深淵とエゴイズム

絵:柿本セエカ“Bottled Griefs”

人間が臨むのは眼のくらめくような深淵であって、深淵に映ったその顔は、エゴの醜さを明らかに示しているだろう。しかし人はそのような時に、悲しいかな、水に映った自分の顔を見ないのである。

福永武彦「愛の試み」

前回の続き→カトリック聖職者による性被害について

 深遠の果てが深淵なのか、強ちそうでもないのと思うことがある。浅識に揉まれている中で精神が削れて深淵を疑似体験することがある。イエスキリストも決して賢いファリサイ派のみと関わったわけではない。愚かな人間からの罵声も浴びている。けれども、やはり読者はイエスに深淵を見出す。言語とイマージュ、イマージュが言語化するのか、言語がイマージュを引き連れるのか、それは私にとっていつも一定ではなかったが、物書きは最低でも言語を愛している。言語を愛して、イマージュから見染められることを待っている。

そうでなければ、他者に伝わらないからである。他者に言語としてのみでなくイマージュが伝わらなければ意味がない。

人を愛することは、深淵を実感させる。これはギリシャ哲学的なアイオーンなのかもしれないが、愛は強いものである。そして、弱いものでもある。愛によって距離を縮めた他者が、身体の一部になったかのように愛した後に、何らかしら、身体の一部を切り落とすかのような痛みを覚え、また距離が離れた他者となる際、悪魔となるか善人(善きサマリア人)となるか、その人間の資質となる。深淵への夢想は他者によって揺らされるが、どのようなイマージュを抱えているかはその人の資質となる。

前回言ったが、カトリックの神父が女性を何らかしらの理由で抱いたことが「同意」とするのは、何のためなのか理解に苦しむ。彼等は「叙階の誓い」によって同意も本来なら禁止なはずであり、神への裏切りである。私は穏健派なので女性に「愛」があった場合のみは、

問題視することはない。しかし、今回の問題は「愛」が無いように思えたので、私は一時期だけ追及した。該当神父の名前と顔も知っているが、私は漏らすことはしない。墓場まで持っていくのだろう。事実が同意であっても、女性が異議を申し立てればその神父は辞任すべきだというのが私の考えである。仮に女性が被害妄想だとしても、神の誓いを破った報いだと私は思っているからだ。法律上は確かに密室に入ることは同意したと考えらえるが、この場合はカトリックであり、神父はそれが出来ない立場だという認識で女性は入室する。

私は途中でこの取材を降りたので事実は分からないが、私の願いは、この神父の辞任要求だけが明確に見えていた。けれどもそうするには「広範囲」にカトリックを攻撃しなければならない。それが革命であり、人間はそうしないと動いてくれないからである。

その準備をジャーナリストとして自分は出来なかったのだ。何故なら、信頼しているシスターや司教がいたからだ。この「広範囲」に攻撃しなければならくなる残酷さを、この該当神父は少しでも感じたことあるだろうか。私はそれを祈りと共に問いたい。

 最後に何故、福永武彦のこの深淵部分を引用したのか、これは言い当てて妙だからである。

この引用は男女の恋愛がテーマであったが、深淵そのものはそのような区別はない。

よく疑問視されるのは、何故このような問題が多いカトリックに残るのかという問題は、「盲信」と片づけられやすい。実際に盲信も存在する。中には「深淵」に着目をしている

信者もいる。私もその一人だ。恐らく少なくともこの問題を理解している信者は「深淵」に目を向けている。イエスが磔刑の前夜にēli ēli lemā sabachthani(我が神、我が神、何故お見捨てになったのですか)と叫んだ後に、何故神は沈黙されたのか。私にその問いをしたのは神学者の和田幹男神父だった。彼は深淵について語った。それはフロイトの無意識、ユングの集合的無意識よりも更に深いところにあるとされる。それが深淵であると。ゆっくり経験をしていけば、かならず大きな渦を描いて見えると教えてくれた。

深淵とは必ずしも崇高な場所ではない。ニーチェはニーチェの深淵があり、

私には私の深淵がある。誰の深淵が素晴らしいかという基準はない。深淵とは人間の共通する神、愛や死に対する価値観もそこに潜んでいる。武彦は更にエゴイズムが映るとした。そうなのである。「深淵」に着目すれば、確かに同じ共同体での不正や苦しみさえも、自分の「深淵」として放置してしまう。各々感じることがあり、見えるものがある。闇すらも愛する、それが人間である。そう、人間はエゴイズムに顔を合わせられないのである。それが盲信と言われる所以であり、信者も功罪なのかもしれない。

少しでも自覚し、何が正しいのか、どうあるべきか、やはりイエスの愛に倣い、

この訴訟に限らず、クリスチャンは今後も判断してほしい。

被害者も関連記事を読めば分かるが何度も教会に戻ろうとした。そこで理解を得られず、教会で二次被害、三次被害に遭っている。被害者は、決定的な事故や事件だけで傷つくのではない。更にそれを取り巻く社会によって傷ついていく。それが自分と同じキリスト者なら尚更、もう少し関心を抱いても良いのではないのだろうか。何故私達が広範囲で攻撃されるようになったのか、深く考えてほしい。

確かに深淵は重要である。しかし、クリスチャンがエゴイズムから目を逸らして何になるのか。

画家:柿本セエカ→https://seheca-kakimoto.work/

「死の島」福永武彦

「死の島」ベックリン

 死というものは人間の生の果てであり‟Sein zum Tod”ハイデガーで言うところの

死に向かう存在である。死とは何とするのか、何世紀も議論をし続け科学では脳死からと決まった。日本では1999年2月28日に脳死判断の初適応が始まった。日本では臓器提供のために法的脳死判定を行った場合のみに限られる。臨床的に脳死状態とされても、臓器提供を行わない場合は法的には脳死とはならない。人間は意識がある間は、死という現実に向かって夢想する他ならない。メーテルリンクはオカルトの領域を犯しながら「La Mori(死の存続)」で己の臨死体験と死への考察を残した。文学世界は実は「愛」よりも「死」のほうが多く扱われているという。最も多いのは「愛」と「死」の組み合わせだろう。

福永武彦の「死の島」の主人公で作家志望の相場が相見綾子、萌木素子という女性二人に恋をし、選ぶことができなない三角関係が主軸であり、各々が抱いている原爆被害や希死念慮、芸術家への理想論によって人生が狂った内実を伴いながら文学世界として幻想的に生きていく。福永の死の島の世界は現代でいえばトラウマによる解離症状のようだ。素子は広島の原爆被害によって内面時間を生き、自分の存在そのものを現象学のようにエポケー、いや捨象してしまったのだろう。彼女が触るものは常に実感が湧かない。綾子は過去に恋人と駆け落ちするが、捨てられて自殺未遂をしたという過去を背負っている。彼女は愛の終焉に囚われ内面時間を生きる。しかし、この恋人を捨てた男Kという独白の章では、本当に綾子を愛していて離れたという、お互い重なり合えなかった平行現象を如実に書き出しているのである。

この話は主人公相場の線的に進むクロノス(土星)という時間、相場の想起の章、相場によって語られる登場人物、素子の独白、或る男の独白と構成を整理しなければならない。そこには戦後から高度経済成長へと人々が変わっていく事から置いていかれる哀しみが描きだされている。クロノスとは時の神であり、ギリシャ神話ではゼウスの親である。クロノスの重みと、カイロスという機会という意味を持つ二種類の時間が存在する。

生者は多くを想い語るが、死者は魂という神秘性を名残に沈黙する。

この話は客観的時制、内面世界を交差しながら、原爆を「土星人」(物語では同人誌の設定)とした。クロノスはギリシャ語で土星という意味をする。そして意図したのかは分からないが、占星術的な(トランジットの土星は多くの死をもたらす)意味も含ませている。多くを語っていてとぐろを巻いていた物語は、素子と綾子の自殺によって終盤へと向かう。死を目の前にし、生きているものが思念体になってしまう。それでも生きているという幻を作家志望である相場は、原爆が残した日本人の傷、世界が如何に高度経済成長期を迎えようとも、魂が衰弱していく女性二人の代弁者となっていく。生者という幻が実体を持つためには執筆するしかないとでも言うかのように思えた。我々は死に向かって生きている。生きているという瞬間は常に消えて更新される。死はそれまでは幻想であり、夢想だった。しかし、愛する者の死を見送ることは生者を幻にさせるほどの悲しみを与える。死の栄光と影はそれほど強い。生きている者は愛がなければ、そう、作家、福永武彦が執筆した「愛の試み」であるアガペーやエロース、(キリスト教的なギリシャ語解釈)は愛を失えば、世の残酷に打ち消されてしまう。

「それなら己はどうなんだ。己には何があるのだ、と彼は呟く。死者たちからも疎外されて、彼は今無益にそこに立っている。そうなんだろうか、人生というのはこうした徒労に過ぎないのだろうか。すべては空の空なのだろうか。その反省のうちに、遠くの地平線に燃え尽きた雲が少しずつ薄れて行くように、天蓋を覆う濃い虚無が(夢の中でと同じように)
次第に彼の内部へ侵入し、やがて彼の意識はすっぽりと、音もなく、その中へ吞み込まれてしまう」

福永武彦「死の島」

彼(主人公)はその後に、小説によって「死の行為化」を見出し、思念体となった生者が語ることによって実体化させることを見出して終わる。その度に日本が置き去りにされた「死」生かしていくということを決めたということだろう。そんな不幸の後でも人は愛と愛がぶつかり合って生きていくという証として。

一条の光は彼の立っているほの暗い窓の外へ、明らかな光芒を描いて、目覚めのように

差し込んだ。

福永武彦「死の島」

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