シモーヌ・ヴェイユ 「労働者への美と詩」

Simone Weil in Marseilles, early 1940s
①「見えない存在」とされている人達に必要なものは美と詩である。

②労働者に必要なのはパンよりも美と詩である。

③詩人は実在的なものに注意力をそそいで美を生みだす。愛の行為も同じである。

④進歩だとか、「時代を貫いて声明を馳せる天才」だという説を唱えだすのは、この世に
おいてももっとも貴重なものが偶然に委ねられていると想像するのに堪えられないからである。

⑤どうしようもなく神を欠く、その意味においてはこの世界は神そのものである。

シモーヌ・ヴェイユ



シモーヌ・ヴェイユは工場に入る一年前の1932-1933年にファシズムの基盤を理解するためにドイツへ赴いた。ナチスはプチブルジョワだけではなく、多くの失業者等の弱者を味方につけていると報告している。二か月余りの滞在だったが、彼女はペラン神父に、「ナチスの歌を皆が歌うのなら、私も歌うようになる、それは私の弱点ですが、そのようにして私が存在する」と自身の集団性に過度に影響されることを隠さずに手紙を書いた。彼女は可能な限り、ドイツの亡命者を救い、労働と失業、そして集団性についての自問自答を高めていた。1934年末、教職を辞めたシモーヌ・ヴェイユはプレス工として工場に従事し、「現実世界」に向き合うことを決意する。彼女は工場に入る前に「傑作」「遺作」に拘っていた。けれども、その構想は現実世界では骨が折れることばかりだった。「交換可能な部品は労働者ではないかと思いたくなる。部品のほうが市民権がある」と胸に番号が入った身分証を見せて門を通った等、彼女の記録が残されているが、

シモーヌ・ヴェイユは「労働者への美と詩」という核を書き残している。

 肝心なこの核が長らく私は分からないままだった。彼女は「工場日記」(労働と人生の省察)の冒頭でホロメスの詩を引用した。彼女は古典文学の考察も多いが、同時に労働者には詩が無意味なものとも知っていた。過酷な労働者の心が疲弊することを、自分の身をもって体感し、このように聖書を通して哲学的になろうとすること自体、自分のやっていることの無意味さに悩んでいたのである。それは彼女自身が工場生活に嫌気が差してセーヌ河に飛び込みそうになったという記録にも表れている。

彼女の書き残したものは正式に書籍化するように用意されていないことから、断章が多いことが特徴である。それは旧約聖書のコレヘトの言葉のように矛盾を意味する文同士が包括的に相互で意味を成す構造、インクルージオ構造のようだ。例えば、彼女は芸術が労働において何の意味もないことを知っていた。それと同時に、彼女は時計と芸術家について語っている。作られた時計は愛がなくても動くが、創られた芸術は愛がなければ動かない、としていた。そんな彼女は何故、「労働者に必要なのはパンよりも美と詩である」と定義したのか。これを定義として論理学として外延を書きだすにしても、当時の労働まで掘り下げて書き出していくことは困難である。

「労働」について、ある解説では宮崎駿の「千と千尋の神隠し」で説明していたが、それを例えにしてしまうのなら、労働の苦しみと重さが伝わらない。確かにあの世界観で名前を失った主人公や、記憶を失った竜神が存在し、従順に従う異世界の者達が労働の構造を表しているとしても、寓意や構造理解では全く意味がない。実際に労働によって疲弊し、労働によって死を意識しないとヴェイユの哲学には追い付かない。アニメの例え話は、この講義を受ける対象の学生にとっては、労働の苦しみは理解出来ないので論理立てるのにも外延が乏しくなる。その結果、学生は労働について「物の見え方」で終わろうとし、大半が「物の見方」次第で労働者としての幸福は詩と美だと思い込む。こうやって所詮は机上の空論で全く別のものになる。ヴェイユを知るには辛い労働とは詩や美、もしくは信仰までもが全く無意味になること、その現実を心に叩きつけ、自分が無駄なことをしていると苦しんでみなければならない。現代において、まだ「心の浄化」によって、これらは意味を成すと思われている。それが、このアニメの例えの解説だろう。外界と異世界、それらを哲学用語で駆使し、見え方を変えれば労働に意味があると思い込むこと、それで学生は満足する。現代の日本において大学に行けるほどの生活が手に入っているのなら、ヴェイユの語るような労働とは大半が無縁である。

シモーヌ・ヴェイユを理解する壁として、一つが労働の苦しみ、次に限界との苦しみ、三つ目に信仰による苦しみが重要になってくる。確かに、これら三つを知らなくてもヴェイユの詩情で何かを感じ取り、後から論理で追うこともある。私もその一人だったが、これこそ彼女の言う「偶然」の重なりなのかもしれない。だからこそ、ヴェイユの亡くなった年齢を超える頃には、彼女が客死に向かったように、これらの哲学は死へしか向かっていないとすら思えたので私は一時は彼女から離れた。

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「それは美しい」と判断しても、詩や美というのは感情や心を要するもので、それを外延立てて論理性で訴えることは難しい。それは苦痛、不幸も同じである。不幸は人生において大きな謎である。*この不幸について、世界の中心にいるという想像を放棄し、本当の中心は世界の外にあると認めること、私達は「点」である、という考えを人は受け入れられない。デカルトの「我思う、故に我在り」というのは日常において離れてはならない。(サルトルが反論したが、それでもまだ不完全である)それほど我と意識は切り離してはならない。彼女と交流があったペラン神父のような聖職者は、このような不幸について意味を持たせる。それが彼等の仕事だからであるが、イエスは本当に不幸を感じなかったのか、その問いに留意することは少ない。イエスは神の子であるが、人として旧約聖書を学んだ。神の子は処刑前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と詩編22章を叫んだ。イエスが神であるのなら本来は苦しむことはない。イエスは人間として苦しんだ。イエスの苦しみが美談になるように、人にとって苦しみや不幸は謎めいている。現代においても、不幸を解決できるような策や言葉であふれているが、人々の不幸は日々膨れ上がっている。

ヴェイユを哲学者ではないと思う人は現代でも多いが、神学や信仰を理解している者にとって彼女は哲学的であった。それは何故か、「神は存在しないと考えながら祈ること」信仰を持つ人が必ず消せないもの、停止させないものを彼女は現象学的にエポケーさせているからである。彼女はカイエで宗教家に媚びなかった。宗教家は労働の苦しみをイエスが背負っているように諭すが、ヴェイユはそうではなかった。宗教的理解に哲学的問答を続けることによって、人の心は極限に貧しくなる。宗教の視点では「哲学より漁師になれ」という言葉があるぐらいだ。貧しくなる条件として知恵(箴言28:11)がある。聖人が奇跡を起こすことが条件であるのなら、哲学者は奇跡を期待しながらも、奇跡を自ら排斥する。それこそ知の純化である。その純化こそ、自分の本質に気づけるのかもしれない。ただし、その本質は世の中を渡れるものかどうかわからない。現に彼女は治療を拒んで死んでしまった。現代倫理にそれに関して触れることは出来ないが、ヴェイユが焦点を当てた「労働者」に関しての考察は、隣人愛だと言える。彼女は貧しい労働者を揶揄することは無かった。彼女はイエスのように貧しい人達と同じ立場にいた。1937年、ポール・ヴァレリーにも書評を書いてもらえるほどの詩人にもなったシモーヌ・ヴェイユは芸術に関しても書き残している。イエスを愛していた彼女にとって、イエスが陰府にくだった事を意識しなかったことは無いだろう。「重力と恩寵」にあるように、彼女は下っていった。

シモーヌ・ヴェイユは悲劇こそ創作で表さないと人は受け入れないことをフェードル・アンドロマック(Andromaque)を例に出しているが、彼女は労働に関しては記録として書き残していた。彼女が34歳という若さで死んでいなければ、この事実は創作になったのか分からないが、その「偶然」に残された労働による記録は、現代でも過労死や自殺があるように経験してみないと分からないものになっている。彼女の記録が如何に残酷だったのか、それに気づける学生や教授は少ない。私もその一人だった。漠然とでしか労苦を意識できない。すぐに自分の信仰や、経験に基づいて弾いてしまう。それを「罪」というほどではないが、労苦を知らない間は、それさえも美しい詩のように見える。病人にはナイチンゲールが存在したが、労働者については、あらゆる芸術家が美談にしてしまう。それは、本を読めるような人間を育てているだけであるが、そんな人間に限って人の労苦の代弁者になろうとする。彼女は芸術家の偽善、宗教家の偽善、そこに一石を投じたのだろう。

それでも、彼女は弱者への奇跡を待っていた。求道者として聖書を読み込んでは、哲学的考察や思想家のように神秘を整理しながら書き綴った。それでも私は彼女は何のためにやり続けたのだろうか、と思うことが何度もあった。彼女も晩年に病でまた貧しくなった。絶望もし、彼女は賜物を理解していた。運命を疎んで、常に戦っていた。書き綴って何になるのか、彼女は奇跡を待ったのかもしれない。例えば彼女のプロメテウスや童話への解釈に現れていたが、彼女はデウスエクスマキナ――機械仕掛けの神に手を出さなかった。それはアリストテレスのように否定していたのとは違うのだと思う。彼女は苦悩に手を差し伸べる神や運命を選んでいた。労働者に奇跡が起きるように、そして芸術家が機械仕掛けの神を呼び寄せるように絶望を知らせていた。絶望とは、全ての望みを剥がすことである。絶望は訪れるものではない。自分の不幸と同じものを他人は感じないこともある。絶望とは、自ら絶望に落ちるために期待を剥がすことである。例えば、聖カシルダが当時異端であったキリスト教徒のために、食料を運んでいたが家臣と王に呼び止められて、隠している食料を見せろと言われた。食料が見つかれば処罰が待っていたが、神は食料を薔薇の花に変えた。シモーヌ・ヴェイユの待っていた労働者への奇跡とは、このようなものだと私は思う。彼女は哲学のように神を欠いたが、彼女は世界を神だとした。

カシルダの剥がされたマントのように、全ての望みや期待を剥いだ後の祈りは確かに純粋だった。

  イエスは最も父に近い存在だったために不幸が訪れた。神秘に近づくということは最も不幸だと、理解者は知っている。それが、ただの無機質な不幸か、神秘による不幸なのか、私が求道者だった頃に、当時の不幸は神秘によるものだと信じた。希望ではなく、私の信仰は不幸から始まった。魂は本当に平等なのか、信じたい気持ちと疑いが私には在った。誰にも言えないこと、浮上が困難な思惑は私を掻き立てていた。弱い人間が神秘を信じるのだと、世の反論は絶えない。

光は瞬き一つで目に入る。それでも、心に照らさない日が続くことがある。言葉で書き綴る人間は知恵を超えた光を表すために、通じない言葉と闘うことから始まる。音楽家が音から離れないように、言葉で表すものは言葉から離れられない。理解できない音楽があるように、理解されない言葉は心の中で理解されることが必要になる。

心にどのように呼びかけるのか、常にそれは闘いでもある。

そのような絶望から本当の奇跡を書き表すこと、不幸の謎に光が差すように、

私達がそこまで到達できるように彼女は「先生」として残せたのだと思う。

シモーヌ・ヴェイユ。彼女は哲学者なのか、思想家なのか、求道者なのか、定まらない評価によって根無し草のように扱われる。私達は忘れてしまうのだ、彼女は「先生」だったということを。

私は彼女の実在として「先生」であると見つけたのだ。

それは、詩人として。

概要(解説)↓

概要(解説)

「労働者に必要なのはパンよりも美と詩である」とは教職を辞めて工場に入った

彼女にとっての核だった。しかし、現代においてシモーヌ・ヴェイユを知るような人は大体が過酷な労働者になることはあまりない。(大学生やアニメの例え)彼女の神聖や美しい言葉に惹かれはするもの、この労働の箇所だけは私も実感までは無かった。最近、その機会があり、漸くヴェイユの苦悩に近い感想を抱くようになった。彼女は思想家のように思われるが、キリスト教徒視点としては彼女は「哲学者」だった。それは神や期待、希望を停止させたからである。それでも、彼女は人間を愛して火を盗んだ神の子、プロメテウスの解説も書いていた。それは世界が神であるという彼女の期待だと思った。「労働者に必要なのはパンよりも美と詩である」という定義には、労働者を「見えない存在」とした。それと対であるかのように、断章で芸術家に「実存」を見つめることともあり、私はこの二つは一緒になって考えるのだと思った。労働者にとって詩や美が如何に無意味なのか、その不毛な土地を見つめる詩人になること、それが彼女の挑んだ不幸の神秘だと思った。前回書いたマタイの13章は、神の御言葉は土地を選べないという伝道においての核であるが、私はそれと重ねることにした。

(引用1、2)

聖カシルダの例えは私が足したものであるが、マントという身を守るもの(希望)が剥がれたら、彼女には処刑が待っていた。それなのに神が食料を薔薇に変えてくれた。ヴェイユの言葉(引用4)のように哲学的、そして求道者として神を欠きながら、世界は神そのものとはこのようなことだと思った。

(引用5)

最後にヴェイユは詩人は実在するものを見つめることと書いた。(引用3番目)

私は詩人として彼女は「先生」だったと漸く気づいたのである。

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参照

「哲学者のようにではなく、漁師のように」ニカイア公会議

*点について「神を待ち望む」(世界の秩序への愛)より参照

*重力と恩寵

*カイエ

*暗い時代の三人の女性(シルヴィ・クルティーヌ=ドゥナミ

*ヴェイユの言葉

*前キリスト教的直観

*ヴェイユ詩集(ヴァレリーの書評つき)

マタイによる福音書13章

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい。
マタイによる福音書13章1~9節

イコノグラフに使った聖書の引用の一つ。

西洋哲学、ギリシャ神話では海とは「母なる海」とするが、反対に溺死するもの、「実りのない」不毛としていた。海で陸の種が育つことがないが、イエスが種の話を舟の上でしたことに私は意味を持っているとした。種とは人のイエスへの信仰の可能性を表しているが、種は落ちる場所、良い土地、悪い土地を選べない。鳥が来て食べ、土が深くないところで芽を出したが枯れてしまったり、いばらの道に落ちればふさいでしまう。

種が育つ土地とは何処かは分からない。途中で枯れることもあると知っておかなければならない。この箇所が私のキリスト教の伝え方の一番の核にしていたのは、私が初めて教会のミサに参加したときに、この朗読だったからだ。

旧約聖書を辿れば夢の啓示を受けるのはヨセフ、夢解きのダニエルがいるけれども、夢は旧約聖書では神の啓示でもあった。私はダニエル書の夢解き人ダニエルが一番好きなまま、教会へ足を初めて運んだ。そしてこの新約聖書の13章に触れた。イエス生誕以降、神は人の夢に出てこなくなった。その代わり、イエスは主である父の「たとえ話」が展開される。通常は海の上で語られたのかということがミサでは解説がないもので、今回はそれに対して批判があるわけではない。海の上から語れるのは聖職者ではなく、伝道師だからだろうと思う。だから小説家として、伝道師として、この海の箇所から取り入れた。創世記で、水は神の創造の前に存在していたこともあり、ノアの方舟によって世を洪水にし、イエスがいる時も海はあった。そして黙示録の新世界を表す21章の1節では「海はなくなる」。海の無いというこの新世界は私達にとっては人智を超えている。それは幻想で私達がいつ目にするのか分からないが、今、私達が陸地と思っている、人の心は海のようなものだ。これは比喩・暗示的であるが、種が育つ条件は分からない。芽吹いたとしても、枯れてしまうのかもしれない。それは、残念ながら聖書を語る自分の心もそうである。聖職者はその可能性を語ることは出来ないし、作家だからこそ、「枯死」という現実を語ることが出来る。聖職者、例えば神父という人が下れない世俗に、伝道師は行くのだろうと思っていた。それこそ、優れた土地、人の心が何処か厳選できないように、教会の外へ行く。それは洗礼を受けなかったシモーヌ・ヴェイユが保った均衡もこのようなものだったのかもしれない。

マタイの福音書は福音記者マタイが書いたと言われる。歴史上は福音書が出来上がる過程で、ローマで、キリスト教徒になった者に迫害や弾圧があった。その中で厳選されて作られたものだが、イエスキリスト自体は存在していたのは確かであり、西暦はイエスの基準に作られている。イエスが起こした様々な奇跡が事実かどうかは、研究によって歴史学者と宗教学者によって見解が分かれる。弾圧の中でも書き残そうとしたものがどんなものか、「愛」や平等、許しがあることに福音書の醍醐味がある。

 マタイの福音書はイエスを①ダビデの血筋 ②新しいモーセ ③共にいる神(インマニエル)としている。イエスはモーセと似ている。エジプトから出てきて、ヨルダン川で洗礼を受け、荒野に40日間過ごし、律法を山で説教する。イエスはモーセ以上という記載もマタイの福音書に書かれてある。イエスが招きいれたのは、宗教に厳格な人間でも有能な人間とは限らず、貧しい人、弱者も入れられ、むしろ権威や宗教に厳格なだけだとつまずいてしまう、という教えがある。種まきとは、このように良い土地というのは私達が選べないところにある。世の賢い人に限らず、罪人や様々な人間の心に可能性を込めることは、それこそ海に陸の種を投げ込むようなことである。それぐらい不確定への挑戦でもある。

 種が育つ条件は何なのか、それは定かではない。それに関しては「愛」という限定の記載はない。キリスト教圏では大体の植物に神の象徴があるが、百合に、時計草、薔薇にオリーブに、葡萄、そして毒麦と、雑草も恐らく咲いた意味がある。種が育つ条件は夜明けの光か、引き寄せる月の引力か、土地を乾かすほど暑い日光か、植物を休ませる冬の寒さか、夜の夢か、人生という「四季」の中で人の心はどう育つのか、問いかける。

生きるとは意識がある時間に限ったことではない。夢の中で意識を失った時も、生きている限り時間を共にする。争う時、和解する時、愛する時、(コレヘトの言葉3章)と言いながらも、そしてそのような苦しみからの解放を知りながらも、また苦しみが生まれ、平穏の中でも、生きるとは「待つこと」でもある。私達は芽吹く時、枯れる時、時を待っている。待つということに関して、キリスト教文化と関係無い夏目漱石の「夢十夜」のように不確かな事象が内面世界を動かしていくこともある。 夢十夜の第一夜は幻想と夢想、思惑は秩序を求めようともしていない。夢の中の時間は「発生」も「消滅」も優位性を持たず、ヘーゲル的直観された生成とも言い切れない。その中で情景の中で女が息絶え絶えとなって、男に「もう死にますから」という。やがて女は死んでしまって男が待ち続ける。男は長らく待って「女に騙されたのではないのだろうか」と、疑い始めるが百合の花が咲いて男に接吻をする。ただの夢物語だが、息絶え絶えになった女が百合の花に変わる、その変容は夢という無作為の中でも現れた時熟である。

 私達は通常の「クロノス」という計量可能の時間で生きている。その中でそのクロノスを突き破るような「カイロス」という計量不可能なものに意味を見出している。イエスが生まれた時、奇跡が起きた時、花が咲いた時、子供が生まれた日、美しいと思った日、それらは内面世界と外面世界を繋ぐクロノスの突破である。御言葉の種は人の目に見えないところで芽吹いて、育つ。それは、条件が優れていて、良い土地とは限らない。それに、何故、御言葉が育つことが必要なのか。それを考えたことがあるのだろうか。路上で寝泊まりをしている人達、虐待を受けている人、不慮の事故、事件に巻き込まれた人、災害、生死の選択が迫られる人、脱出できない心の「瞬間」や「永遠」の内部体験に種は撒かれ落ちる。

「夢十夜」の録音は途中で訳あって終わろうとしていた。私はマタイの13章をよく理解していて、仏教徒の彼に聖書を読んで欲しいと一度も頼んだことはない。そして彼もまた読まないと言っていた。仏教という軸がある彼にとっては、蓮の花のように、水上に咲いていることは知っていた。陸ではなく、私は彼を水上の花だと思っていた。泥中の蓮、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」私は彼の神聖をそのように思っていた。キリスト教徒ですら、疲れてしまう長いお祈り、長いお経を綺麗に唱えられる彼に、私は自分の優位性を感じたことがなかった。彼とは別の宗教でも一義性でいようと過去に語ったが、それも夢物語のように尽きようとしていた。そんな中で、彼が最後の「夢十夜」の続きを送ってきたが、私はそれでさえも聞こうとはしなかった。 

私達がいなくても名作は誰かに朗読される。もともと、海を埋め立てるような陸が定かでは無いところでやっていた。夢十夜を聞き終えて朝方を迎えていたら彼が、「マタイの福音書」を動画で見たと言ってきた。私は拒むことも出来たが、彼の内部体験の中での判断を拒むことが出来るのだろうか。

その答えは今日(こんにち)は出ない。それに、この話は彼の心に芽吹いただけの話ではなく、私もまた枯れなかったのである。それは人格を愛するだけでは限界がくる。理想通りでない人格だった場合、和解できなければ分断する。「イエス様は優しい」そう簡単に言ってしまう聖職者や信徒は大勢いる。歴史上の人物や芸能人も、知りもしない人格を愛する。それだけでは、御言葉が生きることは不完全である。人格だけを愛することには限界があることを、私達はよく知っている。だからこそ、少しの相手への失望で分断する。それなのにイエスキリストは様々な弱者や罪人を解放した。このように人格に限らず、その狭い範囲に囚われずそれは人格ではなく「愛」だとする。しかし、愛は人格を要する。この矛盾――これほど積み上げた形而上学は姿を消して「日常」の中に溶けていく。私も聖書よりも「日常」を生きる日を否定できない。だからこそ時を生き、時を待つことが重要となる。

綺麗な薔薇には、苦みのある土の匂いが欠かせない。人知れず咲くセメントガーデンや、住まいに巻き付く蔦なのか、種の成長は私には分からない。黄金比を保ちながら、植物は葉の枚数や花弁の枚数という秩序を持ちながら、同じ育ち方はしない。私の与えた引用が彼に

どのように生きるのかは定かではない。

文章を書く私にとって、黙読だけが想像世界を動かしていた。私の母は失読症だった。学校の宿題の「母親の朗読」を私は嫌がって本を母から取り上げた。嘘はそこから始まって、母は朗読が上手かったと言った。気づけば私は一人で読んでいた。カナダの留学生が私に英語を教えた。私は語感を愛しているが、日本語の音を愛したことがなかった。そんな私が彼の声で愛するようになった。だからこそ、好きな作品が音となって具現化になること、それを私は待っていた。今日は私を理解出来なくても、陸で生きる人の心は海のように深い。昔、聖職者のもとで学んだことがある。確かに彼は、特に何が専門だとか特徴は無かった。しかし私は、彼がいるのなら、「また一人になった」というような人に、こう言うのだろうと思った。きっと聖書の引用と共に「もう貴方は一人じゃないですね」というような人だった。

とてもシンプルな言葉、その小さなことに、人は待っている。

今度は沼ではなく陸地で、咲いたらいい。

「耳があるものは聞きなさい」 

最後に、彼にも神の祝福を

概要

昔、伝道師になろうと思って、ある司牧者から学んでいた。確かに特に取り柄が特徴的な人ではなかった。けれども彼なら、「また一人になった」というような人に、こんな時、こう言うのだろうと思った。「これで一人じゃないですね」

極めて単純な言葉、その些細なことを人は待っている。

マタイによる福音書13章は、自著イコノグラフで扱われた。神の御言葉である種はどのように育つのか分からない。種まきの土地は選べないという教えだが、宣教師ではない私のような人間は、舟の上で説教したことに焦点を当てる。海とは元々、ギリシャ神話としても「不毛」ともされた。そのうえで陸の話をしたことへの評論。

朗読の彼が仏教徒ですが、今月に入って聖書を読んでくれると言いました。周囲の反対が多い中、私は彼に読ませることにしました。御言葉が育つということは、どのようなことか。人の思惑が不毛な海から、実りある土地になるまで。改宗は促しませんし、内容として伝道師と宣教師の違いにも触れています。但しプライバシーがあるので仏教徒の彼と、聖職者の詳細は触れていないのもあって今回は話が混合しやすいのですが、繋がってはいるので読み解いてみてください。

文学と私刑 飛翔点(2)

罪からくる報酬は死です ローマ人への手紙6:23



はじめに

 聖書を文学の一つだと答える人もいるが、「聖書は文学ではない。聖書は聖書だ」と言い放った無名の言葉が一番的確だと思っている。作家を目指した若い頃の私は、まず自分の存在は「名も無き虫」と受け入れることから始めた。確かに私は存在している、けれども他人からは知らない虫だった。小説とは自分の伝えたいことを残せるものでもあるが、それをそのまま書いても残らない。そのために推敲で切り捨てる冷静な目が必要だった。大切な人の死を書いても容赦なく「面白くなかった」と批判が来る。それを受け入れること、聖書を頂点として私の自我はへりくだる。何故なら全部、聖書を頂点として過去の遺産に書かれてある。想像の処女性は無い、それが私の執筆生活の幕開けだった。それでも私には長年くすぶってしまった課題が残っていた。「残酷な話を書く」こと、特に「私刑」についてだった。ローマ人への手紙の「罪からくる報酬は死です」という引用は何度も原稿の中で移動し続けた。或る時は序章、或る時は世に出ることがなかった登場人物達がこの引用を語った。実際にこの聖書の言葉はこの続きがある。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのち」と、罪の流れを断ち切ることが出来ない人間にイエスが赦しを与え、死人は罪を犯せないと説明を受ける。

「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学

 私は2018年以降の療養中にアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」も好んだ。この話には探偵は登場しない。三人称視点だが、各々の死体が語りだすような感覚に陥り、真実は黙絶法によって手紙に集約される。ここに集められたのは法で裁かれない罪を犯した10人だった。殺された被害者の一人のエミリー・ブレントは狂信者だったが、妊娠した使用人を自殺に追いやった過去があった。彼女は自分が次は殺されると思ったのか、「夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない」と神の救いを約束する詩編91篇で心の安定を図ったが、祈りも虚しく蜂に刺されて死ぬことになる。この孤島の惨劇は、裁判官のウォーグレイヴの殺害計画によって企てられていた。容赦なく過ぎ去る時間の中で、意識の時間と世界の時間は必ずしも一致しないとはベルクソン的なものだが、エミリーも信仰という内面世界での判断が外界へ歪を生んでいた。犯人も同じである。公刑で裁かれなかった罪、という内包された罪に犯人は目をつけた。純粋に内的な意識が向けられること、純粋持続とはキリスト教的な愛、光や善とは限らない。哲学的な純粋とは、普遍性をさし、倫理に囚われない。制裁による殺意とは、哲学と神学が倫理によって囚われて隠れてしまうものが不文律として浮かび上がる。

 人間の罪とは宗教上は戒められ神から赦しを得られる。しかし、私達が生まれてから目にする社会とはそうとは限らない。罪人というものを戒めることをしないこともある。裁判官はそれに目を向け、この計画を思いついた。この話の醍醐味である見立て殺人の人形はマザーグースの詩に準えていた。インディアン人形、もしくは兵隊人形と翻訳される。この詩も古いもので元は黒人を象徴していたが、次にインディアンと変えられた。占領と迫害を象徴した人形で見立て殺人が行われる。物質は記憶、精神と物質の二元論がこの中にはあった。孤島での時間は誰も所有出来ず、主人公そのものが存在していない。10人を招待したオーエン夫妻(UnKowen)という架空の存在に操られることになる。この島の運命を司るのは姿無き存在だった。物質と空間、そして記憶、これらの関係性は大抵の人が哲学として意識しないでやり過ごす。それでも人形のように、物質が暗示的になり、自分の身が危ういとなるとすぐに認識する。彼等はマザーグースの詩や人形に意味を見出して、真犯人の計画の中で生きることになった。一人一人の過ちを暴露する謎の声を流す蓄音機、つかみどころのない音は聴覚として流体的に生きる。気が付いたら、退屈で眠くなる哲学、物質と精神の交わりに怯えるようにさえなる。

 その光景は仕掛けた判事にとっても芳しいものだったのだろう。食事のテーブルマナーのように、彼は美しく順序よく殺人を行った。銃声の音と共に、犯人であるウォーグレイヴは死んだフリをした。それから起き上がって、更に彼の亡霊劇は加速する。ウォーグレイヴが自己陶酔に陥っていたのは、自分を聖書のカインとアベルのカインに見立てたところに現れている。カインは聖書の始めの殺人を犯し、嘘もついたが神はカインに復讐をさせないようにした。よって、判事は正義という審美眼を錯覚したことになる。何故なら、神の望みというものに私刑は望まれない。ただし、私刑と審美眼は表裏一体である。鳥かごと鳥が別々に描かれたソーマロープは鳥かごの中にいる鳥に見えてくる。ソーマロープを回せば共存してお互い関わっているかのように鳥かごの中に鳥がいる。それに目をつけたのは文学だろう。絵画や音楽等、その他の芸術は「私刑」を扱わない。絵画は裁きに関しては宗教画、もしくは「公刑」に止まっている。

絵画:スチェパン・ラージンの死刑 Sergey Kirillovセルゲイ・キリロフ

言葉は神の言から、詩、箴言、虚構、ジャーナリズムと様々な役割を持つ。絵画や音楽は皆が本気で取り組むことは無いが、言葉は皆が習得し、時には愛を語り、時には嘘を語るように、誰しもが本気になる。しかし、言葉は単純に時間と共に生成消滅をしていく。「愛している」と言う言葉も色褪せていくのは、言葉は知覚や記憶、体感を要するからである。愛というものは言葉のみでは生きられない。愛には付随して感情と行動が伴われる。それでも愛と言う言葉は、しばし多くの人間が連想されやすい。理解しがたい愛の前でも、方向性は認識できる。愛は行動をし、行動によって愛だと知る。対して殺人や私刑というものは因果関係の感情を容易に理解出来ない。マザーグースのインディアンの詩は残酷な詩であり、最後の一人のインディアンは首を吊って死んでしまう。この10人はこの詩の意味を充分に理解する。命が脅かされることによって意識や時間の純粋持続が机上の空論でなくなった。そのうえ彼等は贖罪をすることもなく過去≒記憶によって終わるのである。

ソーマロープ

私刑による魂・善悪に囚われない意識

 10人の招待客のように強制的に強いられなければ、記憶、時間、空間を切り離しては対象として見ることはない。プラトンの三つのイデアによれば、⑴は真、⑵は美、⑶は善に向かう興味であるという。スターンバーグはこの美の審美的興味とした。聖書にはそのような構図が旧約聖書のハガルの話で見られる。アブラハムの妻サラには子供が出来なかったので奴隷のハガルに産ませた。その子供の名前は「イシュマエル」とした。殺されたエミリー・ブレントと境遇は似ているが、ハガルの最後は神から救われる。

聖書世界の「人を殺してはならない」(出エジプト20・13)とうものは神という絶対者の元で、信仰に基づいている。人間は神との約束を破ってしまうので常に債務を負っているということだが、文学は悪戯に約束を破り続けながら「悪」を書いているのだろうか、数多く存在する作家の目的を絞ることは出来ないが、ジョルジュ・バタイユは「文学と悪」によって、文学の最高は世の水脈から悪を探り当てることだと思わせた。想像だけで書くのか、体験があって書くのか、作家は哲学的に整理することもある。そして想像だけでは事足りなくなり、ドラマティックな発言よりも日常化を求めるようになる。だからこの話は静かだ。この「そして誰もいなくなった」の登場人物達は犯人を除いて表面上の出来事しか知ることが出来ない。探偵が存在しないこの作品は悪が善を紐解く鍵にならない。神の存在が確認出来るとすれば、判事が瓶に入れて拾われるはずのない告白文を「漁船」が偶然に拾ったことだ。キリスト教と漁師の関わりは深い。ペトロは漁師であり、イエスに「人間を獲る漁師となる」と言われた。しかし、ミステリー小説という大枠の中でこの観点は砂金のようなものだろう。しかし、現実世界とはそのように「観点」と「意識」が無ければ無味乾燥なものではないのだろうか。カレル・ファブリティウスの絵画が爆発事故での生き残りであると、絵画は燃えてしまえば意味がない。文章はどのように人に影響を与えるのか。文学は言葉や概念が表すものや、人の感情が仏教的に固定的実体を持たない性質を持つ。だからこそ「誰もいなくなった」というのは、文章世界の残酷な一面を表している。

 絵画は言葉で解説をしても、絵画として残っていることを条件とする。文学は聖書と並べられるが、目で見える空間と形には辿り着かない。嘗て絵を描いていた頃にデッサン力や色彩感覚を褒められた。常に思索や概念を抱いては、描くことで自分を探していた。哲学的考察がより一層衝動的になったのはこの時期だろう。若いが故に言葉になれないものは型を求めず、そして何かに頼ろうとして絵を描こうとする。若い間に現れるのは情熱ではあったが、私は円熟したものが欲しかった。意識と自分の技術から跳ね返る自己像に耐えられなかった。抽象絵画のように形からの脱却をしながらも色を用いる限り空間と比率が生まれる。あくる日に私は描きたい空間がなにもないことに気づいた。ゴッホが向日葵を描いたように、そして色を拘ったように出来なかった。私は愛や存在に関する思惑ばかり目に行った。21世紀になった今は哲学も心理学も、宗教は勿論、心や魂から離れながら進んでいる。それらを言い表すのなら宗教的観点が必要となってくるからだ。しかし、文学はまだ魂を書き表せる。ニーチェは復讐感情をルサンチマンとした。道徳的により、弱者が強者を悪とする。この価値の転倒は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」では弱くなっている。

犯人は、代理復讐を装い、快楽に走った。そのような復讐心や道徳的奴隷で殺したのではない。全て10人のインディアンの詩と人形に集約され、人が殺されて消えていく。作中に芸術家は承認欲求が大きくなるとあるが、それはこの犯人のことだろう。隠された欲求と快楽の実現は孤島で行われた。彼が社会的な名誉を欲したのなら、このような事件は起こさなかった。自分の告白文を拾われるかどうか分からないのに瓶に入れて投げ捨てた、魂の確かめ方はこのような事もある。それが「私刑」の末路である。

花を描くことを選ばなかった私の探求は鳥の巣のように集められ、形成を試みていた。それは現象学として、そして詩情として、美しい心情があった。鳥の習性と偶然性で集められた草木は神の御言葉でもあり、棘があるものもある。それは根腐れ、弱い草、枯れた草、

次回作はそのような「悪」を書きたい。

概要

私刑と文学

このテーマに6年かかった。残酷な話を書くということはジャーナリズムのように、自分と他者を切り離せない。小説とは時には自分の悪意も生かしては吐露する必要があるからだ。

アガサクリスティ「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学を扱った。馴染みのない、物質と精神は、哲学として読むと抽象的だと批判されるが、殺人ゲームの前では皆、その意味を理解した。インディアン人形が自分達の命を表し、意味不明なマザーグースの詩の通りに死んでいく。

哲学上の意識とは道徳や倫理に囚われる必要性がない。宗教的な善の必然性がないということ、それらの考えを今回は序章としてまとめた。未発表の小説が本題になるようにしている。「私刑」それは虐げられた、消される魂の承認欲求である。このように追い込まれたことを、被害者だと思っていない。私は必ず復帰する。

関連過去ブログ

この記事は飛翔点(Ⅰ)に続きます。

幸福の王子 オスカーワイルド

「もっとも美しい魂を持ってきなさい」

オスカーワイルド「幸福の王子」

火を人類に分け与えたプロメテウスはゼウスから罰を受けた。彼もイエスも人間を愛していた。ギリシャ神話もイエスも、人間に愛を与えた神聖な存在は罰を受けた。「幸福の王子」はカトリックへの改宗を希望としたワイルドの最もキリスト教的な作品と言われる。エジプトへと行き遅れたツバメは、王子の像の足元で休もうとしました。すると、像である王子が泣いていました――。

ツバメが他のツバメよりも6週間も遅れたのは、ツバメは恋をしていたからだ。相手はReed(葦)でした。Shall I love you(君のことを好きになってもいいかい?)と始まった恋、彼女はうんと頷きました。一緒に遠くへ行かないか、というと彼女は首を横に振りました。風と浮気性の彼女、ツバメは彼女に別れを告げて旅立ちました。金の銅像の王子は生まれ変わる前は天使のような存在でした。塀の外を知らない王子は、幸福のまま死にました。彼は「幸福の王子」と呼ばれ、銅像になった。塀の外を知った王子は世の貧しさと卑しさに絶望していました。王子は貧しい人達に自分を飾り立てている宝石や金をツバメに運んでもらいました。

王子はやがて与えられるものが無くなりました。ツバメも疲れきっていました。ツバメは王子に最期のキスをして、二人は死にました。王子は溶かされて新しい銅像となりますが、心臓だけは溶けなかったのでツバメの亡骸と一緒に捨てられました。それを、天使が拾って天の国へと連れていきました。

 私の幼少期に出回っていたものは、前半のツバメの恋と終盤のキリスト教色が省略されていた。それでも献身的な王子とツバメの姿は日本人にも人気がある童話である。何処となく、冬の日の貧しい人達、という光景がアンデルセンの「マッチ売りの少女」を思い出させるが、幸福の王子にはマッチ売りの少女が存在する。ツバメが最後に金箔を与える相手が、

マッチ売りの少女だった。ツバメは一夫一婦制で、子育てを交互に行う。ツバメは餌を100回以上も運ぶので、この話は生態系としても成り立っている。

塀の外を知らなかった王子は、王子という称号のままなので、大人になれずに亡くなったと考えられる。オスカーワイルドは、他の作品、「わがままな巨人」でも子どもの神聖さに触れている。巨人は塀の中に立派な庭を持っていた。巨人が留守の間に子供たちが遊びに来ました。巨人はそれを見つけると子供たちを追い出しました。すると春が庭に来なくなったのです。巨人は子供たちを受け入れました。それは、マタイによる福音書 18:3-5にあるように、天の国に行けるのは子どものような存在ということを深く信じていたと考察される。

 ツバメが貧しい人達へ飛びまわる姿を想像すれば、そのイマージュは街並みを、そして空間を思わせる。ベルクソンでいう、時間という空間の例えになりそうだった。時間は線上でもなく、刹那的なものでもない。ツバメは反復し、直線、平面を描く。飾りを失った王子を処分する大人たちの「外側」とは違った内面時間をツバメと王子は生きていた。

彼等の心優しい行いは、規則的な時間とは違う。純粋持続(durée pure)とでもいうのか、

転変と保存という両義的な中で彼等は生きていた。人間を愛するということが如何に難しくて、代償を必要とするのか。それは貧しい街と人々の描写で表れている。見下ろせるほど高い場所に存在する王子様の愛は、隙間を入れる小さなツバメを必要とした。王子様は富の象徴だったので、分け与える必要があった。裕福な者が天の国に行くことは針の穴を通るよりも難しい(マタイの福音書19章24)とあるように、彼等は狭き門(ルカによる福音書13章23と24節)への準備と始める。けれども王子は、悲惨 miseryは神秘mysteryではないとツバメに言った。彼等は天使によって運ばれる。

最も美しい魂として。

純然なる魂の存在というものが文章世界に現れるとき、光が視界に入り込む。

それは心の中でのことで夜明けの連想と共に、美しい朝日が神の存在を現すかのようだった。貧しい街並みの身勝手な台詞が遠のいていくことは、

私達のイマージュは天の国へと上昇する。

 私は子どもの頃は止まるツバメになりたくなかった。王子の話を無視して暖かい国へと飛んでいくツバメになりたかった。けれども、神聖な愛以外に飛んでいく場所なんてないのかもしれない、その意味に気づいた。日本語の祈りの言葉である「あなたを置いて誰の所に行きましょう」のように。

参考資料

『Brief Lives: Oscar Wilde』by Richard Canning Hesperus Press Ltd.

Essai sur les données immédiates de la conscience Henri-Louis Bergson

備考

「あなたをおいて誰のところに行きましょう」は英訳版の祈りの言葉では、

But only say the word and my soul shall be healed.「ただその言葉を言うだけで、

私の魂は癒される」となっている。多国籍ミサのときに同時に聞くと深くなる。

人間失格と太宰治

最後にまだ、あなたのうちに神を探し求める道がある。すなわち、かぎられているものどもの除去の道がある。というのは、芸術家が木の魂のなかに王の顔を求める場合、
その御顔のために全てを捨て去るからである。 

ニコラス・クザーヌス
De quaerendo Deum49

「はじめに」

 太宰治の「人間失格」を語るとなると精神が幼いと誤解を受けやすい。2021年現在、

太宰治は有名ではあるが昭和・知の巨人と呼ばれる人達と並ぶと、地位は高いのか低いのか、それさえも彼は定まらない。彼の本質は何だったのか、結局のところ、未だに何にも定まってはいない。戦後76年も経って、これである。それが私にとって太宰の魅力だと再認識した。

太宰文庫は夏に売れると聞くが、今でもそのようだ。彼の口語調の文体に重々たる文豪に備わっている理知的なものは存在しないと言う人もいる。当たり前に存在しているものを感性豊かな文章で書いたことは、宗教的にも哲学的にも問題提起と成り得る。そして、彼の感性というのは、飾られた比喩や技巧ではなく極めて日常的に使われる言葉の羅列が多いことも特徴である。

大人になった私が再度、太宰治を取り上げるのは愛と死生観に関して、クリスチャンとして理想を知っていて、尊敬する作家は他の人であり、彼等がカトリックの新聞に引用されるような作家であり、2年の療養期間を設けたが、彼等のように根を張るほどの言葉の源泉を発掘することが出来なかったからだ。多くの光と愛を見たが、年齢と病気も考えると時間がないと判断した。

「英訳するのなら太宰が分かる人に向けるよ」と言い出したのは私の敗北宣言でもあり、再起を意味する。但し、太宰治については今回一回では書き上げられないので複数回に分けて書くことになる。

「人間失格と太宰治」

 主人公の葉蔵は幼少期から美少年だったが、幸福というものへの思索に帰結出来ず、疑問を持っていた。彼の内部を覆う外皮、人々は彼を「仕合せ」と判断する。その言葉は何処か表面的で主人公の心には響かない。そして彼を取り巻く世界が日本の優等生かの如く、彼のような悩みを持つ者が見当たらない。主人公は世間に対して、彼等を「夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら」と思いに耽る。

現代となっては職種も増え、好きな仕事をするというのが流行っているが、この時代は「食う」ために仕事をするのが当たり前だった。現代よりも、それは当たり前だった。その中でも作家という仕事は、作家にとっては神の啓示でも、道楽、インテリの他愛事、好きな仕事をしているという部類だったのかもしれない。葉蔵は隣人を理解出来ずに、人間に対しての最後の求愛は「道化」とする。父母でさえ、溶け込めない葉蔵は成長するにつれて、孤独の香りが魅惑となり、女性たちに嗅ぎ当てられる。そして、彼は女性たちの秘密を守る色魔となっていく。

太宰治は洗礼を受けていなかったが、聖書に熱心だった。それは一緒に心中した山崎冨栄の日記に記録されていて、他の愛人、斜陽の元となった太田静子に会いに行くときも聖書をバッグに入れていた。太宰は冨栄に印象に残った聖書の引用を尋ねたことがあった。冨栄は二か所の引用を答えた。

「人間失格」は太宰治の遺作であり、冨栄が太宰を看病する中執筆された半自伝と言われている。冨栄の日記を読めば、この「人間失格」の女性が何故主人公に惹かれるのか、理解出来るのかもしれない。冨栄は太宰に「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ち掛けられたが、太宰の結核の看病に必死、愛情を独り占めするために必死にらなければならない、という現実を知ることになる。太宰が戦後の変わりゆく日本人に対して苦悩しているということを知り、女が大きなものに巻かれて生きることしかない事を盲目に受け入れていたことに自覚する。冨栄は戦時中に、家族に行き遅れを恐れられ結婚し、その夫がフィリピンのマニラで帰らぬ人となった。彼女は未亡人となった。「所帯くずし」という言葉が存在する日本、当時の彼女の孤独を癒せるものはいなかった。彼女は夫を愛していた。太宰は世間とは違い、昭和22年、6月3日に脱稿した「フォスフォレッセンス」で架空の花、phosphorescence(燐光を発すること)を中心に冨栄への愛と、夫への招魂祭を描いている。戦死した夫への愛情を何処へやったら良かったのか、富栄の鬱屈した気持ちを世間は許さなかったが、太宰だけが許し、夫への愛情も受け入れてくれた。

当時で言う「全うな夫」であり、家庭を守っていたのなら、冨栄には救いはなかった。彼女にとっては既婚者の太宰だけが理解したのである。

「世間というのは、君じゃないか」(それは世間が許さない)

人間失格 太宰治

この作品の好きな箇所はと問われれば、大多数の人がこれを引用するのかもしれない。

太宰の世間が許さないという言葉、そのありきたりの言葉に「世間が許さないのではなく貴方」と人格を浮き上がらせた。世間から削り取られていく自我と、当時の訳ありの女性たちは似ていたのかもしれない。女性は特に若ければ独身、次に家庭の中にいなければ人権が無いようなものだった。未亡人となれば、結婚を手段としてまた儀式的な再婚が待っている。川端康成を始め、彼を酷評する専門家は大勢いたが、彼を肯定してくれる女性たちによって、彼は生き始める。「人間失格」の葉蔵はその一人だろう。

 日本文豪の女性像は当然ながら、キリスト教に生きる女性は少ない。意図せずとも、男の独白が女を触ることは、バタイユ的な女性の「美の侵犯」でもあり、反して小鳥をケージに入れて可愛がるようなものでもあった。親しみのある口語文に官能と、女性の少女性が一緒に生きる。彼の女性像には谷崎潤一郎の「鍵」の奥さんのような大人の色香、三島由紀夫の「豊饒の海」の聡子のような洗練された上品さもない。もしかしたら日本の文豪が書く女性像の中で一番地味なのかもしれない。派手な心中をした現実に反して、いささか地味なのである。ただ、恋慕に頬を染め、生活と恋愛の天秤にかけられている題材の中で、死を堂々と語る、これも晩年の太宰文学の魅力だろう。

言葉で多様性は表現出来ない。倫理面で解釈のメスが沢山入ると疑問が付きまとう。けれども常に解が無い。彼等のように刹那に生きること、彼は世間の道化であり、真意を突きつけられることを避けるような文体でありながらも、人を束縛しない言葉で綴る。彼の中で「愛とはこうあるべきだ」という教理まがいなものはない。彼等には芯が無いように見られるが、「人間失格」終盤、

「神に問う、無抵抗は罪なりや」

「人間、失格」

もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます

この剪定ともいえる言葉の選択にイエスは悲しんでいることになる。神は農夫でイエスは葡萄の木という話がある。(ヨハネの福音書15章)剪定とは、要らない存在を斬ることではなく、幹であるイエスも悲しんでいるという意味であり、「命の繋がり」を表している。剪定した後の木は樹液を出す。それをイエスの涙と例えられる。

「いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます」

剪定された枝の一つはこのように思った。それがこの作中の主人公であり、文学者の肉声なのかもしれない。太宰治と山崎冨栄は聖書をロマンスに拡大解釈し、溺れただけの人間なのか定かではない。ただ年齢を重ねると分かることが、人生は何処かで「間に合わない」という地点に気づいてしまうということだ。「命の終わり」それに気づかない人もいるが、早く感じる人もいる。大半の人が癌や、余命宣告を受けて気づくことのようだが、死を意識することは仏教では特にあった。仏教の学校に居れば「生まれたら既に死の可能性は始まっている」が第一声だった。その教えを新しい発見とならなかったのは、漠然と自分もそう気づいていただけなのである。死を知っていながら意識すれば怖いと思うので、大半の人が死角へ追いやる。太宰治を子どもに読ませるとしたら、「走れメロス」が有名であるが、作者略歴で彼の心中を知る。当時、友人が太宰の略歴を読んで「何故自殺をするんだろう」と言い出したことがあった。幼心の中で答えたことは「死を受け入れただけ」だった。当然、勝手に自分が気づかない間にこの世から消えることは怖い。余命のように受け入れていく死もある。では、自死はどうなのだろうかと思うと、死んだ人の本音に辿り着くことは殆ど無い。肉体の死と他に、精神の瀕死が存在すると昔から疑わなかった。精神の瀕死具合を幾ら書き残していようが、他人は気づけない。助けを求めることも忘れる程、精神が疲れれば、どうなるのか?

どのみち、人は言葉に書かれていない事実を探してしまう。書いてあっても人は、他人は思いたいようにしか思えないから書いた通りには読めない。現に、死没73年経った今でも太宰治の本音は結局のところ誰も知らない。誰も剪定された枝の気持ちは理解出来ない。「人間失格」は「世間」というものについて、嘘はついていない。彼には偽善がないのである。

「所詮、人間に訴えるのは無駄である」

「へぇ? お前はいつクリスチャンになったんだい」

人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らない

 それをいつの世も、悲しむのは愛してくれる存在と、イエスであると仮定する。

作家にとって、愛するとは最終的に作家として残ることではないか。愛した女達が、そう望んだのなら、それしかない。

更に言えば、この作品も彼等の死はキリスト教としては禁忌だろう。

作品の男は病院に入院して終わるが、著者は愛人を連れて死ぬ。

それでも人の不完全さを見つめる力がなければ宗教も文学も成り立たないのは同じである。彼等の「死の受け入れ」を作り上げた現実と、彼等の与えられた生涯に、そのような選択があったことに、神も泣いているということを忘れてはならない。神(愛)が泣かないとするのなら、誰が泣くのだろうか。

剪定は、葡萄の木の良い成長のためだけだと捉えてはならないのである。

幼いころに「死を受け入れただけ」という受け答えに間違えはなかった。精神は何度も疲れ、心が死を感じる。それでも、心は生き返ることがある。心はまた死を受け入れるのだろう。何度も、何度も。

実際に「哀しい運命の受け入れ」は誰しもいつしか訪れる。

愛や死に抱く想いは、上昇と下降を繰り返す。単純な言い回しの裏で、あの頃よりも音と思惑が深く響きながら何処かへ届くように、希っている。

再起:悪い状態から立ち直ること

ヨハネの福音書15章(1~12)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

The Joker and Biblical interpretation

しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。マタイによる福音書18章6節~7節

 

罪は愛によって「赦される」ことがあるが、悪は増産し続けている。一つの悪意が消えても、新しい悪意が生まれる。それが人間であり、否定する人間は虚言壁に相当する。

善良な心は教育や環境を要するが、悪意は自然と生まれる。私は性善説否定派ではあるが、国家論を考えるときにはこれが根幹であるし、イエスも悪を躓きの石として、それは人間の力では取り除くことが出来ないとしている。性善説は存在しない、私はこれに間違いはないと思っている。

罪を償うことはあっても、悪が消えゆくことは無い。それでも悪とは一体何なのか、その概念は現代でも議論し続けている。旧約聖書の見解では、人は善と悪とどちらにもなりうるので、選択を迫られる。神はその選択に介入しないが、人間が気づけるように夢のお告げや、使徒や預言者を送り込んでいる。アダムとイブを原罪としたのは、新約聖書以降、キリスト教の歴史である。何故、悪人を野放しにするのかという問いは長年、「弁神論」によって神は善となるように繰り返され、心理学では弁神論では補いきれなかった人間の悪、闇を学問的に治療しようとした。結果、治療をする際に神と切り離すことに成功したのはG・フロイトなのかもしれない。ユングは各々の宗教や口承伝承のイメージで育った人間と治療を切り離さなかった。フロイトの「無意識」にユングは「集合的無意識」と掘り下げた。フロイトはこの研究を否定はしなかったが危険視した。両者とも未だに現在でも結論は出てはいない。

悪は増幅し続けるが、時流によって厳罰化されるものがある。その一つが「演劇」である。

聖アウグスティヌスは演劇をプラトン論に準えてキリストの教えから遠ざけ、痛みを紛らわすための「悪」とした。現代では規制は緩くなったが、映倫や年齢制限、虚構世界のイリュージョンに未だに異議の声は止まらない。「自称善人」は犯罪と快楽に対して、影響する事に畏れ、平和的な作品以外は脅威を抱くからだ。

 それでさえも空気のような慣れを感じていた最中に、映画「ジョーカー」(2019)のジョーカーは立ち現れたと私には思えた。一度見たときは、脚本としては、実在したシリアルキラーのヘンリー・リー・ルーカスやエドモンド・ケンパーの模倣としか思っていなかったが、シェークスピアがハムレットやマクベス王を作り上げるように、最近は虚構世界の「悪人」がこれほど確立された存在はいなかった。

「純粋悪」として最高かどうか、判断しにくいところがあるが、彼の最大の魅力は模倣犯を沢山作り上げたところである。「大きな石臼を首にかけられて海に沈められる」とイエスが最も厳しく罪と定義したものは大衆を導く罪だった。ジョーカーは、元々はアーサー・フレックスという母親と二人暮らしの平凡な男だった。この男には夢があった。コメディアンになるという夢だった。貧しいうえに一発逆転型の夢を抱くものに人々も世間も厳しい。

彼は出世を妄想しつつも、現実では大道芸人の仕事をしていた。不良少年の憂さ晴らしに暴力を振るわれ、上司からも「ぞんざい」に扱われる。非力な男を更に貶めていたのは、笑ってしまう病気だった。この治療のために治療費が欠かせない。恐らく、この病気はPTSDの一種なので、薬物療法が明確ではないと考えらえる。精神薬というものは、治療法が明確でないものほど、大量に要する。医者の当てずっぽう、出来損ないのカウンセリング、当てはまらない薬のために、貧しい賃金から更に薬代に流れる。常に彼は世間の善意の裏に存在する悪意に手をかけられている状態だった。彼が悪意にどんなに押しつぶされそうになっても、生きていられたのは、母親の「どんな時でも笑顔で」という言葉であった。彼は母親を愛していた。

彼は同僚から護身用の拳銃を無理やり渡されてしまうが、ピエロ姿で小児病棟での最中に拳銃を落としてしまう。拳銃を渡した同僚も嘘をついたので解雇を与儀なくされたアーサーは、更に天命か不運か、彼はこんな状況下で余力もないのに、男性に絡まれて困っている女性を「どんな時でも笑顔で」という症状が発症し、女性は逃げることが出来て、男性3人に暴行される。カミュの異邦人の主人公のように、アーサーは引き金を引いたのである。

ここは1981年のゴッサムシティ、治安が悪い最中で銃殺事件なんて珍しくなかったはずだ。しかし、殺されたのが証券会社のエリートだったために、貧困層がピエロの殺人鬼に称賛し始める。アーサーはコメディアンとしての舞台の成功も、片思いの女性との思い出も彼の妄想だった。愛した母親が自分の「どんな時でも笑顔で」という病気を利用していたという事、母親が貴方の笑顔が人を幸せにするという一種の「信仰」が崩された。

誰が彼を貶めたのか、傷付けたのか追いきれないほどになった。彼はシリアルキラーの儀式とも言われる、生んだ存在、母親を殺害する事に成功する。これは殺人鬼にとって通過儀礼のようなものである。

虚構世界の舞台の成功を望んだ男は、現実で聴衆を集めることに成功した。愛や幸せを謡った舞台は聴衆に影響を及ぼして、幸福と共に現実へ降りていくが、彼の舞台はある意味、現実への実現性として皮肉にも成功してしまう。大衆の願望として、彼は「ヴィラン」となった。街中が彼の模倣犯だらけになったが、彼を愛している訳ではない。浅い認識と、大衆の自己実現欲、彼を支持しているという一体感、その幸福に大衆が酔っているだけである。

ジョーカーは複数存在しているところで終わったのが興味深かった。

(私はこのジョーカーが自分の仮装の中に埋もれるシーンが一番好きだ)

設定でもジョーカーは残酷なシリアルキラーとして設定されていたが、「バッドマン」を大衆が望んでいた時代では、ユーモアキャラクターや、バッドマンを助ける(自分が仕留めるために)こともあったりと、明確な設定がない。この2019年度版の「ジョーカー」は続編を考えるのなら更なる変容を可能性としているが、悪というものは、この具体性の無さも共存している。イエスが最も罰するのは大衆を先導するもの、としたのは「偽預言者」というものは愛が喪失するからだろう。それはモーセの偶像崇拝禁止とも一致する。(イエスが、人間の力では取り除くことが出来ないと言った「Skandalon」はスキャンダルの語源でもある。)現代の悪を明確化しているのは「独裁者」であるが、現代は実体を消したような悪の存在が最も脅威を持つ。ジョーカーの正体を知らない間は、彼の模倣犯が火をつける。それが集団による悪であり、人間としては見慣れた暴力なのである。これが既視感を覚えるのなら、私達は既に凡庸の悪を知っているのだ。模倣犯達がお面の被るのも興味深い。いつでも逃げられるかのような卑怯さがある。お面を被って、母体は何処へ行くのか分からない。この、水面下へ悪の根幹が潜っていく様子が21世紀の悪のように思えた。

道化師の悲劇といえばヴェルディの「リゴレット」を思い返す。(ヴィクトル・ユゴー原作)彼もまたジョーカーと同じく、

侯爵や貴族の笑いものとして仕事をしていたが、醜い彼が唯一愛した娘が、貴族にもてあそばれてしまったことを知って復讐するが、成功せず、娘の亡骸を抱く羽目になる。悲劇と喜劇は隣り合わせで、暗転しなければ舞台は楽しくない。しかし、道化師というものは常に闇の中で失意のどん底まで落とされる。

道化師は、この幸福になれない構造の確認出来る原典かと思う。

****

 プラトンの「ソクラテスの弁明」で「正しいことのために本当に戦おうとする者は、僅かな間でも命を全うしようとする場合でも、私人として働くべきで公人として働くべきでない」としたが、この原点に返るものは存在しないように思う。歴史を真面目に勉強すると、人類に絶望する事が多い。進歩を喜べるのは、景気が良いときで、景気が悪いときは構造主義に嵌っていく。ただ、人間という存在は愚かだが、偶然性と必然性を背負って、愛を生むことがある。悪意を知らなければ人間は愛を持てるのだろうか。生まれから自分に影響を与えてくれるのは良きも悪くも人間である。切っても切り離せない存在に対して、愛を失ったら「生ける屍」だろう。私にも悪意は存在する。それでも私は悪意の中でも愛を尊重する。

愛は魂の力量だと思っているからだ。私の一番好きな聖書の引用にコリントを選んでいるのは人間の悪意は拭えないが、愛は魂の方向性を定めると信じているからだ。

私の善意や悪意は誰の影響なのか、私の潜在的なものか、操られているのか、私は私という存在を操作して、私は私を知らない。それでも、魂という概念だけは持ち続けたい。

身体は病気になって心は傷ついても、魂は傷つかない。

私はそれを信じることにしている。

この曲「happy face」Jagwer Twinとジョーカーは無関係のようだが、非常に合っていた。何度もこのバージョンを繰り返して見て気づいたことは、無理して笑うことはないということだった。私達クリスチャンは、神の愛による善意と、悪意と自分の不甲斐なさに苦しむ。

無理して笑うことなんかない、道化になることはないと私は思った。寧ろ、無理して笑ったら、負けなのだ。

 

ゴッサムシティとは何なのだろうか。
此処に何故人は惹かれるのだろうか?
主人公、ジョーカーもゴッサムシティも虚構世界である。
けれども私達は「現実」と言ってしまう。

余談ですが、アーサー自身には同情がありますが、犯罪者っていうのは悪で、恐らく神の裁きを受けるか、もしくは神の愛を受けるか、それは完全には分かりません。カミュの「異邦人」でもあるように、自分がヴィランを選んだ、という可能性は0ではないのですよね。神の恩寵を拒否をした、それも人間の自由選択です。それを境遇や精神病の治療として絶対に変えようとする心理学研究もありますが、私は冷ややかではあります。学生時代は、犯罪者の更生も考えてましたが、今はやはり被害者になったら相手が潰れてほしいと思います。でも、アーサーの時に救いがあったらなとは素直に思いました。大半の被害者は、そういった加害者の負の面、抑圧を背負っていますが、生きる権利を奪われた者にとっては残酷以外何者でもないでしょう。でも、良い映画だったと思います。結局のところ、目の前にいるアーサーに手を伸ばせる人間は少ない。

ゾディアック事件に似ているのかもしれない。
有力容疑者の名前がアーサーだった。

Evangelist

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」

(第二コリント4・8~9)

 パウロは4章において自分自身を「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」(7節)とした。私は弱い存在だけれども、主が、その弱さの中に力強く働いてくださり、そして私の栄光を現わしてくださる、というものです。宝を土の器の中に持ち歩くとは、聖書伝道師そのものだと私は思いました。持っている神からの賜物、能力を敢えて土器のような地味のものに入れること、それほど伝道師とは地味な事なのです。イギリスは聖公会でしたので、伝道師がいました。私はオックスフォード大学で心理学部に在籍していましたが、神学部に憧れるようになりました。もう私の在籍したころではイスラム教徒や色んな将来の聖職者の卵達が来ていました。信仰自体はイギリスも薄れている様子でしたが、Christ Church内の聖書伝道師の講義は興味深いものがありました。聖書の解説をする人の大半は異世界を語るような話が多いのですが、話術を持っているその者は目に見えないものと、見えるものを絡ませて、私達が言語化、イメージ化していない夢想や思惑に語り掛けてくるのでした。私はこの頃はまだ今ほどの確信はありませんでしたが、このように伝道師をしながら、*ジョージマクドナルドのような作家になりたいと思わせました。

日本には両親を残していたので私は帰国しましたが、日本での私のなりたい作家像は困難なものでした。そして2018年に諸事情で伝道師になることを断念しました。信仰というより、小説や執筆を意識するようになり一時期はジャーナリストの見習いもやりましたが、医療系や恨まれる部分も扱っていたので、脅迫も噂通りに確かに来るようになりました。何よりも困ったのが、飼い猫のアダムへの殺害予告、twitterでの執拗な不正アクセス、ログインによる情報漏洩でした。(twitterは退会、最近、evernoteも不正ログインでデーターを盗まれて削除されました)

 飼い猫との生活を考えて、世俗関連の執筆は全部引退しました。全く光明が見えなかった一年間、アダムが来てから更に一年間、投資家としては戻れても、作家として戻ってくることがありませんでした。2020年に再度、所属教会と酒井司教様の支援により、伝道師としての道が開けることになりました。昨今は論理を対立や攻撃として使うことが増えてしまいましたが、和解という使い方もあります。もっと悪質なのが、論理と勘違いして人に殺害予告等を平気で送ってくる人間が何の罰も受けずに生きていられることです。私はこの卑怯な塵芥と戦わなければならいのだろうか、と我に返ると戦う必要がないと思いました。塵芥は塵、人たるに値しないのです。パウロも味方が沢山いましたが、攻撃する人も同じぐらいいました。洗礼を受けている者は、正しい事をしている人ほど苦しむのです。人間を取り巻くのに、カイロスとクロノスという時間が存在します。承認欲求に負けて無駄な争いをすることは、クロノスに生きて無駄な時間を過ごすことになります。カイロスに生きるということは、自己を磨くことであります。この時間は他人に泥を投げることは許されません。悲しみや不幸は善行に変えるしか、使い道がないことを知るでしょう。そうでなければ、ただ無駄に老いるだけで、自信も加害者と同じく塵芥そのものです。時が過ぎれば一緒に風化します。特に伝道師を目指すのであれば、宝石のような大切なものは、地味な土器に入れて時がくるまで深く考察することが大切なのです。恐らく辛い日は続くでしょう、それでも私は洗礼を受けた者として強いので屈しないことです。宝をしまう土器は常に磨く必要も飾る必要もないのです。それがクリスチャンの試練の乗り越え方であり、伝道師なのだと思います。

(参照・補足)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

(第二コリント4・18)

弱いときこそ強い(第二コリント12章7節~10節

*カトリックは現時点では伝道師という職業はありませんが、やはり作家がその役目を背負うことがあります。現在の日本では困難ですが、困難だからこそ生きる意味があるのかもしれません。

*ジョージマクドナルド スコットランドの作家であり、聖職者。

聖書伝道師のトールキンや、ルイスキャロル等が影響を受けている。聖書から影響を受けたリリスという作品はとても美しい。

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