「ツリーオブライフ」

わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い 神の子らは皆、喜びの声をあげた。
旧約聖書ヨブ記38章4節,7節


 ツリーオブライフ

2011年の映画:言葉数少ない記憶の残滓に壮大な自然美。神に与えられた苦難を意味するヨブ記の引用から始まる。主人公ジャックは大人になって成功をしていたが、戦死した弟の何周忌で自らの子供時代である1950年を振り返る。厳しい父親、優しい母親、世俗を生きるのか神の恵みに委ねるのか、旧約聖書の神の御業である自然を「世俗」とするか、「恵み」とするのか、その問いと共に。

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「神はいつ私の心に触れたのか」私は気が付けば世界という言葉が口癖となった。いつ自我に芽生え、神を意識するようになったのはいつだったのか、聖書という書物の言葉は高尚から日常に根差そうとする。このように神の言葉は日常に根差さなければならない。例えばキリスト教徒でも愛の言葉や生誕の喜び、世界に触れた日等、意識して言葉を聖書的に選ぶ日もあれば、意識せずにも現代の言葉で語ることがある。それでも礎になったものは、意識せずともキリスト教的な感覚となる。それは長い時を経て、聖書の言葉や価値観は私達の日常に潜んでいるので偶然にも一致しやすいのである。西洋文学をはじめ、哲学も哲学史を学べばアウグスティヌスが神への対象を哲学的に纏めたことを知る。日本でも保障されている幸福追求、精神的自由も元はキリスト教の価値観である。私達もそうやってキリスト教的価値観は無自覚に手にしている。ただ、御言葉に触れる機会は殆ど無い。話は映画に戻すが、これは遠いアメリカの一組の家族の半生の時の移ろいを通して、宇宙や大自然がダイナミズムに映し出されていく。旧約聖書のように自然賛美がありながらも、家族という小世界がかけがえの無いものように映し出される。

主人公のジャック・オブ・ライエン(Jack O’Brien)の過ごした少年時代の1950年、冷戦時代の保守思考が家庭に反映されていた。しかし彼等も完全に指定された制服を着るように外界から影響を受けてなったとは言い難い。それぞれ信仰を持って、独自の選択で選び取ったものだろう。それでも、大人になったジャックのアメリカは高層ビルに、近代的な建築の家、そこに私たちは親近感を湧く。それは私たちが目の当たりにしている都会に酷似しているからである。家族像も1950年代と、2000年代という構造は、映画の開始にあるように、本来は愛しあった二人が家族を作り選び取ったものだった。それなのに厳しかった父親や、清楚な服の優しい母、近所の色気のある女性、それを映し出せば「1950年」という時代の構造主義に彼等は落ち着いてしまう。時代という器は人間が作り出したもの、そこでの営みが自由なのか閉塞なのか、哲学で言えば、人間が考えることは、人間の社会システムによって無意識に選択しているという「構造主義」なのか? その問いを考えると、何故冒頭の引用が旧約聖書のヨブ記のこの箇所だったのか頷けるだろう。(主人公のJack O’Brienを略するとJOB・ヨブ)

キリスト教も誤解が多いが、特に現代はキリスト教という組織が直接的に一個人の人生を決めることはしない。何によって心が支配されているか、自由になっているのか、真面目に生きているヨブに神は色々な苦難を与えた。ヨブの問いに神が答える話だ。ヨブのこの引用の意味は、神の業が人智で測れないものを意識させるものである。旧約聖書にまだ見られている躍動する自然美は新約のイエスが語る父そのものを意味する。イエスもまた旧約を学んでいる。作中の母親が「あれが神が家よ」と空を差すということは、子供に神を意識させることの始まりだが、私達はだれに忠誠を誓ったのか、何を羅針盤にして生きていくのか、母親の差した神の住処である空は美しい日もあれば、視界に入らない日々がある。神は与えることもあれば、奪うこともあると、ヨブ記と共に繰り広げられる追想は、生きていた弟と共にした時間ではなくなった。弟の死を通した記憶なのである。何故、父親は長男である主人公に厳格だったのか、それは父親が音楽家になりたかった話から始まる。敬虔なクリスチャンの彼は音楽家にならず、工場勤めとなった。そんな父親は自分を誇りに思っていたのではなく、自分のようになってほしくないと長男であるジャックを厳しくする。ジャックは父親に従って大人しくしていた。父親の出張の間に、優しい母親と開放感に溢れた束の間の安息を手に入れるが、父親の不在による油断から、非行に手を少しずつ染めていってしまう。父親が出張から戻ってきたときには、完全に反抗期になっていた。時を経て子供達は成長したが弟の死を知らせる官製葉書が届く。

 該当するベトナム戦争の徴兵制について調べると、1975年までは徴兵は抽選だったようだ。抽選によって死んだ弟に対して長男は父親の意思を継いで稼ぐような大人になった。両親を豪邸のような家に住ませている。その経緯の詳細を隠したまま、自己治癒ともいえるような精神世界が思い描く海に辿り着く。与えることもあれば奪うこともある父親は旧約の神のような存在なのか、そして愛に生きようと言葉少ない母親は聖母マリアのような存在なのか、それにしてもイエスは何処にいるのか、この映画には救世主イエス的な存在はいないのである。

キリスト教徒としての解釈を言うと、私はこの映画にはイエス、救世主の不在を表していたと思う。イエスの不在で有名なのは磔刑の後の復活までの三日間であるが、マルコによる福音書も旅に出る主人としてイエスの不在を表している。映画では旅に出る者として、内から外へと何度も繰り返し、意識が「不在」に出るように仕掛けがあった。物語序盤のピーターラビットの父親がマクレガーさんの家に行った話、後に彼は殺されてしまう。次に父親の出張である。磔刑による不在は非日常的だが、マルコによる福音書の不在は日常に当てはまる。マルコの福音書第13章32-37節のイエスは、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)達に仕事を割り当てて、責任を持たせ、「門番」には目を覚ましているようにと言いつけた。主人はいつ旅から帰ってくるか分からない。主人が突然帰ってきて、家の人が眠っているのを見つけるかもしれない。あなた方に言えることは目を覚ましていなさい、ということだが、役割を当てられた労働者や社会性の一部が、いつ目を覚ます「門番」という存在に自分で気づくか、目覚めたときにイエスが帰還したという証となる。それはキリスト教徒にとっても実際には容易ではない。人は常にいつでも役割を生きているが「門番」という存在になること、そういった奇跡は滅多に訪れない。一瞬の幸福と安らぎがあっても、役割として生きている間は常にイエスは不在である。有名な「愛」という教えは目覚める「糧」として私達は生きている。与えられた賜物、タラントの枚数に満足する人間は少ない。信仰があっても感謝と、不満が共存する。タラントを増やして「存在価値」を満たすことは人生において一瞬なのかもしれない。それを何度も繰り返すのか、もしくは気づかないままなのか、救世主は役割として生きるのではなく、自分が戻ってきたときに開けられる「門番」としての自覚を持てと言う。

 この作品は監督の実体験が元になっているようで、弟は自殺だった(2022年調べ)ようだ。私は、2011年の公開当時は知らなかったが、最近調べたところ実話は弟の自殺と聞いて腑に落ちてしまった。イエスの不在がその証で、当人にとっては信仰が消えたと錯覚してしまうが、そうではなく心情は常に旅に出たイエスだったのだろう。誰も失望した時に、「希望」が旅に出ていることは想像しない。通常は希望を失ったと捉える。自死を戦死に変更したことで、父親への憎しみが思春期の一過性のように見せた。このような変更を加えることによって監督の許しがあったように思える。父親は自分の教育方針が間違っていたと認めて告白したが、息子は大人になって父親は間違っていなかったと許すシーンがある。弟の魂は何処へ行ったのか、天国に行ったのか、「何故貴方(救世主)は来なかったのか」それらは安易に答えを出せないものである。決着できない何かをつくる意味で、旧約聖書の自然を賛美し、それは私達の可視を超えて救世主が世界の果てを旅している。救世主の存在を明確に表さなかったのは、救世主の帰還は定かではないからだろう。私達はイエスが説いた愛の教えは実践しようとするが、救世主の存在を明確に出せなかった。信仰という名詞が動詞となったとしても、信じていない人に「名詞」として存在を明らかにすることは出来ない。相手の心で存在を見出してくれない限り、救世主は誰かの思想の中である。但し、私達は愛の実践はやるべきこととされている。そこに優しさや許しがあると信じている。

生き方を選ぶとしたら世俗を選ぶか神に委ねるのかという問いで、目の当たりにする自然、世界を世俗と呼ぶのか、神の恵みと表すのか、どちらの人生を選ぶのだろう。目の当たりにする現実世界の心をどちらが満たしてくれるのか、それともどちらの苦悩なら享受出来るのか、苦悩はどちらを選んでも必ず訪れる。いつ、私にも決定的にその問いが訪れたのか。

  聖書勉強会の集まりで、何故洗礼を受けたのかという問いがあった。ある人はイエスの奇跡があったからですと答えた。私は何も話せなかった。思い返すのは、あるセミナーの最中に回転扉を開けて出ていく自分の姿だった。見上げれば高層ビルばかりが立ち並んでいて方向感覚を失う、あの日は何処にも答えはなかった。映画にもあった父親の解雇のシーンのように、私の父親も解雇された。この大企業の大規模なリストラクチャリングは、会社の再構成と良い意味で扱われた。母は出ていき、私は研究を捨てて急いで働くことになった。父親達の解雇で株価が何倍になったのか、毎晩、煙草を眠くなるまで吸っていた後ろ姿、その毎日が何だったのか、それらを受け入れられるようになるために、私は何を知らなければならないのだろう。私の家族を癒すものは何だったのだろう。もしも、奪われたのが神によるものなら、また手に入ると思った。神でなければ、ただ奪われただけになる。痛みが、神の恵みであるのなら意味があると思った。それなら耐えられるような気がしたのだ。循環してまた与えられるのだから、私は待つことが出来ると思った。けれども、知っていることは、今、救い主は不在ということだった。私にとっても、救世主は不在だったのだ。しかしこの出来事は長い時間を経て、重要なことでもなくなった。あの当時、父親世代の社員を苦しめた大手の外資が日本から去年撤退した。あの頃の苦悩は時代とともに風化する。私にとって、イエスはいつでも不在である。映画「ツリーオブライフ」はカトリックの神父にとっても、あまり評価が高い映画ではなかった。それもそうで彼等には「在る」という以外は言えないからだ。例えば、「求めなさい。そうすれば、与えられる。」( マタイによる福音書7:7)というように、希望を持たせる存在も世に必要なのだろう。

 私の家には可愛い猫がいる。猫なので言葉が通じないということはない。優しい言葉か、厳しい言葉かこの子は理解している。母は神を信じていなかった。私は、この子に抱きかかえて神の家を教えた。けれども母が子を抱きかかえるのなら、何を話すかは、あまり大差ないことを知った。私は母から神の話を聞くことがなかったが、それでも母の声が好きだった。語ったことが神の話なのか、それが綺麗な空のことなのか、瞬く間に過ぎ去ってしまう時間に私も愛を受け、そしてまた与えるのだと知った。大切なのは凝った信仰宣言ではなかった。貴方を愛しているという言葉だった。

――この来訪者は神の国から

概要

2011年公開の映画「ツリーオブライフ」

キリスト教的映画と評されながらも、この映画を聖職者が評価したのは見たことがなかった。

ヨブ記の引用によって、同級生の死、父親の失業、弟の死と色々奪われていくが、ヨブ記最後の神からの賞賛に値するシーンがなかった。キリスト教特有を愛は痛み、と自己犠牲的でペイシズム的な映画だと思われていたが、あるきっかけで再び見ると、神の象徴である父親、マリアのような母親、に続いてイエス的な存在がいないことに気づいた。マルコの福音書の主人が旅に出るが、

一人に「門番」として待つようにという。それによって「イエスの不在」に気づかされた。

実話では戦死した弟は自死だったそうだ。「イエスの不在」とは私にも長らくそうだった。しかし、最近になって不在について希望(救世主)が旅を出ている、と思えるようになった。世俗(自然)に生きるか、神の恵みに生きるのか、自然ー神の恵みとするのなら、あの自然の映像美はイエスの旅なのかもしれない、そう思えた。

「目を覚ましていなさい」その意味を

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