The Bowman

“その料理店では、客に出す料理の皿にはどれにも聖ジョージの御影が青く染めつけてあって、ラテン語で、「聖ジョージよ、イギリスに救いをさずけ給え」と書かれてあった”

 ドイツ軍に追い詰められたイギリス兵達が、聖ジョージにお祈りをすると灰色の人影が長い列を作り、ドイツ人達を弓矢で打っていくのである。人々は天使の軍、聖ジョージの助けだと確信した。これは、アーサー・マッケンの「弓兵」の小説だが、発表された当時は、実話だと勘違いされたのだとか。(モンスの天使事件)
隠れた名作。


霊的な話というのは数行の「説明」で面白さが伝わるものだ。




https://backpackerverse.com/the-angels-of-mons/





La misa de las ánimas

迷える魂に捧げるミサ(La misa de las ánimas)

昔、小さな子供が三人いる貧しい夫婦がいました。父親は病気で働けず、哀れな妻が物乞いをしながら養っていました。ある日、施しを求めて回っていると、1ペセタを貰いました。しかし、それではご飯を買うことが出来なかったので、ミサが一番必要な魂に祈りを捧げようと、司祭のところへと行きました。「司祭様、この1ペセタを一番、ミサを必要としている人に捧げてください」と頼むと司祭はそれを聞き入れました。
その帰り道に、一人の若い紳士に出会いました。その紳士から奥さん、何処へ行かれるのですか?と尋ねられ、今までの経緯を妻は話しました。すると、その紳士が一枚のメモを渡し、「こちらの家に行きなさい、そしてそこの女主人に働かせてくださいと頼んでみてください」と言いました。
妻は別に不思議に思わずに書かれてあるメモの通りに進みました。ある一軒家にたどり着き、ベルを鳴らすと、女中が出てきました。「ここの奥様に用があるのですが」と言うと、奥様がやってきました。妻は「さっき、一人の紳士が働きたいのなら、この家に行くといいと勧められました」というと、奥様は「まぁ、それは一体どんな紳士なんでしょう」と不思議がると、妻は「あの方です。あの絵の人がここを紹介してくれました」と言いました。
すると、奥様は「あれは、四年前に死んだ息子ですよ?」と答えました。
妻は自分が貧しいこと、1ペセタをミサに捧げたこと、帰り道に紳士に会い、ここを紹介してもらったことと、今までの経緯を語りました。
すると、奥様は仕事を与え、沢山の食べ物も与え、明日また来るようにと言いました。
それから5日後、奥様の前に死んだ息子の亡霊が現れ、「お母さん、もう私のことで泣かないでください。もう私の冥福のためにお祈りを捧げなくても結構です。私はもう天国へ入り、神様の前にいるのですから」と。
あの1ペセタはこの息子のために祈られ、天国へと行くことが出来たのです。
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スペイン民話の中で、最も私が好きな話です。スペインのカトリック文化の良い一面がよく出ている話です。ペセタとは昔のスペインの通貨です。1ペセタがどれほどのものか実際に触ってみたくなって、手に入れてみましたが、思ったよりも小さくて驚いてしまいました。日本の1円玉よりも小さいです。勝手なイメージで100円玉ぐらいの大きさで見ていましたので、この小ささを知れて感動しました。
私がこの話が金額だけではなく、たとえ小さな祈りでも重要なことだなと知れたお話。
5ペセタには可愛い十字架が記されています。

Offret-Sacrificatio

「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」
 タルコフスキー・「サクリファイス」
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 物語の始まりは、アレクサンデルが細い木を植えるところから始まる。このときの彼の幼い息子への語りはこうだ。「正教会の修道院の僧が枯れかかった木を山裾に植えた。ちょうどこんな木だ。そして同じ修道院の若いヨアンに、この木が生き返るまで水を与えなさいと言った。ヨアンは毎日、山を登り水をやった。そして三年後に見事にこの木に花を咲かせた。一つの目的を持った行為はいつかは効果を生む。儀式のように順序よくやれば、
いつかは世界は変わる」と。
アレクサンデルの息子は口が利けない。
 アレクサンデルは死についてもこう語った。「死なんて存在しない。あるのは死に対しての恐怖だけだ」その後に友人で医師であるヴィクトルの家を訪ねる。そこで色々と語っている間に核戦争の非常事態の知らせがくる。死を自覚したヴィクトル家はパニックに陥る。まるでアレクサンデルが独白した通りのことが次々と起こってくる。その後に一番パニックになった夫人が落ち着いた後に言った「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」が今の私には胸に響いた。こんな死の淵に立たされても生きている限り、人間は常に為すべきことを意識しなければならない。
この台詞が生きてくるまでの映像表現が素晴らしかった。

物語の進行と共に、口を利けない息子が突然いなくなり、呼んでも返事が出来ないという恐怖の複線が秀逸。タルコフスキーの作品を見るときは見失わないために、名前と人格をよく覚えておくことだ。そして、この世界は夢現の境目がないように時制もあってないようなものである。前半の出来事が複線を引いてくることがあるので意識しておくと、見やすいだろう。
 昔のブルーレイ化されてくる中で、名作と呼ばれたハリウッド映画のセット感が目立つようになった。そんな中でタルコフスキーは最新の技術を使ってリマスターしても常に鮮やかに美しい。それは彼が根気強く自然の力を利用したところにもあるだろう。DVDも買ったのに、ブルーレイでも買いなおしたいという監督は少ない。

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「お知らせ」

カミュの「異邦人」についてなのですが、9割は出来ましたけど出来かかったところで、サルトルも入れたほうがいいと言われ、また時間がかかることになりました。

ウェブのアクセス数が多い順、5番目ぐらいまでが書籍化されますので、気に入った作品があったら見ておいてくださいね。今のところダントツで、太宰治と三島由起夫となります。三島に関しては書籍用に掘り下げますが。







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Dekalog episode8

「デカローグ」

第8話「ある過去に関する物語」
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」(訳は私)
私が、脇役のこの学生の台詞の意味が分かるのは、キリスト教徒になった後だった。

(解説と感想)
 物語の始まりは、一人の少女が大人の手に引かれて暗がりの中に連れていかれるところから始まる。キェシロフスキ関連の書籍によると、戦後のポーランドは、ユダヤ人の移民一世からは元凶であるナチスドイツよりも、ユダヤ人を見捨てた国として厳しい目で見られていた。
大学で哲学・倫理学の教鞭を執るゾフィアには、第二次大戦中ユダヤ人少女を匿うための洗礼の立会人なることを、「偽証してはならない」を理由に断ってしまった過去を持つ。
学部長のところに、自分のポーランド語の英語翻訳を担当している女性がアメリカから来ていて、
彼から、この女性がゾフィアの講義を聴衆したいと伝えられる。
彼女とは二度目の再会だった。
その女性がいる目の前で、ゾフィアは「人間は感情に捉われている限り、最も善きものを見て最も悪しきことをなす」と、スピノザの引用を語る。
一区切りがついた後、ゾフィアは生徒にテーマを出させる。
一人目に選ばれた女学生は、ある夫婦の話をした。”夫は癌で死にかけて子どもを作れない状態だったので、妻はどうしても子どもが欲しくて他の男との子どもを作った。妻は医者に何度も夫は本当に死んでしまうのかを問うが、この医者は敬虔なカトリック信者で「死の宣告」が出来ない。
妻は、夫が助かるのであれば子どもは堕ろすが、夫が駄目なのであれば産みたいと。なので、医者の死の宣告が赤ん坊の命を左右することになる”
(この話はデカローグの第二話に収録されている。)
それに対して、ゾフィアもその妻には子どもが生まれたという結末を知っていると話す。
「子どもが生きている、それが最も重要」と語ることに、エルジュビエタは強い反応を示し前に来る。
次の発言は、エルジュビエタだった。
エルジュビエタはあるユダヤ人少女の話をし始めた。
①その六歳の少女は、あるポーランド人宅の地下倉庫に匿ってもらっていたが、その家がゲシュタポに接収される。なので、大人達がその少女のための新しい隠れ家を探さなければならなかった。
②あるポーランド一家に受け入れが見つかるが、キリスト教徒になることが条件だった。そして洗礼をしたという証明も求められた。
③ 洗礼の名付け親(立会人)となる夫婦として、敬虔な信者である若い夫婦が選ばれる。そのための神父を外に待たせ、急いで事を済ませようとするが、妻は「偽証をしてはならない」という理由で断る。
その話を聞いて、一人の女学生が、
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」
と言うわけですね。
キリスト教徒じゃなかった頃は、法のようなものにも生じる矛盾だと思っていたのですが、これが結構な意味を持ちます。
**十戒とイエス**
イエスは十戒で定められていた安息日を守らなかったり、姦淫の罪を犯した女性を許したり、解放的な面がありました。
イエスといえば第一に重要なのは神への愛、第二に隣人への愛と二翼の翼となっていて、片方だけでは成り立ちません。やはり隣人への愛ありきなのです。
ですので、キリスト教徒なら恐らくこのへんを重視するはずですが、(戦時中は分からない)
この妻、ゾフィアは十戒の「偽証してはならない」を選んだ。確かにこれも重要ではあるが、断る第一の理由にしては説得力に欠けるし、違和感を覚える。この不可解なところはエルジュビエタも感じていていたのかもしれません。何故なら後に彼女はキリスト教徒となったようでしたので。(それは定かにはしていない)
やがて、真実を問うとゾフィアはあの当時、誤報に惑わされていて、その少女もゲシュタポ関連者だと知らされてあった。 洗礼に立ち会えば自分達も捕まると思ったと、漸く「偽証してはならない」は本心では無かったということが分かります。
それで結局、ゾフィアは「偽証」してしまったのです。ゾフィアは敬虔な信者だったが、「神という言葉はもう使わない」と、教会にも通わなくなり、哲学・倫理学の教授となった。心の中にいる善意を知っている一人さえいればいいと語る。 
彼女は罪を背負って今まで生きてきていた。子ども命が重要だと言うのも、この流れでエルジュビエタへの贖罪のように思える。
エルジュビエタは祈りの時間を作るほどのキリスト教徒となり、ゾフィアを許す。そしてまた自分と関わった人へ話に行く。
戦時中と戦後の善悪の基準の変化、感情に支配されてしまうと見えなくなる恐ろしさと、感情があるからこそ生まれる許しや、贖罪の念がこの55分の短いフィルムで、人間標本のように収められている。
この冷静と静寂の中に、時を超えても人々に想像される感情が詰まっている。
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「デカローグ」とは。
映画監督の巨匠、クシシュトフ・キェシロフスキが、旧約聖書の「十戒」をモデルに戦後のポーランドを舞台にドラマ化。ただし、十戒の正解に合わせたり、問いを生み出しているわけでもない。これはポーランド人が直面した倫理や道徳、哲学的問題に取り組んでいる。(1988年)
私は 命題の作り方とかは彼から学んだのかもしれない。

画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。


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La porte étroite (狭き門)

「貴方は思い違いをしているのよ、わたしね、そんなに幸福になる必要がないの。今のままの二人で、充分な幸福でしょう?」

La Porte étroite:André Paul Guillaume Gide
●粗筋

  ジェロームは12にも満たない幼い頃に父親を失い、叔父のもとで過ごす。その家に住んでいる従弟のアリサはジェロームよりも二つ年上で、妹のジュリエットは一つ下だった。アリサの母親はたいそうな美人で、この二人の姉妹は母親のようにそれぞれ魅力があったがジェロームはアリサの麗しさに惹かれていた。父親が死んだ二年後にジェロームはアリサに会いに不意に会いたいと思ったので、アリサの母親の部屋を通る。その扉は開いたままだったが、アリサの母が軍服を着た見知らぬ若者に媚態を示しているところを見てしまう。ジェロームがアリサの部屋に入ると、アリサはそのことを知っていて泣いていた。やがてアリサの母は家出する。
ある日の日曜礼拝で牧師はマタイの福音書の言葉である「力を尽くして狭き門より入れ」「これを見出すもの少なし」と語る。ジェロームはこの狭き門をアリサのドアの部屋のように思えた。アリサの母の部屋の扉は開かれていて不快なものを見せたからか、愛するアリサの部屋の扉は狭く、自分が骨を折らないと入れないような神聖なもののように思えた。

ジェロームは決心する。僕はこの狭き門へ通るような人間になってやろう、
そして、幸福のための努力を厭わないこと、これが「徳」ということなのだろうと、「幸福」と「徳」を同一視するようになる。
ジェロームは兵役に出る前に、アリサに婚約を申し出るが「幸福はこれ以上いらない」と断られる。ジェロームが君にとっての幸福とは何かとアリサに聞くと「聖なる心」と返ってくる。妹ジュリエットはジェロームに気があったけれどもアリサとジェロームが相思相愛なことを知ると他の人と結婚する。
ジェロームと離れている間にアリサは次第に衰弱していき、最後には日記を残して診療所で死んでしまう。
アリサの死後、ジェロームはジュリエットと再会した。残されたジュリエットには夫との子どもがいて、「アリサ」と名付けられていた。ジュリエットは、ジェロームが姉のことが忘れられず結婚出来ないことを知って、ある一つの部屋へと導く。それは、嘗てのアリサの部屋を思い起こさせた。
そして彼女はこう言った。「目を覚まさなければ」と。 
****
●「門と扉」 
「狭い戸口から入るように尽くせ」(ルカの福音書13章24節)
「狭き門より入れ……これを見出すもの少なし」(マタイの福音書7章13節~) (自由訳)

Efforcez-vous d’entrer par la porte étroite. 
Luc, 13:24.

Entrez par la porte étroite, car large est la porte et spacieux le chemin qui mène à la perdition, et nombreux sont ceux qui y entrent. Combien étroite est la porte et resserré le chemin qui mène à la vie ! et il y en a peu qui le trouvent. 
 Matthieu,7:13~
物語冒頭にはルカの福音書の 13章「狭い戸口」から始まりますが、実際にジェロームが惹かれたのは「狭き門、これを見出すもの少なし」のマタイの福音書7章ということになります。
この二箇所の福音書の引用は教えとしては似ていますが、マタイの場合はイエスは山上の説教で弟子達に話しかけ、ルカの福音書の場合は、十字架の受難が待つエルサレムへの最後の旅の途中で、町の人々へと語ります。マタイの狭い入り口とは「命に通じる門」、ルカの場合は「神の国」と、話の場面や軸は違いますが、門も扉もイエスのことでもあり、ヨハネの福音書の14章、「イエスは父に至る道」とも繋がります。天には住まいが沢山有り、天へと通じる道は沢山あるが、イエスを通らなければならない。イエスという存在は色んな人を受け入れる優しさもありますが、イエスでなければならないと言われると狭くも感じるのかもしれません。
その門や扉は狭いと大体の意味は同じですが、ルカのほうが悔い改めの要素が強く、「ご主人様から扉を閉められて、開けてくださいと言っても、お前たちが何処のものか知らないと言われるだろう」と、狭い扉と同時に主人から扉が閉じられているというイマージュ(image)があります。日本語だと戸口と門となるとイマージュも意味も違いますがフランス語の場合の、“porte”は門も扉も意味をします。ですので、フランス語タイトルである“ la porte étroite”とはフランス語の場合はマタイもルカも同じになります。
ジッドがそこに目をつけたのはフランス語の仕組みが故でしょう。
冒頭は読者へ向けるという意味で町の人々へと語ったルカの福音書から扉は常に閉められているようにイマージュを与え、 ジェロームには弟子達に話した「狭き門」を、彼の体感をイエスへ近い存在へと読者へと意識させます。La porteとはLaがつくので女性名詞です。ですのでジェロームが愛する女性と狭き門を重ねたのもイマージュとしては繋がります。
この世界、ジェロームの視える範囲では扉は常に開かれています。アリサの母親の不貞やアリサの部屋は開かれていて、鍵ですらも脆いのです。これは読者にとってはイマージュ世界となりますが、小説世界にとっては現実です。
この『現実世界』は常に扉が開かれているのに対し、神(主)への至る道では扉が狭く、閉じられているというイマージュがあります。どうして聖書世界というイマージュ世界は扉が狭いのか、私達はその意味を考える必要があります。 それはキリスト教の厳しさも表していて、その厳しさが神聖にも感じるのでしょう。 それと同時に、イエスの愛や優しさもわかるようになります。この相反したものは自分で感じ取るしか他に道はありません。イエスの厳しさと優しさの間をどう感じるのか、その程度も人それぞれなのです。だからこそ形の無い神秘なのだと思います。ジッドはどの程度それをわかっていたのかは分かりませんが、最後のアリサの妹が「目を覚まさなければ」と言ったことは、宗教の酔いからの目覚めにも、反対に光への目覚めにも見えます。それでもこの部屋に無垢な子どもが最後に居たことに意味があったと思います。
何故なら、天の国で一番偉い人についてイエスが小さな子どもを真ん中に立たせたからです。(マタイの福音書18章)
心を入れ替えて子供のようになる人が、天の国でいちばん優れているという。これは子どもの体温と共に感じるイエスの温もりでしょう。
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● アリサという盲点 
 この物語の語りは主にジェロームという男性で、アリサと結婚したいと思う男性です。 アリサも彼がとても好きで相思相愛でした。アリサはまずは母親の自分の不貞や、自分の妹もジェロームが好きだということを知ること、妹が自分に遠慮したように他の男性と結婚してしまうこと、ジェロームは兵役に行ってしまうこと、それらの状況がより彼女の繊細な心へと響いていき、アリサの神への愛への言葉や、ジェロームへの愛の言葉が、次第に他人にとっては病を仄めかすような言葉へと変容していきます。
著者、アンドレ・ジッドはこれは小説ではなくて「Récit 」(物語)と線引きをしました。それは神話や童話のようにあらゆる時を超えて一人の心と「応対」するということになります。例えばギリシャ神話を読みながら、人は現代や自分の状況に照らし合わせたりします。何故、そうなるのかといえばそこには普遍的な課題や理想があるからです。この作品はプロテスタントへの反骨精神とも言われていますが、「物語」と言ったということは彼は普遍性を睨んでいたように思います。
それはアリサを説明する際によく出される「神への愛に焼き尽くされる女性」というのはアリサに限らず古い記録にもありますし、昔からイエスは美形に描かれることが多く、聖人の記録にも神と結婚したと同等の女性がいたそうです。けれども私にとっては、アリサは本当に天上への愛とジェロームを天秤にかけたのかというのに疑問が残ります。私にはジェロームのほうが天上への愛とアリサを重ねたように思えます。彼は狭き門に準えただけではなく、
「アリサといえば、福音書が教えてくれた高価な真珠のようなものだった。私はそれを獲るために自分の全てを売り払う男のようだった」
(マタイの福音書・45節~46節・また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである、のこと)

と、アリサの存在を高めています。ジェロームの視点がメインなので、アリサは実際は何を望んでいるのかということが、登場人物にも読者にもよく分からない位置に立っています。「聖なる心」が欲しいものと答えたアリサの思考と言動は、言葉で言った通りが本人の意思かどうか分からない薄弱性も出しています。それは物語後半に登場するアリサの日記にもよく出ているかと思います。彼女は死ぬ直前までジェロームの名前を口にしていますし、この日記は他人にも理解されない整理されていない文章です。誰かに見せるような目的で書かれていない文章、それがよりアリサの混沌を表しています。
物語の中で明確に分かることは、●ジェロームは信仰と共に忠誠をアリサに誓いたかったこと、● アリサは、愛するからこそアメジストの十字架をジェロームに与えたかったということです。
愛し合う男女の目的や欲求は、手を取り合うには時期や話し合い、理解しあうことが必要なときがあります。愛し合っていても、これらが適わないような擦れ違いはどうしたらいいのでしょう。
このような擦れ違いは今の時代でも普遍的にあることです。相手の幸福を願うこと、自分の幸福について考えること、愛があるが故に身を引きたいと思うこと、愛があるからこそ一緒になりたいということ、人の意思は様々で、常に他人を求めています。人間は愛する人で頭がいっぱいになりますが、愛している人が一番良く見えるとは限らないのです。 
何故、アリサは婚約よりもアメジストの十字架を与えたいと思ったのか、アメジストは「酒に酔わない」というギリシャ語の意味から来ていて、キリストの受難も表すともありますが、象徴だけを手に持ち、何故それを彼に与えるということに拘ったのか、彼が他の女性と結婚することに拘ったのか彼女の思考に論理性や法則性は見当たりません。
私はアリサという存在を「盲点」と捉えています。盲点という意味は、ある一点に集中しすぎて見えなくなること、それと反対に、気づいているはずなのに見えなくなることと二つの意味がありますが、アリサの場合はこの二つの意味を持つでしょう。登場人物や読者にとっての彼女は「盲点」です。だから、彼女がよく見えないのです。それが魅力と思う読者もいますが、彼女は正解を持たないイマージュのような存在へと移ろいます。
それはアンドレ・ジッドもよく分かっていたことだと思います。何故ならアリサのモデルはジッドの妻であり、妻は敬虔な信者だったことから妻には性的な欲求は無いのだろうと思い込んで彼女に触れなかったそうです。ジッドはアリサを最も苦手な女としました。その切捨てが更にアリサという盲点を 生み出したのだと思います。
アリサに待ち受けていたのは物語後半の日記にあるように、幸福追求による「苦悩」です。それは、愛するジェロームに対しての祈りだったように思います。常に彼女はジェロームのことを想っていたことが日記から分かります。彼女は自分一人天上への愛に胸を焦がしていたのではなく、ジェロームの幸せを彼女は祈っていたのでしょう。
この話に出てくる人は皆それぞれ人の幸福について考えています。その幸福は愛であったり、登場人物や読者でも困惑するような「幸福」でした。その中で他人の幸福を願うと同時に自分の幸福を目に見える形にしたのは、結婚し、子どもを生んだアリサの妹のジュリエットということになります。それでも彼女もアリサの死が悲しみで、一つの不幸を背負っています。彼女は最後は泣くのですから。幸福とは笑顔でいるだけではなく、手探りで、責任もあり重たくて悲しみも含めているのです。
アリサは愛するジェロームと話し合ったパスカルに対して窮屈に感じているようでしたが、実際の彼女の生き方はパスカルで言う所の「我々人間は考える葦(あし・草)」とも言えるのでしょう。彼等はすべて「考える葦」であり、音も立てず季節を過ぎ去っていくようでした。聖書世界の狭い扉と門とイマージュ、それは物語りの中で混沌を表すのではなく、イマージュの秩序を与えました。福音書の引用はこの文章世界の中での唯一の確立されたイマージュです。 箱のような部屋に取り残されたジェロームや、ジュリエットや子ども達から離れ、私達の意識の外、もっと計り知れない外に、一つの疑問が文章世界から離れて見えるはずです。
 
アリサは狭き門を通れたかどうか・・・・・・それは誰もが答えられませんが、信じようとする隠れたもう一つの希望としておきましょう。
 
目を覚ますと共に。
*(参考)
L’homme est un roseau pensant. L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.
人間は一本の葦に過ぎない。それは自然の中で最も弱き存在である。 しかし、それは考える葦なのだ。(パスカル)

*聖書の引用について、ジッドの邦題が「狭き門」と文語体であることから文語体寄りの自由訳に統一しました。現代では聖書ではこの訳は「狭い門」となっています。

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