人間失格と太宰治

最後にまだ、あなたのうちに神を探し求める道がある。すなわち、かぎられているものどもの除去の道がある。というのは、芸術家が木の魂のなかに王の顔を求める場合、
その御顔のために全てを捨て去るからである。 

ニコラス・クザーヌス
De quaerendo Deum49

「はじめに」

 太宰治の「人間失格」を語るとなると精神が幼いと誤解を受けやすい。2021年現在、

太宰治は有名ではあるが昭和・知の巨人と呼ばれる人達と並ぶと、地位は高いのか低いのか、それさえも彼は定まらない。彼の本質は何だったのか、結局のところ、未だに何にも定まってはいない。戦後76年も経って、これである。それが私にとって太宰の魅力だと再認識した。

太宰文庫は夏に売れると聞くが、今でもそのようだ。彼の口語調の文体に重々たる文豪に備わっている理知的なものは存在しないと言う人もいる。当たり前に存在しているものを感性豊かな文章で書いたことは、宗教的にも哲学的にも問題提起と成り得る。そして、彼の感性というのは、飾られた比喩や技巧ではなく極めて日常的に使われる言葉の羅列が多いことも特徴である。

大人になった私が再度、太宰治を取り上げるのは愛と死生観に関して、クリスチャンとして理想を知っていて、尊敬する作家は他の人であり、彼等がカトリックの新聞に引用されるような作家であり、2年の療養期間を設けたが、彼等のように根を張るほどの言葉の源泉を発掘することが出来なかったからだ。多くの光と愛を見たが、年齢と病気も考えると時間がないと判断した。

「英訳するのなら太宰が分かる人に向けるよ」と言い出したのは私の敗北宣言でもあり、再起を意味する。但し、太宰治については今回一回では書き上げられないので複数回に分けて書くことになる。

「人間失格と太宰治」

 主人公の葉蔵は幼少期から美少年だったが、幸福というものへの思索に帰結出来ず、疑問を持っていた。彼の内部を覆う外皮、人々は彼を「仕合せ」と判断する。その言葉は何処か表面的で主人公の心には響かない。そして彼を取り巻く世界が日本の優等生かの如く、彼のような悩みを持つ者が見当たらない。主人公は世間に対して、彼等を「夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら」と思いに耽る。

現代となっては職種も増え、好きな仕事をするというのが流行っているが、この時代は「食う」ために仕事をするのが当たり前だった。現代よりも、それは当たり前だった。その中でも作家という仕事は、作家にとっては神の啓示でも、道楽、インテリの他愛事、好きな仕事をしているという部類だったのかもしれない。葉蔵は隣人を理解出来ずに、人間に対しての最後の求愛は「道化」とする。父母でさえ、溶け込めない葉蔵は成長するにつれて、孤独の香りが魅惑となり、女性たちに嗅ぎ当てられる。そして、彼は女性たちの秘密を守る色魔となっていく。

太宰治は洗礼を受けていなかったが、聖書に熱心だった。それは一緒に心中した山崎冨栄の日記に記録されていて、他の愛人、斜陽の元となった太田静子に会いに行くときも聖書をバッグに入れていた。太宰は冨栄に印象に残った聖書の引用を尋ねたことがあった。冨栄は二か所の引用を答えた。

「人間失格」は太宰治の遺作であり、冨栄が太宰を看病する中執筆された半自伝と言われている。冨栄の日記を読めば、この「人間失格」の女性が何故主人公に惹かれるのか、理解出来るのかもしれない。冨栄は太宰に「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ち掛けられたが、太宰の結核の看病に必死、愛情を独り占めするために必死にらなければならない、という現実を知ることになる。太宰が戦後の変わりゆく日本人に対して苦悩しているということを知り、女が大きなものに巻かれて生きることしかない事を盲目に受け入れていたことに自覚する。冨栄は戦時中に、家族に行き遅れを恐れられ結婚し、その夫がフィリピンのマニラで帰らぬ人となった。彼女は未亡人となった。「所帯くずし」という言葉が存在する日本、当時の彼女の孤独を癒せるものはいなかった。彼女は夫を愛していた。太宰は世間とは違い、昭和22年、6月3日に脱稿した「フォスフォレッセンス」で架空の花、phosphorescence(燐光を発すること)を中心に冨栄への愛と、夫への招魂祭を描いている。戦死した夫への愛情を何処へやったら良かったのか、富栄の鬱屈した気持ちを世間は許さなかったが、太宰だけが許し、夫への愛情も受け入れてくれた。

当時で言う「全うな夫」であり、家庭を守っていたのなら、冨栄には救いはなかった。彼女にとっては既婚者の太宰だけが理解したのである。

「世間というのは、君じゃないか」(それは世間が許さない)

人間失格 太宰治

この作品の好きな箇所はと問われれば、大多数の人がこれを引用するのかもしれない。

太宰の世間が許さないという言葉、そのありきたりの言葉に「世間が許さないのではなく貴方」と人格を浮き上がらせた。世間から削り取られていく自我と、当時の訳ありの女性たちは似ていたのかもしれない。女性は特に若ければ独身、次に家庭の中にいなければ人権が無いようなものだった。未亡人となれば、結婚を手段としてまた儀式的な再婚が待っている。川端康成を始め、彼を酷評する専門家は大勢いたが、彼を肯定してくれる女性たちによって、彼は生き始める。「人間失格」の葉蔵はその一人だろう。

 日本文豪の女性像は当然ながら、キリスト教に生きる女性は少ない。意図せずとも、男の独白が女を触ることは、バタイユ的な女性の「美の侵犯」でもあり、反して小鳥をケージに入れて可愛がるようなものでもあった。親しみのある口語文に官能と、女性の少女性が一緒に生きる。彼の女性像には谷崎潤一郎の「鍵」の奥さんのような大人の色香、三島由紀夫の「豊饒の海」の聡子のような洗練された上品さもない。もしかしたら日本の文豪が書く女性像の中で一番地味なのかもしれない。派手な心中をした現実に反して、いささか地味なのである。ただ、恋慕に頬を染め、生活と恋愛の天秤にかけられている題材の中で、死を堂々と語る、これも晩年の太宰文学の魅力だろう。

言葉で多様性は表現出来ない。倫理面で解釈のメスが沢山入ると疑問が付きまとう。けれども常に解が無い。彼等のように刹那に生きること、彼は世間の道化であり、真意を突きつけられることを避けるような文体でありながらも、人を束縛しない言葉で綴る。彼の中で「愛とはこうあるべきだ」という教理まがいなものはない。彼等には芯が無いように見られるが、「人間失格」終盤、

「神に問う、無抵抗は罪なりや」

「人間、失格」

もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます

この剪定ともいえる言葉の選択にイエスは悲しんでいることになる。神は農夫でイエスは葡萄の木という話がある。(ヨハネの福音書15章)剪定とは、要らない存在を斬ることではなく、幹であるイエスも悲しんでいるという意味であり、「命の繋がり」を表している。剪定した後の木は樹液を出す。それをイエスの涙と例えられる。

「いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます」

剪定された枝の一つはこのように思った。それがこの作中の主人公であり、文学者の肉声なのかもしれない。太宰治と山崎冨栄は聖書をロマンスに拡大解釈し、溺れただけの人間なのか定かではない。ただ年齢を重ねると分かることが、人生は何処かで「間に合わない」という地点に気づいてしまうということだ。「命の終わり」それに気づかない人もいるが、早く感じる人もいる。大半の人が癌や、余命宣告を受けて気づくことのようだが、死を意識することは仏教では特にあった。仏教の学校に居れば「生まれたら既に死の可能性は始まっている」が第一声だった。その教えを新しい発見とならなかったのは、漠然と自分もそう気づいていただけなのである。死を知っていながら意識すれば怖いと思うので、大半の人が死角へ追いやる。太宰治を子どもに読ませるとしたら、「走れメロス」が有名であるが、作者略歴で彼の心中を知る。当時、友人が太宰の略歴を読んで「何故自殺をするんだろう」と言い出したことがあった。幼心の中で答えたことは「死を受け入れただけ」だった。当然、勝手に自分が気づかない間にこの世から消えることは怖い。余命のように受け入れていく死もある。では、自死はどうなのだろうかと思うと、死んだ人の本音に辿り着くことは殆ど無い。肉体の死と他に、精神の瀕死が存在すると昔から疑わなかった。精神の瀕死具合を幾ら書き残していようが、他人は気づけない。助けを求めることも忘れる程、精神が疲れれば、どうなるのか?

どのみち、人は言葉に書かれていない事実を探してしまう。書いてあっても人は、他人は思いたいようにしか思えないから書いた通りには読めない。現に、死没73年経った今でも太宰治の本音は結局のところ誰も知らない。誰も剪定された枝の気持ちは理解出来ない。「人間失格」は「世間」というものについて、嘘はついていない。彼には偽善がないのである。

「所詮、人間に訴えるのは無駄である」

「へぇ? お前はいつクリスチャンになったんだい」

人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らない

 それをいつの世も、悲しむのは愛してくれる存在と、イエスであると仮定する。

作家にとって、愛するとは最終的に作家として残ることではないか。愛した女達が、そう望んだのなら、それしかない。

更に言えば、この作品も彼等の死はキリスト教としては禁忌だろう。

作品の男は病院に入院して終わるが、著者は愛人を連れて死ぬ。

それでも人の不完全さを見つめる力がなければ宗教も文学も成り立たないのは同じである。彼等の「死の受け入れ」を作り上げた現実と、彼等の与えられた生涯に、そのような選択があったことに、神も泣いているということを忘れてはならない。神(愛)が泣かないとするのなら、誰が泣くのだろうか。

剪定は、葡萄の木の良い成長のためだけだと捉えてはならないのである。

幼いころに「死を受け入れただけ」という受け答えに間違えはなかった。精神は何度も疲れ、心が死を感じる。それでも、心は生き返ることがある。心はまた死を受け入れるのだろう。何度も、何度も。

実際に「哀しい運命の受け入れ」は誰しもいつしか訪れる。

愛や死に抱く想いは、上昇と下降を繰り返す。単純な言い回しの裏で、あの頃よりも音と思惑が深く響きながら何処かへ届くように、希っている。

再起:悪い状態から立ち直ること

ヨハネの福音書15章(1~12)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

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