鎮魂詩

まだ知ることなく 留まることのない 美しい今日を
酔いしれたように氷面を打ち破ってくれるだろうか。
この固く閉ざされた忘却の湖に降りかかる氷花の下で、
逃れることが出来なかった飛翔にとどまっている。

かつての白鳥は想い出す。それは黄金律の美しさによって
生きるべき領地で歌わずにいたことで、希望もないまま
不毛の冬から倦怠を解き放ったことを。

白鳥はこの困難について首を振るだろう。
万物の広がりを否定する鳥に与えたこの白い試練を、
その羽が担う地上の恐怖などを気にせずに、
その純粋な輝きが意味を成そうとする幻影は
微動だにせず、その悲劇と冷たい夢を流刑の中へ。
それは身に纏う、白鳥の姿。 


マラルメ「白鳥のソネ」翻訳:ChrisKyogetu

友人のご家族が亡くなった際に世間話を頼まれた。最近、人との接触が少ない最中で意外と難しい話だった。友人の性格を考えながら、自分が通夜で眠らない日の最中見るとしたら何かないかと思っていた。きっと他の人なら「それで?」と話が繋がらないだろうけれども、友人なら分かると思うので書き残した。その内容をここでも書き残すことにする。

私の祖父が生前に文学の集まりで太宰治を見たことがあると言っていた。祖父と太宰は同じ大学だった。しかし祖父は貧困の家の出なので入学の仕方が太宰達とは違った。祖父は当時、県や国がお金を払うほどの努力の人だった。そんな祖父は詩人になりたかった。マラルメを特に好んでいたようで、彼は優秀だったので自分こそがマラルメを引き継げると自負があった。そんな中で彼は太宰治がいるところに一回だけ参加したことがあった。 彼から見たら、当時の太宰は阿保にしか見えなかった。けれども太宰の周りは楽しそうに彼の話を聞く。そんな太宰がマラルメを語ったときに、祖父の心はかき乱された。自分が好きな作家が嫌いな人に歪曲され、その人のほうが本を出せる。その現実を、祖父は語ってくれた。どちらかといえば、祖父の言葉よりも感情のほうが印象に残っている。冷静になんでも答えるその人が、その光景が見えているかのように語るからだ。私はその当時の光景を狭くて小さな部屋で無名作家や革命家が集まる意気揚々とした様子が少し見えたような気がした。祖父はその集まりを道楽だと貶したが、私に言った。太宰は……「世の中のつまんない事も面白おかしく話す。みんなそれで一緒にいて楽しいと思う。それはお前に似ているな。お前は作家になったらどうか? おじいちゃんにはその才能がなかったからな」

その当時、私は小学生でマラルメも太宰もよくは知らなかった。あの人の書斎には聖域のようにガラス扉の本棚にマラルメやヴァレリーはあって、開けることは禁止されていた。「欲しかったら、お金を渡すから自分で買ってくれ」それが彼の口癖だった。けれども、この人がどんな文学を好んでいるのかは肌で分かっていた。だから私はその時に言った。「その嫌いな作家達に盗られた話を私が取り返してあげる」彼は「そうか」と笑っていたのだと思う。私はその後、すぐにそれを実行したわけでもなくそのまま法学部、心理学部に進学すると祖父は言った。「詩こそ最高の学問だ」と言った。けれども私は聞き流した。内心は、本能的なものなのか上だと思っている人を超えたかった。輝かしいこの人の実績を超えたかった。

私が学生時代のころは既に心理学の「無意識」は否定の方向*へと向かっていた。 現代は特に忌み嫌われている。「無意識は存在しない」現象学においての無意識へのエポケー(括弧)は、ヤスパースの痛烈なフロイト批判の最中、自分の視野を出来るだけ拡大することに務める。主観と客観と世界、それらの布置を適格に把握しようとする動きによって進んでいた。私も、学生時代に集合的無意識の論文を書いたが、それはまるで瀕死の事実を看取るような気分だった。その経験を生かした小説を一本仕上げた後は哲学の現象学に移動した。ユングの心理療法は告白、解明、教育、変容(transformation)であったが、現代がそんな事を聞かされない事が大半なので、どのように心理療法が定まったのか自明だろう。あまり医療行為にも触れるこの点は多くは語らないが、無意識という領域は完全否定出来るものなのか分からない。今回は少し、人間現象の背後に影響がある混沌について語ろうと思う。

今回、友人から家族が亡くなった知らせと同時に世間話を頼まれた。ただそれだけの事だったが、祖父のことを思い出せたのである。その前後付近に太宰もマラルメも何か触れていたわけでもない。ただ、昨今は面白い話というものを持ち合わせていなかった。祖父が話していた、太宰がマラルメを語っていた、というのはその時に調べ直したが、ダスゲマイネという話にマラルメの記載があった。

ダスゲマイネというのは「Das Gemeine(通俗的)」とドイツ語だったので、マラルメというフランス作家に結びつくのが遅れた。それに太宰治といえば他の小説のほうが目立っている。それでも確かにダスゲマイネに太宰は自身を「太宰治」として登場させている珍しい作品だった。その当時の草案を祖父は聞いたのか、それは定かではない。私の想起は、証拠こそないが辻褄が合っていた。探している間、楽しいひと時を過ごした。世代も価値観も、懸け離れていた家族が好きだったものを辿ることは、魂の痕跡を辿っているようだったのだ。故人の記憶というものは、すぐに思い返せるものが全てではないのかもしれない。福永武彦が「愛の試み」で綴った愛の章で、「盲点」に関しては挿話だった。人生の中の盲点とは学術用語で説明できるものではない。このように、人間の機微によって必ず意識されないところに在る。

祖父は幼い頃は電気も通っていないほどの貧しい家の子だった。その中でほぼ奨学金のみで太宰や革命家の集会に誘われる場所まで行った。そこに集まるのは金持ちの道楽で、祖父のように忙しい学生にとっては下らないものだった。その集まりは夢物語ばかりで、実が無い、道楽だと言っていた。しかし、本当に祖父は下らないと思ったのだろうか、それとも意識の他に何かあったのかもしれない。そうでなければ、私に「作家になったらどうか」なんて言うものだろうか。

 ユングとフロイトは心理療法で「告白」を重視していた。それは意識が強い人は「説明」は理路整然と話すが「告白」をしないからである。告白というものは中々難しい。そのような場はあまり存在しないからだ。無意識に偏りすぎると思い込みというのが発生する。 無意識への問いかけは、隠喩のように必要とされなくなっている。祖父の発言は何か目的を見せることもなく、単なる偶然によるものだった。それは確かではあるが、ダスゲマイネ――通俗的 というものから、取ってあげると言った幼い私は、今の私を見たら恰もそのために生きていたかのようになった。今回の話は時代と共に廃れた意識によって抑圧なき「告白」である。

何故、祖父がマラルメや詩を好きだったかどうか真意を私は聞けないままだった。それは家族の誰もが知らない。きっと語られても理解されなかっただろう。それなのに、マラルメと祖父の生い立ち、太宰が語っただけで何故気に食わなかったのか、それだけの話で浮かび上がってくる。マラルメは神がいなくても、詩によって生きようとした。

自殺を思いとどまったのも詩のお陰だったマラルメは*、太宰と死生観と信念が真逆だった。まず、マラルメは難解で、フランス語をよく理解していないとイメージが難しいとされている。マラルメのフランス語の本は、祖父は教会から貰ったようだった。それと一緒に貰った聖書も読んでいたようだが、祖父はキリスト教徒ではなかった。貧しかった彼は教会で勉強させてくれていた事があった。それは、宗教ではなく外国語と物語だった。モーセの箇所は何度も読んだと聞いた。次に彼は、――神が居ないと思うと自分が気づくことと、世界が一致しているわけではないと言った。反対に神がいると思うことも、世界と一致しているわけではない。絶対に自分の考えで世界を語るような事だけは「誤り」だと。たとえそれが、宗教者であっても、無宗教であっても、常に矛盾に気づいていくことを教えた。

私達は常に矛盾の中で生きている。

祖父が何を考えていたのか正確なことは知れないが、マラルメの「白鳥のソネ」は、人間は空しく、無に返す存在であり、神無き虚無の中でそれでも「確実に存在する美」というマラルメの魂を映したものだった。それは、希望なのか、確信があったのか、不在や無というものをが、心象へと「存在」として浮かび上がる存在を信じていたように思う。それはイメージや言語に囚われず、脈打つように。

祖父の時代背景を考えれば、貧しさと戦時中の中で過ごした中での強さだったように思う。安易に神や奇跡が困難の中で、不在ものが羽ばたくことが、それがどんな意味をするのか。かつて輝いていた白鳥が衰えていくとき、悲しい自覚であることが、詩の中で、何故力強く氷を割ったように錯覚したのか、その心象で生かされる強さを。

私は最近「平家物語」を見直していた。 琵琶法師が語り部である音での世界は、言語の意味は明確にしない。音で伝える世界は死者が死んだことを忘れて登場人物達は「視覚」の世界が広がっている。直截ばかりの今の時代で、この話が通じる人は少ないと思う。平家物語もまた、人の話を通して死者の魂と、自分の魂を癒す鎮魂である。自分の認識が限界であることを知らない人は弱い。今は分からなくても、後から分かるようになるという可能性を信じられる人は強い。マラルメの詩の「白鳥のソネ」は日本語にそのまま翻訳すると難解だったので、私自身の解釈に寄せている。マラルメは事情があって私は不案内でしたが、この機に急遽、翻訳した。マラルメを囲っている詩人や文学、哲学の道、様々な経験が生かされて今回は出来たのだと思う。翻訳した姿を見せたかった人が見ることはないが、それが生きている人に残された、死者の鎮魂になることを信じて。氷解するような告白と共に、流刑の地のように終でしかない居場所でも、白鳥座のように生が強く願い鎮魂となるということを。そして心のうちに

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* マラルメ論 著:サルトル

Magnifique:壮麗な、素敵等の意味であるが、不在との対比として、神に関する美しさとして黄金律を翻訳に当てる。

Corps sans Orgues et Amour (English)

Deleuze et Guattari
She had a pregnant pause that only literature could confess.

Georges Bataille, Literature and Evil




Sory now rewriting(2022年12月30)

When the Catholic Mass begins, there is always time to reflect on one’s ‘evil’. How many of us really have a clear view of our own heart while we look back there? The human mind is multi-layered and polysemous. It is not an easy thing to do. The Catholic Church is not meant to be a ‘building’. The agape Jesus is the heart and the believer is the ‘body’. That is why the ‘body’ needs to ask its heart before Mass. That mind is Jesus. It ‘thinks’ by repeating differences in self-awareness and cognition. Even if the prayer is the same every day, that time never comes back. Like ‘introspection’, which was the beginning of psychology, it is a religious kneeling and return to the primitive.

In 2018 I came back from the brink of death; in 2019 Adam the cat came into our home. His presence was a ray of light that came into my life. To touch the blue eyes that pooled light, the mystery of life, was a step away from death for me. The beginning of life from now on gave me a budding. Since when did the world plan for this child to be born, I had no way of knowing the plan for this little soul to be born. In the past I could not wait for happiness to come this way. Like Osamu Dazai’s schoolgirl, ‘I waited and waited for happiness, and finally, unable to hold back, I ran out of the house’, reflecting the nature of people who could not wait for the generation of time. (According to Deleuze, the daily repetition is the repetition of difference, and the failure to wait for the generative change of new things to come.)

 Whereas Bergson said that time is connected, Hume said that time is disconnected.

The being I am has no substance. I am nothing but a ‘theatre’ in which perceptions appear and disappear, a ‘bundle of perceptions'”.

Deleuze incorporates both Bergson and Hume. For me, ‘expectation’ is Bergsonian and judgement is Humean. For Christians in particular, everything is a deus ex machina, a cycle of returning to the Bergsonian. Deleuze is again collating the time frames that Hume worked on. In the first time, Deleuze is ‘present’ and the time of sensibility, based on Augustine’s theory of time. In the second time, it is the time of memory, the past and Bergsonian. The third time is also known as Thanatos (desire for death) and is future, Nietzschean. This implies an infinite ‘straight line’. Deleuze was also drawing on Bergson in Augustine with regard to the first time. What becomes important in this is ‘repetition and difference’, but ‘repetition is Hume’s famous assertion that nothing changes in the thing that repeats itself, but something changes in the contemplation of repetition, and the reading of a story (literature) is at the heart of this.

Consider the stages of a novel before it is considered a reading. First there is the author’s time-line, the completed work, which is read, and then it is read by a third person who repeats it. The quality of the person’s voice and performance, which may not completely match that of the author, nor may they be able to play the part of the story. Readings have a different appeal from voice acting. The ‘signifier’ that Deleuze did not disregard may also be the sentence. Writing is a series of sensations, but it is also a symbol. A voice actor acting does not try to make a text remain a text. It means that the images and characters try to come alive. Sometimes, it may even smack of life lessons. A reading, by contrast, is different. Just as Jean Renoir’s ‘acting instruction’ suppresses emotions and bars and inspires the actor, a reading is not about becoming a character or setting the scene for a work. It gives the reader imagination from a unique perspective while maintaining both the chain of images and symbols of the text. It is not the author’s voice, nor the voice of the characters, but the symbols they represent that speak.

So what if it is not read out loud by a human voice, but by a machine? I reflected back on Deleuze and Guattari’s concept of the ‘body without organs’. Today’s Vocaloids have become so precise that they are indistinguishable from the human voice, but they lack the vital breathing.

An organless body is not inorganic. Even if it is stripped down to symbols, it still must not forget to breathe. This is also what philosophy itself tries to be a living discipline. It is a language, but it must not be inorganic. Just as Deleuze and Guattari wrote about writing together, with concepts moving autonomously in a space between them that was neither, so author and reader are bound together without seemingly having the same roots. They are the creation of two beings that have no boundaries and waver.

Narratives continue to breathe invisibly behind the symbols. I think that what makes this world possible is a symbol that is a symbol, but a breathing symbol at the same time.

Descartes’ ‘I think, therefore I am’ also begins to exist by being aware that one’s heart is beating, but this is not always the case with art. In the real world, we do not check to see if the hearts of the people we pass by are beating, but art was meaningless unless it made us want to see the other person’s heart beating.First, the existence of a work of art is a first time, living a habit, while having a second time.Second, the existence of a work of art is a second time, living a habit, while having a first time. After all, you cannot love yourself in the moment. Habits and achievements, the accumulation of the past, leave behind only a seemingly ‘present’ production. The date of publication, the date of publication, is shown, but if you delve into the history of the symbols of those years, you will find that people will perceive the time line in a more complex way. And a work of art lives a third time in the end. It passes through death and becomes a linear time entity. Why is it a loss when a masterpiece is damaged? It starts with the fact that the artist’s soul is only seen in the body after death. To place the value of a human being solely on his or her body and while he or she is alive is not ultimately valuing the person.

People have forgotten the importance of posthumous paintings because of the high price paid for them. As the saying goes, “Man shall not live by bread alone.”
As the saying goes, a person’s value includes what is beyond his or her body. I do not value only my body and soul. I believe that everything around me represents my existence.

It is obvious that what constitutes me need not be my organ, but it is constituted by the other, and that is the only explanation for ‘otherness’ and ‘polysemy’. By the other I exist, it is not so. For the body without organs is ‘unidimensionality’. René Chérère, who further delved into Deleuze’s term nomadism, took the selfhood itself, in which I am me, as a new image and said that through the constant hospitality of the Other, I deviate from my fixed self-identity and generate myself into the Other. It is not only the assertion of self-territory and belonging, but also the hospitality of the Other, which is also ‘love’.

Love, to return to the story of Jesus’ apostles, was rich in diversity. God’s love would be for anyone at random if the only purpose was conversion. This is because if conversion is the only purpose, it is enough to force them by force. That is unity without the love of God. Jesus did not force his apostles’ hearts by violence or brainwashing. In testimony to this, Judas betrayed Jesus, and Peter said he did not know Jesus. If Jesus was brainwashing, none of that would have happened. And anyone who understands modern religion knows that liking Paul does not separate him from Jesus.

They are ‘unities’ connected by love (agape).

Future philosophy will go further, confronting religion, but if we trace back to the source, we find that they are like one with each other, and that these two beings are also ‘bodies without organs’. Confining each part to a certain role, it has meant mutual decline. When religion dominated, it was important to get out of it. However, the same invisible precepts have been created for the non-religious as well. With this trapped perception, the perception of love is constantly distorted. The same applies to philosophy. A philosopher who has never read the Bible is, after all, accompanied by Deleuze’s ‘stupidity’. The possibility of diverse combinations must seek new conjunctions.

Deleuze and Guattari may also have embodied the ‘body without organs’. The two contrasting figures became rhizomes (eternally identical rhizomes) between conjunction and separation, and succeeded in becoming the kind of ‘being’ that I can hold in my hands today. Philosophy is not a mere inorganic treatise. It gives pleasure to reason and intellect from generation to generation. It must be the same with the love of God.

 In 2018, that line, similar to Dazai’s “because I can no longer write”, made me experience a false third time. In the midst of all this, at the end of 2020, I met someone with a beautiful voice. It was so beautiful that I wanted her to read something for me to try. So I suggested that she read Dazai Osamu, from his critique of Dazai, which she had been working on before the accident in 2018. The famous line, ‘Mine has been a life of much shame’ – that’s where we began.

There was no visual information in the recorded reading. However, his voice seemed to lend itself to recitation. For me, at least, more than hearing and little linguistic information, synaesthesia was about to be created. It brings with it colours, music and even scents. His voice was not just a trendy voice, there was subtlety in his voice and an impermanence deep within the gentle personality that was apparent. His voice generated an imagery of different emotions in me. The world of words was not simply visible, and the words of the great writers of the past could not replace his recitation. He just fascinated me with the invisible everyday life. Just as the scenery I always see looks different, just by putting his voice to beautiful music, the music becomes my own personal ‘sound’ and memory. Music and literature, which were beautiful when listened to alone, became my own personal ‘sound’ and memory. The addition of others, the generation of which was the ideal formation of the world.

 He has always chosen to read only words that have some love and light in them. The destination of the literary world is not to change people. It is to empower people’s thinking. Words can empower people in all kinds of ways. Words and silence, in silence I gaze into the abyss. His and my abysses are never connected. We have different ‘roots’. Yet we become unities.

Recently, I was asked to read ‘God bless you’. It is well known that Jesus’ choice of apostles was not outstanding, except for John, but it seems that he didn’t need even more people who could perfectly embody God’s teachings. Why was this the case with Jesus? It was because he always wanted ‘hospitality’. That is why the soul must ‘confess’ at the beginning of Mass. Just as Jesus is connected to those who pray, even though they are apart. May you be able to understand the Bible reading and the role one day, even if you don’t understand the meaning, even in the ‘bar reading’. Always remember that the Bible is a way of life.

‘God bless you’ is a phrase I like very much. I told a friend of mine who died of an absurdity that God had blessed him. So much so that I have chosen this word carefully and have never taken it lightly. I let him read a lot of things to me because I sincerely wanted to bless him. I hope that God’s love will be extended to him and that he will realise it. How we, with different roots, are generated, was in a dark dream. It loves without any lasting plan, even on days when I don’t want to think about anything, even in the darkness when I am tired and can’t think of anything.

God bless you.

We are feeble but strong.
We have the poorest talent.
Just until the day we can be in the past tense.
God bless you.

器官なき身体と愛

ドゥルーズとガタリ
「彼女には文学にしか吐けない沈黙を持っていた」
ジョルジュ・バタイユ 「文学と悪」


 カトリックのミサの始まりに、必ず自分の「悪」を見つめなおす時間がある。そこで見つめなおす間、本当に自分の心を明確に捉えられている人はどれ程いるのだろうか。人の心は多層的で、多義的である。そう容易ではない。カトリックの教会というものは建物を意味していない。イエスというアガペーが心であり、信者が「身体」である。だからこそ、ミサの前に「身体」が自分の心に問う必要がある。その心はイエスである。自覚と認知の中で、差異を反復することによって「思考する」。毎日同じ祈りの言葉であっても、その時間は二度と戻ってこない。心理学の始まりであった「内観」のように、宗教的に跪いて原始に返るのである。

 2018年、私はこの年の事実を伏せて「事故」と語る。2021年は思い返す頻度が極力減ったが、生きる選択肢を失った人間が生き返るとして、すぐに生きる条件が揃うことはなかった。この事実で強請る人間も出てくるので水面下で私は更なる沈黙が課せられる。

2019年は猫のアダムが来た。この子の存在は生きることだけが無駄に長くなった私にとっては差し込んだ光明だった。光を溜め込んだ青い瞳、生命の神秘に触れることは私にとって死から遠ざかることになった。今から生きようとする始まりは、私に芽吹きを与えた。いつからこの子は生まれる計画があったのか、この小さな魂が生まれる計画を私は知る由もなかった。過去の私はこのように幸福が来ることを待てなかった。太宰治の女生徒のように「幸福を待って、待って、とうとう、こらえきれずに家を飛び出してしまう」というように時間の生成を待てなかった人間の性を映している。ドゥルーズでいえば、日々繰り返される反復とは差異の繰り返し、新しいものがくるという生成変化を待てなかったといえる。

 ベルクソンが時間は繋がっているというのに対して、ヒュームは時間は途絶えているとした。

「私という存在は、実体を持たず、現れては消える近くや感情にすぎず、私は知覚が表れては消える「劇場」であり、「知覚の束」に過ぎない」とする。

ドゥルーズはベルクソンとヒューム両方を取り入れている。私にとって「期待」というものはベルクソン的であり、判断とはヒュームであると思う。特にキリスト者にとって全ては神のはかりごととして(デウスエクスマキナ)ベルクソン的に戻るという循環を繰り返し、ドゥルーズはヒュームが取り組んだ時間軸を再度コラージュしている。ドゥルーズは第一の時間では「現在」であり感性の時間であってアウグスティヌスの時間論を元にしている。第二の時間では記憶の時間であり、過去でありベルクソン的である。次に第三の時間ではタナトス(死への欲望)としても知られ、未来、ニーチェ的である。これは無限の「直線」を意味する。ドゥルーズは第一の時間に関してはアウグスティヌスの中にベルクソンに寄せているところもあった。その中で重要になってくるのは「反復と差異」であるが、「反復は、反復する事物の中で何も変化がないが、反復を観照する中で何かが変化しているというヒュームの有名な主張だが、物語(文学)の朗読とはその核心をついている。

ある一冊の小説が朗読として読まれるまでの段階を考えてみよう。まず読まれる作者の時間軸、完成された作品、それを反復するように第三者によって読まれる。その人の声質や演技、そこには完全に作者と一致することもなければ、物語の役になりきれているわけでもないこともある。朗読とは声優の演技とは違った魅力がある。ドゥルーズが軽視しなかった「記号」とは文章のことでもあるだろう。文章は感覚を連なるが、記号でもある。声優が演技をするというのは、文章が文章のままでいようとはしない。映像や登場人物が生き生きとしようとすることである。人生訓すらも匂わせることもあるだろう。それに対して朗読は違うのだ。ジャン・ルノワールの「演技指導」で感情を抑えて棒読みにし、役者にインスピレーションを与えるように、朗読とは登場人物になるわけでも、作品の舞台を作るわけでもない。文章のもつイメージの連鎖と記号の両方を保ちながら独自の視点で読者に想像力を与える。それは著者の声でもなく、そして登場人物の声でもなく、表した記号が語るのである。

それでは、人間の声で朗読するのではなく、機械読み上げだとどうだろうか。それにはドゥルーズとガタリの「器官なき身体」という概念を思い返した。今のボーカロイドは人の声のように精度が上がったが肝心な呼吸が無かった。

器官なき身体とは無機質ではない。記号のようにそぎ落とされても、やはり呼吸を忘れてはならない。それは哲学そのものが生きる学問であろうとすることでもある。言葉でありながら、無機質であってはならない。ドゥルーズとガタリが二人で書いたことについて二人の間にどちらでもない空間で概念が自律的に動いたように、著者と朗読者というものは一見同じ根を持たなくても結びついている。それは境界を持たず揺らいだ存在同士の生成である。

物語というものは記号の裏で見えない呼吸を続けている。この世界を成り立たせているものは記号でありながらも呼吸がある記号であると私は思う。

デカルトの「我思う故に我あり」は自分の心臓が動いていると自覚することでも存在が始まるが、芸術はそうとは言い切れなかった。現実の社会では、行き交う人の心臓が動いているかどうかを確認することはない。芸術というものは、相手の心臓の動きを見たくなるようにならないと意味がなかった。芸術作品の存在とは、第一の時間、習慣を生きながら第二の時間、を有する。結局のところ瞬時の自分を愛してはもらえない。習慣とそして実績、過去の積み重ね、それによって恰も「今」を演出しているだけのものが表れる。出版日、発表した日がそうであるが、その年月の記号にどんな経緯があったか、掘り下げれば人は時間軸をもっと複雑に捉えるだろう。そして芸術作品は第三の時間を生きる。直線的で死さえも通貨する時間だ。名画を破損すると何故損失なのか、それは作家の魂を死後の肉体でしかとらえないことから始まる。人間の価値をその人の肉体と生存している間のみに重きを置くことは、最終的に人を大切にしていることにならない。

死後の絵画に高値がついてしまって人はその重要性を忘れてしまっている。「人はパンのみにて生きるにあらず」

とあるように、人の価値というものはその人の肉体を超えたものも包括して価値がある。私は自分の肉体、そして魂のみを大切にしてはいない。私を取り巻く全てが私の存在を表していると考えている。

私を構成するものは私の器官である必要がないというのは一目瞭然だが、他者によって構成される、それだけの説明だと「他者論」「多義性」となってしまう。他者によって私が存在する、そうではないのだ。器官なき身体は「一義性」だからだ。ドゥルーズ用語のノマディズムを更に掘り下げたルネ・シェレールは、私が私であるという自己性そのものを新しいイメージとし、他者のたえざる歓待によって私は固定した自己同一性を逸脱し、自ら他者へと生成するとした。自己領土や持ち分の主張のみではなく、他者を歓待すること、それは「愛」でもある。

愛、イエスの使徒の話に戻るが、イエスの使徒は多様性が豊富だった。神の愛とは、改宗のみの目的なら適当に誰でも良いのだろう。改宗のみなら力づくで強いれば良いからである。それは神の愛を無視した統一である。イエスは使徒の心に暴力的や、洗脳で強制はしなかった。その証にユダはイエスを裏切り、そしてペトロはイエスを知らないと言った。イエスが洗脳であるのなら、そのような事は起きなかった。そして現代の宗教を理解している人なら分かることだが、パウロを気に入ったからといって、イエスと切り離すことはない。

彼等は愛(アガペー)で繋がった「一義性」だからである。

哲学の今後は更に宗教と対峙しながら進んでいくが、源流を辿れば、お互いは一蓮托生のようなもので、この二つの存在もまた「器官なき身体」なのかもしれない。それぞれの部分を一定の役割に閉じ込める、それはお互い衰退を意味してきた。宗教が支配していた時代はそこから抜け出すことが重要だった。しかし、無宗教も同じように見えない戒律が生まれている。このように囚われた認識のままでは、愛の認知は常に歪められる。哲学も同じである。聖書を読んだことがない哲学者というものは、結局のところドゥルーズの「愚鈍」が付きまとう。多様な組み合わせの可能性は、新たな接合を求めていかなければならない。

ドゥルーズとガタリも「器官なき身体」を体現したのだろう。対照的な二人は連結と分離の間にリゾーム(永遠に同一的な根茎)となって、今の私が手にとっていられるような「存在」に成功した。哲学は、単なる無機質な論文ではない。世代を超えて理性と知性に喜びを与える。それは神の愛も同じでなければならない。

 2018年、「書けなくなったから」太宰にも似たその台詞は、私は間違った第三の時間を体感させた。そんな中で2020年の終盤に声が綺麗な人に会った。あまりにも綺麗な声だったので、試しに何か読んでほしいと思った。そこで2018年の事故前に手をつけていた「太宰治」の批評から、「太宰を読んでみて」と持ち掛けた。有名な台詞、「恥の多い生涯でした」そこから私達は始まった。

録音される朗読に視覚情報はなかった。しかし彼の声は朗読に適していると思った。少なくとも私にとっては、聴覚と少ない言語情報以上に、共感覚が生まれようとしていた。それは色や音楽、香りさえも引き連れてくる。彼の声には単なる流行りの声ではなく、声に機微があり、優しい人柄が表れている中で奥底に無常があった。その声は私に様々な感情をイマージュを生成させた。言葉の世界が単純に見えただけではなく、昔の文豪の言葉が朗読の彼の代わりになるわけもなかった。ただ見えない日常を魅せてくれた。いつも見ている景色が変わって見えるように、綺麗な音楽に彼の声をあてるだけで、その音楽は私だけの「音」と記憶となる。一人で聞いても美しかった音楽、文学に、他人が加わってくること、その生成は世界の理想的な成り立ちであった。いつか好きな話の映像を見てみたいと思っていた。しかし映像化は決まっても理想通りのものは無かった。それは、創っている人との乖離があるからである。その孤独に「朗読」というのは私に転機をくれた。好きな話が綺麗な声で生成されてくるのである。

 彼に読ませるものは、いつも何処か、愛と光がある言葉ばかりを選んできた。文章世界の向かう先は、人を変えることではない。人の思考に力を与えることである。言葉はありとあらゆる方法で人に力を与えることがある。言葉と沈黙、沈黙の中で深淵を見つめる。彼と私の深淵は繋がることはない。持っている「根」が違うからだ。けれども、私達は一義性になるのだ。

最近、「神の祝福を」と読んでもらった。イエスの使徒選びはヨハネ以外は優れていなかった事は有名だが、神の教えを完璧に体現出来ている人間は更に要らなかったようだ。イエスが何故、そうだったのか。それは常に「歓待」を彼は望んでいたからである。だからこそミサの始まりは魂は「告白」しなければならない。イエスが離れていながらも祈る人と繋がっているように。

「神の祝福を」とは私がとても好きな言葉だ。不条理で亡くなった友人にも、神の祝福があったと伝えた。それほど私はこの言葉を慎重に選び、軽視したことがない。朗読の彼に色々読ませたことは、心から彼に祝福を与えたかったからだ。神の愛が差し伸べられるように、それに気づけるように願っている。根が違う私達はどのように生成されるのか、常に暗澹と夢の中にあった。それは何も考えたくない日でも、疲れて何も思い浮かばない暗闇の中でも、永い計画性もなく愛している。

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処女作品の「Pangaea Doll」を器官なき身体と評価された。

2022年12月30日加筆修正しました。

最も貧しい才能へ

君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。
――太宰治「思案の敗北」

 海を渡る蝶は海面で休むが、水の重さで羽が重くなったら飛びはじめる。死と隣り合わせの小さき存在は消えてしまっても大海が蠢くだけだった。生きていた痕跡を知らせない死、波の香りに呑まれる、ガルシアマルケスが水死体の浮かぶ海を薔薇の香りに見立てた。潮の香りと薔薇の香りが融合する。夢の薔薇の香りは太陽が沈むと同時に闇と共に濃くなっていく、それが眠り、太陽の夢、

波の音だけを残して、残響が誘惑する。蝶の肢体を探しにいく人は誰もいない。

程よい、絶望にドビュッシーの海、

2018年はドビュッシーの没後100周年だったが、

結局、意識が指を動かすことがなかった。

過去に学んだ心理学上は生も死も研究対象で、心のしくみについての立証、検証、の繰り返しだった。心の正常が何かさえ研究段階、発表しては埋もれていく。生きることを肯定しているのが強いのはキリスト教だった。教理は教理として存在していて、神の愛は検証無く存在するという前提条件、それでも私の心は乾いていた。

愛に関して、人間の愛に関しては、心理の中では点数や状況で推測される。興味があるか、性的に見ているか、しかし、内包された愛とは信仰と同じように囚われない。この最高のものが神の愛ということは、移ろう人間の愛よりも定かだった。信じるも信じないも、その条件は意識の外に正解として存在する。神の愛に治療を頼むのか、人間の愛に治療を頼むのか、

私はどちらも信じることが出来なかった。

まず言葉が途切れ途切れにしか意識で構成できなくなった。それを隠しながら、書けなくなった事を黙っていた。その中で枯れきった愛を思い浮かべながら、嘘をつく。会議の途中で薬を飲み、ホテルに行くのも薬を飲んでから行っていた。割高の水の料金を払って、薬の抜け殻は探されない蝶のようだった。全ては腹の中、秘密は自分だけ蝕んでいく。2018年6月に震度6の地震があった。地鳴りがして、何が起きたのか分からなかった。死ぬのかもしれないと思ったが、当時付き合っていた人には電話しなかった。彼が冷めていたことを知っていて、冷たくされた場合、傷つくからだ。別れ話は早く済ませるべきだった。

人間の愛には醜悪も悪意も存在するが、愛は信じることも含まれていた。人間同士の愛は墜落し罪悪になるが、神の愛は人智を超えてくる。人間同士は我が身を守ることを考える。他者への愛より自分を選ぶ、それが人間だが、神はそうではない。自己犠牲は神に近く、理想はそれを目指すが桃源郷。人間同士の愛は、罪悪がある。心理学、哲学、神に囚われない考えは、この醜さもなければ、生きる活力にならないとする。私達は運命に育てられているのだから、それらを混合し、熱意のせいでのぼせながら、今日も人は尊い存在。

小さな絶望を繰り返すたびに、笑みが溢れて、限界に確信が近づく。死に向かうよりも蘇生法は苦しく、取り残された毎日は、波にかき消される日と待ち望む。

「天使達は天国でそれほど幸せでなかったと笑いに来る」

遺書の一部を読んだのも3年後の今日のことだった。本当は恨んでいるのに、恨んでないように書いて、文章が酷かった。言語が途切れ途切れで、もう書けない状態だったと理解出来る。切羽詰まっているだけのように思えるが、この日に限らず、長らく自分の意思すら伝えられないまま、書けなかったのだ。10月、まだ蒸し暑い、国際ミサの日だった。

何かを恐れて、何かに怯えて、憎悪が形相を超えては溢れかえっていた。

 血痕を掃除してもらい、猫のアダムが来た。だからあの子は天使だと思った。あの日の思浮かべた天使はもう居ない。この子は祝福に溢れていた。何故これだけアダムを愛しているのか、何故これだけ必要なのか、それを語ろうとすると、常にこの日に繋がっていく。人に虐げられた人間が成功すると、最低な日を暴露する光景はよく見かける。あの時、差別した人間を見返す、あの時、虐げられたことを乗り越えた、人は必ず最低の日と繋げるものなのだ。最高の日は最低の日と繋がる。だから最高を避けるようになる。

平穏は、最低の日を飼い慣らせるが、最高の日は最低の日によって押しつぶされる。

 今年のこの日は敢えて聖書の引用を選ばなかった。空席ができたら寂しいと言わんばかりの太宰治のこの言葉を選んだ。人の恋慕が神に近い言葉だと思った。恐らく、あの日はこれを聞きたかったのだろう。でもあの日は聞けなかった。

 最も愚かだった日から、私は何所へ向かっているのか分からない。誰に毎日感謝を言えばいいのか分からないほど、色んな人に助けられた。そしてこの朗読の声は、数年の私の失った世界に綺麗な声をくれた。辿ってみると、長い思案の旅だった。

最低の日が遠のくように、今はこの綺麗な声の傍で休息したい。この綺麗な声が生きる文章を書きたい。蝶は眠りから覚めた。また旅路の約束をして、何処かへ行こう。

私達、最も貧しい才能へ。

アダム

2016年 胸が痛いと救急車を呼んだ

2017年 常に安定剤と眩暈止め、色々な薬が手放せなくなった。

2018年 意識の中で言葉が途切れ途切れになっていった。

2021年 心臓と肝機能の薬で回復傾向(向精神薬の服用停止、ワソラン錠等の心臓の薬に変更)

「書けなくなった」そう遺書を残したのは太宰治だった。その言葉を意識したことはなかったけれども、知ってはいた。私は無意識の中でその言葉があったのだと思う。話が思いつかなかったわけではない、自分の言葉が消えてしまった時期があった。

あの日はそうなった。誰のせいでもなく、全てが書けなくなったからだった。

それは心の問題か、薬の副反応だったのか野暮な事は言わない。

重くならないように整理することに時間を要した。

回心をしてからも、人生の最高の日には、

あの日が戻ってくる。3年、長いようで早く済んだのかもしれない。

記事の整理も色々と、立て直したいと思っています。

朗読してくれる彼を始め、

皆さまの協力があったからです。ありがとうございました。

実は2018年のこと、もう乗り越えてます。

ヨブ記

Léon Joseph Florentin Bonnat”Job”
ヨブ記38章41節
誰がカラスのために餌を置いてやるのか
その雛が神に向かって鳴き、
食べ物を求めて迷い出るとき

聖書は旧約と新約と分かれているが、それぞれ各章によって役割が違う。

歴史書、知恵文学と預言書、黙示文学、新約は福音書、伝道書(等)と様々分かれているが、

宗教に疎い哲学者等が、知恵文学を預言と勘違いしたり、福音書を黙示録と勘違いしたりしていて、預言でない話から陰謀説を語りだすので、それは割と厄介だなと思う。

ヨブは旧約聖書の「知恵文学」であり、「神は与えることもするが奪うこともある」というのが大テーマとして展開される。これは「コレヘトの言葉」とセットで考えることが多く、ヨブ記は神から与えられる苦しみ、コレヘトは裕福が故に虚無感と死に向き合う章になっている。知恵文学とは、日常生活の平凡な苦しみから、神を畏れ敬うという高尚で神秘的な感情まで、さまざまな段階の知恵を残している。これらは人間の罪や過ちまで作られた生活の中で、人々が苦悩から逃れ、自らを高めるためにある。

神への畏怖を問答と共に知恵として身に着けようとするのがヨブ記の狙いである。

この話は比較的に日本人にも「文学的」に好まれている章である。

ヨブは義人として正しい人間だった。神も悪魔に自慢するほどヨブを『愛していた』。

悪魔は既にヨブに干渉をしていたが、ヨブは決して悪に染まらなかった。神はそれを誇りだと思っていて、悪魔にヨブに何をやったって無駄だと言った。それでも悪魔は、「まだ、皮を剥いだに過ぎず、命のために全財産を差し出したに過ぎない、もっと骨と肉に近づけば、ヨブは神を呪うだろうと」言い出した。神は、ヨブの命を奪わない条件で、再び悪魔を放した。

 悪魔によって、ヨブは多くのものを沢山失うことになる。子どもや家畜、使用人、そして皮膚病までかからせた。最初に根をあげたのは妻だった。「どこまでも無垢でいるのですか、神を呪って、死ぬほうがましでしょう」と、しかしヨブはまだ真面目で「神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか」と悪魔の誘惑に勝った。

しかし、ヨブの友人3人(哲学者)が慰めにくるが彼等との問答でヨブが次第に神への恨みを語るようになる。友人が「きっとお前は何かしたんだ」と言うがヨブは「自分は何もしていない」と漸く弱音を吐いた。友人は「神に謝罪をして和解しろ」と言い出すが、

ヨブは頑なに謝罪をすることはないと言った。それから三人がヨブを責める問いかけが増えていくのである。最後のエリフ(哲学者)とヨブの論争の後に神がついに言葉が降りてくるのである。

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神に経綸を暗くするとは」

神はヨブだけに対話をし、世界の何処までを知っているのかを問いかける。

ヨブは深淵や世の中の成り立ち、全てを知らないと、全知全能の

神の存在を再度受け入れ、議論になった3人のために祈った。

そしてヨブは神の祝福を受けて以前よりも報酬を得たのである。

ヨブ記を含めて聖書は「内的独白」が少ない。よって、登場人物の直接的な心理や事実が見えないところが多い。だからこそ長い歴史の中で様々な人が共感性や事実を探り続けられる。ヨブ記も創世記同様に、直接物語言説手法によって書かれている。主(神)の他の語り手が、ヨブや主の内面を見せる。(inside view) 散文と韻文によって書かれてあり、散文によってヨブは神への信仰に悟りを開いているが、韻文によって神への不当を訴えている。

 ヨブは何故そこまで神に愛されていたのか、それは神の「内的独白」が存在していないので「義人」だったという以外の事実は分からない。更に、何故神は悪魔を放ったのかも分からない。人間は誰しもが苦悩を罰と捉えて納得してしまうことがある。ヨブを取り囲んだ友人達の問答にヨブは納得することなく、「苦悩の事実」を追及し続けている。

現実問題、神や運命と議論になるのは、所詮は人間同士のもので

「誰が本当の神の声を聞いたのか?」となる。

確かに生きている間は、現実的に人は人間同士でしか会話出来ない。太宰治の「人間失格」の、「それは世間が、ゆるさない」と友人の堀木から責められるときに

主人公が「世間というのは、君じゃないか」というのを言えずに引っ込める有名なシーンを

彷彿させる。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

この構図はヨブと友人らの対話の構図と似ている。

現実世界は真理の声を直接的に聞くことは殆ど不可能である。その中で、ヨブのみが話の中で神との対話を可能にさせた。旧約聖書の神はアダムやヨブやヨセフのように直接的に対話するか、夢のお告げがあるが、新約聖書のイエスの誕生以降は神は沈黙されている。

その追及はクリスチャンにとっては、生きている間ずっと祈りによって行われている。

各々の答えを持ったまま、最後は死ぬために。死後は生前の祈りと一致するのだろうか、

その思惟は神秘である。苦悩の追及の果ては神の愛である。それは間違えはない。

旧約聖書は神から人間に対話をする、それは下界から上空への信仰であった。

新約聖書はイエスを神が降ろされた。イエスは自分の足で人々の元へと歩いて行った。

それこそ、人智超えた存在が、下界の厚い壁を突き破って神秘が降りたのである。

聖書は何度も読めば理屈よりも先に共感や閃きがある。それは確かだった。

己の内在を超えて、世間の常識を超えて、神はそこに在られる。そこに神の愛があると、

到達できる日はいつであろう。神の愛を手にしていると無理に思うこともない。

神の愛は恩寵のみでなく、人も救うことが出来る。行き届かないものはただの「経済」「政治」である。

神の愛が伴わない経済や政治は崩壊を意味する。

神の愛を待ち望むのも良いのではないか。苦悩と共にするのは人の声だけである必要はないだろう。

ヨブのように。

Why not risk your life in Love?

Osamu Dazai said to Tomie Yamazaki, with whom he committed suicide
「死ぬ気で恋愛してみないか?」 was difficult to translate into English.
The literal translation is: ‟ Make love with a mind to die”
I would say

Why not risk your life in Love?

I’ve changed it to

I tried to follow the Japanese sense of the word, but it was difficult to decide how far to take the idea of dying and how to make the words emotional, but this is how I translated it.

In English, the word “death” is not so beautiful because it gives the image of an army. Love sometimes heals, but it can also hurt. So I thought “risk your life” would be a good translation.

I recently said this in real life.
I’ve really fallen in love with someone again.
Needless to say, the other person agreed.

first epistle of john 3:18 (the chapter on loving one another)
“Dear children, let us not love with words or speech but with actions and in truth”

perhaps it would be more understandable to English-speaking people if it was accompanied by・・・・・・

At last, I can leave the painful past behind me.
I miss him very much.

The past cannot doubt me.

https://en.wikipedia.org/wiki/Osamu_Dazai

死ぬ気で恋愛するということ(日本語訳)

太宰治が一緒に心中した山崎冨栄に言った

「死ぬ気で恋愛してみないか?」を英訳することが難しかったので、

保留のまま月日が流れ、そんなに最重要事項でもなかったので考えることも

止めていたけれども、

Why not risk your life in Love?

にした。

Why not~ しないか?

死ぬ気→人生のリスク“risk your life”

日本語の感覚に寄せたけれども、死ぬ気というものをどの程度まで捉えるのか、

言葉に情緒持たせるのかが難しいけれども、私はこうした。英語で死Deadと使うと

軍隊のようなイメージになるのであまり綺麗ではない。恋愛は癒すこともあるけど傷つくこともある。だから“risk your life”だろうと割と自分でも納得の翻訳なんですね。

私は現実で言いましたけれどもね、最近。

承諾してもらいましたよ、

勿論、日本語のほうで。

ヨハネの手紙3章18節19節(互いに愛し合いなさいの章)

「子たちよ、言葉は口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」

を添えたほうが英語圏には通じるのかもしれない。

漸くね、重たい過去から離れられた。
とても私は彼を愛している。

もう私は過去に疑われることがない。

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