残酷な話を書くということ

The Cement Garden(セメントガーデン)映画

読んだのは英訳版

セメントガーデンとは、イアン・マキューアンの小説で、


父親が発作で死に、そして母親も病気で死んでしまうと、両親を失い養護施設に入れられると思った子ども達は、父親が趣味で買いだめしてあったセメントに目をつけ母親をコンクリート漬けにし、子ども達だけの楽園にした。隠された腐敗、遠ざけた社会、近親相姦、閉ざされた楽園・・・・・・



 この作品に関しては、まだ大した分析は出来ていないし、今まではこれが上手いのかどうかも分からなかった。(2017年12月)

実際に最近、日本でセメントに母親が我が子を乳児期に埋めて何十年も共に暮らしてきて自首をしたニュースがあった。(あまりこういうのを書くことは好まないが)話を聞くだけで、ストーリー性で言ってしまえば、この事件はイアン・マキューアンを超えている。こういうことが起きるからこそ、フィクションは別の旨味を求められる。それはノンフィクションとは比較されないものを作り上げることだ

それでも、この現実の事件を分析していく間に、マキューアンはやっぱり上手いのだなと気づくようになる。

現実の事件では、以下の点が気になった。

① 殺された乳児達には、生きている兄弟もいて、もう既に成人している。母親がお腹が膨らんで
無くなって戻ってきても、赤ちゃんが来なかったという現実をどう理解していたのだろうか。何を聞かされていたのだろうか。

②母親の収入源は何だったのだろうか。

などなど。

こういった現実での疑問が、マキューアンの小説の法則が少し読めるようにさせた。


小説の話に戻ろう。

  姉が母親が死ぬ前から何処か狂気めいているということだ。イノセントと言えばそれまでだが。何故か、母親が病気だったことは姉のジュリーしか知らない。主人公の長男は14歳。それぐらいの年だというのに母親の病気に気づかなかったとうのも変な話だ。そして、兄弟に母は死んだと告げたのもジュリーだ。

 姉のジュリーが今日は死体を見てはダメと指示をしたので、兄弟が母親の死体を見るまでにも空白はあるし、 コンクリート詰めするのもジュリーが指揮を取る。兄弟で揉めるのはセメントに混ぜる水を運ぶことだ。

残酷なものには他人から見れば、何故そんなの信じたのだろうというのがある。けれども当人達にはその世界が全てになる。

このバランスと緊張感が マキューアンは上手いということに漸く気づいた。



   私は、人を殺したことも埋めたことがない。なので、やっぱり読んだだけじゃよく分からないこともある。単に狂気っぽく書いただけなのかなとか、批判的な見方もあった。

フィクションは現実と比較されない何かを作らなければならない。
それこそフィクションへの追求である。

例えばカミュの異邦人も、ストーリーだけなら
もっと残酷な現実がある。実際はゾディアック事件や、アイリーン・ウォーノスのほうがストーリーとして見れば、面白さが格別だろう。けれども決定的に文学としてたらしめたのは、

最後の死刑執行前に、赦しを与えようとした司祭への反発だ。

「僕は僕自身のためにやった!」

この瞬間を作ることだ。

主人公が人を殺した理由が

「太陽がそうさせたのだ」

というセリフが有名だが、私はそこだけではないと思う。

「俺は俺の意思でやった!」 と言う主人公に司祭は涙を流す。
これには司祭(イエス)は常に赦しを与えようとするという隠喩がある。

   文学は、ただ残酷なものを書くのは好きではない。バッドエンドでも、人を何人殺そうとも小説世界の外での秩序の視線を予測しておくことであり、それを見つけておくことだ。それは神の視線を意識することと似ている。現実は役に立つのはFBIや心理捜査官、法廷かもしれない。 けれども作家は神を探さなければならない。

現代でも現実でどんな残酷なことがあっても、カミュの異邦人は色んな考察によって何度も読める旨味は、形骸化扱いされてしまった司祭が握っている。儀式を形骸化として捉えるのは、それは人々が理屈無き儀式への神秘を忘却しつつある証拠であり、本当に無意味かもしれないという現実が付き纏うことである。

現実との比較でしか読めない人はこの旨味を見つけられない。

   セメントガーデンは何処に秩序が存在していたのか。 私は、幼い兄弟だったと思う。部屋に閉じこもり、終始日記を書き続けていた妹、女装が趣味となり、次第に乳児へと退行してしまった最も幼い弟。この2人の非力な存在がこの楽園を地獄へと認識させる、唯一の秩序だった。コンクリートの隙間に生える草、

上の兄弟は残酷な背景を隠してしまうのだから。

セメントガーデンとは、固められた子ども達ではなく、固められたセメントの隙間に咲く草花のことだ。その小さなガーデンを楽園と言えるか、狭いとするか。その筋を見つけるとこの話が読めた。


******

(私は イアン・マキューアンだったら「贖罪」が1番好きですね)


カミュの異邦人についての書評もあります。
それこそフィクションへの追求である。についてもこちら。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/letranger.html



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L’amant

je suis la préférée de sa vie
私は彼の人生のお気に入り
L’histoire de ma vie n’existe pas. Ça n’existe pas. IL n’y a jamais de centre.
私の人生の物語というものは存在しない、そんなものは存在しない。物語を作るための中心なんてないのだ。
L’amantMarguerite Duras)
(①と②はページでいったら順番は逆)
ILについて、フォントの関係でIlになってしまうのでLも大文字にしました。



   je suis:私は~です、sa、所有されているもの、人が女性名詞の場合にsaを使います。この場合は主人公の少女のことで、このsa 2人が逢瀬を重ねていたことを表しているので、この一文だけでも色気があります。15歳のときにメコン河の上で出会った金持ちの中国人青年との性愛。そのイマージュは河を横断していく間持続する。長男しか愛さない母親、身体が弱い次男、意地悪な兄、家庭に圧迫を感じる中で、自分の持ち物に対しての拘りと、一回り年上の彼が彼女にとって居場所となっていく。
 香り立つように現れた二人はすぐに触れ合う。永遠を考えた男と、小説家としての未来を見ていた少女、男は掟を破ってでも彼女と居たいとは一度は言ったが、彼女には若さと未来があるが故に答えをNOと言った。

 度々、登場するイマージュという言葉、著者は少女時代の視線や記憶をすべてイマージュ(image)と表しました。フランス語ではイマージュとは「再現」という意味もあります。それは生き写しでもあり、忠実な似姿ということにもなります。これは少女にとって経験というイマージュと、著者にとっての再現のイマージュが展開されています。「彼」と言ったら必ず人を差したりしますが、例えば②のようにフランス語は il(彼)というものが、属性にもなるときがあり ます。「彼」と「それ」という意味が私から見ると、話の内容に沿って効果的に利用されているように見えました。「彼」と敬愛を込めて呼んでいるのは老いた著者であり、客観的に「それ」という出来事を見つめているのは少女の頃の著者かもしれません。誰もがこの二人の情事に注目し、彼との想い出を標本のようにしたかったと思うのかもしれませんが、私にとって、IL(彼)は物語にとって中心では無いと宣言しているかのようでした。―――この話の二人は本当に愛し合っていたかどうか、少女は本当に愛していたのかというところに焦点がよく当てられますが、私はこのように恋愛には行き場の無い感情というものはあると思います。行き場の無い想い、想いとは必ずしも常に何かを望み、何処かへ進みたいと具体性を持っているわけではありません。

このように、祝福も受けず、理解や共感もされず、核を失ったような想いがあったとしても、肌が触れ合って、見つめ合えば、心は交わっていきます。
このような交わりの意味を感じ取れる人は、メコン河の抽象的な描写を感じ取れるでしょう。人間の感傷深さとは関係無く、メコン河は貿易や人を渡しながら変わらず流れていきます。ただそれだけで、胸が痛くなることでしょう。その快楽を知り、そしてその内面の破壊を知る。愛の希求を知るつもりが、自分達はまるでメコン河に漂よう藻屑のように思えるのですから。覚えていることは、二人の関係は、メコン河の描写で事足りるかのように全てを呑み込む―――。
 著者であるマグリット・デュラス自身の自伝的小説と言われているこの作品は、1971年に出版さ れ、1984年にゴングール賞を受賞しました。1914年生まれの著者が十代の頃の、それこそ作中の表現であったimage:イマージュというのを出版したのは50代ということになります。小説家としての神の啓示もこの思い出のようです。小説では「練習しても弾けなかった曲、ピアノを断念するきっかけとなった曲」、映画ではショパンのワルツ第10番、ロ短調Op69-2が使われていました。

 彼との触れ合い、小説家への想い、母親や家族に対しての想い、彼の結婚、二度と会えないと漸く気付いたこと、物悲しいようで、老いた口調が安定を与える。

 執筆するときにどのような気持ちだったのか想像出来ませんが、映画では船の手摺りに足をかけていた。もう一度過去に振り返るとき、その水は記憶の水であり、イマージュの水面である。水底に潜らずに、渡し船に乗って運ばれるように、在った出来事だけを記していく。愛が分かっていなかった時、愛していなかったと言えなくなった時を正確に。
読者にはその愛の盲点を示すかのように、

そのイマージュ、その不安定なイマージュ、

少女は彼の愛を頼りに 足をかける。

(画像及び、動画はブルーレイ販売元のユニバーサルに権利があります)

Vision2 




vision

Die Adern der Flügel zieren den Schmetterling, 
seine Organe, Nerven und sogar Knochen.

Einen Schmetterling zeichnend, bedarf es besonderer Sorgfallt bei seinen Adern. 
Sonst zeigt das Bild nur einen armen Schmetterling unfähig zu fliegen. 

Glauben und Philosophie sind für mich der Flügel Adern. Schöpfung zeigt sich im Aufsteigen in die Lüfte – Fliegen.

Fliegen ist Freiheit bestimmt durch der Flügel Adern.

Andere Freiheit gibt es nicht.

MY Vision Germany ver. 


Cocytus

ダンテの神曲、時獄篇のコキュートス。
ロードオブザリングの 死者の沼地を見たとき、
コキュートスの氷漬けになっている死者を思い出した。
学生の頃は地獄篇しか読まなかった。馴染みやすく、考えやすかったからだ。
煉獄は神秘性(占星術要素)が強くて、天獄篇は宗教的過ぎて読めなかったが、独学で聖書やキリスト教の歴史を勉強してくると煉獄篇が読みやすくなった。 そして洗礼を受けた後に天獄の意味が分かるようになった。
地獄篇だけが読み込まれた跡を残し、煉獄、天獄は新品同然だったのが、長い月日を経て、地獄篇と同じような姿になっていく。
心の経験は、軽視出来ない。この気持ちがあれば哲学も宗教も面白くなり、物語が容易に近くに感じる。死者が眠る姿が見える水面を覗くことも、感覚を研ぎ澄ますことも大差無い。

コキュートスの夢は一度だけ見たことがある。洗礼を受ける前ですね。

画像元

Icon o graph 2

セガンティーニ・悪しき母たち

家族が連れ去られた後、私は平然としてセガンティーニの絵画を見に行った。

 本当に平然としていたのだろうか。遺体が見つからないまま、テレビでやっていたこの絵画展の紹介に吸い寄せられた。――――雪の降る町だったから――――。そんな私が目を閉じると繊細で冷たい布が自分を包むようだった。優しくはない布。纏わりつくようで、水を吸ったように重たい。それはまるでこの二枚の『悪しき母たち』の衣装のようだ。まずは青の章、そのブルーは闇のようで、闇になりきれていなかった。太陽の光を失っても青の色に留まり続け、表情を失いながらも女という形を浮かび上がらせる。

女であるということ、その死にきれない光が灯っているように思えた。夜明けの章、ブルーの闇が終わり、日が昇ろうとしている光景、曇り空の雪景色、あの足を降ろしたらどんなに冷たいだろうと私の足を凍らせる。悪しき母は枯れ木に吊るされ、樹形に歪さを与えている。淡い濃淡の中、樹影という移ろう存在に逃げることが出来ず、夜の闇に暈されることもなく露骨に肉体が現れ出る。日が昇ろうとしているのは嬰児殺しの女が赤ん坊に乳を与え、母になったことに対しての赦しだと聞いた。


それでも、この瞬間はまだ、完全に赦されたわけではない。見せしめから、赦される存在になろうとする瞬間、魂が昇天する寸前、天の光が空遠のことではなく、近くまで来ているということ。
 
 赦しとは哀婉――――


(Icon o graph 白夜の章)

本の紹介→

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

販売→https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781976279713




3/11


イコノグラフの舞衣の親が亡くなった震災というのは、時制が近しいのですけれどもモデルは 3/11じゃないとは前にも話したことがある。元々、そういう設定で書いてたまたま被りました。だからこの世界全体がフィクションですね。

モデルはヘルマン ヘッセの
「別な星の奇妙なたより」(メルヒェン)


身のよだつような不幸、恐ろしい雷、
雨と嵐と大水を伴う地震が三つの村に起きたが、

死者をおおい、その墓地を適当に飾るために必要な花が全くなくなった。

というところ。セガンティーニの絵が来たタイミングも一緒だった。(2011年)
けれども、悪しき母たちは来ていないようだ。現実に近いようでやはり虚構。

鳥の巣

 鳥の巣を拾った。これでコレクションがまた増えた。
鳥の巣は前作でも詩情、哲学、宗教性を込めたモチーフ。
少しづつ世界の一部を摘んで形成していく世界、けれども
鳥の巣の本当の作り方は未だに分からない。それほど精密に
複雑に紡がれている。

そうなのだ。世界の核は未だに分からない。神がかり的だとも言えるし
未知なるものとも言える。

今回のものは、ビニールテープも巣の一部になっていた。

→本の紹介。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

L’Étranger(異邦人) 

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Et c’était comme quatre coups brefs que je frappais sur la porte du malheur.

(そしてそれは、僕が手荒く四回、不幸の扉を叩いた音でもあった)

Camus, Albert. ” L’Étranger ” (French Edition)  異邦人より。

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内容は今回はPDFです。

異邦人の批評。
宗教(キリスト教・カトリック)
哲学(サルトル)
文学と三方向から書いたので、
PDFになりました。暇なときにでもどうぞ。

PDF

https://drive.google.com/file/d/174d_Vxm6IBzaQMoUcsI37_WXIUea5zjI/view?usp=sharing

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Offret-Sacrificatio

「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」
 タルコフスキー・「サクリファイス」
*******
 物語の始まりは、アレクサンデルが細い木を植えるところから始まる。このときの彼の幼い息子への語りはこうだ。「正教会の修道院の僧が枯れかかった木を山裾に植えた。ちょうどこんな木だ。そして同じ修道院の若いヨアンに、この木が生き返るまで水を与えなさいと言った。ヨアンは毎日、山を登り水をやった。そして三年後に見事にこの木に花を咲かせた。一つの目的を持った行為はいつかは効果を生む。儀式のように順序よくやれば、
いつかは世界は変わる」と。
アレクサンデルの息子は口が利けない。
 アレクサンデルは死についてもこう語った。「死なんて存在しない。あるのは死に対しての恐怖だけだ」その後に友人で医師であるヴィクトルの家を訪ねる。そこで色々と語っている間に核戦争の非常事態の知らせがくる。死を自覚したヴィクトル家はパニックに陥る。まるでアレクサンデルが独白した通りのことが次々と起こってくる。その後に一番パニックになった夫人が落ち着いた後に言った「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」が今の私には胸に響いた。こんな死の淵に立たされても生きている限り、人間は常に為すべきことを意識しなければならない。
この台詞が生きてくるまでの映像表現が素晴らしかった。

物語の進行と共に、口を利けない息子が突然いなくなり、呼んでも返事が出来ないという恐怖の複線が秀逸。タルコフスキーの作品を見るときは見失わないために、名前と人格をよく覚えておくことだ。そして、この世界は夢現の境目がないように時制もあってないようなものである。前半の出来事が複線を引いてくることがあるので意識しておくと、見やすいだろう。
 昔のブルーレイ化されてくる中で、名作と呼ばれたハリウッド映画のセット感が目立つようになった。そんな中でタルコフスキーは最新の技術を使ってリマスターしても常に鮮やかに美しい。それは彼が根気強く自然の力を利用したところにもあるだろう。DVDも買ったのに、ブルーレイでも買いなおしたいという監督は少ない。

******

「お知らせ」

カミュの「異邦人」についてなのですが、9割は出来ましたけど出来かかったところで、サルトルも入れたほうがいいと言われ、また時間がかかることになりました。

ウェブのアクセス数が多い順、5番目ぐらいまでが書籍化されますので、気に入った作品があったら見ておいてくださいね。今のところダントツで、太宰治と三島由起夫となります。三島に関しては書籍用に掘り下げますが。







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ポーの一族(萩尾望都)

●兄さん わたしたちは いつまでも 子どもでいられるの
だから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね
 
●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。
 
● そら あなたは また笑う。 
ポーの一族・(はるかな国の花や小鳥の章)
エルゼリとエドガー

●「ポーの一族とは」

この作品が発表された1970年頃は「花の24年組」と言われる女性漫画達が、少女漫画というものに文学性や哲学、宗教観等を盛り込んだ。
ポーの一族とは、バンパネラであり(ヴァンパイア)、成長を止め、半永久的な命を約束されている一族のことである。彼等は長い時を超えて、時々愛する人間を仲間にする。エドガーとメリーベルは兄妹だが、ポーツネル男爵とシーラ夫婦は本当の両親ではない。そんな夫婦と一緒に家族を装い、時を超えて旅をする。19世紀、アランという美少年を気に入った兄妹は彼を仲間に入れようとするが、上手くいきそうにもなかった。
そんなある日、シーラは若いクリフォード医師に、この世のものでないと気づかれて殺されてしまう。それから立て続けに妹のメリーベルも殺される。

一方、アラン一家でも、母親がアランが嫌悪感を抱いている婚約者・マーゴットの父と親密な間柄であることを知る。婚約者の父親は急いで逃げるアランを追いかけ、マーゴットとの結婚について執念を見せるので、アランはただ彼を振り払うだけのつもりが、階段から落としてしまう。
「人殺し!」
「人殺し!」
とマーゴットが叫んだ。アランは自分の部屋に逃げるが、執事が扉をこじあけるのは時間の問題だった。そんな、追い込まれたアランのところに、エドガーが部屋の窓から声をかける。
「きみも おいでよ ひとりでは さびしすぎる」
すぐに、執事が父親の無事を伝えにアランの部屋の扉をこじ開けたが、既に、エドガーはアランを連れ去っていた。
まるで風に連れていかれたように。
アランはメリーベルを女性として恋をし愛していた。エドガーはメリーベルを兄として、そしてそれ以上に愛していた。二人の長い旅は過去の記憶の回想を交えて進む。それは読者を一族の謎、アランとエドガーの葛藤へと運ぶ。それに伴ってどんな時間へ行っても、思いを超えても、消えて二度と戻ってこないメリーベルの姿を濃くさせていく。
左 エドガー 右アラン
メリーベル

●はるかな国の花や小鳥

今回は、ポーの一族の中の「はるかな国の花や小鳥」という話を紹介する。
エルゼリは、一時だけ過ごしたハロルド・リーのことをずっと想っていたかった。彼が約束通りに迎えに来なかった上に、他の人と結婚したと知っても、彼のことを期待するわけでもなく、彼を愛したまま時間を過ごしていた。美しいエルゼリ、近所の少年達も彼女に憧れを抱いていた。そんなエルゼリのバラが咲く庭にエドガーが現れる。彼女は彼の美しい青い目を見て、「ユニコーン」と呼ぶ。ユニコーンは処女の乙女を愛する。エルゼリは大人なのにそのような女性だった。だからこそ、そんな伝説を思い出させるような始まりだった。エドガーは時を超えて、神話のように現れては彼女に興味を持ってしまい、ハロルド・リーを見に行ってしまう。彼は他の人と結婚をしただけではなく、エルゼリそのものを忘れていた。ショックを受けたエドガーは彼の元をすぐ離れる。それから数日後、ハロルド・リーの中で何かが引っかかったのか、エドガーに似た少年を見つけ、彼を追って事故死してしまう。
  エルゼリとハロルド・リーと一緒にいた思い出は事実だったが、時が経つにつれ、彼と交れないことによってその思い出が夢想であり、幻のようになる。彼女はそんな幻を抱きながら内面世界の中で暮らしていた。
彼女はただ微笑んで、外界世界が自分の内面世界を傷つけないように彼女は駒を進めなかった。それがエドガーという少年の影響で駒が大きく動き出してしまい、守りでずっと動かなかった彼女は、手首を切ってしまう。
 幸い、エドガーの発見のお陰で一命を取り留めたが、エドガーとアランが旅立った三年後、エルゼリは病死する。

●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。

 音楽には神童というものがいるが、文学はある程度の経験を積まないと完成しない何かがある。(これは漫画なので位置付けは難しいが文学と言っても良いだろう)
「思い起こすだけで 幸せにはなれない」少年エドガーのこの台詞、突然失った妹のメリーベルのことを言っているが、この言葉自体は若くても思いつくことかもしれない。
それでも、この頼りない言葉に重みが出て深みが出るのには経験を積まなければならない。
ヴァンパイアの存在を大体物語りにするとしたら、彼等は人の時間の流れの摂理から括弧に入れられたようになる。他が老いていくのに対して自分だけが成長を止めて、知らなくても良かった時間を知っていく。彼等は肉体の成長が止まるけれども、人間世界と共存し心は持ち続ける。その影響で、その年齢にはふさわしくない目になっていくが、肉体が故に、心を操る精神はある程度止まってしまうようだ。

それは周囲が彼等の肉体で判断し、子どもとしてしか扱わないせいなのかもしれない。その年齢に応じたように、その人の立場に合わせて人の声や世界は本人に届いていく。
 長い時を経て文明の変化を目にしても、幼い自分に向けた視線は永遠に変わらない。思い返せば、大体自分に対する人の見方というのは年齢の成長と立場によって変わっていく。これは世界の一部は自分に合わせて動くということでもある。1世紀を超えても彼等にとって自分にむける世界の声はあまり変わらなかった。ポーの一族と呼ばれる大人達は一族の血を絶やさないために人間を仲間に入れていたようだが、エドガーやアランは違った。夫婦のように長らく愛せるもの、親友のように信用出来るもの、長く愛することによって精神を成長させたかったのかもしれない。しかし、その年齢に応じたような結末ばかりを迎えてしまう。(リデルは除く)メリーベルは既に幻姿同様、「思い起こすだけでは 幸せになれない」と、もう自分達の成長には携わってくれない。
それを「孤独」とあらわすのか「自由」と表すのか、エドガーとアランは孤独―深い影自由―変わらない美貌の両面を露にして読者に見せる。彼等は感情は喜びや悲しみ、怒りは隠さない。
エドガーは、自分と似たような内面形成をしてしまっているエリゼリに惹かれた。

メリーベルを彷彿とさせるエリゼリに惹かれた。

不思議なことに、彼女の周りの人間も彼女を傷つけないようにと派手な動きを見せない。誰もが強引なことをしないのだ。周囲の彼女への態度は常に一定、彼女に気があるヒルス先生も奥手なだけなのか、彼女に踏み込めない。完全なる配置、彼女は人間の力でそれを成し遂げていた。彼女がエドガー達と違うのは「悲しみ」や「孤独」を見せないところだった。
エドガーは自分と同じように彼女の心の奥に「孤独」があるのかどうか知りたかっただろうし、彼女は他の人にも愛されていて、幸せはすぐそばにあるのに、何でこの人は目覚めないのだろう、孤独を教えてやりたいと衝動が出たのだろう。
それは長い時を経た大人の男性の愛とは違う、幼い衝動に過ぎなかった。エドガーもまた成長を止められてしまっているからだ。

その幼い衝動が、彼女の夢想の相手である男の死へと運命を動かしてしまう。

人を愛することは喜びだけではいられない、それを一番分かっているのはエルゼリだったのかもしれない。
分かっているからこそ捨てた悲しみは、常に微笑むことを忘れない。けれども、微笑み続ける理由をなくしてしまった途端に、世界が終わったと終止符を打とうとした。
エドガーはアランを連れて、エルゼリから離れるときに泣いた。

エドガーというユニコーンは、エルゼリが大人だと知って離れたようだ。

時が動いてしまったということ、彼女が捨てた悲しみの代理人のように。

●感応

この話を初めて読んだのは5歳の頃だった。「好きなお話は人生にうつるから、読むのなら明るい話にしなさい」と母によく言われたけれども、この本を渡したのは母だった。この本は5歳からの付き合いとなる。

「兄さん、わたしたちは いつまでも 子どもでいられるのだから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね」

メリーベルのこの子どもらしい言葉、
大人は、子どもはこういう夢を見ていて、大人はこういうことを考えなくなるとよく言った。けれども、子どもの頃の私にとってはこんな夢想は初めからは無かったような気がする。鳥や、花は目の前にある現象に過ぎなかった。誰かが花が綺麗だと言って、誰かが小鳥は自由だと語った。 何が美しいのか、何が心地よいのか、自分に向けた声、自分に向けられたわけでもない情報、それが私の知らない間に形成されて私の心の一部となって、私の心として動いていく。

これを『感応』と言うのか――感応とは、事に触れて心が感じ動くことであり、人々の信心に神仏がこたえることと、感受性と神仏との両方の意味を持っていて日本人の私にとっては説明しやすい。私にとってもこれは両方の意味があると思いたい。 感応とは知らないことでも心が動かされる。
  意味は分からなくても美しいと分かる話、読めば読むほど、外の世界が違って見える話、自分の眼がより光を好み、影を軽視出来なくなり、盲点へと近づきたくなる。
そういう作品の一つがこの「ポーの一族」だった。 私にとって、この作品はバンパネラのように子どものままでいたいと思わせるのではなかった。
幻姿に見せかけた美の完成形は大人にならないと書けない。
これは私に、大人になるということの期待を与えた。
こんな大人は何処にいるのだろうと思った。心の何処かで私もそうなりたいと思ったのかもしれない。 やがて、大人になると幻姿は捨て切れなかった幼心のように変化していた。
とても好きな話。 幼い頃、意味が分からなかった話が説明出来るようになる。漫画は句読点があまり無いので引用するとき少し違和感があったけど、それでも好きだと書いたのは初めてかもしれない。
ポーの一族・萩尾望都 小学館文庫
   サムネイルデザイン・編集:ChrisKyogetu
 
その他、引用や単行本に収録されている画像の著作権は著者及び、小学館文庫に帰属します。批評集未収録作品 

Incomplete wisdom

「不完全な知恵へ」
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うめきつつ求め、上昇のために手さぐりする悩める不完全な知恵に対して、私達は自分が真理を持っているという喜び、あるいはむしろ自分が真理を受けいれたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?

――シモーヌ・ヴェイユ著・神を待ち望む・ペラン神父の序文――



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「神を待ち望む」とは彼女が信頼していたペラン神父がつけたタイトルであり、ヴェイユが一番好きだった言葉”en upomèné”(耐え忍んで)」(ルカの福音書8:15~)から導かれたものである。ヴェイユの死後、ペラン神父がこの本を出版することになるが、この「真理を受け入れたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?」とは、はこの出版に異議を唱える人々(自分達は真理を持っていると思っている信者)への彼の「レトリック」である。
この本は彼が言うように、疑いようもない霊的文学としての美を備え、確かにキリスト教としては議論の余地があるものである。彼はそんな中でもヴェイユを天才的な聖者と称え、この「魂の意識」を皆によく知らせたいとした。ペラン神父は先見性を持っていて、これからのキリスト教外の価値観とどう向き合うかにも視野に入れていた。その上でヴェイユ独自の宗教観への指摘もあるからこそ、この本は出版出来たのかもしれない。この二人の対話は
まさしく、神を待ち望む姿そのものだった。
****
私は数年前にこの本の二人の姿勢の美しさに魅入られ、「悩める不完全な知恵」というものを「上昇のため」と認めてくれた顔も知らないペラン神父に憧れを抱いている。 このように顔も知らない者、文章だけで愛せるという力があるということは作家にとっては必要なものだと思っているので恥ずかしいとは思わない。何故なら作家自身が文章だけで虚構世界を表現し、愛されなければならないからである。
心理学上、一番人間が感情を表現しやすいものは「顔」であり、次は「声」だと言われている。「顔」や「声」にも頼ることが出来ない文章世界は、一般的には表現しにくく、受け取り側も困難なツールとされている。過去に私は、文章世界を見てほしいと思っている者がテキスト世界の聖書を読まないということや、否定するということは矛盾に値するのではないのか?ということに気づいた。
それから聖書世界は私の中で「在るもの」となった。信じる信じない以前に、打ち消すことが出来ないものとなった。私は恐らく、作品の中で聖書の引用を消すことはしないだろう。
その熱は動力とも壁ともなるものでもある。
そんな私にとって「不完全な知恵」という言い表し方は涙を誘うものがある。それはこの決意が本当は辛いからなのか、感動しているのか、感情の理由は分からない。彼の言葉に掴まれることによって私の魂が「上昇」を夢見ているということに気づかされたのか、私も肯定されたいという欲求が故なのか、彼の言葉が神の優しさのように思える。
****
前置きが長くなりましたが、この写真はチェスプレイヤーのボビー・フィッシャーがカストロ議長と話している写真である。(カストロ議長はトーナメント前にフィッシャーに横槍を入れている)ボビー・フィッシャーもまた天才であり、チェスの神聖さに魅入られ数奇な運命を辿っている。今年もハッキリと分からなかった一つが、ボビー・フィッシャーの定跡は「何故美しいのか」ということだった。
色んな人の定跡の動画を見ていて「これは綺麗な進み方だなぁ」と思ってると、大体がフィッシャーだったりする。出回っているのが綺麗な定跡のみなのかもしれないけれども、中々このようなものは出会えない。彼は今でもチェスプレイヤーにとって憧れの存在(天才)である。
何が完全なるチェスなのかは分からないけれども、美しいというのは理屈よりも先に訴えてくるものがある。惹かれているのは単なる写真の構図なのか、チェスを政治的利用にされることに対して抗議するフィッシャーの「情熱」なのか、この二人の対峙のように見えるこの一枚は、まるで映画のワンシーンのように熱を帯びている。但し、熱があるのはフィッシャーだけで、カストロの手の脱力感を見れば分かるように、彼らはあまりフィッシャーを相手にしていない。その中でも刺すようなフィッシャーの視線が気に入ってしまい、私は時々この写真を見るようになった。
楽譜理論も哲学(知を愛する)にも惹かれたりするのだが、ペラン神父やヴェイユ、チェスなどに「何でこんなに好きなんだろう」と振り返ることがある。
分かるのは惹かれるものとは、「無感覚ではいられないもの」だということだ。
無感覚でいられないものは、愛せずにはいられない。
維持や忘却も含めて愛は静止することを知らず、愛するということは情熱が必ず付き纏う。
情熱を持つということは、フラットな地面を只管走ることだけなのだろうか? 私にとって情熱とは魂が上昇を欲しているような気がしてならない。気がつけば身体を忘れて熱だけになりそうになる。けれどもその熱は生きている間は発散されず「耐え忍んでいる」のかもしれない。 
(2016・12・29メモ)

The Childhood of a Leader①

映画に行った感想/ネタバレ含む)

「シークレットオブモンスター」
The Childhood of a Leader.2016年11月25日公開

「私」が認識している「私」と、他人から見られる「私」、主にこの「虚構世界」は他人の眼差しから構成された「私・少年」だった。大人達はよくこの少年を「お嬢さん」と間違える。

サルトルの基本を少しでも読めばこの構成にはすぐに気づくはずだ。でもこの気づきはきっと入門に過ぎない。

観客にとって少年の主観に関する情報は「ママがいなかった」という夢、時々現れる歪んで焦点の合っていない景色、女性家庭教師のドレスから透ける胸、と少ない情報である。元々、現代知識として分かっていたことは、独裁者(指導者)のような人間が形成される因果関係は完全にはまだ分からないということだ。

現代人はそんなことは既に分かっている。

それを虚構でもいいので突き止めたいという人にはこの映画は向かないのかもしれない。この話は何か特別な非情さや残酷さもなく、情念も愛欲の熱もない。時々、母親が母性を見せ、少年が笑顔を見せるがすぐにすれ違いが生まれ、噛み合わず、人の肌の温もりが長く続かない。

それは体温が無い映像ということのだろう。

少なくともこの映画は、体温が無いということに関しては成功しているのかもしれない。

****

 外では戦争があるというのに、この家庭は古典絵画世界のような安定や均衡が保たれ、貧しさもなく、高価な家具や調度品に囲まれている。確かにあるのはこの美しい静物達である。

①その中で少年の味方だったお手伝いさんを母親が勝手にクビにした。

②少年は自分の部屋に閉じこもり、勉強する。

③少年は自分を叱った女性家庭教師をクビにした。

④少年は部屋の中で内面世界を維持しようとするが、
それでさえも、「叱るため」に父親はこじあけようとする。

それから、少年が大勢の食事の席で椅子の上(座)に立ち、

「もう祈りなんて信じない」と何度も叫んだシーンは
少年の居場所は他人達の視線、時代の思潮によって椅子のように狭くなっていたことを表しているようだった。

私はそこで「可哀想」だと思った。けれども私のこの「可哀想」という眼差しはその少年を説明するものでは無い。

私は視線ではその少年を追えるけれども、その少年を語れない。

「私」がこんな少年を見たのなら、それも正解だと言える。

恐らくこれも正解ではあるけれども「感想」というものが、いつまでも本質に近づかず、その本質を掴もうとすると、曖昧というのは拭い去れない。 

「あそこのシーンで泣いたね」「少年はかわいそうだったね」なんて単純に語り合えない。

分かち合う、語り合うとそれだけで理解による熱が生まれる。そうすると、一瞬でこの話の冷たさという本質が変わってしまい、この話から離れていってしまうような気がしてならない。

可哀想だと思った少年は、結末として指導者になった。その可哀想という感情はすぐに虚構世界の終わりと共に消えなければならない。

追記

公開から時間が経ったので、
新しい感想を書きました。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/blog-post_5.html

****

感情を持つことによって、話の本質から離れてしまいそうな気になる。私のこの感情は話を読み解くための味方なのか、邪魔なものなのか、この「問い」。この感覚が駆け巡ることが非情に面白いと思った。

映画館で見てよかったなと思う。

◎サルトル著、指導者の幼年時代は読了済み。

◎映画館で一度見た感想なので、原作と比較して本当は色々気づいたことがあったけれども確かかどうか分からないのでこの程度で。

◎この映画は原作から着想を得たということなので、原作を匂わせる箇所は
ありつつも、違う話。(まず主人公の名前が違う)

◎不満を言うと、映画館の椅子が痛かった。

◎スコットウォーカー(Scott Walker)の音楽が良かった。

独裁者になる条件とか因果関係というのは私は答えは出ないと思っている。ジョハリの窓でいえば「未知の窓」(他人にも自分にも知られていないこと)がどのように表現されているかだと思う。登場人物、観客も含めて具体化出来ない闇の映像表現がよく出てて凄かった。

◎サルトルは父親が早く死に、抑圧が無かったために天使のような子だったという。
恐らく、原作共に自伝的な話なんだろう。

画像:https://www.google.co.jp/search?q=The+Childhood+of+a+Leader&espv=2&biw=1920&bih=1012&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjHoPDtmdzQAhXLGpQKHSlIAB8Q_AUIBygC

nest

―――鳥の巣の営みを人間の例え話(詩情や比喩に)使おうとすることは早計である。鳥の営みと人間の生活とはまるで違うからだ。よく巣を観察すること……
そして、断言出来ることは
現象学者は必ず鳥の巣に
惹かれるだろう。―――
*****
これはあるフランスの哲学者の話(仏語版・訳は掻い摘んでいます)です。
最初にこれを読んだときは入院中のときで、心には来なかった。それなのに数年後、書きかけの自分の小説と繋がることになる。気がつけば、彼の予言通りに私は鳥の巣に惹かれることになった。

自分の信仰とは別に、色んな人の話を聞いて回った。聞いただけではなく、「経験」という小世界を形成してきた。そんな自分が目指すのは、「原稿」であり、小さな生命を育てている。まるで自分は鳥の巣を作る鳥のようだと気づいたのだ。そしてこの小世界は鳥の巣と同じように永遠では無かった。
営みと言ってもすれ違ってしまったこと、
愛であると疑いたくなかった繋がり、
そういったものもあった。
人間の営みは
鳥の営みに例えることは確かに早計なのだ。

鳥の巣の成り立ちは神学と哲学、世界の内面を繋ぐとき、人間の感情や言葉では足りないものを上手く纏めてくれていると私は胸を時めかせた。

「鳥の巣」これこそ人々が重ならないものを固めた「詩情」なのだと私は疑わなかった。
鳥の巣はあまりにも精巧に作られていて人間が似たような草木を集めただけでは作ることは恐らく出来ないでしょう。いつも図鑑や非売品のショーケースから見つめるだけだったけれども、漸く本物の鳥の巣を手に入れることが出来ました。(イギリスから来たそうです)
*****
今回の小説は「営み」や「愛」を結論とすることは容易ではない
テーマを選びました。だからこそ、この鳥の巣の営みと人間の例え話を並べることが出来ないということに結びついたわけです。
心臓部分となるものは冒頭にあるとおり「愛の裏」であり
造語までした「栄巣」ということです。
*****
*羽はカラスの羽です。(ワタリガラスではありませんが)完成してから数日後、木の葉が揺れる音と共に空から降ってきたのを取ったものです。とても嬉しくて、必ず取らなければならないような気がして、私はヒールで走って手を伸ばしました。
*暫くは少しだけ動物の匂いがしましたが、今はもうしません。
壊れやすそうなので気をつけて撮影しました。どんな風に撮影するのか実はまだ良いアイディアが無くて、とりあえずこんな風に。
あんまり出したりすると壊れそうなので、もっとアイディアが纏まったときに新しく撮影するかもしれない。(巣:セキレイ)
◎鳥の巣を買った店→http://www.piika39.com/

走った靴(プラットフォームパンプス8~9cm) 
この記事は作品を読まないと分からないように書きました。




Icon o graph

「走れる靴と、走れない靴

私たちは愛の裏で動いていた」

Icon o graph 

発売しました。

amazon.comから順次発売

 https://www.amazon.com/Icon-graph-Japanese-Chris-Kyogetu/dp/153493037X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1468688909&sr=8-1&keywords=chris+kyogetu

amazon.co.jpでも取り扱いになりました。
(旧バージョン)
https://www.amazon.co.jp/Icon-O-Graph/dp/153493037X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1468776277&sr=8-1&keywords=153493037X

(新バージョン)
https://www.amazon.co.jp/Iconograph-Chris-Kyogetu/dp/1976468949/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1512298868&sr=1-1


紀伊国屋
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781534930377

barnesandnoble

http://www.barnesandnoble.com/w/icon-o-graph-chris-kyogetu/1124114276?ean=9781534930377

あらすじ(英語版のみ 後書きつき)

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzWTRoU1RCb0JtNEE/view  (Japanese)

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzbXB6Y2hBZUF1X1U/view (English)

試し読み

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzNXB3QVRlcEQwbkk/view


(keyword) 走れる靴と走れない靴、時を知らされない部屋と、時に決められた部屋。生の飛躍、 自由な魂、ウンディーネ、青を知らない女の子、QOL、祈りのための茨の棘、自己犠牲、悪しき母たち、 赦し、生長、変容、白夜、落ちた巣、天文時計、シモーヌ・ヴェイユ、占星術師達、 魅惑に満ちた混乱、最高の現象、時が人格を持つ、神話の実現、最先端医療、 不在への期待、オーディンの渡鴉、ベツレヘムの星、修理士、選ばれた部品、ロザリオリング、 栄巣、営みへの期待、刺繍、サロメ、硝子盤、羅針盤、解放、詩情のようで現実
(順不同)

「生かされていることや生きていること、信じていること、私達それぞれ違うこと、それらが一致を夢見て、離れてはお互いに締め付けながら、茨のように締め付けあいながら巣を作る」

栄巣(p278)

栄巣とは造語です。 

(2)→http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/icon-o-gaph2.html



オプス・デイ
酒井 俊弘神父様より


https://drive.google.com/file/d/1IWf3mKShI53901pN2mijLoOATJsu77CH/view

担当より(ネタバレ注意)

https://drive.google.com/open?id=1RpeFu9kzV4oSVVIAQmRiF_FpEH00NdcD


瀧本 往人様(哲学)

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing


松本准平様(映画監督)

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_16.html


女子パウロ会

http://chriskyogetu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html

瀬戸内寂聴様

保留+好評価


皆様の感想
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_15.html



der Vogel

Sehet die Vögel unter dem Himmel an: 
空の鳥をよく見なさい
Sie säen nicht,
種も蒔かず
sei ernten nicht
借り入れもせず
sie sammeln nicht in die Sheunen;
倉におさめもしない
und euer himmlischer Vater nährt sie doch.
あなたがたの天の父は 鳥(彼等)を養ってくださる。
Seid ihr denn nicht viel mehr denn sie?
あなたがたは 鳥(彼等)よりも価値があるのではないのですか?
マタイ6:26
*********
鳥は ラテン語では(観る)という意味があり、ホロメス等、古代神話では神々の化身と思われてきていた。聖書でも鳥は象徴的な存在として描かれる。
鳥は古代から憧れの存在。そして神の化身という象徴から分かるように絶対性すら持っていた。その憧れの存在よりも私たちは価値があるということは どういう事なのか。
今から話すことは神学的にというより、詩学的に見ることになりますが、神は絶対的なもののために、鳥という憧れの存在を譲ってくれたように思えます。
象徴は絶対的なものと 現実世界を繋ぐ存在です。
物語りを書くとするときに、福音記者やイエスを脚色することはあまり望まれない。ナザレ派の絵画ですら前教皇はナザレの名を汚したと言ったぐらいですから。
そう考えると鳥は自由なのです。階級式に人よりも下という意味ではありません。鳥が神との繋がりがある存在というのには変わりがありません。
鳥は文学や詩人にとっては必要な象徴になる。鳥がイエスや福音記者達と同じ扱いだったらメーテルリンクの「青い鳥」も生まれてないでしょう。私は現実世界と絶対的なものを繋ぐ 詩情や哲学を見つけることは美しいと思うし、それが物語り世界の中で生きることを常に期待しています。

****
ある小鳥の剥製が欲しいと思った。

生前を知らない剥製や標本は死から始まる出会いだから 哀しく無かった。それは寝顔にも見えて、愛せるような気がした。

芸術も死から始まる出会いがある。死んだ人が書いた話や絵なのに愛せたりするからね。
芸術が残す形象、それは魂が模った形象だと思う。鳥の標本もそうじゃないかなって 思いながら見ていた。
精神や魂が 模った形、可愛い小鳥、私の引き出しへ、私の詩箱の中で眠って欲しい。

****
私が持っているドイツ語版(ルター版)ではunter dem Himmel →創世記1:8の神は大空(Feste)を天Himmelと呼ばれたと同じ使い方。 英訳のesv版 KJV版ではair。専門書を読むより、時々言語変えて
読んだほうが面白いなと思う。 

ein Geschenk

画像→http://www.sofeminine.co.uk/health/study-hard-sp518220.html
Husserl (フッサール)
58 : Die Transzendenz Gottes ausgeschaltet.
Es wäre also ein „absolutes”in einemtotal anderen Sinne als das Absolute des Bewußtsein, wie es anderseits ein Transzendenten im Sinne der Welt.
Auf dieses„ Absolute” und „Transzendente” erstrecken wir natürlich die phänomenologische Reduktion.
••••••Es soll aus dem neu zu schaffenden Forschungsfelde ausgeschaltet bleiben,sofern dieses ein Feld des reinen Bewußtsein selbst sein soll.
———————————————-
58章 神なる超越は(排除or オフ)されるべきである。
「(それ故それは)意識という絶対者とは、全然別の意味に於ける「絶対者」であろう。同様に又それは他方、世界という意味に於いての超越者と較べても全然別の意味における超越者であろう」
「絶対者」にして且つ「超越者」となるものこと我々は無論現象学的還元を行き渡らせる。
・・・・・・そういったものはausgeschaltetのままに
しておかなければならない。(この箇所は訳を省略させてもらいます)
———————————————-
私は、この箇所は文学の表現かのように好んでいるのですが、どうでしょう。
書籍はIdeen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophieです。日本語訳版は持っていません。
————————————————-
フッサール哲学の「超越」とは、神やイデアのことを言っているのでは無いというのは、フッサール哲学を触れた人なら基本的なことですが、この章では、神という絶対者、超越者に対しても純粋意識の領域で考えるのなら、ausgeschaltenすると記した。フッサールは、神の存在を最終的に*軸にしたデカルトとの違いを見せた。
******
私は、ausgeschaltetとは、排除という意味ではなく停止する、一旦オフするという感覚だと私は捉えている。 オフということは、オンされた状態も含んでいるが、機能していない事だと私はイメージしている。日本語では適切な言葉が思いつかないので誰か、分かる方がいるのなら教えてください。
*******
フッサールのこの書籍の中での神の定義は「世界という超越に対し、両極端に「対立」し、間接的に認識される超越。神という超越は即ちそれなのである」と
している。色んな宗教や神という言葉の意味を記号化させたようだ。 比較宗教とも取らないこの姿勢はまさしく哲学と言えるのかもしれない。
*******
この哲学は信仰に役に立つというものなのかも分からないし、日常生活にすら役に立つのかどうか分からない。けれども、物語りを考える上では必要な要素だと私は思う。何故なら、このオフにするということは胸が痛むからだ。これを痛むということはアガペーがあるということだ。それを実感する痛みなのではないのでしょうか。
愛は満たされているだけでは、空気と同じようになる。痛みがあってこそ、また実感する。そして、内面に走るその痛みをじっくりと観察し記録することだ。
*******
そうでなければ哲学者や神学者と、どう差をつけて物語りを書こう。
******
恐らく、これは神なんて消しても痛くも痒くも無いという
人間にとっては無意味な展開になると思う。アガペーが無いのなら、神の存在を知らないから、そもそもこの哲学は始まれないのではないのでは。
神が単なる記号である間は、その人は現象学に対して立ち遅れてしまうことになる。
*******
私のstoryは見る分には普通の小説のように仕上げていくつもり。だって神も現象学も、何気なく人の心の中にあったり、自然と目の前に現れ出ている対象だという事を知っているからだ。それを忘れたら不自然な世界にしか見えない。
*******
そして、私が対象に目を向けるのではなくて
私が対象として目を向けられることも知る。
それを観察することは可能だろうか。
*******
ところで、私の仕事部屋ってこれと変わらないところがあるけど、こんなに可愛くないのは何故でしょう。
——————————————
**(軸としたという言い方が適切かどうか分からない)
追記:絶対者、超越者を一旦停止させること。

それは私達は絶対者とか超越者を肯定したり否定したりと意識することが含まれるけれども、それらが私達を含めた現象を知るとしたらどうなんだろう。そういう視点からの出発に最高の客観主義があるのでは無いのだろうか。

超越者という出発点は、人間にとっての到達点である。
現象というのは自分が追うだけではなく、追われるということでもある。

けれどもそれは永遠に逆算不可能な事なのかもしれない。

それでも、試みてみることは無意味な事なのだろうか。
未完でも、それは楽しいことではないのだろうか。
私は 楽しい。 

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