シモーヌ・ヴェイユ 「労働者への美と詩」

Simone Weil in Marseilles, early 1940s
①「見えない存在」とされている人達に必要なものは美と詩である。

②労働者に必要なのはパンよりも美と詩である。

③詩人は実在的なものに注意力をそそいで美を生みだす。愛の行為も同じである。

④進歩だとか、「時代を貫いて声明を馳せる天才」だという説を唱えだすのは、この世に
おいてももっとも貴重なものが偶然に委ねられていると想像するのに堪えられないからである。

⑤どうしようもなく神を欠く、その意味においてはこの世界は神そのものである。

シモーヌ・ヴェイユ



シモーヌ・ヴェイユは工場に入る一年前の1932-1933年にファシズムの基盤を理解するためにドイツへ赴いた。ナチスはプチブルジョワだけではなく、多くの失業者等の弱者を味方につけていると報告している。二か月余りの滞在だったが、彼女はペラン神父に、「ナチスの歌を皆が歌うのなら、私も歌うようになる、それは私の弱点ですが、そのようにして私が存在する」と自身の集団性に過度に影響されることを隠さずに手紙を書いた。彼女は可能な限り、ドイツの亡命者を救い、労働と失業、そして集団性についての自問自答を高めていた。1934年末、教職を辞めたシモーヌ・ヴェイユはプレス工として工場に従事し、「現実世界」に向き合うことを決意する。彼女は工場に入る前に「傑作」「遺作」に拘っていた。けれども、その構想は現実世界では骨が折れることばかりだった。「交換可能な部品は労働者ではないかと思いたくなる。部品のほうが市民権がある」と胸に番号が入った身分証を見せて門を通った等、彼女の記録が残されているが、

シモーヌ・ヴェイユは「労働者への美と詩」という核を書き残している。

 肝心なこの核が長らく私は分からないままだった。彼女は「工場日記」(労働と人生の省察)の冒頭でホロメスの詩を引用した。彼女は古典文学の考察も多いが、同時に労働者には詩が無意味なものとも知っていた。過酷な労働者の心が疲弊することを、自分の身をもって体感し、このように聖書を通して哲学的になろうとすること自体、自分のやっていることの無意味さに悩んでいたのである。それは彼女自身が工場生活に嫌気が差してセーヌ河に飛び込みそうになったという記録にも表れている。

彼女の書き残したものは正式に書籍化するように用意されていないことから、断章が多いことが特徴である。それは旧約聖書のコレヘトの言葉のように矛盾を意味する文同士が包括的に相互で意味を成す構造、インクルージオ構造のようだ。例えば、彼女は芸術が労働において何の意味もないことを知っていた。それと同時に、彼女は時計と芸術家について語っている。作られた時計は愛がなくても動くが、創られた芸術は愛がなければ動かない、としていた。そんな彼女は何故、「労働者に必要なのはパンよりも美と詩である」と定義したのか。これを定義として論理学として外延を書きだすにしても、当時の労働まで掘り下げて書き出していくことは困難である。

「労働」について、ある解説では宮崎駿の「千と千尋の神隠し」で説明していたが、それを例えにしてしまうのなら、労働の苦しみと重さが伝わらない。確かにあの世界観で名前を失った主人公や、記憶を失った竜神が存在し、従順に従う異世界の者達が労働の構造を表しているとしても、寓意や構造理解では全く意味がない。実際に労働によって疲弊し、労働によって死を意識しないとヴェイユの哲学には追い付かない。アニメの例え話は、この講義を受ける対象の学生にとっては、労働の苦しみは理解出来ないので論理立てるのにも外延が乏しくなる。その結果、学生は労働について「物の見え方」で終わろうとし、大半が「物の見方」次第で労働者としての幸福は詩と美だと思い込む。こうやって所詮は机上の空論で全く別のものになる。ヴェイユを知るには辛い労働とは詩や美、もしくは信仰までもが全く無意味になること、その現実を心に叩きつけ、自分が無駄なことをしていると苦しんでみなければならない。現代において、まだ「心の浄化」によって、これらは意味を成すと思われている。それが、このアニメの例えの解説だろう。外界と異世界、それらを哲学用語で駆使し、見え方を変えれば労働に意味があると思い込むこと、それで学生は満足する。現代の日本において大学に行けるほどの生活が手に入っているのなら、ヴェイユの語るような労働とは大半が無縁である。

シモーヌ・ヴェイユを理解する壁として、一つが労働の苦しみ、次に限界との苦しみ、三つ目に信仰による苦しみが重要になってくる。確かに、これら三つを知らなくてもヴェイユの詩情で何かを感じ取り、後から論理で追うこともある。私もその一人だったが、これこそ彼女の言う「偶然」の重なりなのかもしれない。だからこそ、ヴェイユの亡くなった年齢を超える頃には、彼女が客死に向かったように、これらの哲学は死へしか向かっていないとすら思えたので私は一時は彼女から離れた。

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「それは美しい」と判断しても、詩や美というのは感情や心を要するもので、それを外延立てて論理性で訴えることは難しい。それは苦痛、不幸も同じである。不幸は人生において大きな謎である。*この不幸について、世界の中心にいるという想像を放棄し、本当の中心は世界の外にあると認めること、私達は「点」である、という考えを人は受け入れられない。デカルトの「我思う、故に我在り」というのは日常において離れてはならない。(サルトルが反論したが、それでもまだ不完全である)それほど我と意識は切り離してはならない。彼女と交流があったペラン神父のような聖職者は、このような不幸について意味を持たせる。それが彼等の仕事だからであるが、イエスは本当に不幸を感じなかったのか、その問いに留意することは少ない。イエスは神の子であるが、人として旧約聖書を学んだ。神の子は処刑前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と詩編22章を叫んだ。イエスが神であるのなら本来は苦しむことはない。イエスは人間として苦しんだ。イエスの苦しみが美談になるように、人にとって苦しみや不幸は謎めいている。現代においても、不幸を解決できるような策や言葉であふれているが、人々の不幸は日々膨れ上がっている。

ヴェイユを哲学者ではないと思う人は現代でも多いが、神学や信仰を理解している者にとって彼女は哲学的であった。それは何故か、「神は存在しないと考えながら祈ること」信仰を持つ人が必ず消せないもの、停止させないものを彼女は現象学的にエポケーさせているからである。彼女はカイエで宗教家に媚びなかった。宗教家は労働の苦しみをイエスが背負っているように諭すが、ヴェイユはそうではなかった。宗教的理解に哲学的問答を続けることによって、人の心は極限に貧しくなる。宗教の視点では「哲学より漁師になれ」という言葉があるぐらいだ。貧しくなる条件として知恵(箴言28:11)がある。聖人が奇跡を起こすことが条件であるのなら、哲学者は奇跡を期待しながらも、奇跡を自ら排斥する。それこそ知の純化である。その純化こそ、自分の本質に気づけるのかもしれない。ただし、その本質は世の中を渡れるものかどうかわからない。現に彼女は治療を拒んで死んでしまった。現代倫理にそれに関して触れることは出来ないが、ヴェイユが焦点を当てた「労働者」に関しての考察は、隣人愛だと言える。彼女は貧しい労働者を揶揄することは無かった。彼女はイエスのように貧しい人達と同じ立場にいた。1937年、ポール・ヴァレリーにも書評を書いてもらえるほどの詩人にもなったシモーヌ・ヴェイユは芸術に関しても書き残している。イエスを愛していた彼女にとって、イエスが陰府にくだった事を意識しなかったことは無いだろう。「重力と恩寵」にあるように、彼女は下っていった。

シモーヌ・ヴェイユは悲劇こそ創作で表さないと人は受け入れないことをフェードル・アンドロマック(Andromaque)を例に出しているが、彼女は労働に関しては記録として書き残していた。彼女が34歳という若さで死んでいなければ、この事実は創作になったのか分からないが、その「偶然」に残された労働による記録は、現代でも過労死や自殺があるように経験してみないと分からないものになっている。彼女の記録が如何に残酷だったのか、それに気づける学生や教授は少ない。私もその一人だった。漠然とでしか労苦を意識できない。すぐに自分の信仰や、経験に基づいて弾いてしまう。それを「罪」というほどではないが、労苦を知らない間は、それさえも美しい詩のように見える。病人にはナイチンゲールが存在したが、労働者については、あらゆる芸術家が美談にしてしまう。それは、本を読めるような人間を育てているだけであるが、そんな人間に限って人の労苦の代弁者になろうとする。彼女は芸術家の偽善、宗教家の偽善、そこに一石を投じたのだろう。

それでも、彼女は弱者への奇跡を待っていた。求道者として聖書を読み込んでは、哲学的考察や思想家のように神秘を整理しながら書き綴った。それでも私は彼女は何のためにやり続けたのだろうか、と思うことが何度もあった。彼女も晩年に病でまた貧しくなった。絶望もし、彼女は賜物を理解していた。運命を疎んで、常に戦っていた。書き綴って何になるのか、彼女は奇跡を待ったのかもしれない。例えば彼女のプロメテウスや童話への解釈に現れていたが、彼女はデウスエクスマキナ――機械仕掛けの神に手を出さなかった。それはアリストテレスのように否定していたのとは違うのだと思う。彼女は苦悩に手を差し伸べる神や運命を選んでいた。労働者に奇跡が起きるように、そして芸術家が機械仕掛けの神を呼び寄せるように絶望を知らせていた。絶望とは、全ての望みを剥がすことである。絶望は訪れるものではない。自分の不幸と同じものを他人は感じないこともある。絶望とは、自ら絶望に落ちるために期待を剥がすことである。例えば、聖カシルダが当時異端であったキリスト教徒のために、食料を運んでいたが家臣と王に呼び止められて、隠している食料を見せろと言われた。食料が見つかれば処罰が待っていたが、神は食料を薔薇の花に変えた。シモーヌ・ヴェイユの待っていた労働者への奇跡とは、このようなものだと私は思う。彼女は哲学のように神を欠いたが、彼女は世界を神だとした。

カシルダの剥がされたマントのように、全ての望みや期待を剥いだ後の祈りは確かに純粋だった。

  イエスは最も父に近い存在だったために不幸が訪れた。神秘に近づくということは最も不幸だと、理解者は知っている。それが、ただの無機質な不幸か、神秘による不幸なのか、私が求道者だった頃に、当時の不幸は神秘によるものだと信じた。希望ではなく、私の信仰は不幸から始まった。魂は本当に平等なのか、信じたい気持ちと疑いが私には在った。誰にも言えないこと、浮上が困難な思惑は私を掻き立てていた。弱い人間が神秘を信じるのだと、世の反論は絶えない。

光は瞬き一つで目に入る。それでも、心に照らさない日が続くことがある。言葉で書き綴る人間は知恵を超えた光を表すために、通じない言葉と闘うことから始まる。音楽家が音から離れないように、言葉で表すものは言葉から離れられない。理解できない音楽があるように、理解されない言葉は心の中で理解されることが必要になる。

心にどのように呼びかけるのか、常にそれは闘いでもある。

そのような絶望から本当の奇跡を書き表すこと、不幸の謎に光が差すように、

私達がそこまで到達できるように彼女は「先生」として残せたのだと思う。

シモーヌ・ヴェイユ。彼女は哲学者なのか、思想家なのか、求道者なのか、定まらない評価によって根無し草のように扱われる。私達は忘れてしまうのだ、彼女は「先生」だったということを。

私は彼女の実在として「先生」であると見つけたのだ。

それは、詩人として。

イエスが歩いた福音書には名もなき貧しい人が大勢いる。彼女が体験した労働は、この名付けられない人達の体現だ。彼女が拘った教会の外の苦しみにはイエスが立っている。

イエスもまた労働者だった。

概要(解説)↓

概要(解説)

「労働者に必要なのはパンよりも美と詩である」とは教職を辞めて工場に入った

彼女にとっての核だった。しかし、現代においてシモーヌ・ヴェイユを知るような人は大体が過酷な労働者になることはあまりない。(大学生やアニメの例え)彼女の神聖や美しい言葉に惹かれはするもの、この労働の箇所だけは私も実感までは無かった。最近、その機会があり、漸くヴェイユの苦悩に近い感想を抱くようになった。彼女は思想家のように思われるが、キリスト教徒視点としては彼女は「哲学者」だった。それは神や期待、希望を停止させたからである。それでも、彼女は人間を愛して火を盗んだ神の子、プロメテウスの解説も書いていた。それは世界が神であるという彼女の期待だと思った。「労働者に必要なのはパンよりも美と詩である」という定義には、労働者を「見えない存在」とした。それと対であるかのように、断章で芸術家に「実存」を見つめることともあり、私はこの二つは一緒になって考えるのだと思った。労働者にとって詩や美が如何に無意味なのか、その不毛な土地を見つめる詩人になること、それが彼女の挑んだ不幸の神秘だと思った。前回書いたマタイの13章は、神の御言葉は土地を選べないという伝道においての核であるが、私はそれと重ねることにした。

(引用1、2)

聖カシルダの例えは私が足したものであるが、マントという身を守るもの(希望)が剥がれたら、彼女には処刑が待っていた。それなのに神が食料を薔薇に変えてくれた。ヴェイユの言葉(引用4)のように哲学的、そして求道者として神を欠きながら、世界は神そのものとはこのようなことだと思った。

(引用5)

最後にヴェイユは詩人は実在するものを見つめることと書いた。(引用3番目)

私は詩人として彼女は「先生」だったと漸く気づいたのである。

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参照

「哲学者のようにではなく、漁師のように」ニカイア公会議

*点について「神を待ち望む」(世界の秩序への愛)より参照

*重力と恩寵

*カイエ

*暗い時代の三人の女性(シルヴィ・クルティーヌ=ドゥナミ

*ヴェイユの言葉

*前キリスト教的直観

*ヴェイユ詩集(ヴァレリーの書評つき)

L’éternel substitut(jp and english ver)

Le temps est une image de l’éternité, mais c’est aussi un ersatz de l’éternité.

時間は永遠を映すものである。けれども、また永遠の代用品でもある。

Time is a reflection of eternity. But it is also a substitute for eternity.

Simone Weil (Renoncement au temps)

l’éternité

解説: 永遠というのは時間を伴うが、時間が有限であるのに対して永遠は無限を表す。しかし、私達は永遠を知覚することは出来ない。時の区切りは、永遠の一部、だから永遠の代用品。la éternitéの略。

Explanation: Eternity involves time, while time is finite, eternity represents immutability. However, we cannot perceive eternity. Time is part of eternity and therefore a substitute for eternity.

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