解放の神学と魂の存在

La vulnérabilité des choses précieuses est belle parce que la vulnérabilité est une marque d’existence.

貴重なものが傷つきやすく無防備なのは美しい。なぜなら、その弱さは存在の証なのだから。
シモーヌ・ヴェイユ

「重力と恩寵」偶然の章

「文章の正しい書き方は、翻訳するように書くことです……そこには何も付け加えないということです」とヴェイユがギュスターヴ・デュポンへの手紙でそう書き記した。

それは、常にイデアがあるように、文章から広がるイマージュも、見えない美の正解がある。私も無駄なものは削ぎ落とすようにしている。どんなに哀しいことがあっても、全部を書くわけにいかなかった。辛くても、何が無駄か見つめることだ。存在の証は削ぎ落とされた跡にある。しかし、それは神の恩寵の一つである「時間」という癒しを手に入れなければならないのである。孤独な作業だが、そこで生まれた喜怒哀楽は与えられたものである。

  

 ある僧侶が、出家前にカトリックに救いを求めたというのを、あまり深く考えていなかった。

窮地に陥った彼女が最初に見開いて救いを求めたのは教会にあった。それでも、カトリックの教理に反していた彼女は断られた。その人は出家後も人の煩悩に対してユーモラスな視点で人気を得ていた。 2018年の事故後、彼女を尊敬する年配から作家でもある彼女の元へ行くように勧められた。その人が言うには、今まで散々の一般人の批判に返事を書いてきて、寛容できっと君も受け入れてくれると言われた。確かに、一旦は受け入れてもらったが、私がカトリックだったので丁重に断られた。

その後、2月の寒空の下で自問自答を繰り返していた。(2019)

あの時は墜落していっただけだが、日に日に、この窮地に陥ったときに心から求めたものに対して理解は次第に出来るようになった。救いを求めるときに、それが人ではなく神だったときに、閉したのは誰だったのだろうと。窮地に陥ったときに救済しなかったものは魂の和解を要するし、次第に求めなくなる。実際に私もそうだったが、窮地に陥った人間は、切羽詰まっていて、身から出てくる言葉は支離滅裂な時もある。だからこそ、身から出るもので判断出来ない。

それでも容姿や言葉の裏に潜む魂のために私達は扉をあけられるだろうか? 

それは容易ではない。人は窮地で見捨てられたことに絶望するのは、魂が見捨てられたと思うからだ。昨年、私は窮地に陥ったときにカトリック教会と司教が助けてくれた。思い返せば、その時に私を受け入れる利点は無かったはずなのに、受け入れてくれた。

その意味を考えれば、理解出来る。狭き門、滅多に開かない扉、「すれ違い」

それは常に運命の中にある。もしも救われた場合、救われなかった平行線の世界を想像する。

それは偶然なのだ。だから受けられた者と受けられなかった者が存在してしまう。

「偶然」の連続が運命となる。人はそれを出来るだけ解消したいと思うが、偶然は生まれる。

南米カトリック発祥の「解放の神学」は必要であるとは思う。聖職者も信徒も、窮地に陥った人間とイエスの間を閉じる門であってはならない。窮地に陥ったときこそ、魂が残そうとする。傷ついた大いなる和解は時間を要する。

その時間とは神が与えるのだと思った。漠然と与えられた時間は無機質だが、神から与えられた時間は確かだった。弱さを知り、魂の和解に苦しむことは神が与えた時間である。

Die Liebende‐Rainer Maria Rilke(English)

The image of a man, a thought that I, the other, cannot imagine from its trivial aspect,I think of words that I record time and thought. If I could understand every casual look, the light that comes through the window, the changing emotions, I would feel happy. So I realize what I think is beautiful and what it means to be born. I love everything I love. I hate it, but I love it.

Chris Kyogetu

______________

Rilke’s “My darling”, Das ist mein Fenster, “This is my window”, starts with the inevitable awakening of her inner self and a look at the unconscious exterior. This is Eben bin ich so sanft erwacht… “I just woke up”, a gentle, relaxing moment, like a sprinkling of white powder.

“In the day-to-day life of a person like the window, “Bis wohin reicht mein Leben” (Where will my life reach?), and the eternity of the night and the universe, and the dream.

Ich könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum; (I feel that everything around me is still me), and thus loses the frontier between the interior and the exterior. Is both a bond and an obstacle to the outer world in this poem? She’s falling for him. and across the side world whereas his feelings and awareness of him as “objectivity from outside the window” But this is her reflection. Her existence is “inside” the window. Whether expectant or anxious, the waking ‘now’ is simply her being inside the open window.

I don’t know the details of the “I” relationship with that other person, but the fact that the other person is in my heart means that my beloved is not a quiet presence standing in the depths of my consciousness. My analysis of the poem is that it is a window on the outside world, without any intervention or controller (e.g. God) between ‘me’ and the ‘loved one’.

The original reality is the margin in which the poem ends. The world of empty margins, where nothing is written, exists for the poet independent of his own spirit, and when the poet enters into the spirit of a person, It ​means it changes the reader’s vison. If the window becomes special as of this day, it is a success.

It is beautiful to see the interior growth and the interior finesse.

I believe that a beautiful poem is beautiful, even in its borders. 

__________________________________________

The Lover

That is my window. A moment ago

I woke up so softly.

I thought I would float.

To where does my life extend,

and where does the night begin?

I could think that everything

were still me all around;

translucent as a crystal’s

depths, darkened, dumb.

I could also contain the stars

inside me still; so large

does my heart appear to me; so gladly

it released him away again

whom I began perhaps to love,

perhaps began to hold.

Strange, as something never-described

my fate looks at me.

For what am I laid under this

unendingness,

fragrant as a meadow,

moved here and there,

calling out at the same time and afraid

that someone will hear the call,

and determined to find my downfall

in another.

R. M. Rilke

Die Liebende ( Rainer Maria Rilke ) 訳・Chris

Das ist mein Fenster. Ebenbin ich so sanft erwacht.

Ich dachte, ich würde schweben.

Bis wohin reicht mein Leben,und wo beginnt die Nacht?

Ich könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;

durchsichtig wie eines Kristalles Tiefe, verdunkelt, stumm.

Ich könnte auch noch die Sterne fassen in mir, so groß

scheint mir mein Herz; so gerne ließ es ihn wieder los

den ich vielleicht zu lieben,vielleicht zu halten begann.

Fremd, wie niebeschrieben sieht mich mein Schicksal an.

Was bin ich unter diese Unendlichkeit gelegt,

duftend wie eine Wiese, hin und her bewegt,

rufend zugleich und bange, daß einer den Ruf vernimmt,

und zum Untergange in einem Andern bestimmt.

full version (Japanese)

Hymnen an die Nacht (Novalis)

感覚を持った、心ある生きる者が、身の周りに広がる空間のすべての奇跡的な現象を目の前にして、喜び溢れた光、つまりその色彩、波打つ姿、広がりゆく、その目覚めたような日々を愛さずにいられるのだろうか。

生命の内なる魂のように。

ノヴァーリス 夜の讃歌

(朗読の関係で翻訳は切りました。

朗読しやすいように翻訳しました)

Recently I have been making a video of readings.

Original text

Welcher Lebendige, Sinnbegabte, liebt nicht vor allen Wundererscheinungen des verbreiteten Raums um ihn, das allerfreuliche Licht – mit seinen Farben, seinen Stralen und Wogen; seiner milden Allgegenwart, als weckender Tag.

Wie des Lebens innerste Seele athmet es der rastlosen Gestirne Riesenwelt, und schwimmt tanzend in seiner blauen Flut – athmet es der funkelnde, ewigruhende Stein, die sinnige, saugende Pflanze, und das wilde, brennende, vielgestaltete Thier – vor allen aber der herrliche Fremdling mit den sinnvollen Augen, dem schwebenden Gange, und den zartgeschlossenen, tonreichen Lippen.

朗読:Kouhei Yoshimura

動画編集:Chris Kyogetu

翻訳:ChrisKyogetu

#ChrisKyogetu

#朗読

#ショート動画

#ノヴァーリス

#ドイツ文学

#ドイツ観念論

#novalis

最も貧しい才能へ

君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。
――太宰治「思案の敗北」

 海を渡る蝶は海面で休むが、水の重さで羽が重くなったら飛びはじめる。死と隣り合わせの小さき存在は消えてしまっても大海が蠢くだけだった。生きていた痕跡を知らせない死、波の香りに呑まれる、ガルシアマルケスが水死体の浮かぶ海を薔薇の香りに見立てた。潮の香りと薔薇の香りが融合する。夢の薔薇の香りは太陽が沈むと同時に闇と共に濃くなっていく、それが眠り、太陽の夢、

波の音だけを残して、残響が誘惑する。蝶の肢体を探しにいく人は誰もいない。

程よい、絶望にドビュッシーの海、

2018年はドビュッシーの没後100周年だったが、

結局、意識が指を動かすことがなかった。

過去に学んだ心理学上は生も死も研究対象で、心のしくみについての立証、検証、の繰り返しだった。心の正常が何かさえ研究段階、発表しては埋もれていく。生きることを肯定しているのが強いのはキリスト教だった。教理は教理として存在していて、神の愛は検証無く存在するという前提条件、それでも私の心は乾いていた。

愛に関して、人間の愛に関しては、心理の中では点数や状況で推測される。興味があるか、性的に見ているか、しかし、内包された愛とは信仰と同じように囚われない。この最高のものが神の愛ということは、移ろう人間の愛よりも定かだった。信じるも信じないも、その条件は意識の外に正解として存在する。神の愛に治療を頼むのか、人間の愛に治療を頼むのか、

私はどちらも信じることが出来なかった。

まず言葉が途切れ途切れにしか意識で構成できなくなった。それを隠しながら、書けなくなった事を黙っていた。その中で枯れきった愛を思い浮かべながら、嘘をつく。会議の途中で薬を飲み、ホテルに行くのも薬を飲んでから行っていた。割高の水の料金を払って、薬の抜け殻は探されない蝶のようだった。全ては腹の中、秘密は自分だけ蝕んでいく。2018年6月に震度6の地震があった。地鳴りがして、何が起きたのか分からなかった。死ぬのかもしれないと思ったが、当時付き合っていた人には電話しなかった。彼が冷めていたことを知っていて、冷たくされた場合、傷つくからだ。別れ話は早く済ませるべきだった。

人間の愛には醜悪も悪意も存在するが、愛は信じることも含まれていた。人間同士の愛は墜落し罪悪になるが、神の愛は人智を超えてくる。人間同士は我が身を守ることを考える。他者への愛より自分を選ぶ、それが人間だが、神はそうではない。自己犠牲は神に近く、理想はそれを目指すが桃源郷。人間同士の愛は、罪悪がある。心理学、哲学、神に囚われない考えは、この醜さもなければ、生きる活力にならないとする。私達は運命に育てられているのだから、それらを混合し、熱意のせいでのぼせながら、今日も人は尊い存在。

小さな絶望を繰り返すたびに、笑みが溢れて、限界に確信が近づく。死に向かうよりも蘇生法は苦しく、取り残された毎日は、波にかき消される日と待ち望む。

「天使達は天国でそれほど幸せでなかったと笑いに来る」

遺書の一部を読んだのも3年後の今日のことだった。本当は恨んでいるのに、恨んでないように書いて、文章が酷かった。言語が途切れ途切れで、もう書けない状態だったと理解出来る。切羽詰まっているだけのように思えるが、この日に限らず、長らく自分の意思すら伝えられないまま、書けなかったのだ。10月、まだ蒸し暑い、国際ミサの日だった。

何かを恐れて、何かに怯えて、憎悪が形相を超えては溢れかえっていた。

 血痕を掃除してもらい、猫のアダムが来た。だからあの子は天使だと思った。あの日の思浮かべた天使はもう居ない。この子は祝福に溢れていた。何故これだけアダムを愛しているのか、何故これだけ必要なのか、それを語ろうとすると、常にこの日に繋がっていく。人に虐げられた人間が成功すると、最低な日を暴露する光景はよく見かける。あの時、差別した人間を見返す、あの時、虐げられたことを乗り越えた、人は必ず最低の日と繋げるものなのだ。最高の日は最低の日と繋がる。だから最高を避けるようになる。

平穏は、最低の日を飼い慣らせるが、最高の日は最低の日によって押しつぶされる。

 今年のこの日は敢えて聖書の引用を選ばなかった。空席ができたら寂しいと言わんばかりの太宰治のこの言葉を選んだ。人の恋慕が神に近い言葉だと思った。恐らく、あの日はこれを聞きたかったのだろう。でもあの日は聞けなかった。

 最も愚かだった日から、私は何所へ向かっているのか分からない。誰に毎日感謝を言えばいいのか分からないほど、色んな人に助けられた。そしてこの朗読の声は、数年の私の失った世界に綺麗な声をくれた。辿ってみると、長い思案の旅だった。

最低の日が遠のくように、今はこの綺麗な声の傍で休息したい。この綺麗な声が生きる文章を書きたい。蝶は眠りから覚めた。また旅路の約束をして、何処かへ行こう。

私達、最も貧しい才能へ。

アダム

2016年 胸が痛いと救急車を呼んだ

2017年 常に安定剤と眩暈止め、色々な薬が手放せなくなった。

2018年 意識の中で言葉が途切れ途切れになっていった。

2021年 心臓と肝機能の薬で回復傾向(向精神薬の服用停止、ワソラン錠等の心臓の薬に変更)

「書けなくなった」そう遺書を残したのは太宰治だった。その言葉を意識したことはなかったけれども、知ってはいた。私は無意識の中でその言葉があったのだと思う。話が思いつかなかったわけではない、自分の言葉が消えてしまった時期があった。

あの日はそうなった。誰のせいでもなく、全てが書けなくなったからだった。

それは心の問題か、薬の副反応だったのか野暮な事は言わない。

重くならないように整理することに時間を要した。

回心をしてからも、人生の最高の日には、

あの日が戻ってくる。3年、長いようで早く済んだのかもしれない。

記事の整理も色々と、立て直したいと思っています。

朗読してくれる彼を始め、

皆さまの協力があったからです。ありがとうございました。

実は2018年のこと、もう乗り越えてます。

The Goldfinch(English)

The Goldfinch Carel Pieterszoon Fabritius

Should be a reflection of something purer.
André Paul Guillaume Gide

On 12 October 1654 an explosion in an explosive’s depot caused a large extent of casualties.

Many Dutch paintings were destroyed in the explosion, and this also damaged the workshop. One of the victims was Rembrandt’s pupil, Carel Fabritius, who was also killed in the accident. This captive bird is still alive today, even though it has lost its owner.

No doubt many people will agree that the “fate” of this painting is the reason for much of its re-evaluation.

Carel Fabritius was an Rembrandt student. His paintings have been influenced by Rembrandt. We can find Rembrandt’s influence in the way he painted light. Rembrandt’s early works show a wide range of colors, but he gradually developed a basis of brown and grey tones, with brighter colors used for the most illuminated objects. He also uses chiaroscuro, a compositional technique that clearly defines light and darkness.

Its influence is also felt by his pupil Fabritius. Overall, the work is completed in opacity, but the color contrast gives the wall a strong light. The walls are darkly shaded by the feeder and the birds as chiaroscuro,  Tarnished natural yellows create a psychological effect of light and shade. What distinguishes this painting from that of Rembrandt, in addition to choosing the bird as a motif, This is using hard paint..Like Van Gogh and the impressionists.

The bird’s background is a flat wall, but we can imagine that what the bird is watching is daylight.

By avoiding all human symbols and imagery, the bird sees the purest things. The light is reflected in her eyes and the imagination is always there. This painting, dressed in “Amor Fati” is a bird who never knew the escape.

This bird lives for a long time and is not capable of flying high.

It was the movie “The goldfinch”(2019) that made this painting instantly famous of our time.

In order to explain the film, a boy and his mother visit a museum and find themselves caught in an explosion. While they escape, the boy steals the goldfinch which has survived. Inspired by the destiny of the original painting of real life, I watched this movie in 2021 with no previous information. The film was inspired by the destiny of the original painting of actual life,and I got a sense of déjà vu from the paintings used in the film.

Had a life of his own for a film accessory. Nothing symbolic at the time, but the color palette was classic. The bird understands the light and is free from superfluous insights. It’s too far from being allowed to exist as a painting, and I’ve seen it before. During the movie, I thought so much about this painting that I didn’t remember exactly what it was about. I didn’t remember exactly what they were talking about, However, the characters began to say that it was a Dutch painting. I looked through the catalogue on the shelf in the other room, thinking maybe I saw this painting once.

In 2012, I was still watching the painting.

I placed a sticky note in the catalogue of Mauritshuis’s exhibition.

The page was “The Goldfinch”. Many Dutch paintings were produced during the boom in microscopic observation, So these are essentially specific tables. Rembrandt’s “Canticum Simeonis” was extremely bright. And Vermeer’s “Het meisje met de parel” tour. I passed by smiling faces art, smiling faces art, and found ‘Goldfinch’ in still life.

It seemed like an incomplete picture. After the human smile, the innocence of the animal, the feathers reflecting the pure light, looked even brighter. In the midst of all these still life’s, observed as the curious mind desires, there is a single and foreign imperfection.

This bird looked at the sky, far beyond the scope of the microscope. This picture was not intended to be framed. Whether it was a piece of trompe l’oeil or a case cover, the purpose of this painting is unknown. In my opinion, the exhibition was not very good, except for the “The Gold finch” and the “Canticum Simeonis” by Rembrandt.

The sound of the birds’ footsteps and the sound of its chain appear to come from a silent painting. Never has this bird been overshadowed by the trials and temptations of fate.

Imperfection, captivity and flight – these three points can strike an agreement with the infirm.

First of all, the downside of not knowing somebody didn’t make it easy for me to talk about that bird. I didn’t have the background or the information to keep it to myself.

The bird hides in the blind spot of memory, but fate so loves him that he comes back alive.

The moment I opened the catalogue, the map of the museum and the advertisements of the museum at that time fell out of the book…Kind of reminded me of a bird wing flapping.

 The way missing memories can be brought back to life is a reminder of the movement of time. Especially when it’s a sign of hope, That’s like a revelation of God.

Loved by fate, this trompe l’oeil, what is it that deceives? Even in the museum, this bird saw the light. A number of times, and through space, this bird sees the light,

I was ready to be deceived again, which made me feel like receiving the light.

Info

Translation, proofreading of past articles has not been completed. I’m finishing up this month.

I am so sorry for the late submission.

The Goldfinch

The Goldfinch:Carel Pieterszoon Fabritius
もっと純粋なものを反射しなければならない
ジッド「日記」第一巻

1654年10月12日に爆薬庫の爆発事故は大規模な範囲の犠牲を生んだ。多くの死者を出し、アトリエも巻き込まれ多くのオランダ絵画が焼失した。その中の一人の、レンブラントの弟子のカレル・ファブリティウスも事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。この捕らわれの鳥は飼い主を失っても今も生きている。

この絵画の再評価の多くの理由は「運命」に惹かれた、という人は少なくないだろう。

 カレル・ファブリティウスはレンブラントの弟子であり、光の描き方がレンブラントの

影響があるだろう。レンブラントは初期の作品は多彩な色使いが見られるが、次第に茶とグレーの階調を基礎とし、一番光が当たるものに明るい色を置く。レンブラントはキアロスクーロという明暗を明確にする構図に惹かれていく。

この影響は弟子のファブリティウスにも見られる。全体的に鈍色で仕上げられているが、対比によって壁に強い光が当たっているように考察出来る。餌箱と鳥の背後の影が濃い。天然色の影響なのか分からないが、くすんでいる黄色が心的な光と影を作り出している。レンブラントとの違いは、宗教的な題材ではなく、鳥を選んだこと、固めの塗料を使用していることである。それは、ゴッホや印象派を連想させる。

鳥の背景は無地の壁であるが、この光の当たり方で鳥が見上げているものは日の光だと想像出来る。イタリア語でCardellinという名前のこの鳥は、カズラの実を好んで食し、イエスの受難を意味している。人間につけられた象徴、想像をよそに、もっとも純粋なものをこの鳥は見つめている。目に光が映りこんで、一瞬という瞬間に想像力が宿る。

Amor fati(運命愛)に纏われたこの絵画は、飛翔することを知らない鳥だった。

それなのに、長い時を経て生きている。

 この絵を現代で一気に有名にしたのは映画「The Goldfinch」(2019)だった。美術館に母親と二人で訪れた少年は爆発事故に巻き込まれる。少年は、逃げる際に生き残ったGoldfinchを盗みだしてしまう。元々の実在の絵画の運命をモチーフとして作られた映画だが、2021年、私はこの映画を前情報無しで見ていた。そこで使われている絵画に既視感を覚えた。映画用の小道具、という短命の運命にしては生命力があった。たかが鳥の絵ではあるが、背景の色が現代の発想で描いたわりには古典的な描写だった。光を理解していて、余計な思想が無い。絵画一枚として存在するにしては構図が右に寄っている、それにやはり見たことがあった。映画の話が頭に入って来ないほど、この絵のことばかり考えていて、登場人物達がオランダ絵画と言いだしたので、もしかしたら一度見たことがあるかもしれないと、別室の本棚から図録を探した。

2012年、私はこの絵をやはり見ていた。

マウリッツハイツ美術展(2012)の図録に付箋を貼っていた。そのページが「The Goldfinch」だった。オランダ絵画は顕微鏡等で観察がブームだった時代のものもあり、基本は精密な絵画が多い。レンブラントの「シメオンの賛歌」は圧倒的な異才を放っていた。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」目当てに美術館のコースが決まっている。人間の笑った顔、笑った顔の作品を素通りしながら、静物画のエリアで「The Goldfinch」を見つけた。

それは未完成のような絵画だった。人間の笑みの後に見ると動物の持つ邪の無さ、純粋な光を反射している羽は余計に輝いて見えた。探求心の欲しいがままに観察された静物画の並ぶところに、一枚の不完全が存在している。顕微鏡で覗けない距離に、その鳥は空を見上げていた。この絵は額に入る予定ではなかった。トロンプ・ルイユ(だまし絵)の一枚か、もしくはケースの蓋だったのか、正体は不明である。正直、この絵画展の評価は低かったが、この鳥の絵とレンブラントの「シメオンの賛歌」だけ良かったと感想を残している。

音を持たない絵画に、鳥の足音、鎖の当たる音の想像が混ざる。この鳥は運命のいかなる試練や誘惑にも消されることがなかった。不完全、捕らわれの身、飛べる存在、この3点は不自由な人間の心を打つのかもしれない。名作と思いながら、この絵画を語る機会がなかった。

まず、誰も知らないというのは不自由さ、語りだすことが難しい。

自分で秘めるにしても、経験と情報が少なかった。

この鳥は私の記憶の死角に潜んでいたが、運命に愛されているので生還する。

 図録を開いた瞬間に、挟まっていった館内マップと、当時の美術館の広告が本から落ちていく。それが鳥の羽ばたきの音を連想させた。消えていた記憶が蘇るとは、時間の動きを感じさせる。特に、それが希望に繋がる場合は、神の啓示にすら思えた。光を享受する力がある生き物の、その瞳の向こうには美しい世界が広がっている。

鎖で繋がれた鳥は、自由の代わりに特定の誰かの愛を受ける。この鳥を愛している人間の眼差しを想像すると、外も悪いものではないのかもしれない。この鳥に餌を与えていたのは誰だったのか、この鳥は多くの時間と空間を超えて、いつも光を見ている。

運命に愛されたこのトロンプ・ルイユ(騙し絵)、何を欺いているのか、生命力の強さに圧倒される。もう一度騙されてもいいので、光を受けてみたいと思わせた。

The Goldfinch(2019)
原作あり

No longer human (English.ver)

And lastly, there's still a way to seek God in you. That is, there are ways of doing away with things that are limited. For if artists look for the face of the King in the soul of a tree, they will leave everything behind for the love of that face.
Nicolaus Cusanus-De quaerendo Deum 49

Foreword

 It would be easy to be misunderstood as an infantile mind when talking about Dazai Osamu’s ‘No longer human’, but as of 2021 Dazai Osamu is famous, but whether he ranks high or low alongside the great masters of the Showa period, (1926~1989)he is not even sure. What was his essence, after all, is still not settled. Seventy-six years after the war, here we are. I realized again that this is the allure of Dazai for me.

I hear Dazai’s collection sells well in the summer and it looks like it’s selling well now. There are those who say that his colloquial style lacks the intellectuality of the great writers. The fact that he wrote with such sensitivity about something so trivial may raise both religious and philosophical questions. His sensitivity is also characterized by the fact that his works are not full of metaphors and technical details, Instead, a series of words are used in everyday life.

I’ve grown up, the reason I mention Osamu Dazai again is that, as a Christian, I know and admire other authors whose ideals of love and life and death are quoted in Catholic newspapers, but even after two years of convalescence,I was unable to find a source of language as deep-rooted as theirs. I saw a lot of light and love, I decided that time was of the essence, considering my age and my illness.

When I said, “If I translate in English, I’ll address it to somebody who understands Dazai.” it was a declaration of my defeat and a sign of my resumption. However, I cannot write about Dazai Osamu in one article, So I will be writing about it in a number of articles.

“No longer human” and “Osamu Dazai”

The protagonist, Yozo, from childhood was a beautiful boy,It could not, however, be attributed to the contemplation of happiness and had doubts about it. Beyond its interior life, society considers it “fortunate”. The words are somewhat superficial and do not resonate with the protagonist. And as if the world around him were a Japanese honors student, he can’t find anyone who has the same problem as him. The protagonist wonders to the world if they “sleep well at night and are refreshed in the morning?”

Today, there are more and more jobs, and it is fashionable to do whatever we want, But at this time, working to eat was the norm.

Among them, the job of a writer may have been a divine revelation for a writer, even for a writer, but it was in the category of a hobby, an intellectual’s other love, a job he liked.

Yozo is not able to understand his neighbors, and his last seduction of human beings is the one of a clown. Even his parents don’t get itAs he grew, the smell of solitude attracted women.

Dazai Osamu was not baptized, but he was passionate about the Reading Bible. This is recorded in the diary of Tomie Yamazaki, with whom he committed suicide, and he also carried a Bible in his bag when he went to see his other mistress, Shizuko Ota, the source of “Shayō” , Dazai once asked Tomie what Bible quotations had made the greatest impression on her.

“No longer Human” is the posthumously written work of Osamu Dazai and is said to be a semi-autobiography written by Tomie while she was nursing Dazai.If you read Tomie’s journal, you will understand why women are attracted by the hero and why they follow Dazai. 

Dazai said to Tomie, “Why not risk your life in Love?” She learns that Dazai is grieved by the Japanese who change after World War II,  Tomie got married during the war because her family feared she was late, and her husband never went back to Manila in the Philippines. She ended up a widow. Back in the day, no one could comfort his loneliness.

In “Phosphorescence”, written on June 3rd, 1947, Dazai describes her love for Tomie and her invocation of her husband around a fictional flower, phosphorescence. The audience didn’t know where to go with her love of her husband who died in the war.

The Society has not forgiven Tomie, only Dazai, and he has accepted his love for her husband.

If he was a ” good husband” as they called him in those days, and protected the family,There wasn’t any help for Tomie,As far as she was concerned, only Dazai, a married man, understood.

Society won’t stand for it?

It’s not society. you’re the one who won’t stand for it-right?

No longer human

Japanese people are asked what their favorite part of this work is, the majority of them might quote this. Dazai’s words, “the society will not forgive you”, and the commonplace phrase,

“You’re the one that doesn’t forgive me.” he said, Focus on the personality.

The weakening of the ego through society resembles the ego of the woman of the time. The focus is on marriage rather than on love as a first step. Even when husbands are Killed in action, there is language for mistreating women. 

Yasunari Kawabata and many other experts criticized him. As a result, Dazai’s life is a life of affirmation. Dazai lives by the women who affirm him. For example, he lives in his stories.

Yozo in “No longer human” is one of them.

The image of the woman in Japanese literature is less of a Christian woman. Even if unintentionally, a man’s monologue touching a woman is both a Bataillean “invasion of beauty” of women and, on the contrary, something like caging a small bird and loving it. Sensuality and feminine females live together in a familiar colloquial text. His image of women has neither the mature sexiness of the wife in Junichiro Tanizaki’s “The Key”, nor the refined elegance of Satoko in Yukio Mishima’s “Sea of Fertility”.

Dazai’s work is the most sober of all the Japanese writers’ portraits of women. In contrast to the reality of their emotional deaths, they are sober.  Just the fact that their cheeks are stained with tender emotions, that they speak openly of death in the midst of a subject in which life and love are weighed in the balance, is another charm of the literature of Dazai’s later years.

It is impossible to express diversity in words. There is always a question of ethics when there is so much to interpret. Yet there is always no solution. Dazai is a clown of the society, he avoids to be confronted with the truth, but he writes with words that do not bind people. In him there is no doctrine of ” Love is what it should be “. They seem to have no core, “No longer human”.

God, I ask you, is non-resistance a sin?

Disqualified as a human being.

Now I have neither happiness nor unhappiness.

Everything passes.

Jesus would be saddened by this decision, which could be called pruning. There is a story that God is the farmer and Jesus is the vine. (John 15) Pruning does not mean cutting down the unwanted, but it means that Jesus, the trunk, is also grieved, representing the ” support oneself “. After pruning the tree, it produces sap. It is compared to the weeping of Jesus.

Now I have neither happiness nor unhappiness.

Everything passes.

One pruned branch thought this way. Maybe it’s the voice of the protagonist and the literary artist.

It is not clear whether Osamu Dazai and Tomie Yamazaki were simply drowning in the Bible and extending it to romance.

It is not clear whether Osamu Dazai and Tomie Yamazaki were simply drowning in the Bible and extending it to romance. But as we get older, we realize that somewhere along the line, we reach a point where we can’t make it. Some people never notice the end of their life, whilst others feel it sooner.

Most people seem to be aware of it when they get cancer or when they are told that they have only a few days to live, but the awareness of death is particularly prevalent in Buddhism.  If you were in a Buddhist school, the first message was that the “possibility of death begins already when you are born”

The lesson was not new discovery. because I had noticed it myself.

Most of us are vaguely aware of death, but most of us relegate it to the corner of our minds because we are afraid of it. If I were to read Osamu Dazai to a child, “Run, Meros” is well known, and we learn about his feelings in the author’s biography. At the time, a friend of mine once read Dazai’s biography and asked me “why he committed suicide?”.

What I answered in my childhood mind was: ” He simply accepted death”.

Naturally, it is scary to disappear from this world without notice on my own. There are some deaths that we accept, like the rest of our lives. So what about suicide, we rarely get to know the true feelings of the dead person. No matter how much is written down, we are always looking for facts that are not written in words. Even if it is written down, we cannot read it as it was written. I have always suspected that there is a dying spirit as well as a dying body. It doesn’t matter how much you write about your spiritual death, other people can’t see it. What happens when the mind becomes so tired that it forgets to seek help?

In fact, even now, 73 years after his death, no one knows what Dazai Osamu Real intention. No one can understand the feelings of a pruned branch. “No longer human” does not lie about “the society” He is without hypocrisy.

Some perhaps will deride me.

What do you mean by not having faith in human beings?

When did you come a Christian anyway?

For the writer, doesn’t loving ultimately to mean remaining a writer? If that is what the women he loved wanted, so be it. Moreover, their deaths would be anathema to Christianity in this work. Nevertheless, without the ability to look at the imperfections of people, neither religion nor literature would be possible. The man of the piece ends up in hospital, while the author dies with his mistress. Without the ability to look at the imperfections of human beings, neither religion nor literature would be possible. The reality that created their “acceptance of death” and the fact that they had to make such a choice in the life they were given.

We must not forget that Jesus wept over such a decision.

We must not forget. If God (love) does not weep

Who will weep?

Pruning should not be considered solely for the proper growth of the vine.

When I was a child, I made no mistake in accepting that ” He simply accepted death”. In fact, the ” acceptance of a painful fate ” comes to all of us at some time. Many times the mind gets tired and the heart feels dead. Yet, the mind may come back to life. The mind will accept death. Over and over again

Feeling for love or death rises and falls repeatedly. Behind the simple expression, I hope that the sound and the thought will reach somewhere with a deeper sound than at that time.

John15:1~12

I am the true vine, and my Father is the gardener.He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes so that it will be even more fruitful.You are already clean because of the word I have spoken to you.Remain in me, and I will remain in you. No branch can bear fruit by itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruit unless you remain in me.”I am the vine; you are the branches. If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit; apart from me you can do nothing.If anyone does not remain in me, he is like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned.If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be given you.This is to my Father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples.”As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love.If you obey my commands, you will remain in my love, just as I have obeyed my Father’s commands and remain in his love.I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete.

My command is this: Love each other as I have loved you.

人間失格と太宰治

最後にまだ、あなたのうちに神を探し求める道がある。すなわち、かぎられているものどもの除去の道がある。というのは、芸術家が木の魂のなかに王の顔を求める場合、
その御顔のために全てを捨て去るからである。 

ニコラス・クザーヌス
De quaerendo Deum49

「はじめに」

 太宰治の「人間失格」を語るとなると精神が幼いと誤解を受けやすい。2021年現在、

太宰治は有名ではあるが昭和・知の巨人と呼ばれる人達と並ぶと、地位は高いのか低いのか、それさえも彼は定まらない。彼の本質は何だったのか、結局のところ、未だに何にも定まってはいない。戦後76年も経って、これである。それが私にとって太宰の魅力だと再認識した。

太宰文庫は夏に売れると聞くが、今でもそのようだ。彼の口語調の文体に重々たる文豪に備わっている理知的なものは存在しないと言う人もいる。当たり前に存在しているものを感性豊かな文章で書いたことは、宗教的にも哲学的にも問題提起と成り得る。そして、彼の感性というのは、飾られた比喩や技巧ではなく極めて日常的に使われる言葉の羅列が多いことも特徴である。

大人になった私が再度、太宰治を取り上げるのは愛と死生観に関して、クリスチャンとして理想を知っていて、尊敬する作家は他の人であり、彼等がカトリックの新聞に引用されるような作家であり、2年の療養期間を設けたが、彼等のように根を張るほどの言葉の源泉を発掘することが出来なかったからだ。多くの光と愛を見たが、年齢と病気も考えると時間がないと判断した。

「英訳するのなら太宰が分かる人に向けるよ」と言い出したのは私の敗北宣言でもあり、再起を意味する。但し、太宰治については今回一回では書き上げられないので複数回に分けて書くことになる。

「人間失格と太宰治」

 主人公の葉蔵は幼少期から美少年だったが、幸福というものへの思索に帰結出来ず、疑問を持っていた。彼の内部を覆う外皮、人々は彼を「仕合せ」と判断する。その言葉は何処か表面的で主人公の心には響かない。そして彼を取り巻く世界が日本の優等生かの如く、彼のような悩みを持つ者が見当たらない。主人公は世間に対して、彼等を「夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら」と思いに耽る。

現代となっては職種も増え、好きな仕事をするというのが流行っているが、この時代は「食う」ために仕事をするのが当たり前だった。現代よりも、それは当たり前だった。その中でも作家という仕事は、作家にとっては神の啓示でも、道楽、インテリの他愛事、好きな仕事をしているという部類だったのかもしれない。葉蔵は隣人を理解出来ずに、人間に対しての最後の求愛は「道化」とする。父母でさえ、溶け込めない葉蔵は成長するにつれて、孤独の香りが魅惑となり、女性たちに嗅ぎ当てられる。そして、彼は女性たちの秘密を守る色魔となっていく。

太宰治は洗礼を受けていなかったが、聖書に熱心だった。それは一緒に心中した山崎冨栄の日記に記録されていて、他の愛人、斜陽の元となった太田静子に会いに行くときも聖書をバッグに入れていた。太宰は冨栄に印象に残った聖書の引用を尋ねたことがあった。冨栄は二か所の引用を答えた。

「人間失格」は太宰治の遺作であり、冨栄が太宰を看病する中執筆された半自伝と言われている。冨栄の日記を読めば、この「人間失格」の女性が何故主人公に惹かれるのか、理解出来るのかもしれない。冨栄は太宰に「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ち掛けられたが、太宰の結核の看病に必死、愛情を独り占めするために必死にらなければならない、という現実を知ることになる。太宰が戦後の変わりゆく日本人に対して苦悩しているということを知り、女が大きなものに巻かれて生きることしかない事を盲目に受け入れていたことに自覚する。冨栄は戦時中に、家族に行き遅れを恐れられ結婚し、その夫がフィリピンのマニラで帰らぬ人となった。彼女は未亡人となった。「所帯くずし」という言葉が存在する日本、当時の彼女の孤独を癒せるものはいなかった。彼女は夫を愛していた。太宰は世間とは違い、昭和22年、6月3日に脱稿した「フォスフォレッセンス」で架空の花、phosphorescence(燐光を発すること)を中心に冨栄への愛と、夫への招魂祭を描いている。戦死した夫への愛情を何処へやったら良かったのか、富栄の鬱屈した気持ちを世間は許さなかったが、太宰だけが許し、夫への愛情も受け入れてくれた。

当時で言う「全うな夫」であり、家庭を守っていたのなら、冨栄には救いはなかった。彼女にとっては既婚者の太宰だけが理解したのである。

「世間というのは、君じゃないか」(それは世間が許さない)

人間失格 太宰治

この作品の好きな箇所はと問われれば、大多数の人がこれを引用するのかもしれない。

太宰の世間が許さないという言葉、そのありきたりの言葉に「世間が許さないのではなく貴方」と人格を浮き上がらせた。世間から削り取られていく自我と、当時の訳ありの女性たちは似ていたのかもしれない。女性は特に若ければ独身、次に家庭の中にいなければ人権が無いようなものだった。未亡人となれば、結婚を手段としてまた儀式的な再婚が待っている。川端康成を始め、彼を酷評する専門家は大勢いたが、彼を肯定してくれる女性たちによって、彼は生き始める。「人間失格」の葉蔵はその一人だろう。

 日本文豪の女性像は当然ながら、キリスト教に生きる女性は少ない。意図せずとも、男の独白が女を触ることは、バタイユ的な女性の「美の侵犯」でもあり、反して小鳥をケージに入れて可愛がるようなものでもあった。親しみのある口語文に官能と、女性の少女性が一緒に生きる。彼の女性像には谷崎潤一郎の「鍵」の奥さんのような大人の色香、三島由紀夫の「豊饒の海」の聡子のような洗練された上品さもない。もしかしたら日本の文豪が書く女性像の中で一番地味なのかもしれない。派手な心中をした現実に反して、いささか地味なのである。ただ、恋慕に頬を染め、生活と恋愛の天秤にかけられている題材の中で、死を堂々と語る、これも晩年の太宰文学の魅力だろう。

言葉で多様性は表現出来ない。倫理面で解釈のメスが沢山入ると疑問が付きまとう。けれども常に解が無い。彼等のように刹那に生きること、彼は世間の道化であり、真意を突きつけられることを避けるような文体でありながらも、人を束縛しない言葉で綴る。彼の中で「愛とはこうあるべきだ」という教理まがいなものはない。彼等には芯が無いように見られるが、「人間失格」終盤、

「神に問う、無抵抗は罪なりや」

「人間、失格」

もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます

この剪定ともいえる言葉の選択にイエスは悲しんでいることになる。神は農夫でイエスは葡萄の木という話がある。(ヨハネの福音書15章)剪定とは、要らない存在を斬ることではなく、幹であるイエスも悲しんでいるという意味であり、「命の繋がり」を表している。剪定した後の木は樹液を出す。それをイエスの涙と例えられる。

「いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます」

剪定された枝の一つはこのように思った。それがこの作中の主人公であり、文学者の肉声なのかもしれない。太宰治と山崎冨栄は聖書をロマンスに拡大解釈し、溺れただけの人間なのか定かではない。ただ年齢を重ねると分かることが、人生は何処かで「間に合わない」という地点に気づいてしまうということだ。「命の終わり」それに気づかない人もいるが、早く感じる人もいる。大半の人が癌や、余命宣告を受けて気づくことのようだが、死を意識することは仏教では特にあった。仏教の学校に居れば「生まれたら既に死の可能性は始まっている」が第一声だった。その教えを新しい発見とならなかったのは、漠然と自分もそう気づいていただけなのである。死を知っていながら意識すれば怖いと思うので、大半の人が死角へ追いやる。太宰治を子どもに読ませるとしたら、「走れメロス」が有名であるが、作者略歴で彼の心中を知る。当時、友人が太宰の略歴を読んで「何故自殺をするんだろう」と言い出したことがあった。幼心の中で答えたことは「死を受け入れただけ」だった。当然、勝手に自分が気づかない間にこの世から消えることは怖い。余命のように受け入れていく死もある。では、自死はどうなのだろうかと思うと、死んだ人の本音に辿り着くことは殆ど無い。肉体の死と他に、精神の瀕死が存在すると昔から疑わなかった。精神の瀕死具合を幾ら書き残していようが、他人は気づけない。助けを求めることも忘れる程、精神が疲れれば、どうなるのか?

どのみち、人は言葉に書かれていない事実を探してしまう。書いてあっても人は、他人は思いたいようにしか思えないから書いた通りには読めない。現に、死没73年経った今でも太宰治の本音は結局のところ誰も知らない。誰も剪定された枝の気持ちは理解出来ない。「人間失格」は「世間」というものについて、嘘はついていない。彼には偽善がないのである。

「所詮、人間に訴えるのは無駄である」

「へぇ? お前はいつクリスチャンになったんだい」

人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らない

 それをいつの世も、悲しむのは愛してくれる存在と、イエスであると仮定する。

作家にとって、愛するとは最終的に作家として残ることではないか。愛した女達が、そう望んだのなら、それしかない。

更に言えば、この作品も彼等の死はキリスト教としては禁忌だろう。

作品の男は病院に入院して終わるが、著者は愛人を連れて死ぬ。

それでも人の不完全さを見つめる力がなければ宗教も文学も成り立たないのは同じである。彼等の「死の受け入れ」を作り上げた現実と、彼等の与えられた生涯に、そのような選択があったことに、神も泣いているということを忘れてはならない。神(愛)が泣かないとするのなら、誰が泣くのだろうか。

剪定は、葡萄の木の良い成長のためだけだと捉えてはならないのである。

幼いころに「死を受け入れただけ」という受け答えに間違えはなかった。精神は何度も疲れ、心が死を感じる。それでも、心は生き返ることがある。心はまた死を受け入れるのだろう。何度も、何度も。

実際に「哀しい運命の受け入れ」は誰しもいつしか訪れる。

愛や死に抱く想いは、上昇と下降を繰り返す。単純な言い回しの裏で、あの頃よりも音と思惑が深く響きながら何処かへ届くように、希っている。

再起:悪い状態から立ち直ること

ヨハネの福音書15章(1~12)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

Remembering L’ Amant(English.ver)

je suis la préférée de sa vie


I am his favourite part of life

L'histoire de ma vie n'existe pas. Ça n'existe pas. IL n'y a jamais de centre.


My life story doesn't exist, there is no such thing. There is no core to create a story.

(L’amant:Marguerite Duras)

Zoetrope

Once the storm has passed, the last tense becomes beautiful. Love history is purified and unpleasant things disappear. Even the cruel and sorrowful parts vanish. Among them, the first love of a woman is most likely to fade away. Probably it is not even “forgotten”, as one would expect a form to be lying on the banks of a river, but it has disappeared as if it had never existed.I regret that I did not make a special note of the memory of the first love to writers, myself included. Duras’s “L’ amant” is his first love, but for a long time the protagonist is unaware of it. In my experience, men often remember the story of their first love. I don’t remember much, honestly. I don’t know when it was love, but then there’s a haze when I try to remember it.

I was dating a guy a few years ago and he asked me about my first love, but I have a semi-questioning narrative tone mixed with my English. I kept saying “maybe” as if it was not my experience. This usage is normally taboo in English-speaking countries.  it’s strange to say “Maybe” when it’s your own memory. Nevertheless, when it comes to my memories, it’s “maybe”.

He remembered his first girlfriend so clearly. It seemed that just by listening to him, the woman would come to life. I could even see them kissing with the scent of aquanaut. I was watching the zoetrope-like afterimages he was showing me. His memories are untainted and in constant motion.

I said, ” good memory,” and he said, “Chris too?” I said, “Maybe”

When he kept asking me about the past, I said, “Is it such a big deal?  I vividly remember the sound of my fork dropping on my plate. Up to this point, I had always smiled. But in the flow of words I recall, there is no smile. I guess this is my tone of voice now. The truth is that I was laughing and talking, but now I begin to feel sad.

On the metro train on the way home, I reflected on the beautiful afterimage of him. The ” Girlfriend ” he talks about loves him all the time, and it makes my own heart burn. It wasn’t jealousy, but perhaps a love for the way he remembered her. At this moment, I remembered “L’ Amant” written by Marguerite Duras. I felt defeated that she remembered her first love, with an overseas Chinese, which I suppose is a talent for a writer. The first time a woman is with someone, she probably doesn’t remember it. The “pure ego” is a difficult thing.  Once a relationship has lost its way, its way of functioning, once it has been positioned as ” not to love “, it does not allow the conceptual manifestation of having loved to take place. I kept forgetting for the sake of the new guy. I had to forget as a break.

The characters in this novel world have no names.  This man and woman seem to have expressed that they will not leave their names in history.

The girl’s family, tricked into poverty, lives in French Indochina. There she meets an older man, an overseas Chinese, with whom she has an affair. The man tells the girl that he loves her, even though he has been contracted to marry another woman. But the girl tells him that it was for money. After the wedding, the girl waits in the “common bedroom” for him to come again, but he never comes.  Thanks to his “support money” she is able to return to her hometown and notices that his car is parked there.

She rests her elbows on the handrail, just as when she first met him.

When the girl realizes that she has loved an overseas Chinese, the scene on the ship enters the minds of many readers.

With the realization that “I have lost confidence that I did not love him”, She was on the ship, not with him. Chopin’s waltz No. 10 in B minor, OP69-2, played on the cruise ship, is the piece that led the protagonist to give up the piano, but it seems to have finally run its course for her.

It frustrates the performer to be unable to play the piano, even though there is a complete score. But in the world of writing, she has completed Chopin’s music.  She has succeeded in making her readers listen. More than anyone else, more beautiful than any pianist, she has made Chopin heard.

The word “image” appears frequently in the book, and Duras uses it to describe all the glances and memories of her girlhood. In French, the word image can also mean a reproduction, an exact copy. The girl in the work is also a likeness of herself. In the film, a scene in which she puts her foot on the fence of a ship is very impressive.

Regardless of human sentimentality and the search for love, the Mekong River flows unchanged, passing trade and people. The water has no ego, no desire, it lives and it dies. The Mekong has always existed, without memory being able to contract eternity. As we grow old, we may forget. Remembrance, the ship, seldom departs. The ship is a symbol of substance. The girl’s elbows (or, in the film, her feet) on the fence of the boat are evidence of the reality of the image.

Why did Duras write about his memories as a teenager after all these years? Speculation and reader curiosity about why Duras wrote about his teenage memories after all these years became the wind in the girl’s hair.

She had succeeded in preserving her first love. Like the success of a long sea journey.

For the girl, God’s revelation was on the ships.

There is no scaffolding in the nature of immersion. Hiding from each other, a shady relationship was a world of disconnection between two people. We never introduced them to our friends, we never told our families. I was running down the stairs to the underground, avoiding the crowds, following the many open doors with wide eyes, when I heard a ring on my earpiece.

How happy I was to hear him say, “I had a great time”, and my feet moved away from the doors, as if to break away from the crowd.  Leaning against the platform wall, my feet hot in my heels, and waited for his reply. ‘I’m worried about you, call me when you get home,” he said, so I got on the next train.

Pleasant memories become melancholic stories at the end of the relationship.

Like the girl who said, “I’m old at eighteen”

The first love I tried to tell him about was the tale of how I eventually became a woman.  I wonder if there is a moment in a man’s life when becomes a man, I have never heard of it until now.

I had nothing to say except that I had become a woman.I couldn’t say, “I’d choke if I remembered the man “, and my hand slackened involuntarily and I dropped my fork.

That’s all I remember sometimes. Love between humans can hurt people to death .It gives and receives wounds, and when it is over, the tears are more for the good memories than for the sad ones.

Melancholy narratives are more than words, they are dreams.

Unbound by the confines of words, the heart is a dream that becomes an image.

I always dream that one day I will be able to tell a story that is only sad now, but that it was love. I keep dreaming about how a sad story can become love.

Duras has completed everything.

Anniversary of one’s passing

ChrisKyogetu Acrylic painting(2004)incomplete

悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダ。私は説いてきた。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在だと。生まれては、存在し、形成され、壊れていくもの、それを「ああ、壊れるなかれ」ということがどうして得られようか。そのようなことはあり得ないのだ。(略)アーナンダよ、汝は善い行いをした。精進することに専修せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。

本日8月17日は或る友人の命日になる。時々思うのが、友の魂はこの世を恋しくなるものなのだろうか、共に退屈だと語り合ったこの世を恋しくなるのだろうか、そう思う。

彼も含めて私は仏教徒と話すことがある。「悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダ。共に説いてきたではないか」その時に、この仏滅の言葉が好きだと話す。アーナンダは愛別離苦に苦しみ、ブッダは悟っていた。この対比(コントラスト)は仏教らしさだろう。

いつもの行きつけのカフェでmacbookを広げて一人で座っていた彼、

身体が弱いということを一切、私には言わなかった。

彼は一切、身の上での辛いことを話さなかった。

彼の作った曲は、死後はパスワードで入れないそうだ。

Mixcloudは彼の曲のために入ったが、彼の曲は消えていた。

退会していないMixcloudの通知は今でも続いている。

Facebookの誕生日通知が来ていて、彼の

年齢だけが増えていた。

私は誕生日の度にタイムラインに毎年書き込みだけしていた。

私自身も旧アカウントと作り直すことになってしまって、彼が見つからない。

亡くなったと聞かされたときに、慌てるように彼の痕跡を探ろうとしたときに、生きている間にしてやれなかった事に焦りを覚えた。今年はそれほど報告出来るような事がなかった。

彼が亡くなってから何年経っても報告することが無かった。

 そして今も彼に伝えたいことがないのである。

何故なら彼が望んでいた未来じゃなかったからだ。

共に語り合った世界、日本の未来展望図は、私は悲観的で、彼には希望があった。

彼が言っていたような世の中にはならなかった。

それでも、彼の魂はこの世を愛してくれるのだろうか、

そう思った。

 信仰の上で、語り合った神や仏の事実を知っているのは死者である。

彼への手紙で私はこう書いた。「あなたは答えのところに行ってしまった」

私達の祈りの言葉よりも心も手も届かない場所、死者は必ず生きている人の

想像を超えてくる。

彼が笑って話したことを思い出す。

「お願い、チャンスが欲しいよ」

聞き流したこの言葉が、このように深く心に残るとは思わなかった。

常に平凡な日常は、一生の傷や格言に成り得る。

若い彼を蝕んだ癌は、あっという間に彼を連れ去っていった。

「私達にチャンスは残っている」

*ご遺族のプライバシー等も考慮して詳細は伏せました。

聖母マリア被昇天(2021年)

「黙示録の作者は、いわばイエスキリストと対立した存在の影響を本当に受けていなかったのだろうか? 心理学でいうところの「影」の」 C・Gユング「アイオーン」

天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えた。

また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、神の用意された場所があった。

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」

(ヨハネの黙示録12章)

2014年8月15日の聖母マリア被昇天の時に、私はカトリックの洗礼を受けた。本来なら春の復活祭の時に洗礼を受けるのが殆どだが、この年のみ洗礼式を夏にも設けてあった。当時の婚約者と共に洗礼講座を受ける予定だったが、教会の下見という感覚で6月に彼が指定していた教会へと行った。洗礼講座を試しに一人で受けている間に、本来なら1年勉強会に参加しなければならないのだが、この時の担当神父様が8月の洗礼式に入れてくれると言った。私は婚約者に確認を取らずに入れてくださいとお願いした。この時は神に招かれたというのか、裏切りというのか、彼との関係が悪化するとは知らなかった。

彼はやはり洗礼を受けずに聖書が好きな人でいたいと言い出したが、後から来てくれると勝手に信じ込んだまま、私は8月15日に百合の花束を持ってベールを被った。

俯きながら「天にある神の神殿が開かれて……女は身籠っていたが、子を産む痛みと苦しみのために……竜は子を産もうと」と聖書朗読が始まった時に、幼い頃から何故か涙が出てくる箇所が読まれたことに鳥肌が立った。ヨハネの黙示録12章、女と竜(乙女と竜)である。竜は異端の存在であり、女とは聖母マリアの事だとされている。この黙示録の世界は人間の最期であり、暗号めいた散文と抒情的に描かれている。この章だけでも、創世記の37章のヨセフの夢という伏線が張られていたりと聖書そのものが世界の始まりから終わりを書き上げている。

何故そこまで感動を覚えたのかといえば、乙女と竜はユングでいうところの元型を私の作品の「Pagaea Doll」でも扱ったところであり、作中で東西の竜伝説に準えていた。主人公の「翔子」のように、私は子供の頃から、ずっと「想像力の処女性」を追及していた。ボルヘスの話でもあるように、人は想像しても誰かと似てしまう。想像力というものは共感や称賛を得なければ、傷ついて、媚びを売り、渇愛と孤独を抱えながら、老化して死に向かっていく。十代の頃に絵を描いているときに時に思っていたのが、自由創作の時に描きたいものというものを探すときに、自分の描きたいものについて悩みが尽きなかった。描きたい世界は描写力に左右されて、理想に近づかない。哲学を学んでいたら分かることが、自分が発見したことは既に哲学者が開拓していた。新しい発見を探しながら、私の思念の中で常に変容する。瞬きの瞬間や、眠りにつく瞬間、その機会は何時なのか、予測不可能でノートさえも間に合わない。自分自身が、その変容にさえも追いつかずに、出来る範囲で中途半端な作品が生まれる。内観する暇もなくデッサンの課題が来る、勉強の課題が来る、私は夢の中まで時間を使った。

 漸く宗教絵画を描きたいと発言した私に大人たちの賛同はもらえず、まだ経済力が無かった私は自身を具体化する旅に出た。

ユングの「元型」とは、フロイトの無意識よりも更に深く存在している。C・Gユングは教会関係者ほど夢にイエスやマリアが直接出て来ないことに気づいた。太陽がイエス、や百合がマリアと、象徴として集合的無意識の領域に存在する。フロイトは彼のこの発表を否定はしなかったが、苦労すると言った。フロイトの見解は正しかったと私は後に知る。ユングの研究は患者のように疲弊した人間には労苦するのだ。神話や信仰は19世紀科学で薄れていた影響なのかもしれないが、ユングの学説が正しかったとしても、20世紀、21世紀に神学も宗教、もっといえば神話、寓話も強くなることはなく、大衆の理解に及ばなくなっていくのが目に見えていたのだろう。だから「元型」というものは患者が孤立するのだ。治療としては適していなかったのだろう。

私が、竜の話を書いたのは小学生の頃だった。「PangaeaDoll」の翔子の幼い頃の話の構想は既に在った。黙示録の12章はキリスト教徒の友人の家にあった聖書で知った。意味は分からなかったが、この蠢いていく竜の躍動感と、乙女(無原罪のマリア)への執着という幻想譚として私は心が奪われた。

何を私は表したいのか、生まれた「何か」の存在意義の居場所を探していた。そのうち理解を求めなくなって絵を辞めた私は、文章の中で生きていく。特に誰にも求められてもいないのに、私は私の存在のために生きていく。他者に潰されないように、思惑が私の言語やイマージュを超えて、更に熱量を持っていく。形容しがたい胸の痛みである魂は上昇を夢見ている。そのような人間にとって、竜は制御出来ない「感応」の象徴であった。乙女マリアがヘロデ王の魔の手から逃げるのを追った。信仰を持つか持たないか、葛藤するのはそのようなものであった。疑心や、常に聖書に影があった。それが無宗教者の見えた世界である。常に蛇のように畝っては、熱量を持って動いていた。

竜が乙女の子(イエス)を食べてしまおうと思った、は葛藤を抱いている洗礼志願者そのものだと私は思えた。特にこのマリアに付き纏った12章の竜はそうなのかもしれない。洗礼志願者は異端でもある。

 それでも、2014年の洗礼後、2021年の今の今まで乙女と竜は今日まで読まなかった。聖母マリア被昇天祭りすらこの後は参加していない。他の通常のミサや式典は参加していても、この日は参加しなかった。長らく洗礼の気持ちに返れなかったからだ。別の作品を書きたかったのもあるが、もう私の中の竜は死んだのだ。異端の象徴なので弔うことを考えなかった。

ミサは毎回白のベールを被っていたが、友人の死の時に黒のベールを被っていた。ベールはそのうちに外すようになり、聖書を常に持ち込んでいたが、持たなくなった。

洗礼を受けた後の見えた世界は恩寵と孤独が待っていた。芸術家の魂は作品の中でしか生きられない、その啓示を胸に希望を抱いてきた私が、気が付けば崖の上にいるように、

2018年、自死を前に立っていた。

絵を描いていた頃はまだ良かった。絵はオリジナルが一点存在すれば良い。

言語となると実存性は疑わしくなってくる。言葉の世界は理解されなければ存在価値の無い記号となる。文章世界の場合は何処に私の核があるのか、私は何処にも生きていないような感覚に陥っていた。世界は「色即是空」や「諸行無常」なのか、イエスという存在を現すのか、これらの教理は表裏一体である。対峙し、時には融合してしまう。言語で明確に区切ってしまえば、「空」(くう)は成り立たない。言葉と結果に囚われている。聖書も自身の経験が伴わなければ、イエスの教えを生きたとは言えない。机上の空論となってしまう。

ヨハネの福音書に「はじめに言ありき、言は神と共にあった」とあるように、何故言葉が存在しているのか、明確にしたのはキリスト教である。ロシアがはじめは言語という明確なものがなくてキリスト教が布教していく中で言語が作られたように、存在を追うのであれば、キリスト教となる。

この道が見えたので洗礼を受けた。

一般的に公開される心理分析は生い立ちの分析である。しかし、人の心とはもっと複雑なのだ。このように、思念の刻みがある。一見意味を感じない夢現も人間を現すことに必要なのである。

信仰の理由も「救済」の一言ではない。これを初めて明確に肯定したのは、「聖書」なのだと思う。そして文学者にとって、聖書は頂点でなければならない。私が作家としてイエスを頂点に置いたのは、人間は傲慢になるからである。想像力の処女性は存在しない。2千年の歴史を経て築き上げてきた人類の思念の水脈に重なる。聖書はその中でも母体である。その絶望を最初に受け入れなければならない。けれども発見は人生を貴重なものにしてくれた。

「何故自由に書かないの?」と何人も言われたが、答えたことは無い。もうこの質問に孤独を感じることもない、特に答える必要がないと気づいたからだ。諦めから始まった事は、既に「自由」である。

始まりは悲しい「自由」だった。洗礼は自由を確かに与えた。私の髪に聖水が滴り落ちる中、拭いてくれた代母も、祝ってくれた神父も、自分を取り囲んでいた人達全て、二度と同じ場所には集まらない。二度と、集まらないのだ。あの時抱えていた百合の花束も記憶の中で咲き続けているが、もう疾うに消えている。あの時愛した人も、別れた人も、出会った人も、顔を見上げた時に見えた光景も、私が何処へ向かって笑ったのかも、この時の登場人物も、私の感情も、二度と私の「今」を表さないし、視界の中には戻って来ない。

この消失を受け入れるか、再度また洗礼の記憶として残すのか、

長らく迷いがあったが、7年経ってようやく私はこの当時を振り返った。

確かに、洗礼を受けた時、私の魂は喜んだのだ。

2021年8月15日 

洗礼証明書

SoarⅠ (English.ver)

Catholicism had yet to be philosophically organized.
Simone weil

There are many genres of fiction today, One of the things I love about literature is that it makes use of what is really only a record. A simple lost love can be embellished by a single word, a forgotten dead can have a meaning. The loneliness that people tell us to forget, the happiness that seems so ordinary, all depend on our own sensibility, and we can decide whether our life is just a record with oblivion or a shining life.

It is left to the sensibility of the writer to verbalize and leave behind the succession of moments that disappear from the world that no one picks up. Perhaps those who have such a point of view are those who are terrified of the moment disappearing as it is. Some people are happier to forget, others to talk about their misfortunes, so that their loneliness becomes cathartic through monologue.

For these people, the ability to speak their own language is important.

As for me, I create in the fictional world the heat that I did not live in the real world. There may be many emotions that I have killed for social reasons, but the emotions that I could not delete and the place where my faith lives is the fictional world. It is an introversion, but an extroversion that challenges the world. I’ve never been pessimistic about it.

Artists are left with only two choices: mere madness or genius. Van Gogh and Caravaggio are good examples. And Emilie Bronte, whose inner world was immeasurably darker than the one she wrote about in “Wuthering Heights”. A true artist does not look for “genius” to win the admiration of others. The poetic sentiment and the way of looking at things that he could not abandon is a God-given gift, and that is what he is in Christianity. The sensibility that almost killed me many times when I was urged to be social was never socially disadvantageous to me in life. What’s next is to find out if this really was a gift from God.

I want to know the answer to the question of whether it really was. Vladimir Nabokov’s “The Gift” is such a story, and it is also the story of Nabokov’s alter ego in exile in Russia.

One term I have coined is “Soar point”. It has taken me many years to get this theory down to an understanding.

I’m going to write about it in an irregular series.

 In the fictional world, there is no standard height of land. It is a world of language.

I try to write about light, temperature, color and space. The writing is plain, sober, rhyming, It is pregnant with poetic sentiment,

The words are like music, even the spaces between the letters are meaningful, and the protagonist walks through the world I have created, manipulating them.

The first work, ‘Pangaea Doll’, is based on a real patient in a laboratory in England. She was a patient who was strange, but who did not know where she had gone in the real world. The intersection of dream and reality was a psychological and scientifically possible delusion. But the name of the disease was something I made up. It was my first fictional world.

In the second work, “Iconograph”, there is no prominent fictional object, but the clock tower of a mechanical clock becomes imaginary. The phenomenology of the “bird’s nest” is based on the 13th chapter of Matthew’s Gospel.

Jesus was at sea, on a boat where no plants could grow. So he compared the Word of God to a seed. Some seeds can be sown in one place, but the birds will come and eat them. Other seeds fell on stony ground, where the soil was not deep enough and they sprouted quickly, but when the sun came up, they were burnt and withered away because they had no roots. It is difficult for the plant, the Word of God, to grow. ”Listen if you have ears.“The boy who hears these words and The protagonist, Kawamura Koune, goes on a journey of thought to hear God’s blessing. In Japan, Christianity is frowned upon if you don’t like it, and the characters cross over from longing for faith to oblivion, to disgust, and back to blessing. If this were the only explanation, people would mistakenly believe that there is no romance in this novel. That’s the trouble. There is love and death in this story too.

But the first reason I don’t say this is because I believe that waiting for the assessment of a mediocre love affair or death is just an emotional assessment. It is a sad fact that the real world is the same way. Death is equal, but there are special graves for special deaths, and classes for the deaths of the unconscious and the body. But the soul is equal, and the literary world can save even the most unlikely of beings. Literature must have the fervor to express what the masses have ceased to say. Love and death cannot be conveyed by begging only for sympathy, even if it is true. The soul may live without emotional sympathy if it is metaphorically told how the world works and how God works in it. The external world is rarely captured. But the enrichment of the inner world can make even an empty life seem like a footnote.

Many times I have been opposed to adding philosophy or religion to literature, but I have never given in. Perhaps it is because I know how cruel it is to assess the feelings of others. It follows that one’s own words do not grow, and that the same is true of God.

If the Word of God is a plant, it is the bird that spins it into a nest that grows beautifully. The bird’s nest is not only a bird’s nest, but also a part of the human world that it picks up and builds.

My fictional world is such a phenomenology. It represents the formation of orientation, the world created by orientation, while waiting for the analysis of existence. My literature is thus an amalgamation of spins, and there is no such thing as a complete lie. The heat that did not live in this world becomes a fiction.

Just as a bird’s nest still does not know exactly how to nest with precision, so I weave my experiences, my fantasies.  From the fictional “land” of the precise nest, uncertain of how it is completed, my story takes Soar. And the seeds dropped by these birds of fancy can grow or disappear. The reader’s understanding constructs a third world as a plant that grows. That image is both sad and hopeful.

The story must always take flight and Soar .

I have called it the ‘Soar point’.

Continued from (2) (Irregular)

飛翔点(1)





 

「カトリックをまだ哲学的に整理する人はいなかった」
シモーヌ・ヴェイユ

 小説というものも現代では数多くのジャンルがあるが、私の愛する「文学」というものの一つの魅力は、現実にとっては記録に過ぎないものを活かしてくれることだった。ただの失恋が言葉一つで綺麗になったり、忘れ去られる死が意味を持ったりもする。人から忘れろと言われた孤独も、平凡のように見える幸福も、全てが自分の感性次第で、人生をただの忘却を伴う記録か、輝いた人生だったのかがを受け取ることが出来る。

誰しもが拾わない世界から消え去られる瞬間の連続を、言語化して残せるものは作家の感性に委ねられている。恐らくそういう視点を持った者は、瞬間がそのまま消えてしまうことに恐怖を覚えた人であると思う。忘れるほうが幸せという人もいれば、不幸をどう語るか、それによって自分の孤独が独白によってカタルシス生み出す者もいる。

そういう人にとって、己の言語能力は重要なのである。

私の場合は、現実世界に生きなかった熱量を虚構世界に作る。社会性を重視して殺してしまった感情も多くあるかもしれないが、殺せなかった感情や、信仰が生きる場所は虚構世界だった。それは内向的であるが、世界に挑む外向性だった。 私は一度もそれに悲観的になったことはない。

芸術家はただの狂気か、天才か二択しか残されていない。ゴッホやカラヴァッジョ等良い例だと思う。エミリーブロンテも内面世界は計り知れない闇を持っていて「嵐が丘」に書き出した。真の芸術家は、他者からの称賛を得られる「天才」は求めていない。自分が捨てられなかった詩情や物事の捉え方が、神から与えられた賜物であると、キリスト教の中ではそういうことになる。社会性を促されて何度も殺されそうになった感性は、生きていて社会的に不利になったことはなかった。次は本当にこれが神の賜物だったのかどうか、

本当にそうであったのか、その答えが知りたいのだ。ウラジミール・ナボコフの「賜物」もそのような話であり、ロシアからアメリカへ亡命したナボコフの分身のような話である。

一つの私の造語で「飛翔点」がある。この自分の理論を理解まで詰めるのに何年もかかった。

今回は不定期にシリーズ化してそれについて書いていく。

 虚構世界は陸というものの基準となる高さが存在しないが、言語世界でありながらも、

光や体温、色や空間を書こうとしていく。それは平素な文で冷静にようで、詩情を孕んでいて、韻を踏み、日本語の場合は言語から見える概念、外国語の場合は言語が作り出す空間、

語感は音楽のように、文字と文字の空白すらも意味があるように、それらを操りながら、主人公は私が作った世界を歩いていく。

 第一作品目の「パンゲアドール」はイギリスの研究室にいた実在した患者をモデルに書いている。奇異でありながらも、現実世界では何処へ行ったのかも分からない患者だった。夢と現実の交差点は心理学的であり、科学的には存在しうる妄想だった。しかし、病名は私が作ったものだった。それが私の初めての虚構世界である。

 第二作品目の「イコノグラフ」は目立つ虚構らしきものが存在しないが、機械式時計の時計台が想像のものとなる。要となった「鳥の巣」の現象学がマタイの福音書13章を元に広げられている。

イエスは海にいて、植物が育つはずもない船の上にいた。そこで神の御言葉を種に例えた。ある場所に神の御言葉を蒔いても鳥がきて食べてしまう。ほかの種は土の薄い石地に落ちたが、そこは土が深くなく、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。神の御言葉という植物が育つことは難しい。耳があるものは聞くが良い。この言葉を聞き取った少年と、主人公、川村光音は神の祝福を聞く思想の旅に出る。日本では、好きではないと疎まれるキリスト教、登場人物達は信仰への憧れから忘却、嫌悪感、そして再び祝福へと渡り歩いていく。これだけを説明すると人々は、この小説には恋愛がないと勘違いする。それが厄介だ。この話にも恋愛と死は存在する。

 しかし第一に言わないのは、凡庸な恋愛や死の評価を待つというのは感情の査定に過ぎないと思っているからだ。現実世界もそうであるのが哀しいところである。死は平等であるが、特別な死は特別な墓、無縁仏と肉体の死は階級がある。けれども魂は平等であり、文学世界は無縁仏のような存在も救い上げることがある。文学は、大衆が言葉にしなくなった事を突出して出す熱量が必要である。愛と死は、例え事実でも同情のみで乞うても伝わらないのである。世界がどのように現象し、神の働きがあるのかを隠喩を込めれば感情の共感が得られなくても、その魂は生きるのかもしれない。外界世界というのは捉えられることは少ない。しかし内面世界を豊にすることは、虚しい人生さえも脚色する。

私は文学に、何度も哲学を添えることも、宗教を添えることも反対されたが、譲らなかった。恐らく、他者の感情の査定がどれほど残酷か知っているからだと思う。己の言葉が育たない、それは神も同じことであり、信徒はそれに続くのである。

神の御言葉が植物だとすれば、見事に育った先にそれを紡ぎだすのが鳥であり、鳥の巣である。鳥の巣というものは、それだけではなく人間世界の一部をつまみとって巣を作っていく。

私の虚構世界とはそのような現象学である。志向性の成立、志向性が作り出した世界を表しながら、存在の分析を待っている。私の文学にはこのように、紡ぎだしたものの集合体であり、完全な嘘は存在しない。この世に生きなかった熱量が虚構になっていく。

鳥の巣が未だに厳密にどのように精密に巣を作るのか分からないように、私もそのように、経験や空想という経験も紡いでいく。どのように完成されたのか不透明なまま、精密な巣という虚構の「陸」から、私の物語は飛翔する。そして、その空想の鳥達が落とした種は育つこともあれば、消えてしまう。読者の理解は育った植物として第三の世界を構築する。そのイマージュは切なくもあり希望でもある。

必ず物語は飛翔しなければならない。

私はそれを「飛翔点」とした。

(2)に続く。(不定期)

収容所の被害者

Johan Liebert is the titular character in “Monster“but Not drawn by the author. It’s a homage.
Author unknown. Additions are required.

あの時、あの怪物が僕の前に現れた。

母さんは僕を助けようとしたの?
僕と妹を間違えたの?
どっち?

母さん はなさないで

Monster 浦沢直樹

被害者というのも収容所行きと思うことがある。一度味合うと母国語であろうが人に伝わらない。

「忘れなよ」とは一体何処の国の言葉だろうか? 

生まれてから気が付けば何度も収容所に入れられる。記憶しているのは、最初に入れられたのが7歳の頃だった。入れた相手は一人の女教師だった。私の自我、現存の体感が壊れたとしたのなら、この女教師の影響だろう。それでも誰も助けてはくれなかった。憎しみと哀しみの中で、光を見出した。それが最初の解放である。誰が当時の私を教誨したのか、それは分からない。けれども、現象学的な視野を手に入れたことによって私の独白は大きくなった。記憶の中の空は常に青かったが、言葉はいつも憂いていた。それは心理学が肯定した。人間は定立と反定立が共存していると書いてあった。

現象学では未来よりも過去よりも現在という「瞬間」というものが突出していく。その中に幼心は「瞬間」に未来の光を想像した。それが糧だった。何度も収容所に入っていくと、その光が弱くなっていくことに気づいていく。光が弱くなった時に、同胞がいることに気づく。暗闇のほうがよく見える、それが大人になった証なのだろう。

様々な被害者というものを見て来たが、拘置所に行くような選択する人達も見て来た。加害者の最高の刑罰、「死刑」と被害者も拘置所に行く。

私はある人に対して、このまま死に向かっていくのではないかと、

気が付いたら自分が言ってしまいそうになるのだ。

「忘れなよ」

その時、解放の合図が鳴って外に出される。私の傷は癒えていたので声をかける資格がなかった。私の言葉は収容所の壁一枚隔てていくようになる。

愛と正義に関して、愛と正義は相反することもあると、私はこのブログ開設から繰り返して書くようになったが、今回はヨハネパウロ2世の話をしたいと思う。トルコ人のアリ・アジャは1981年5月13日にヨハネパウロ2世を撃ったが、一命を取り留めた。アリ・アジャは終身刑だったが、撃った教皇によって恩赦を受けた。ヨハネパウロ2世はこの後も別件で暗殺未遂の被害者になり、晩年は暗殺未遂による後遺症やパーキンソン病に苦しむことになる。

アリ・アジャは教皇の死を悲しみ、献花のみが許された。2016年、カトリックの司祭として希望しているが、定かではないとまでしか私は知らない。

ヨハネパウロ2世の真の心の内は知らないが、彼の執筆したものは光溢れるものであり、

闇も多く知らせている。それは光の傍にある。

それは盲目の罪人への警告ではなく、迷える羊への道しるべである。

彼は「希望の扉を開く」の「世界の拒絶」という章で「真の教えが不人気なときに、

安易な人気を求めるのは許されない」としている。

被害者が収容される収容所は、仲間割れもあった。必ず革命家の妄想を抱く人間が、

人を攻撃し始める。そして、か細く集まっていくのが「簡単な言葉に騙された」人達である。

被害者は一時被害だけでなく、世界の拒絶といえる二次被害、三次被害に苦しんでいく。

イエスキリストは、マタイ7章13・14で永遠の救いへの道は広くも快適でもなく、かえって狭くて困難であるとしている。大衆が勘違いしているキリストという救世主は、

快適な道を教えていない。もっといえば神と救世主を勘違いして、批判する人が多い。

救世主というものは、本当に世界のためか、大衆の願望によって生まれた「偶像」がある。その騙し合いは古くから続いている。

 被害者は「偶像」こそ注意しなければならない。この意味が分かる人は被害者という収容所を知っている人だと思う。外に出ても其処がどんな収容所だったのかを忘れない。分からない人は、自分がマスメディアとなって人を傷つけていることを知らない、偽善者だろう。妄想で革命者気どりで、一切自分の「善」を疑わない。

剣の脅威を知らない人間がペンで多くの人を傷つけている。

それはもう被害者という収容所に向かっているのではない。

向かうのは犯罪者が向かう本物の刑務所である。

黙示録では獣とは数字であり名前が無い。黙示録13章に十本の角と七つの頭がある獣について「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか」という問いがある。その答えは「知恵」の要求だった。(18節)

賢い人は、獣の数字にどのような意味があるのかを考えるが良い。

数字は人間を表している。

獣とは人間である。それを知るものは謙虚である。

偽善者は他者に武器を持たせることしかしない。救世主は自分を癒すことを知らせる。

偽善者はすぐ弱音で同情を誘う。救世主は傷ついたことを黙って耐える。すぐ偽善者が来ることを知っているからだ。

私よりも可哀想なある被害者に「忘れなよ」とは言えなかった。

そのことが気がかりのまま、私は闇を忘れることがない。あの人は、

何処へ運ばれたのだろうか。少しでも光が見えたのだろうか。

その連絡網を断ち切ったのが、今の偽善者である。

分かりやすいものは、闇を簡単に教える。分かりにくいものは、闇は皆持っていると

教える。皆、心の中に「獣」がいる。

長々と、たとえ話が長くなったが、

もしも、被害者として死刑に向かっている人がいるのならこれしか言えない。

「この死刑は再審出来る。請求せよ」

後に引けない死の誘いが何度もあったが、生き恥でも晒して生きてほしい。

 浦沢直樹のMonsterは若い私の心を掻き立ててくれた。大衆が混沌として「神なんか信じない」と騒ぐ中、

救世主と神の違いを教えてくれた漫画なんてものは珍しい。イギリスでも人気があって、イギリスで読んでいた。主人公の天馬はヨハンの本当の名前を知っているが、最後まで明かされなかった。彼は獣だったが、人間でもあった。彼は東ドイツの陰謀の被害者であったが、罪人に手を染めていた。

だから、聖人と同じ名前を本当の名前にしなかった。引用に使われた黙示録13章に忠実で素晴らしかった。黙示録はヨハネという男が登場するが、執筆者は不明。ヨハンはヨハネ系列の名である。

繋がりのある記事

L’éternel substitut(jp and english ver)

Le temps est une image de l’éternité, mais c’est aussi un ersatz de l’éternité.

時間は永遠を映すものである。けれども、また永遠の代用品でもある。

Time is a reflection of eternity. But it is also a substitute for eternity.

Simone Weil (Renoncement au temps)

l’éternité

解説: 永遠というのは時間を伴うが、時間が有限であるのに対して永遠は無限を表す。しかし、私達は永遠を知覚することは出来ない。時の区切りは、永遠の一部、だから永遠の代用品。la éternitéの略。

Explanation: Eternity involves time, while time is finite, eternity represents immutability. However, we cannot perceive eternity. Time is part of eternity and therefore a substitute for eternity.

The Little Mermaid and Christian Existentialism(English.ver)

Edmund Dulac
Night after night, morning after morning, the little mermaid went to the beach to see if she could find her prince.

Andersen's The Little Mermaid

Andersen’s “The Little Mermaid” is one that makes me think over and over again. I won’t comment on the Disney version

I’m not going to comment on the Disney version of “The Little Mermaid” because I don’t care for it, but many commentaries on the original story end with the Little Mermaid turning into bubbles and dying, when in fact there is more to the story.

But in fact there is more to the story. The little mermaid, who did not get a human soul, does not go to heaven but becomes a spirit. It is explained to her that she is not a bad spirit and that she can go to heaven after 300 years. If she comes into contact with a good child, her day will be one day earlier, but if she meets a bad child, it will be one day later. Andersen’s message to the children is.

Be a good boy so that the Little Mermaid can go to heaven as soon as possible.

The Little Mermaid is made up of three main elements.

(1) existentialism

(2)love

(3)Christian thought

The Little Mermaid is said to have been influenced by Fouquet’s “Undine”. For the Christian world, the Holy Spirit of water lives apart from the grace of God. Probably this is based on the biblical interpretation that water existed from the beginning of Genesis. Such a confrontational being tries to become a human being, which makes the reader imagine what it means to be human. The setting was such that a being like the Little Mermaid would not be as short-lived as a human being. And most of all, they were afraid of death. Mermaids can live for 300 years, but after death they turn into bubbles.In the world of mermaids, the old people do not doubt that they are happy to live 300 years longer and drift away in bubbles, and only the youngest mermaid princess yearns for human death and soul. Only the youngest, the mermaid princess, yearns for human death and the soul, as well as for eternity.

For her, it was “love” that gave her the opportunity to do so. The world of mermaids can ascend to the world of humans at the age of 15. For these girls, it was their one chance to see the world that God had created. Each of the sisters has seen the world of God’s grace in different ways. From the bottom of the water to the top, it is the same for the believer to see each landscape. It is often misunderstood that each landscape is different, just as each believer is unique, even though they read the same Bible. The immanent world of the mermaid (later refuted by Husserl) is existentialist, just as Kierkegaard said that we must quit chasing ‘truth’ and challenge philosophy by separating philosophy from theology. Only the youngest, the Little Mermaid, has acquired something called “love”. Love is the feeling of wanting to connect with someone. With the occult mysticism of the witch, she became a human being.

However, she has lost her voice and her legs hurt. To get rid of this, she had to be discovered by the prince.

The Little Mermaid is a symbol of the “poor” for Andersen. The mermaid is a symbol of the “poor ” for Andersen, a man who had almost no human rights, but who thought calmly about how he could get his rights, which were financial. In the world of the Bible, language is considered to be important. That’s what the first chapter of John’s Gospel says This is because in the first chapter of John’s Gospel, the Logos hymn, “With God was speech”, is also attributed to man.

The pain in the feet is because the legs were the proof that he had become a man from a mermaid, and because the biblical world values that there is always suffering during life.

When you read the original story in detail, the Little Mermaid is actually loved by the prince. He is searching for the little mermaid after she has fallen and disappeared. The prince and princess are grieving the loss of the little mermaid and are staring at the sea foam.

It was agape, not dyeing, not erosive. It is perhaps ironic that the poorer a person is, the less he or she is able to achieve real happiness and the more he or she has to depend on God’s love, the love of God, the love that surrounds him or her, agape. In order to exist as a human being, the Little Mermaid had to obtain something substantial.In order to have human rights, she had to belong to an authority such as a prince.In order to have human rights, she had to belong to an authority such as a prince.  The love of marriage is substantial and mysterious.

Marriage is one of the most mysterious things in Christendom. The irony of this is existentialism and realism. This story exists in both.

At first glance, “I fell in love with a prince” seems like an optimistic dream.

Compared with, for example, Charles Perrault’s fairy tales about a nobleman’s daughter, Andersen’s cruelty is out of line. But he believed in the love of God.

This drift is well expressed in Andersen’s work.

I have heard that the only people who were not hostile to Andersen were the children he read to.I have heard it said. He wanted the children to love the Little Mermaid, to feel pure pity for her. And we read to them to remind them to be good so that she can go to heaven one day.

And as we grow older, we are influenced again and again by the pure love of the Little Mermaid.  She must have found happiness. She fell in love with a prince in the world of God’s grace.

She fell in love with a prince in the world of God’s grace.

This is not a sad story. It is a look at what we do.

MakotoTakahashi”The little Mermaid”

人魚姫とキリスト教実存主義

Edmund Dulac
人魚姫は幾晩も幾朝も、王子と別れた波辺に浮かび上がりました。
アンデルセン「人魚姫」

アンデルセンの「人魚姫」は何度も考えさせられる作品である。私はディズニー版の「リトルマーメイド」の話は度外視しているので評しないが、原作の解説で、人魚姫の最後は泡になって死んでしまう、で終了しているのが多く見られるが実際は続きがある。

人間の魂を得られなかった人魚姫は天国には行けずに精霊となる。それは悪い聖霊ではなく、300年経てば天国に行けると人魚姫は説明を受ける。良い子と触れ合えばその日は1日早くなるが、悪い子に会えば1日遅れていく。アンデルセンの子供たちへのメッセージは、

人魚姫が一日でも早く天国に行けるように、良い子でいましょうとしたのである。

人魚姫は大きく三つの要素によって構成されている。

➀実存主義

②愛

③キリスト教思想

 人魚姫はフーケのウンディーネの影響を受けているとされている。キリスト教圏にとって、水の聖霊は神の恩寵とは別に生きている。恐らくそれは創世記のはじめ、水は元から存在していたという聖書解釈に基づかれたものである。そういった対峙的な存在が人間になろうとすることによって、人間である意味を読者に想像させる。人魚姫のような存在は人間のように短命ではないという設定だった。そして何よりも死を恐れていて、人魚は300年生きられるが、死後は泡になってしまうということだった。人魚の世界では年寄りは、300年長く生きて、泡になって漂うことが幸せだと疑わず、末っ子の人魚姫だけ人間の死と魂に憧れを持つ。それと同時に永遠を欲するのである。

彼女にとって、その機会を与えたのは「恋」だった。人魚の世界は15歳になったら人間の世界へと昇れる。彼女達にとっては、それが神の創られた世界を見る1度きりのチャンスだった。それぞれの姉たちは色んな神の恩寵世界を見ている。水底から水上へ、それぞれの景観を目にするのは、信者にとっても同じである。色々と誤解されるが、同じ聖書を読みながら、信者に個性があるように、それぞれの景観は違うのである。キルケゴールが「真理」を追うことを辞めて、哲学と神学を切り離して哲学を挑まなければならないと言ったように、(後にフッサールに反論される)人魚の内在世界は、実存主義的なのである。それを末っ子の人魚姫だけ「恋」というものを手に入れてしまった。恋とは相手と結びつきたいという感情である。魔女というオカルト的な神秘主義を手に入れ、彼女は人間になった。

但し、声を失い、足も痛む。それを解消するには王子から見染められなければならなかった。

人魚姫はアンデルセンにとって「貧しい人」の象徴ともされている。人権がほぼ無いに等しかった人間が、どうやったら権利を得られるか、それは金銭的なものだと冷静に考えた結果だったと思う。聖書の世界では言語は重要な存在とされる。それはヨハネの福音書の1章の、ロゴス賛歌、神と一緒に言があったと、これも人間のものとされているからである。

足の痛みは、人魚から人間になれたという証が「足」だったからであり、聖書の世界では生きている間は必ず苦しみがあるという価値観であるので、足に痛みを与えたのだと思う。

人魚姫は原作を細かく読んでいくと、実際は王子様に愛されている。解説ではよく人魚姫が落ちて消えてしまった後に探し回っていることも見落とされている。王子様とお姫様は、人魚姫の喪失を悲しんで、海の泡を見つめている。それはアガペー的なもので、見染める、エロース的なものでなかった。恐らく、貧しい人ほど実質的な幸福が得られず神様の愛、神を慕う愛、それらを取り巻く愛であるアガペーに依存せざるを得ない事への皮肉(哀しみ)である。人魚姫が人間として存在するために、実質的なものを手に入れないといけないとした。人権を得れるために、王子のような権威に属しなければならなかったこと、婚礼の愛は実質的なものであり、神秘も孕んでいる。婚礼とはキリスト教圏ではもっとも神秘的なことである。それへの皮肉が実存主義でありリアリズムであり、婚礼とはキリスト教圏ではもっとも神秘的なことである。それらの皮肉が実存主義でありリアリズムである。この話は両方存在している。

「王子様に恋をした」それは一見は楽観的な夢物語に思える。

例えば、シャルルペローの貴族の娘の読み聞かせ童話と比べると、アンデルセンの残酷性は一線を引いている。しかし、彼は神への愛を信じていた。

この漂いを上手くアンデルセンは作品にしている。

アンデルセンが唯一、敵意を持たなかったのは読み聞かせの子供たちだったと

聞いたことがある。子ども達には人魚姫を純粋に可哀想だと愛して欲しかった。

そして、天国へ一日でも行けるように良い子でいてほしいと思ったのだろう。

更に、私達は大人になっても人魚姫の純愛に何度も影響を受ける。彼女は幸福を得たのだろう。神の恩寵世界で王子に恋をして、「愛」を覚えたのだから。

これは悲しい話ではない。私達の行いを見つめる作品である。

高橋真琴「人魚姫」

Der Vorleser(English.Ver)

Bernhard Schlink

The story takes place in Germany, where Michael, then 15, becomes jaundiced on his way to school and is found and nursed by Hanna, 36, who is a year older than him. They eventually become romantics, but for some reason Hanna invites the protagonist to read some books to her. One of the books, Odysseus, is estimated to have taken place in the 1200s BC, during the time of the Trojan War and the Mycenaean civilization. In the eighth century BCE, Homerosu put together a collection of stories based on the 400 years of Trojan warfare that had been handed down by “oral tradition”. (The Iliad and Odysseas )

The protagonist, born after the Second World War, reads this lore and facts for Hannah.

Hanna has many secrets and suddenly disappears from his sight. The protagonist cannot accept her loss but forgets about it. The year is 1960 and the world is in the throes of a student movement.

He is now a university student. While attending a seminar on the trial of Nazi war criminals, he finds himself standing in front of

Hanna, whom he had once loved.

She was a prison guard in a concentration camp.

As the trial progressed, the hero remembered that Hanna had asked him to read a book. As he watched her trial, the protagonist realised that Hanna was illiterate. She couldn’t read and had moved from one job to another before it became known that she couldn’t read.

Perhaps it had something to do with the fact that she was a Roma from Romania. In front of the print that she could not read, she opened the door to the world only with his voice. She immersed herself in the warmth of his skin and the world that his voice took her to, knowing that one day she would meet her fate. The trial is a life sentence against her, without her realising that she is illiterate.

In the trial of the concentration camp officials, the key question was whether they had intended to kill her or not, but it was recorded that Hannah had read books to the prisoners. At that point, it was false.

Michaela was unable to love another woman, even though she had long since forgotten Hanna.

He has been in contact with his father, a professor of philosophy, about Hannah. Finally, Hanna is pardoned, but thanks to the help of the protagonist, she is able to write, and after.

*****

 

When “The Reader” became popular, many felt disgusted by the romance between a 15-year-old and a 36-year-old.

Judging them only by their age and their bodies, they called the love of another person, even if it was fiction, freaky.

People are equal in soul if you take off their skin, but they don’t care about that. But they don’t understand what it means to be separated by age. Could they have expressed the intertwining of the protagonist, who had never heard of this war, and the woman whose job was to be judged by the world? At a time when people assumed that people who were like war criminals were evil, there was nothing but love between two people who did not know each other’s position. I don’t dwell too much on the “Nazis”. It is a story of love.

The fictional world, which incorporates reality, allows us to write about love, slipping past the arguments that cannot be conceded in the real world.

Only in stories can the possibility of love be described in the midst of all the hatred.

An American writer once told me that writers can hear the voices of their characters in their heads. The written world is unique, without sound, time or color. It is up to the writer to decide what kind of loneliness and emotion he or she feels within it, but for the writer, publication is just a voice.

In the hands of the reader, he or she constructs a third world out of the world of the novel, and begins to understand his or her own novel. And they wonder. And they wonder. I want a reader. (Perhaps a film adaptation would be the most desirable these days.

I hadn’t looked very carefully, but when I found a reader, the world opened up to me.

Her beloved Michaela had a future to live up to in the famous words of the Odyssey. Hannah is not given such a thing. The author’s choice of this classic has many implications.

Every human being has a monologue. Her life was one in which she was never allowed to have hope again.
The reading from him, temporarily young, was a new world, his own monologue.
He must have been a spokesman for her.

The author’s choice of the classic “The Odyssey” has many implications: it shows that even among those who must be judged, there is love. Only a novel can do this. There is no other reality in which you can write about unforgivable love in a fictional world and say publicly that even war criminals had love.

****

The film title, oddly enough, was Japanese: ” 愛を読む人”.

The love formed by a voice disappears the fastest. The love formed by the voice fades away the fastest. Of the five senses, it is the voice that we lose first in memory. Next comes sight, touch, taste and smell.

Michael sent a tape he had recorded again for Hanna. With “The Odyssey”.

But he didn’t sound the same as he did then. She did not recognise his love.

She didn’t recognize it as his love, but as a voice that was trying to rehabilitate her.

 

I thought it was Hannah’s impulse to commit suicide.

Perhaps. The voice of the young man she loved had disappeared.

.

Who was the reader of the Holocaust?

The new reader for her was not the man she loved.

If there had been no war, we would have been souls of the same age and background. And yet it was a sad story of division.  But judgement cannot divide us from love. Even if we are torn apart, the past, in which his voice lived, lives on, even if it disappears from our memories.

Love” remained as a residue.

*about Obysseus quote: This is a sentence from Odysseus and is not mentioned in the novel.*

朗読者を想う

 「朗読者」ベルンハルト シュリンク

 舞台はドイツ、当時15歳だったミヒャエル・ヴェルクは通学途中で黄疸を患って、一回り年上の36歳のハンナに見つけてもらって看病してもらう。二人はやがて恋人になるが、ハンナは何故か主人公に本を読んでほしいと誘った。その中の一つの「オデュッセウス」は、トロイア戦争のあったミュケーナイ文明時代の紀元前1200年代に起こったと推定されている。前8世紀頃に、ホローメスが「口承」によって語り伝えらえてきた400年ものトロイア戦争を題材に纏めたことになる。(「Iliad」「Odysseus」)

この伝承と事実を、第二次世界大戦後に生まれた主人公がハンナのために読んでいく。

ハンナには秘密が多く、突然彼の前から姿を消した。主人公は彼女の喪失を受け止められずにいたが忘れていく。時間が経って1960年世界中が学生運動が活発なときに、主人公は大学生になった。ナチス戦犯の裁判傍聴のゼミに参加していた時に、立たされていたのは、

嘗て愛した女性、ハンナだった。彼女は強制収容所の囚人の看守だった。

裁判が進むにつれて主人公は、ハンナが読んでと頼んで本を渡したことを思い出した。

彼女の裁判の様子と過去を思い返しながら、主人公はハンナが文盲だと気づいた。

彼女は文章が読めず、読めないのが知られる前に職を転々としていた。

それは、もしかしたら彼女がルーマニア出身のロマだったのも関係があったのかもしれない。彼女は読めない活字の前で、彼の声だけで世界の扉を開いていた。

いつか自身の訪れる運命も知りながら、声が連れていく世界と彼の肌の温もりに浸っていた。裁判は彼女が文盲だということ気づかないまま、彼女にとって不利な終身刑となる。

強制収容所の関係者の裁判で、重要なのは殺意があったか、無かったが問われるが、ハンナは囚人たちに本を読み聞かせをしていたという記録があった。その時点でそれは虚偽であった。

主人公は、ずっとハンナを忘れていたとはいえ他の女性を愛せないでいた。

ハンナの件で、哲学教授の父親に掛け合っていた。そして、漸くハンナは恩赦を受けられたが、主人公の手助けのお陰で字が書けるようになり、ホロスコートの現実が書かれた書籍を目に通して、ハンナは自殺をしてしまう。

*****

 「朗読者」が流行ったときに、15歳と36歳の恋愛に嫌悪感を抱いた感想が多かった。

年齢と肉体だけで判断すると、フィクションとはいえども他人の愛を気色悪いと言うこと、

人間、皮を剥げば魂は平等なのに、そんな事はお構いなしの感想が多かった。けれども、年齢を離した意味を理解していない。この戦争を知らなかった主人公と、世界から審判がかけられる仕事をしていた女性の絡み合いを表現出来たのだろうか。戦犯同然の人間は悪だと人々が決めつけていた時代、お互いの立場を知らない二人には愛しかなかった。私はナチスドイツ政権下について深く考察することはない。これは愛の物語だからである。

現実を取り入れた虚構世界は、現実世界では譲り合えない議論をすり抜けて「愛」を書くことが出来る。

どんな憎しみの中でも愛の可能性が描写出来るのは物語だけだ。

 作家は頭の中で登場人物の声が聞こえると、あるアメリカの作家も言っていた。

文字世界は独特で音も時間も色も無い。その中でどんな孤独や情念を抱くのかは作家によってそれぞれだが、作家にとっては出版というのは産声に過ぎない。

読者の手に取られて、読者は小説世界から受けた世界で第三世界を構築して、自分の小説を理解していく。疑問にも思っていく。そして、思うのだ。

朗読者が欲しいと。(最近は映画化が一番望まれるのかもしれないが)

注意深く探したことがなかったが、朗読者を見つけたときは世界が開いた気持ちになった。

私にとっては自分が愛した作品世界に他者を入れる唯一の存在だからだ。それは映画化ではない。映画化は分解され、損得で会議にかけられてオペのようだ。それも構わないが、朗読者こそ作家の伴侶だった。

朗読は、愛している声しか入れられない。自分の書いた痕跡を綺麗に語ってくれる。

人間は誰しもモノローグを持っている。彼女の人生は二度と希望を持つことが許されない存在だった。
一時の若い彼からの朗読は、新しい世界、自分のモノローグの
代弁者だったのだろう。

作家、ベルハルント・シュリンクが何処まで計算に入れていたのかは謎だが、

朗読されることは、着飾った言葉よりも官能的である。現代は自分の言葉で語ることが

社会性だと思われるが、朗読から重なる共感や、運命、愛する人間の声は本人にとっては、

特別なものになる。オデュッセウスの一文「放浪の人生ほど人間にとって悪いものはない」と、

「あまり永すぎる休息は苦痛なり」この背反する言葉にハンナは本当に行方をくらますことになる。

(あくまでのオデュッセウスの内容であり作中にはそのような描写はない)

愛するミヒャエルは、オデュッセウスの名言のように生きていく未来があった。ハンナにはそのようなものは与えられない。「Odysseus」この古典を選んだ作者は、多くの意味を持たせている。

必ず裁かなければならない人間の中にも、愛があったと。こんなことを書けるのは小説だけだ。虚構の中に許されない愛を書くこと、戦犯にも愛があったと、それを公言出来る現実は何処にも存在しない。

彼女は確かに最終的に文章が読めるようになった。けれども、頭の中で反芻するものはミヒャエルと共に過ごしていた日々と懸け離れていたと思われる。

*****

映画タイトルは奇しくも「愛を読む人」と邦題がついた。

声の形成した愛は、一番早く消えていく。五感の中で一番最初に記憶で失うのは

聴覚(声)である。次に視覚、触覚、味覚、嗅覚となる。

ミヒャエルはハンナのために再度録音したテープを送った。「オデュッセウス」と共に。

しかし、あの頃の声とは違ったのだろう。彼女は彼の愛だと気づけなかった。

自分を更生させるための声だと異質なものになっていたのだろう。

ホロスコートの朗読者は誰だったのか。

頭の中で響いた声は誰の声だったのか、それは分からないが、

新しい朗読者は愛した彼ではなかった。だから彼女は命を絶った。

戦争がなければ、境遇も年齢も超えた同じ魂だった。それなのに分断された悲しい話だった。しかし、審判は愛までは分断出来ない。たとえ引き裂かれても、彼の声が生きていた過去は、記憶から消えても生き続けている。

残滓として「愛」が残っていた。

Sun and Steel (English.ver)

Outline of this post.


In 2018, during my recuperation period after a suicide attempt, I read Yukio Mishima" The Sun and Steel." In it, he wrote about feelings that were neither fiction nor criticism.
He wrote about "confession" at night, "criticism" by day, and a time when he was neither.

I will taste this neither time until 2021.

The book, which was also the subject of a controversial debate at the University of Tokyo (1969), seems not to have been appreciated in Japan at the time. I have been on the road from leaving Catholicism to conversion.
I was struggling to talk about this mortal disease in my story. Would it be non-fiction, or should I force it to be fiction? Whether I choose the sun or the night.

There was also the question of Catholicism and the political uncertainty of the future in Japan. For many years, I had forgotten the poetry of Mishima response to the sun.
In 2021, I have decided to move on to the night (literature).
This involves a lot of interpretation on my part. In Sartre's terms, it is "the other with the subject".

Apologies that this is not a thorough explanation of the sun and Steel.



The” Sun and Steel” was one of Yukio Mishima lesser-known works at the time. After a long time.I read this in 2018 and found much to sympathies with. I read this in 2018 and found much to sympathies with. In the process of writing, some things are difficult to express even as a novel. I too fell into that groove around 2017. Probably every artist. I feel like it comes to every artist. Sometimes we can’t establish ourselves because we are confused by current trends or common perceptions.  Mishima described it as an intermediate form between confession and criticism, “a kind of hidden criticism”.

Mishima is perhaps the only person who has focused on the area of twilight that exists between night as confession and day as criticism.

Sartre’s raison d’etre about existence and essence is that existence precedes essence, but this kind of wayward speculation, a combination of fiction and criticism, is a wandering interior that does not know the outer skin of existence, and is itself an embryo that does not know the outer world (essence).

It is the equivalent of inference, prediction and prophecy. When the result is not yet known, even if we think we have grasped the essence, we cannot be sure. A novel does not have enough material to be written, and a criticism is only an assumption made a few years in the future. But there are times when the feeling is strong.

At such times, I think back to Van Gogh’s Madness paintings.

His paintings were first of all existentially unsuccessful. Later, his brother Theo’s wife succeeded in selling Van Gogh’s paintings and made him into the genius that he is today. Over time, they created the essence of Van Gogh’s paintings. Over time, they created the essence of Van Gogh’s paintings, or the world discovered them.

The Starry Night
This is one of my favorite Van Gogh paintings. I don’t know of any other painting that depicts the stirring darkness so clearly.

I think Mishima is right when he declares in this book that he is not a poet. Poets, like Van Gogh’s paintings, are not afraid of consequences, and they do not fall between confession and criticism. Hermann Hesse is a genius as a poet and Rubaiyat dances without fear of criticism from Christians.

It seems to me that Iran is famous for its poets. Perhaps they are not afraid of death (or the oppression of others). That free enthusiasm, which neither the cooperation of the Japanese nor the argumentative nature of the West can match, is something to be admired and, as a result of more social experience, I think we will never have it again. We all dream of it and run with it, but the tragedy and happiness that we have created with our speculations, from pacifisms, through physical pain, gradually becomes a reality.

When I was young, I would have run without fear. In the midst of it all, joy and despair, like differential and integral calculus, were repeated, and expectation and despair may have exceeded real reality. In the midst of this repetition of the mundane routine, where sleep brings morning and daily life again, I had my moments of real despair.

In turn, disappointment and disillusionment increased, becoming part of the larger reality of the real world.

Gradually, disappointment and disillusionment increase, and the artist becomes part of the larger existential context of the real world.

That’s the end of the artist. It is only natural that he should lose his individuality.

I’m trying to be unique because of my long established taste, but my body is screaming. The days when I used to write poetry in the evening, even if it was bad, seem like a lie.

It was a mistake in the first place to see it as a defeat. The thought of being abandoned by night and day

It will always go somewhere. It is like a long, inflexible Steel. That is how I see it.

In my analysis, Mishima Steel element probably became the sun and led to his suicide.

I have decided, after a long time, to return to the Night once more. That’s when I retired as a journalist. It is proof that I am no longer outspoken about current affairs. The man who lives by night lives for the invisible presence of human sensibility. The man who lives by day lives for the market and the human condition.

There is no right or wrong, because both are necessary.

But when speech and knowledge are wasted, it is tempting to talk about real problems.

Isn’t it the starting point of a literary person to keep that ” babble ” silent until night?

I will not write directly about why I attempted suicide, or the process of my conversion. Instead, I will start to confess, as if in the night, my memories and records were a wild reflection.

In this fictional world, the person who speaks for me is a man and other women, and the story goes on. There is, in effect, a fictional character (a lie). But the essence is not a lie. Within the non-existent outer skin, there is an interior that I have experienced and gone through.

I have read a lot of Mishima during my illness. But I chose a different path from him.

In his writings he wrote

“Now I no longer believe with all my heart in the idea of classicism, about which I was so passionate at the age of twenty-six. I no longer believe in it with all my heart”

I might not have the awe-inspiring ardor of my youth, either. I sympathies with him in this confession under the sun.

But, like the protagonist of the piano tuner I am writing about, I intend to expand the literature to say that sound does not die. In the despair of the protagonist, my inner light is incorporated.

It is with God.

WordPress.com でブログを始める.

ページ先頭へ ↑