文学と私刑 飛翔点(2)

罪からくる報酬は死です ローマ人への手紙6:23



はじめに

 聖書を文学の一つだと答える人もいるが、「聖書は文学ではない。聖書は聖書だ」と言い放った無名の言葉が一番的確だと思っている。作家を目指した若い頃の私は、まず自分の存在は「名も無き虫」と受け入れることから始めた。確かに私は存在している、けれども他人からは知らない虫だった。小説とは自分の伝えたいことを残せるものでもあるが、それをそのまま書いても残らない。そのために推敲で切り捨てる冷静な目が必要だった。大切な人の死を書いても容赦なく「面白くなかった」と批判が来る。それを受け入れること、聖書を頂点として私の自我はへりくだる。何故なら全部、聖書を頂点として過去の遺産に書かれてある。想像の処女性は無い、それが私の執筆生活の幕開けだった。それでも私には長年くすぶってしまった課題が残っていた。「残酷な話を書く」こと、特に「私刑」についてだった。ローマ人への手紙の「罪からくる報酬は死です」という引用は何度も原稿の中で移動し続けた。或る時は序章、或る時は世に出ることがなかった登場人物達がこの引用を語った。実際にこの聖書の言葉はこの続きがある。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのち」と、罪の流れを断ち切ることが出来ない人間にイエスが赦しを与え、死人は罪を犯せないと説明を受ける。

「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学

 私は2018年以降の療養中にアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」も好んだ。この話には探偵は登場しない。三人称視点だが、各々の死体が語りだすような感覚に陥り、真実は黙絶法によって手紙に集約される。ここに集められたのは法で裁かれない罪を犯した10人だった。殺された被害者の一人のエミリー・ブレントは狂信者だったが、妊娠した使用人を自殺に追いやった過去があった。彼女は自分が次は殺されると思ったのか、「夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない」と神の救いを約束する詩編91篇で心の安定を図ったが、祈りも虚しく蜂に刺されて死ぬことになる。この孤島の惨劇は、裁判官のウォーグレイヴの殺害計画によって企てられていた。容赦なく過ぎ去る時間の中で、意識の時間と世界の時間は必ずしも一致しないとはベルクソン的なものだが、エミリーも信仰という内面世界での判断が外界へ歪を生んでいた。犯人も同じである。公刑で裁かれなかった罪、という内包された罪に犯人は目をつけた。純粋に内的な意識が向けられること、純粋持続とはキリスト教的な愛、光や善とは限らない。哲学的な純粋とは、普遍性をさし、倫理に囚われない。制裁による殺意とは、哲学と神学が倫理によって囚われて隠れてしまうものが不文律として浮かび上がる。

 人間の罪とは宗教上は戒められ神から赦しを得られる。しかし、私達が生まれてから目にする社会とはそうとは限らない。罪人というものを戒めることをしないこともある。裁判官はそれに目を向け、この計画を思いついた。この話の醍醐味である見立て殺人の人形はマザーグースの詩に準えていた。インディアン人形、もしくは兵隊人形と翻訳される。この詩も古いもので元は黒人を象徴していたが、次にインディアンと変えられた。占領と迫害を象徴した人形で見立て殺人が行われる。物質は記憶、精神と物質の二元論がこの中にはあった。孤島での時間は誰も所有出来ず、主人公そのものが存在していない。10人を招待したオーエン夫妻(UnKowen)という架空の存在に操られることになる。この島の運命を司るのは姿無き存在だった。物質と空間、そして記憶、これらの関係性は大抵の人が哲学として意識しないでやり過ごす。それでも人形のように、物質が暗示的になり、自分の身が危ういとなるとすぐに認識する。彼等はマザーグースの詩や人形に意味を見出して、真犯人の計画の中で生きることになった。一人一人の過ちを暴露する謎の声を流す蓄音機、つかみどころのない音は聴覚として流体的に生きる。気が付いたら、退屈で眠くなる哲学、物質と精神の交わりに怯えるようにさえなる。

 その光景は仕掛けた判事にとっても芳しいものだったのだろう。食事のテーブルマナーのように、彼は美しく順序よく殺人を行った。銃声の音と共に、犯人であるウォーグレイヴは死んだフリをした。それから起き上がって、更に彼の亡霊劇は加速する。ウォーグレイヴが自己陶酔に陥っていたのは、自分を聖書のカインとアベルのカインに見立てたところに現れている。カインは聖書の始めの殺人を犯し、嘘もついたが神はカインに復讐をさせないようにした。よって、判事は正義という審美眼を錯覚したことになる。何故なら、神の望みというものに私刑は望まれない。ただし、私刑と審美眼は表裏一体である。鳥かごと鳥が別々に描かれたソーマロープは鳥かごの中にいる鳥に見えてくる。ソーマロープを回せば共存してお互い関わっているかのように鳥かごの中に鳥がいる。それに目をつけたのは文学だろう。絵画や音楽等、その他の芸術は「私刑」を扱わない。絵画は裁きに関しては宗教画、もしくは「公刑」に止まっている。

絵画:スチェパン・ラージンの死刑 Sergey Kirillovセルゲイ・キリロフ

言葉は神の言から、詩、箴言、虚構、ジャーナリズムと様々な役割を持つ。絵画や音楽は皆が本気で取り組むことは無いが、言葉は皆が習得し、時には愛を語り、時には嘘を語るように、誰しもが本気になる。しかし、言葉は単純に時間と共に生成消滅をしていく。「愛している」と言う言葉も色褪せていくのは、言葉は知覚や記憶、体感を要するからである。愛というものは言葉のみでは生きられない。愛には付随して感情と行動が伴われる。それでも愛と言う言葉は、しばし多くの人間が連想されやすい。理解しがたい愛の前でも、方向性は認識できる。愛は行動をし、行動によって愛だと知る。対して殺人や私刑というものは因果関係の感情を容易に理解出来ない。マザーグースのインディアンの詩は残酷な詩であり、最後の一人のインディアンは首を吊って死んでしまう。この10人はこの詩の意味を充分に理解する。命が脅かされることによって意識や時間の純粋持続が机上の空論でなくなった。そのうえ彼等は贖罪をすることもなく過去≒記憶によって終わるのである。

ソーマロープ

私刑による魂・善悪に囚われない意識

 10人の招待客のように強制的に強いられなければ、記憶、時間、空間を切り離しては対象として見ることはない。プラトンの三つのイデアによれば、⑴は真、⑵は美、⑶は善に向かう興味であるという。スターンバーグはこの美の審美的興味とした。聖書にはそのような構図が旧約聖書のハガルの話で見られる。アブラハムの妻サラには子供が出来なかったので奴隷のハガルに産ませた。その子供の名前は「イシュマエル」とした。殺されたエミリー・ブレントと境遇は似ているが、ハガルの最後は神から救われる。

聖書世界の「人を殺してはならない」(出エジプト20・13)とうものは神という絶対者の元で、信仰に基づいている。人間は神との約束を破ってしまうので常に債務を負っているということだが、文学は悪戯に約束を破り続けながら「悪」を書いているのだろうか、数多く存在する作家の目的を絞ることは出来ないが、ジョルジュ・バタイユは「文学と悪」によって、文学の最高は世の水脈から悪を探り当てることだと思わせた。想像だけで書くのか、体験があって書くのか、作家は哲学的に整理することもある。そして想像だけでは事足りなくなり、ドラマティックな発言よりも日常化を求めるようになる。だからこの話は静かだ。この「そして誰もいなくなった」の登場人物達は犯人を除いて表面上の出来事しか知ることが出来ない。探偵が存在しないこの作品は悪が善を紐解く鍵にならない。神の存在が確認出来るとすれば、判事が瓶に入れて拾われるはずのない告白文を「漁船」が偶然に拾ったことだ。キリスト教と漁師の関わりは深い。ペトロは漁師であり、イエスに「人間を獲る漁師となる」と言われた。しかし、ミステリー小説という大枠の中でこの観点は砂金のようなものだろう。しかし、現実世界とはそのように「観点」と「意識」が無ければ無味乾燥なものではないのだろうか。カレル・ファブリティウスの絵画が爆発事故での生き残りであると、絵画は燃えてしまえば意味がない。文章はどのように人に影響を与えるのか。文学は言葉や概念が表すものや、人の感情が仏教的に固定的実体を持たない性質を持つ。だからこそ「誰もいなくなった」というのは、文章世界の残酷な一面を表している。

 絵画は言葉で解説をしても、絵画として残っていることを条件とする。文学は聖書と並べられるが、目で見える空間と形には辿り着かない。嘗て絵を描いていた頃にデッサン力や色彩感覚を褒められた。常に思索や概念を抱いては、描くことで自分を探していた。哲学的考察がより一層衝動的になったのはこの時期だろう。若いが故に言葉になれないものは型を求めず、そして何かに頼ろうとして絵を描こうとする。若い間に現れるのは情熱ではあったが、私は円熟したものが欲しかった。意識と自分の技術から跳ね返る自己像に耐えられなかった。抽象絵画のように形からの脱却をしながらも色を用いる限り空間と比率が生まれる。あくる日に私は描きたい空間がなにもないことに気づいた。ゴッホが向日葵を描いたように、そして色を拘ったように出来なかった。私は愛や存在に関する思惑ばかり目に行った。21世紀になった今は哲学も心理学も、宗教は勿論、心や魂から離れながら進んでいる。それらを言い表すのなら宗教的観点が必要となってくるからだ。しかし、文学はまだ魂を書き表せる。ニーチェは復讐感情をルサンチマンとした。道徳的により、弱者が強者を悪とする。この価値の転倒は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」では弱くなっている。

犯人は、代理復讐を装い、快楽に走った。そのような復讐心や道徳的奴隷で殺したのではない。全て10人のインディアンの詩と人形に集約され、人が殺されて消えていく。作中に芸術家は承認欲求が大きくなるとあるが、それはこの犯人のことだろう。隠された欲求と快楽の実現は孤島で行われた。彼が社会的な名誉を欲したのなら、このような事件は起こさなかった。自分の告白文を拾われるかどうか分からないのに瓶に入れて投げ捨てた、魂の確かめ方はこのような事もある。それが「私刑」の末路である。

花を描くことを選ばなかった私の探求は鳥の巣のように集められ、形成を試みていた。それは現象学として、そして詩情として、美しい心情があった。鳥の習性と偶然性で集められた草木は神の御言葉でもあり、棘があるものもある。それは根腐れ、弱い草、枯れた草、

次回作はそのような「悪」を書きたい。

概要

私刑と文学

このテーマに6年かかった。残酷な話を書くということはジャーナリズムのように、自分と他者を切り離せない。小説とは時には自分の悪意も生かしては吐露する必要があるからだ。

アガサクリスティ「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学を扱った。馴染みのない、物質と精神は、哲学として読むと抽象的だと批判されるが、殺人ゲームの前では皆、その意味を理解した。インディアン人形が自分達の命を表し、意味不明なマザーグースの詩の通りに死んでいく。

哲学上の意識とは道徳や倫理に囚われる必要性がない。宗教的な善の必然性がないということ、それらの考えを今回は序章としてまとめた。未発表の小説が本題になるようにしている。「私刑」それは虐げられた、消される魂の承認欲求である。このように追い込まれたことを、被害者だと思っていない。私は必ず復帰する。

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この記事は飛翔点(Ⅰ)に続きます。

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