
「黙示録の作者は、いわばイエスキリストと対立した存在の影響を本当に受けていなかったのだろうか? 心理学でいうところの「影」の」 C・Gユング「アイオーン」
天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えた。
また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、神の用意された場所があった。
わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。
「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」
(ヨハネの黙示録12章)
2014年8月15日の聖母マリア被昇天の時に、私はカトリックの洗礼を受けた。本来なら春の復活祭の時に洗礼を受けるのが殆どだが、この年のみ洗礼式を夏にも設けてあった。当時の婚約者と共に洗礼講座を受ける予定だったが、教会の下見という感覚で6月に彼が指定していた教会へと行った。洗礼講座を試しに一人で受けている間に、本来なら1年勉強会に参加しなければならないのだが、この時の担当神父様が8月の洗礼式に入れてくれると言った。私は婚約者に確認を取らずに入れてくださいとお願いした。この時は神に招かれたというのか、裏切りというのか、彼との関係が悪化するとは知らなかった。
彼はやはり洗礼を受けずに聖書が好きな人でいたいと言い出したが、後から来てくれると勝手に信じ込んだまま、私は8月15日に百合の花束を持ってベールを被った。
俯きながら「天にある神の神殿が開かれて……女は身籠っていたが、子を産む痛みと苦しみのために……竜は子を産もうと」と聖書朗読が始まった時に、幼い頃から何故か涙が出てくる箇所が読まれたことに鳥肌が立った。ヨハネの黙示録12章、女と竜(乙女と竜)である。竜は異端の存在であり、女とは聖母マリアの事だとされている。この黙示録の世界は人間の最期であり、暗号めいた散文と抒情的に描かれている。この章だけでも、創世記の37章のヨセフの夢という伏線が張られていたりと聖書そのものが世界の始まりから終わりを書き上げている。
何故そこまで感動を覚えたのかといえば、乙女と竜はユングでいうところの元型を私の作品の「Pagaea Doll」でも扱ったところであり、作中で東西の竜伝説に準えていた。主人公の「翔子」のように、私は子供の頃から、ずっと「想像力の処女性」を追及していた。ボルヘスの話でもあるように、人は想像しても誰かと似てしまう。想像力というものは共感や称賛を得なければ、傷ついて、媚びを売り、渇愛と孤独を抱えながら、老化して死に向かっていく。十代の頃に絵を描いているときに時に思っていたのが、自由創作の時に描きたいものというものを探すときに、自分の描きたいものについて悩みが尽きなかった。描きたい世界は描写力に左右されて、理想に近づかない。哲学を学んでいたら分かることが、自分が発見したことは既に哲学者が開拓していた。新しい発見を探しながら、私の思念の中で常に変容する。瞬きの瞬間や、眠りにつく瞬間、その機会は何時なのか、予測不可能でノートさえも間に合わない。自分自身が、その変容にさえも追いつかずに、出来る範囲で中途半端な作品が生まれる。内観する暇もなくデッサンの課題が来る、勉強の課題が来る、私は夢の中まで時間を使った。
漸く宗教絵画を描きたいと発言した私に大人たちの賛同はもらえず、まだ経済力が無かった私は自身を具体化する旅に出た。
ユングの「元型」とは、フロイトの無意識よりも更に深く存在している。C・Gユングは教会関係者ほど夢にイエスやマリアが直接出て来ないことに気づいた。太陽がイエス、や百合がマリアと、象徴として集合的無意識の領域に存在する。フロイトは彼のこの発表を否定はしなかったが、苦労すると言った。フロイトの見解は正しかったと私は後に知る。ユングの研究は患者のように疲弊した人間には労苦するのだ。神話や信仰は19世紀科学で薄れていた影響なのかもしれないが、ユングの学説が正しかったとしても、20世紀、21世紀に神学も宗教、もっといえば神話、寓話も強くなることはなく、大衆の理解に及ばなくなっていくのが目に見えていたのだろう。だから「元型」というものは患者が孤立するのだ。治療としては適していなかったのだろう。
私が、竜の話を書いたのは小学生の頃だった。「PangaeaDoll」の翔子の幼い頃の話の構想は既に在った。黙示録の12章はキリスト教徒の友人の家にあった聖書で知った。意味は分からなかったが、この蠢いていく竜の躍動感と、乙女(無原罪のマリア)への執着という幻想譚として私は心が奪われた。
何を私は表したいのか、生まれた「何か」の存在意義の居場所を探していた。そのうち理解を求めなくなって絵を辞めた私は、文章の中で生きていく。特に誰にも求められてもいないのに、私は私の存在のために生きていく。他者に潰されないように、思惑が私の言語やイマージュを超えて、更に熱量を持っていく。形容しがたい胸の痛みである魂は上昇を夢見ている。そのような人間にとって、竜は制御出来ない「感応」の象徴であった。乙女マリアがヘロデ王の魔の手から逃げるのを追った。信仰を持つか持たないか、葛藤するのはそのようなものであった。疑心や、常に聖書に影があった。それが無宗教者の見えた世界である。常に蛇のように畝っては、熱量を持って動いていた。
竜が乙女の子(イエス)を食べてしまおうと思った、は葛藤を抱いている洗礼志願者そのものだと私は思えた。特にこのマリアに付き纏った12章の竜はそうなのかもしれない。洗礼志願者は異端でもある。
それでも、2014年の洗礼後、2021年の今の今まで乙女と竜は今日まで読まなかった。聖母マリア被昇天祭りすらこの後は参加していない。他の通常のミサや式典は参加していても、この日は参加しなかった。長らく洗礼の気持ちに返れなかったからだ。別の作品を書きたかったのもあるが、もう私の中の竜は死んだのだ。異端の象徴なので弔うことを考えなかった。
ミサは毎回白のベールを被っていたが、友人の死の時に黒のベールを被っていた。ベールはそのうちに外すようになり、聖書を常に持ち込んでいたが、持たなくなった。
洗礼を受けた後の見えた世界は恩寵と孤独が待っていた。芸術家の魂は作品の中でしか生きられない、その啓示を胸に希望を抱いてきた私が、気が付けば崖の上にいるように、
2018年、自死を前に立っていた。
絵を描いていた頃はまだ良かった。絵はオリジナルが一点存在すれば良い。
言語となると実存性は疑わしくなってくる。言葉の世界は理解されなければ存在価値の無い記号となる。文章世界の場合は何処に私の核があるのか、私は何処にも生きていないような感覚に陥っていた。世界は「色即是空」や「諸行無常」なのか、イエスという存在を現すのか、これらの教理は表裏一体である。対峙し、時には融合してしまう。言語で明確に区切ってしまえば、「空」(くう)は成り立たない。言葉と結果に囚われている。聖書も自身の経験が伴わなければ、イエスの教えを生きたとは言えない。机上の空論となってしまう。
ヨハネの福音書に「はじめに言ありき、言は神と共にあった」とあるように、何故言葉が存在しているのか、明確にしたのはキリスト教である。ロシアがはじめは言語という明確なものがなくてキリスト教が布教していく中で言語が作られたように、存在を追うのであれば、キリスト教となる。
この道が見えたので洗礼を受けた。
一般的に公開される心理分析は生い立ちの分析である。しかし、人の心とはもっと複雑なのだ。このように、思念の刻みがある。一見意味を感じない夢現も人間を現すことに必要なのである。
信仰の理由も「救済」の一言ではない。これを初めて明確に肯定したのは、「聖書」なのだと思う。そして文学者にとって、聖書は頂点でなければならない。私が作家としてイエスを頂点に置いたのは、人間は傲慢になるからである。想像力の処女性は存在しない。2千年の歴史を経て築き上げてきた人類の思念の水脈に重なる。聖書はその中でも母体である。その絶望を最初に受け入れなければならない。けれども発見は人生を貴重なものにしてくれた。
「何故自由に書かないの?」と何人も言われたが、答えたことは無い。もうこの質問に孤独を感じることもない、特に答える必要がないと気づいたからだ。諦めから始まった事は、既に「自由」である。
始まりは悲しい「自由」だった。洗礼は自由を確かに与えた。私の髪に聖水が滴り落ちる中、拭いてくれた代母も、祝ってくれた神父も、自分を取り囲んでいた人達全て、二度と同じ場所には集まらない。二度と、集まらないのだ。あの時抱えていた百合の花束も記憶の中で咲き続けているが、もう疾うに消えている。あの時愛した人も、別れた人も、出会った人も、顔を見上げた時に見えた光景も、私が何処へ向かって笑ったのかも、この時の登場人物も、私の感情も、二度と私の「今」を表さないし、視界の中には戻って来ない。
この消失を受け入れるか、再度また洗礼の記憶として残すのか、
長らく迷いがあったが、7年経ってようやく私はこの当時を振り返った。
確かに、洗礼を受けた時、私の魂は喜んだのだ。
2021年8月15日
