器官なき身体と愛

ドゥルーズとガタリ
「彼女には文学にしか吐けない沈黙を持っていた」
ジョルジュ・バタイユ 「文学と悪」


 カトリックのミサの始まりに、必ず自分の「悪」を見つめなおす時間がある。そこで見つめなおす間、本当に自分の心を明確に捉えられている人はどれ程いるのだろうか。人の心は多層的で、多義的である。そう容易ではない。カトリックの教会というものは建物を意味していない。イエスというアガペーが心であり、信者が「身体」である。だからこそ、ミサの前に「身体」が自分の心に問う必要がある。その心はイエスである。自覚と認知の中で、差異を反復することによって「思考する」。毎日同じ祈りの言葉であっても、その時間は二度と戻ってこない。心理学の始まりであった「内観」のように、宗教的に跪いて原始に返るのである。

 2018年、私はこの年の事実を伏せて「事故」と語る。2021年は思い返す頻度が極力減ったが、生きる選択肢を失った人間が生き返るとして、すぐに生きる条件が揃うことはなかった。この事実で強請る人間も出てくるので水面下で私は更なる沈黙が課せられる。

2019年は猫のアダムが来た。この子の存在は生きることだけが無駄に長くなった私にとっては差し込んだ光明だった。光を溜め込んだ青い瞳、生命の神秘に触れることは私にとって死から遠ざかることになった。今から生きようとする始まりは、私に芽吹きを与えた。いつからこの子は生まれる計画があったのか、この小さな魂が生まれる計画を私は知る由もなかった。過去の私はこのように幸福が来ることを待てなかった。太宰治の女生徒のように「幸福を待って、待って、とうとう、こらえきれずに家を飛び出してしまう」というように時間の生成を待てなかった人間の性を映している。ドゥルーズでいえば、日々繰り返される反復とは差異の繰り返し、新しいものがくるという生成変化を待てなかったといえる。

 ベルクソンが時間は繋がっているというのに対して、ヒュームは時間は途絶えているとした。

「私という存在は、実体を持たず、現れては消える近くや感情にすぎず、私は知覚が表れては消える「劇場」であり、「知覚の束」に過ぎない」とする。

ドゥルーズはベルクソンとヒューム両方を取り入れている。私にとって「期待」というものはベルクソン的であり、判断とはヒュームであると思う。特にキリスト者にとって全ては神のはかりごととして(デウスエクスマキナ)ベルクソン的に戻るという循環を繰り返し、ドゥルーズはヒュームが取り組んだ時間軸を再度コラージュしている。ドゥルーズは第一の時間では「現在」であり感性の時間であってアウグスティヌスの時間論を元にしている。第二の時間では記憶の時間であり、過去でありベルクソン的である。次に第三の時間ではタナトス(死への欲望)としても知られ、未来、ニーチェ的である。これは無限の「直線」を意味する。ドゥルーズは第一の時間に関してはアウグスティヌスの中にベルクソンに寄せているところもあった。その中で重要になってくるのは「反復と差異」であるが、「反復は、反復する事物の中で何も変化がないが、反復を観照する中で何かが変化しているというヒュームの有名な主張だが、物語(文学)の朗読とはその核心をついている。

ある一冊の小説が朗読として読まれるまでの段階を考えてみよう。まず読まれる作者の時間軸、完成された作品、それを反復するように第三者によって読まれる。その人の声質や演技、そこには完全に作者と一致することもなければ、物語の役になりきれているわけでもないこともある。朗読とは声優の演技とは違った魅力がある。ドゥルーズが軽視しなかった「記号」とは文章のことでもあるだろう。文章は感覚を連なるが、記号でもある。声優が演技をするというのは、文章が文章のままでいようとはしない。映像や登場人物が生き生きとしようとすることである。人生訓すらも匂わせることもあるだろう。それに対して朗読は違うのだ。ジャン・ルノワールの「演技指導」で感情を抑えて棒読みにし、役者にインスピレーションを与えるように、朗読とは登場人物になるわけでも、作品の舞台を作るわけでもない。文章のもつイメージの連鎖と記号の両方を保ちながら独自の視点で読者に想像力を与える。それは著者の声でもなく、そして登場人物の声でもなく、表した記号が語るのである。

それでは、人間の声で朗読するのではなく、機械読み上げだとどうだろうか。それにはドゥルーズとガタリの「器官なき身体」という概念を思い返した。今のボーカロイドは人の声のように精度が上がったが肝心な呼吸が無かった。

器官なき身体とは無機質ではない。記号のようにそぎ落とされても、やはり呼吸を忘れてはならない。それは哲学そのものが生きる学問であろうとすることでもある。言葉でありながら、無機質であってはならない。ドゥルーズとガタリが二人で書いたことについて二人の間にどちらでもない空間で概念が自律的に動いたように、著者と朗読者というものは一見同じ根を持たなくても結びついている。それは境界を持たず揺らいだ存在同士の生成である。

物語というものは記号の裏で見えない呼吸を続けている。この世界を成り立たせているものは記号でありながらも呼吸がある記号であると私は思う。

デカルトの「我思う故に我あり」は自分の心臓が動いていると自覚することでも存在が始まるが、芸術はそうとは言い切れなかった。現実の社会では、行き交う人の心臓が動いているかどうかを確認することはない。芸術というものは、相手の心臓の動きを見たくなるようにならないと意味がなかった。芸術作品の存在とは、第一の時間、習慣を生きながら第二の時間、を有する。結局のところ瞬時の自分を愛してはもらえない。習慣とそして実績、過去の積み重ね、それによって恰も「今」を演出しているだけのものが表れる。出版日、発表した日がそうであるが、その年月の記号にどんな経緯があったか、掘り下げれば人は時間軸をもっと複雑に捉えるだろう。そして芸術作品は第三の時間を生きる。直線的で死さえも通貨する時間だ。名画を破損すると何故損失なのか、それは作家の魂を死後の肉体でしかとらえないことから始まる。人間の価値をその人の肉体と生存している間のみに重きを置くことは、最終的に人を大切にしていることにならない。

死後の絵画に高値がついてしまって人はその重要性を忘れてしまっている。「人はパンのみにて生きるにあらず」

とあるように、人の価値というものはその人の肉体を超えたものも包括して価値がある。私は自分の肉体、そして魂のみを大切にしてはいない。私を取り巻く全てが私の存在を表していると考えている。

私を構成するものは私の器官である必要がないというのは一目瞭然だが、他者によって構成される、それだけの説明だと「他者論」「多義性」となってしまう。他者によって私が存在する、そうではないのだ。器官なき身体は「一義性」だからだ。ドゥルーズ用語のノマディズムを更に掘り下げたルネ・シェレールは、私が私であるという自己性そのものを新しいイメージとし、他者のたえざる歓待によって私は固定した自己同一性を逸脱し、自ら他者へと生成するとした。自己領土や持ち分の主張のみではなく、他者を歓待すること、それは「愛」でもある。

愛、イエスの使徒の話に戻るが、イエスの使徒は多様性が豊富だった。神の愛とは、改宗のみの目的なら適当に誰でも良いのだろう。改宗のみなら力づくで強いれば良いからである。それは神の愛を無視した統一である。イエスは使徒の心に暴力的や、洗脳で強制はしなかった。その証にユダはイエスを裏切り、そしてペトロはイエスを知らないと言った。イエスが洗脳であるのなら、そのような事は起きなかった。そして現代の宗教を理解している人なら分かることだが、パウロを気に入ったからといって、イエスと切り離すことはない。

彼等は愛(アガペー)で繋がった「一義性」だからである。

哲学の今後は更に宗教と対峙しながら進んでいくが、源流を辿れば、お互いは一蓮托生のようなもので、この二つの存在もまた「器官なき身体」なのかもしれない。それぞれの部分を一定の役割に閉じ込める、それはお互い衰退を意味してきた。宗教が支配していた時代はそこから抜け出すことが重要だった。しかし、無宗教も同じように見えない戒律が生まれている。このように囚われた認識のままでは、愛の認知は常に歪められる。哲学も同じである。聖書を読んだことがない哲学者というものは、結局のところドゥルーズの「愚鈍」が付きまとう。多様な組み合わせの可能性は、新たな接合を求めていかなければならない。

ドゥルーズとガタリも「器官なき身体」を体現したのだろう。対照的な二人は連結と分離の間にリゾーム(永遠に同一的な根茎)となって、今の私が手にとっていられるような「存在」に成功した。哲学は、単なる無機質な論文ではない。世代を超えて理性と知性に喜びを与える。それは神の愛も同じでなければならない。

 2018年、「書けなくなったから」太宰にも似たその台詞は、私は間違った第三の時間を体感させた。そんな中で2020年の終盤に声が綺麗な人に会った。あまりにも綺麗な声だったので、試しに何か読んでほしいと思った。そこで2018年の事故前に手をつけていた「太宰治」の批評から、「太宰を読んでみて」と持ち掛けた。有名な台詞、「恥の多い生涯でした」そこから私達は始まった。

録音される朗読に視覚情報はなかった。しかし彼の声は朗読に適していると思った。少なくとも私にとっては、聴覚と少ない言語情報以上に、共感覚が生まれようとしていた。それは色や音楽、香りさえも引き連れてくる。彼の声には単なる流行りの声ではなく、声に機微があり、優しい人柄が表れている中で奥底に無常があった。その声は私に様々な感情をイマージュを生成させた。言葉の世界が単純に見えただけではなく、昔の文豪の言葉が朗読の彼の代わりになるわけもなかった。ただ見えない日常を魅せてくれた。いつも見ている景色が変わって見えるように、綺麗な音楽に彼の声をあてるだけで、その音楽は私だけの「音」と記憶となる。一人で聞いても美しかった音楽、文学に、他人が加わってくること、その生成は世界の理想的な成り立ちであった。いつか好きな話の映像を見てみたいと思っていた。しかし映像化は決まっても理想通りのものは無かった。それは、創っている人との乖離があるからである。その孤独に「朗読」というのは私に転機をくれた。好きな話が綺麗な声で生成されてくるのである。

 彼に読ませるものは、いつも何処か、愛と光がある言葉ばかりを選んできた。文章世界の向かう先は、人を変えることではない。人の思考に力を与えることである。言葉はありとあらゆる方法で人に力を与えることがある。言葉と沈黙、沈黙の中で深淵を見つめる。彼と私の深淵は繋がることはない。持っている「根」が違うからだ。けれども、私達は一義性になるのだ。

最近、「神の祝福を」と読んでもらった。イエスの使徒選びはヨハネ以外は優れていなかった事は有名だが、神の教えを完璧に体現出来ている人間は更に要らなかったようだ。イエスが何故、そうだったのか。それは常に「歓待」を彼は望んでいたからである。だからこそミサの始まりは魂は「告白」しなければならない。イエスが離れていながらも祈る人と繋がっているように。

「神の祝福を」とは私がとても好きな言葉だ。不条理で亡くなった友人にも、神の祝福があったと伝えた。それほど私はこの言葉を慎重に選び、軽視したことがない。朗読の彼に色々読ませたことは、心から彼に祝福を与えたかったからだ。神の愛が差し伸べられるように、それに気づけるように願っている。根が違う私達はどのように生成されるのか、常に暗澹と夢の中にあった。それは何も考えたくない日でも、疲れて何も思い浮かばない暗闇の中でも、永い計画性もなく愛している。

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処女作品の「Pangaea Doll」を器官なき身体と評価された。

2022年12月30日加筆修正しました。

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