Ophelia’s fragments

A document in madness, thought and remenbrance fitted.
――侠気にも教訓があるというものか、物を思っても忘れるなとでも言うようだな――

–Laertes

Hamlet 


Act4 Scene4






ジョン・エヴァレット・ミレイのオフィーリア

オフィーリアの狂乱、彼女の兄のレアティーズの「狂気の中にも教訓があるというものか、物を想っても忘れなとでも言うようだな」と言う台詞がある。不正を嫌い、神を信じて穢れを嫌ったハムレットが正義感で殺人まで落ちぶれていく中で、オフィーリアはハムレットに振り回されて狂ってしまう。ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画のオフィーリアの水死体には、水葬とでもいうかのようにキリスト教の象徴植物が数多く置かれている。オフィーリアは狂気の中でも、イエスの名は残していた。

どんなに肉体が滅びようとも魂はキリストと共に、という意味が強く感じられるので、このシーンは好きなのかもしれない。

 好きなシェークスピアの引用はと聞かれたら、ハムレットの「A document in madness, thought and remenbrance fitted」と私は答える。「狂気の中にも教訓がある」これは人間の本質を問うものである。人間は意識で理性や社会性を失えば、価値が無いのか、オフィーリアは狂っても最後までイエスの名から離れなかった。そこに、信仰が育った者はより深く人智を超えたところに根差していると示している。彼女には神の恩寵が可視化されている。

それが父親の亡霊に惑わされたハムレットとの対比である。

無限に開かれた自由な空間として「継続」されている時間、それには永遠がある。

それに対して、忘却され過ぎ去っていく時間は「有限」となる。

オフィーリアはハムレットを信じていた。愛を永遠と捉えていた彼女に、

突然訪れるハムレットの裏切りは、愛の終わりによって彼女自らが閉された有限の世界に

押し込まれる。彼女の自死は、数多くの読者が美しく弔う。彼女の狂った言葉は何度も上映され、役者によって継続した時間を生きている。

虚構と現実の境を漂うことを

楽しむ舞台という存在に、踏み込むのはまた新しい芸術家である。

この写真は、オフィーリアの断片のように思えた。水中に咲いているのでなく、水面に放り込まれた花々。子ども達がイノセントに花をちぎるという残酷性と、根を失った花々たちの短命さが語らずとも表れていた。恐らく、撮影者は影を惜しみなく消さないからだろう。

水面下は私達の日常より蠢く音が聞き取れる。それは空気中の音の速さよりも早く、imageはそれに追いつかなければならない。この写真のもう一つの見どころは、水面で弾かれている水泡である。水泡はどうやって作られたのか色んな条件が想像出来る。この水中がどのような条件なのか分からないが、水の表情豊かさと、水泡、それと短命な花という生と死、光と影が艶やかに表れている。

 光は直線でしか進めないが色んなものが遮って影が出来る。花は光合成で生きながらも、己の存在で影を生み出している。生きているだけで、世界の存在は光を受けて影を作る。影はイノセントから、罪まで、その彩度は計り知れない。花の存在が作り出す影は見ようとしい、「花には罪がない」簡単に言えてしまう人は私には合わない。撮影した彼はきっとこの意味が分かると思う。花は確かに人間のような罪は無い、けれども影は作る。

オフィーリアを弔う花は「影」を知っている、そういう花である。

写真

撮影者:凪 https://twitter.com/C6H12O5_

ブログ https://wilhelog.hatenablog.jp/

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日時:
05 Aug 2015 – 31 Oct 2015
場所:
Barbican Theatre – London
カテゴリ:
演劇

主演:Benedict Timothy Carlton Cumberbatch

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