「もっとも美しい魂を持ってきなさい」 オスカーワイルド「幸福の王子」
火を人類に分け与えたプロメテウスはゼウスから罰を受けた。彼もイエスも人間を愛していた。ギリシャ神話もイエスも、人間に愛を与えた神聖な存在は罰を受けた。「幸福の王子」はカトリックへの改宗を希望としたワイルドの最もキリスト教的な作品と言われる。エジプトへと行き遅れたツバメは、王子の像の足元で休もうとしました。すると、像である王子が泣いていました――。
ツバメが他のツバメよりも6週間も遅れたのは、ツバメは恋をしていたからだ。相手はReed(葦)でした。Shall I love you(君のことを好きになってもいいかい?)と始まった恋、彼女はうんと頷きました。一緒に遠くへ行かないか、というと彼女は首を横に振りました。風と浮気性の彼女、ツバメは彼女に別れを告げて旅立ちました。金の銅像の王子は生まれ変わる前は天使のような存在でした。塀の外を知らない王子は、幸福のまま死にました。彼は「幸福の王子」と呼ばれ、銅像になった。塀の外を知った王子は世の貧しさと卑しさに絶望していました。王子は貧しい人達に自分を飾り立てている宝石や金をツバメに運んでもらいました。
王子はやがて与えられるものが無くなりました。ツバメも疲れきっていました。ツバメは王子に最期のキスをして、二人は死にました。王子は溶かされて新しい銅像となりますが、心臓だけは溶けなかったのでツバメの亡骸と一緒に捨てられました。それを、天使が拾って天の国へと連れていきました。
私の幼少期に出回っていたものは、前半のツバメの恋と終盤のキリスト教色が省略されていた。それでも献身的な王子とツバメの姿は日本人にも人気がある童話である。何処となく、冬の日の貧しい人達、という光景がアンデルセンの「マッチ売りの少女」を思い出させるが、幸福の王子にはマッチ売りの少女が存在する。ツバメが最後に金箔を与える相手が、
マッチ売りの少女だった。ツバメは一夫一婦制で、子育てを交互に行う。ツバメは餌を100回以上も運ぶので、この話は生態系としても成り立っている。
塀の外を知らなかった王子は、王子という称号のままなので、大人になれずに亡くなったと考えられる。オスカーワイルドは、他の作品、「わがままな巨人」でも子どもの神聖さに触れている。巨人は塀の中に立派な庭を持っていた。巨人が留守の間に子供たちが遊びに来ました。巨人はそれを見つけると子供たちを追い出しました。すると春が庭に来なくなったのです。巨人は子供たちを受け入れました。それは、マタイによる福音書 18:3-5にあるように、天の国に行けるのは子どものような存在ということを深く信じていたと考察される。
ツバメが貧しい人達へ飛びまわる姿を想像すれば、そのイマージュは街並みを、そして空間を思わせる。ベルクソンでいう、時間という空間の例えになりそうだった。時間は線上でもなく、刹那的なものでもない。ツバメは反復し、直線、平面を描く。飾りを失った王子を処分する大人たちの「外側」とは違った内面時間をツバメと王子は生きていた。
彼等の心優しい行いは、規則的な時間とは違う。純粋持続(durée pure)とでもいうのか、
転変と保存という両義的な中で彼等は生きていた。人間を愛するということが如何に難しくて、代償を必要とするのか。それは貧しい街と人々の描写で表れている。見下ろせるほど高い場所に存在する王子様の愛は、隙間を入れる小さなツバメを必要とした。王子様は富の象徴だったので、分け与える必要があった。裕福な者が天の国に行くことは針の穴を通るよりも難しい(マタイの福音書19章24)とあるように、彼等は狭き門(ルカによる福音書13章23と24節)への準備と始める。けれども王子は、悲惨 miseryは神秘mysteryではないとツバメに言った。彼等は天使によって運ばれる。
最も美しい魂として。
純然なる魂の存在というものが文章世界に現れるとき、光が視界に入り込む。
それは心の中でのことで夜明けの連想と共に、美しい朝日が神の存在を現すかのようだった。貧しい街並みの身勝手な台詞が遠のいていくことは、
私達のイマージュは天の国へと上昇する。
私は子どもの頃は止まるツバメになりたくなかった。王子の話を無視して暖かい国へと飛んでいくツバメになりたかった。けれども、神聖な愛以外に飛んでいく場所なんてないのかもしれない、その意味に気づいた。日本語の祈りの言葉である「あなたを置いて誰の所に行きましょう」のように。
参考資料
『Brief Lives: Oscar Wilde』by Richard Canning Hesperus Press Ltd.
Essai sur les données immédiates de la conscience Henri-Louis Bergson
備考
「あなたをおいて誰のところに行きましょう」は英訳版の祈りの言葉では、
But only say the word and my soul shall be healed.「ただその言葉を言うだけで、
私の魂は癒される」となっている。多国籍ミサのときに同時に聞くと深くなる。