解放の神学と魂の存在

La vulnérabilité des choses précieuses est belle parce que la vulnérabilité est une marque d’existence.

貴重なものが傷つきやすく無防備なのは美しい。なぜなら、その弱さは存在の証なのだから。
シモーヌ・ヴェイユ

「重力と恩寵」偶然の章


この話は自殺に関する記事があります。

「文章の正しい書き方は、翻訳するように書くことです……そこには何も付け加えないということです」とヴェイユがギュスターヴ・デュポンへの手紙でそう書き記した。

それは、常にイデアがあるようで、文章から広がるイマージュに振り回されない迷いないペンである。私も無駄なものは削ぎ落とすようにしている。どんなに哀しいことがあっても、そしてそんな憎悪があろうとも全部を書くわけにいかなかった。伝えたいことが辛いことでも、自分の声であっても何が無駄か見つめることだ。削ぎ落とされた跡に「詩」のように本当に残したいものが残る。それは神の恩寵の一つである「時間」という癒しを手に入れなければならないのである。極めてそれは孤独な作業だが、そこで生まれた喜怒哀楽は与えられたものである。

  

 ある尼僧の生前に本を読んでもらえると一報を頂いた。その当時の私はこの尼僧が出家前にカトリックに救いを求めたというのを、あまり深く考えていなかった。窮地に陥った彼女が最初に見開いて救いを求めたのは教会にあった。それでも、不倫に我が子を見捨てたカトリックの教理に反していた彼女は断られた。その人は出家後も人の煩悩に対してユーモラスな視点で人気を得ていた。 私は2018年の事故後、彼女を尊敬する年配から作家でもある彼女の元へ行くように勧められた。確かに、一旦は受け入れてもらったが、私がカトリックだったので丁重に断られた。

彼女が最後の便りの綱だったので、その後、2月の寒空の下で自問自答を繰り返していた。(2019)

私は、当時は自分の所属教会の極左活動と豪遊に悩まされていたが、他の信者はその神父が好きなので私の異議申し立てに対して「もっと気楽に考えてください」と私は一人ぼっちになった。だから無宗教に帰ろうとしていた。確かに無宗教のほうが友達とも話が合う。買い物の話、ラグジュアリーブランドを買いまくる毎日のほうが、日本では「正常」なのである。寧ろその財力に尊敬すらされる。それでも毎日は空しくなっていった。次第に、その自分を憎むようになった。そして助けを求めようにも求め方も忘れてしまっていた。二度目の自殺を考え始めたのは2019年の初夏である。二度目の決意は無宗教に戻れなかったからだった。この国だと「頭おかしい」という扱いだろうと、それが決め手になった。もしも、これで肯定されれば私は宗教者として立つことができたが、そうではなくなった。ただの、頭がおかしい一般人である。この尼僧との交渉決裂は更にそれを加速させた。窮地に陥ったとき、魂の和解を次第に求めなくなる。実際に私もそうだったが、PTSDで2018年の一度目の自殺未遂で何度も記憶が飛んでしまう。まるで床にオイルを塗ったように思考が立ち上がれず滑ってしまう。窮地に陥った人間は、切羽詰まっていて、身から出てくる言葉は支離滅裂な時もある。だからこそ、自分の醜態こそが二次被害のトラウマとなった。

療養期間の時に特にキリスト教徒ではなく、趣味で聖書が好きだというレベルでいることも勧められた。しかし、私を肯定するものは無宗教には見つからなかった。収入や仕事ではなく、魂や神聖さの論拠をたどると無宗教は、すべて寄せ集めである。オリジナルがない。それでも腑に落ちて生きていける何かが私には欠落していた。

私は何度も何度も信仰に戻ることから逃げてはいた。それでも、昨年(2020)私は窮地に陥ったときにカトリック教会と司教が助けてくれた。思い返せば、その時に私を受け入れる利点は無かったはずなのに、この司教を受け入れてくれた。それが回心の一歩だった。

もしも救われた場合、救われなかった平行線の世界を想像する。救われなかった人もいることは知っている。

しかし、私は一歩回心の道を歩くことにした。

「偶然」の連続が運命となる。人はそれを出来るだけ解消したいと思うが、偶然は生まれる。

南米カトリック発祥の「解放の神学」は必要であるとは思う。聖職者も信徒も、窮地に陥った人間とイエスの間を閉じる門であってはならない。窮地に陥ったときこそ、魂が残そうとする。傷ついた大いなる和解は時間を要する。

私がイエス・キリストを軸にしようとしたのは、宗教団体とは別に他の学問と違って彼こそ平等だったからである。

他の学問は常に不条理に晒されている。そして自分自身の存在も肯定するのに、社会からの評価に左右される。「私は私」だと誰が自身を持てているのだろうか。持てないのだから人という「鏡」に自分の姿を試すのではないか。イエスにはその必要がない。忠誠心のみでそれが自分の姿である。これがあれば私は投資でも、社会に入っていける、苦しくても、そのことに意味を持つことができる。他の学問や生活は平等に得ることは出来ない。貧しければ、本すら開けない。他の宗教は、人種が違うことで壁がある。しかし、聖書の御言葉はお金がなくても手に取ることができた。これは他にないと思っている。キリスト教こそが絶対ということはないが、私がそれだけ貧しかった。心だけではなく全てが貧しかった。それでも世界を愛せるのは、愛し方や生き方を道しるべとしてくれたイエスキリストがいたからである。イエスは歩けない男に言った。何の治療もせず男に「お前は立てる」と言った。洗礼後の信仰とは

そういうことだ。

それに気付けるまでの時間とは神が与えるのだと思った。漠然と与えられた時間は無機質だが、神から与えられた時間は確かだった。弱さを知り、魂の和解に苦しむことは神が与えた時間である。私の弱さこと、「存在の証」だったのだ。

解放の神学と魂の存在” への1件のフィードバック

追加

コメントを残す

Blog at WordPress.com.

ページ先頭へ ↑

%d