの怪物が僕の前に現れた。

母さんは僕を助けようとしたの?
僕と妹を間違えたの?
どっち?

母さん はなさないで

Monster 浦沢直樹

被害者というのも収容所行きと思うことがある。一度味合うと母国語であろうが人に伝わらない。

「忘れなよ」とは一体何処の国の言葉だろうか? 

生まれてから気が付けば何度も収容所に入れられる。記憶しているのは、最初に入れられたのが7歳の頃だった。入れた相手は一人の女教師だった。私の自我、現存の体感が壊れたとしたのなら、この女教師の影響だろう。それでも誰も助けてはくれなかった。憎しみと哀しみの中で、光を見出した。それが最初の解放である。誰が当時の私を教誨したのか、それは分からない。けれども、現象学的な視野を手に入れたことによって私の独白は大きくなった。記憶の中の空は常に青かったが、言葉はいつも憂いていた。それは心理学が肯定した。人間は定立と反定立が共存していると書いてあった。

現象学では未来よりも過去よりも現在という「瞬間」というものが突出していく。その中に幼心は「瞬間」に未来の光を想像した。それが糧だった。何度も収容所に入っていくと、その光が弱くなっていくことに気づいていく。光が弱くなった時に、同胞がいることに気づく。暗闇のほうがよく見える、それが大人になった証なのだろう。

様々な被害者というものを見て来たが、拘置所に行くような選択する人達も見て来た。加害者の最高の刑罰、「死刑」と被害者も拘置所に行く。

私はある人に対して、このまま死に向かっていくのではないかと、

気が付いたら自分が言ってしまいそうになるのだ。

「忘れなよ」

その時、解放の合図が鳴って外に出される。私の傷は癒えていたので声をかける資格がなかった。私の言葉は収容所の壁一枚隔てていくようになる。

愛と正義に関して、愛と正義は相反することもあると、私はこのブログ開設から繰り返して書くようになったが、今回はヨハネパウロ2世の話をしたいと思う。トルコ人のアリ・アジャは1981年5月13日にヨハネパウロ2世を撃ったが、一命を取り留めた。アリ・アジャは終身刑だったが、撃った教皇によって恩赦を受けた。ヨハネパウロ2世はこの後も別件で暗殺未遂の被害者になり、晩年は暗殺未遂による後遺症やパーキンソン病に苦しむことになる。

アリ・アジャは教皇の死を悲しみ、献花のみが許された。2016年、カトリックの司祭として希望しているが、定かではないとまでしか私は知らない。

ヨハネパウロ2世の真の心の内は知らないが、彼の執筆したものは光溢れるものであり、

闇も多く知らせている。それは光の傍にある。

それは盲目の罪人への警告ではなく、迷える羊への道しるべである。

彼は「希望の扉を開く」の「世界の拒絶」という章で「真の教えが不人気なときに、

安易な人気を求めるのは許されない」としている。

被害者が収容される収容所は、仲間割れもあった。必ず革命家の妄想を抱く人間が、

人を攻撃し始める。そして、か細く集まっていくのが「簡単な言葉に騙された」人達である。

被害者は一時被害だけでなく、世界の拒絶といえる二次被害、三次被害に苦しんでいく。

イエスキリストは、マタイ7章13・14で永遠の救いへの道は広くも快適でもなく、かえって狭くて困難であるとしている。大衆が勘違いしているキリストという救世主は、

快適な道を教えていない。もっといえば神と救世主を勘違いして、批判する人が多い。

救世主というものは、本当に世界のためか、大衆の願望によって生まれた「偶像」がある。その騙し合いは古くから続いている。

 被害者は「偶像」こそ注意しなければならない。この意味が分かる人は被害者という収容所を知っている人だと思う。外に出ても其処がどんな収容所だったのかを忘れない。分からない人は、自分がマスメディアとなって人を傷つけていることを知らない、偽善者だろう。妄想で革命者気どりで、一切自分の「善」を疑わない。

剣の脅威を知らない人間がペンで多くの人を傷つけている。

それはもう被害者という収容所に向かっているのではない。

向かうのは犯罪者が向かう本物の刑務所である。

黙示録では獣とは数字であり名前が無い。黙示録13章に十本の角と七つの頭がある獣について「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか」という問いがある。その答えは「知恵」の要求だった。(18節)

賢い人は、獣の数字にどのような意味があるのかを考えるが良い。

数字は人間を表している。

獣とは人間である。それを知るものは謙虚である。

偽善者は他者に武器を持たせることしかしない。救世主は自分を癒すことを知らせる。

偽善者はすぐ弱音で同情を誘う。救世主は傷ついたことを黙って耐える。すぐ偽善者が来ることを知っているからだ。

私よりも可哀想なある被害者に「忘れなよ」とは言えなかった。

そのことが気がかりのまま、私は闇を忘れることがない。あの人は、

何処へ運ばれたのだろうか。少しでも光が見えたのだろうか。

その連絡網を断ち切ったのが、今の偽善者である。

分かりやすいものは、闇を簡単に教える。分かりにくいものは、闇は皆持っていると

教える。皆、心の中に「獣」がいる。

長々と、たとえ話が長くなったが、

もしも、被害者として死刑に向かっている人がいるのならこれしか言えない。

「この死刑は再審出来る。請求せよ」

後に引けない死の誘いが何度もあったが、生き恥でも晒して生きてほしい。

 浦沢直樹のMonsterは若い私の心を掻き立ててくれた。大衆が混沌として「神なんか信じない」と騒ぐ中、

救世主と神の違いを教えてくれた漫画なんてものは珍しい。イギリスでも人気があって、イギリスで読んでいた。主人公の天馬はヨハンの本当の名前を知っているが、最後まで明かされなかった。彼は獣だったが、人間でもあった。彼は東ドイツの陰謀の被害者であったが、罪人に手を染めていた。

だから、聖人と同じ名前を本当の名前にしなかった。引用に使われた黙示録13章に忠実で素晴らしかった。黙示録はヨハネという男が登場するが、執筆者は不明。ヨハンはヨハネ系列の名である。

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