鎮魂詩

まだ知ることなく 留まることのない 美しい今日を
酔いしれたように氷面を打ち破ってくれるだろうか。
この固く閉ざされた忘却の湖に降りかかる氷花の下で、
逃れることが出来なかった飛翔にとどまっている。

かつての白鳥は想い出す。それは黄金律の美しさによって
生きるべき領地で歌わずにいたことで、希望もないまま
不毛の冬から倦怠を解き放ったことを。

白鳥はこの困難について首を振るだろう。
万物の広がりを否定する鳥に与えたこの白い試練を、
その羽が担う地上の恐怖などを気にせずに、
その純粋な輝きが意味を成そうとする幻影は
微動だにせず、その悲劇と冷たい夢を流刑の中へ。
それは身に纏う、白鳥の姿。 


マラルメ「白鳥のソネ」翻訳:ChrisKyogetu

友人のご家族が亡くなった際に世間話を頼まれた。最近、人との接触が少ない最中で意外と難しい話だった。友人の性格を考えながら、自分が通夜で眠らない日の最中見るとしたら何かないかと思っていた。きっと他の人なら「それで?」と話が繋がらないだろうけれども、友人なら分かると思うので書き残した。その内容をここでも書き残すことにする。

私の祖父が生前に文学の集まりで太宰治を見たことがあると言っていた。祖父と太宰は同じ大学だった。しかし祖父は貧困の家の出なので入学の仕方が太宰達とは違った。祖父は当時、県や国がお金を払うほどの努力の人だった。そんな祖父は詩人になりたかった。マラルメを特に好んでいたようで、彼は優秀だったので自分こそがマラルメを引き継げると自負があった。そんな中で彼は太宰治がいるところに一回だけ参加したことがあった。 彼から見たら、当時の太宰は阿保にしか見えなかった。けれども太宰の周りは楽しそうに彼の話を聞く。そんな太宰がマラルメを語ったときに、祖父の心はかき乱された。自分が好きな作家が嫌いな人に歪曲され、その人のほうが本を出せる。その現実を、祖父は語ってくれた。どちらかといえば、祖父の言葉よりも感情のほうが印象に残っている。冷静になんでも答えるその人が、その光景が見えているかのように語るからだ。私はその当時の光景を狭くて小さな部屋で無名作家や革命家が集まる意気揚々とした様子が少し見えたような気がした。祖父はその集まりを道楽だと貶したが、私に言った。太宰は……「世の中のつまんない事も面白おかしく話す。みんなそれで一緒にいて楽しいと思う。それはお前に似ているな。お前は作家になったらどうか? おじいちゃんにはその才能がなかったからな」

その当時、私は小学生でマラルメも太宰もよくは知らなかった。あの人の書斎には聖域のようにガラス扉の本棚にマラルメやヴァレリーはあって、開けることは禁止されていた。「欲しかったら、お金を渡すから自分で買ってくれ」それが彼の口癖だった。けれども、この人がどんな文学を好んでいるのかは肌で分かっていた。だから私はその時に言った。「その嫌いな作家達に盗られた話を私が取り返してあげる」彼は「そうか」と笑っていたのだと思う。私はその後、すぐにそれを実行したわけでもなくそのまま法学部、心理学部に進学すると祖父は言った。「詩こそ最高の学問だ」と言った。けれども私は聞き流した。内心は、本能的なものなのか上だと思っている人を超えたかった。輝かしいこの人の実績を超えたかった。

私が学生時代のころは既に心理学の「無意識」は否定の方向*へと向かっていた。 現代は特に忌み嫌われている。「無意識は存在しない」現象学においての無意識へのエポケー(括弧)は、ヤスパースの痛烈なフロイト批判の最中、自分の視野を出来るだけ拡大することに務める。主観と客観と世界、それらの布置を適格に把握しようとする動きによって進んでいた。私も、学生時代に集合的無意識の論文を書いたが、それはまるで瀕死の事実を看取るような気分だった。その経験を生かした小説を一本仕上げた後は哲学の現象学に移動した。ユングの心理療法は告白、解明、教育、変容(transformation)であったが、現代がそんな事を聞かされない事が大半なので、どのように心理療法が定まったのか自明だろう。あまり医療行為にも触れるこの点は多くは語らないが、無意識という領域は完全否定出来るものなのか分からない。今回は少し、人間現象の背後に影響がある混沌について語ろうと思う。

今回、友人から家族が亡くなった知らせと同時に世間話を頼まれた。ただそれだけの事だったが、祖父のことを思い出せたのである。その前後付近に太宰もマラルメも何か触れていたわけでもない。ただ、昨今は面白い話というものを持ち合わせていなかった。祖父が話していた、太宰がマラルメを語っていた、というのはその時に調べ直したが、ダスゲマイネという話にマラルメの記載があった。

ダスゲマイネというのは「Das Gemeine(通俗的)」とドイツ語だったので、マラルメというフランス作家に結びつくのが遅れた。それに太宰治といえば他の小説のほうが目立っている。それでも確かにダスゲマイネに太宰は自身を「太宰治」として登場させている珍しい作品だった。その当時の草案を祖父は聞いたのか、それは定かではない。私の想起は、証拠こそないが辻褄が合っていた。探している間、楽しいひと時を過ごした。世代も価値観も、懸け離れていた家族が好きだったものを辿ることは、魂の痕跡を辿っているようだったのだ。故人の記憶というものは、すぐに思い返せるものが全てではないのかもしれない。福永武彦が「愛の試み」で綴った愛の章で、「盲点」に関しては挿話だった。人生の中の盲点とは学術用語で説明できるものではない。このように、人間の機微によって必ず意識されないところに在る。

祖父は幼い頃は電気も通っていないほどの貧しい家の子だった。その中でほぼ奨学金のみで太宰や革命家の集会に誘われる場所まで行った。そこに集まるのは金持ちの道楽で、祖父のように忙しい学生にとっては下らないものだった。その集まりは夢物語ばかりで、実が無い、道楽だと言っていた。しかし、本当に祖父は下らないと思ったのだろうか、それとも意識の他に何かあったのかもしれない。そうでなければ、私に「作家になったらどうか」なんて言うものだろうか。

 ユングとフロイトは心理療法で「告白」を重視していた。それは意識が強い人は「説明」は理路整然と話すが「告白」をしないからである。告白というものは中々難しい。そのような場はあまり存在しないからだ。無意識に偏りすぎると思い込みというのが発生する。 無意識への問いかけは、隠喩のように必要とされなくなっている。祖父の発言は何か目的を見せることもなく、単なる偶然によるものだった。それは確かではあるが、ダスゲマイネ――通俗的 というものから、取ってあげると言った幼い私は、今の私を見たら恰もそのために生きていたかのようになった。今回の話は時代と共に廃れた意識によって抑圧なき「告白」である。

何故、祖父がマラルメや詩を好きだったかどうか真意を私は聞けないままだった。それは家族の誰もが知らない。きっと語られても理解されなかっただろう。それなのに、マラルメと祖父の生い立ち、太宰が語っただけで何故気に食わなかったのか、それだけの話で浮かび上がってくる。マラルメは神がいなくても、詩によって生きようとした。

自殺を思いとどまったのも詩のお陰だったマラルメは*、太宰と死生観と信念が真逆だった。まず、マラルメは難解で、フランス語をよく理解していないとイメージが難しいとされている。マラルメのフランス語の本は、祖父は教会から貰ったようだった。それと一緒に貰った聖書も読んでいたようだが、祖父はキリスト教徒ではなかった。貧しかった彼は教会で勉強させてくれていた事があった。それは、宗教ではなく外国語と物語だった。モーセの箇所は何度も読んだと聞いた。次に彼は、――神が居ないと思うと自分が気づくことと、世界が一致しているわけではないと言った。反対に神がいると思うことも、世界と一致しているわけではない。絶対に自分の考えで世界を語るような事だけは「誤り」だと。たとえそれが、宗教者であっても、無宗教であっても、常に矛盾に気づいていくことを教えた。

私達は常に矛盾の中で生きている。

祖父が何を考えていたのか正確なことは知れないが、マラルメの「白鳥のソネ」は、人間は空しく、無に返す存在であり、神無き虚無の中でそれでも「確実に存在する美」というマラルメの魂を映したものだった。それは、希望なのか、確信があったのか、不在や無というものをが、心象へと「存在」として浮かび上がる存在を信じていたように思う。それはイメージや言語に囚われず、脈打つように。

祖父の時代背景を考えれば、貧しさと戦時中の中で過ごした中での強さだったように思う。安易に神や奇跡が困難の中で、不在ものが羽ばたくことが、それがどんな意味をするのか。かつて輝いていた白鳥が衰えていくとき、悲しい自覚であることが、詩の中で、何故力強く氷を割ったように錯覚したのか、その心象で生かされる強さを。

私は最近「平家物語」を見直していた。 琵琶法師が語り部である音での世界は、言語の意味は明確にしない。音で伝える世界は死者が死んだことを忘れて登場人物達は「視覚」の世界が広がっている。直截ばかりの今の時代で、この話が通じる人は少ないと思う。平家物語もまた、人の話を通して死者の魂と、自分の魂を癒す鎮魂である。自分の認識が限界であることを知らない人は弱い。今は分からなくても、後から分かるようになるという可能性を信じられる人は強い。マラルメの詩の「白鳥のソネ」は日本語にそのまま翻訳すると難解だったので、私自身の解釈に寄せている。マラルメは事情があって私は不案内でしたが、この機に急遽、翻訳した。マラルメを囲っている詩人や文学、哲学の道、様々な経験が生かされて今回は出来たのだと思う。翻訳した姿を見せたかった人が見ることはないが、それが生きている人に残された、死者の鎮魂になることを信じて。氷解するような告白と共に、流刑の地のように終でしかない居場所でも、白鳥座のように生が強く願い鎮魂となるということを。そして心のうちに

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* マラルメ論 著:サルトル

Magnifique:壮麗な、素敵等の意味であるが、不在との対比として、神に関する美しさとして黄金律を翻訳に当てる。

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