Luke1:39-45




39 At that time Mary got ready and hurried to a town in the hill country of Judea,<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24933A" data-link="(A)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> 40 where she entered Zechariah’s home and greeted Elizabeth.41 When Elizabeth heard Mary’s greeting, the baby leaped in her womb, and Elizabeth was filled with the Holy Spirit.<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24935B" data-link="(B)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> 42 In a loud voice she exclaimed: “Blessed are you among women,<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24936C" data-link="(C)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> and blessed is the child you will bear! 43 But why am I so favored, that the mother of my Lord<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24937D" data-link="(D)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> should come to me? 44 As soon as the sound of your greeting reached my ears, the baby in my womb leaped for joy. 45 Blessed is she who has believed that the Lord would fulfill his promises to her!”

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」



study—–

in the thoseday links the present account with the preceding. it is likely that both the hill country and Judah refer the prophetic first instance of Jhon preparing the way for Jesus. John’s prophetic role is evidenced even as an unborn child in hte womb. Elizabeth, filled with the Holy Spirit explains the babe’s leaping.



この箇所は預言者ヨハネが胎内の中でも顕在していることを証明しています。そして同時にイエスキリストが宿り生まれることを祝っています。

追記:イエスは存在の美学でもあります。

皆様、良いクリスマス(生誕祭)を! Have a Merry Christmas!



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穢れなき悪戯(marcelino pan y vino)

「穢れなき悪戯」を見て。
人は不幸であればあるほどイエスの磔刑までの道のりに近づき、
子どものように無垢であればあるほど天に近づく。
イエスの存在は至福の表しである。
 非情に感想の難しい映画であった。スペインのとある村、
一人の神父が少女の病気を見舞いに行ったときに、周りが賑やかなのは何故かと問われ、
「聖マルセリーノ祭」だよと、聖マルセリーノ祭について語りだす。
それはまだスペインでは(19世紀)では修道院の存在は村人に歓迎されていなかったこと、12人の修道士達は修道院の二階の奥に大きなイエスキリスト像を何故か隠していた。そして、育ての子ども、マルセリーノに見せなかったのかというのは、この村人たちに「歓迎されていなかった」というところに少年の存在とイエスが被っていた。この少年はある日、修道院に捨てられていた。この少年の里親を探すが、適切な人間がいない。鍛冶屋はこきを使わせるために欲しがるが、修道士はこの鍛冶屋のあまりもの暴君加減に嫌気がさし、少年をその日の聖人の名前の「マルセリーノ」と名づけて育て始める。マルセリーノは炊事係のトマス修道士に自分の母親のことを尋ねる。トマス修道士は「彼は母親はもちろん美人で今は神様のところにいる」と答えた。それに、同じ年の友達がいなかったマルセリーノはマヌエルをイマジナリーフレンドとして独り言を言いながら遊ぶ癖がついた。
修道士は少年の数々の悪戯に頭を悩まされながらも、可愛がっていた。しかし、二階にある大きなイエスキリスト像の存在は知らせず、二階だけは行かせなかった。
後は、少年の心理はペロー童話の「青髭」症候群である。見るなと言われると好奇心旺盛な子どもは見たくなってしまう。あとは修道士の目を盗んで二階へ行くだけである。二階へあがって様々な工具が並べられている部屋の奥にもう一つ扉があった。それを勇気を振り絞って開けると、見たことがない大男がいた。
少年は驚いて逃げてしまう。しかし大男が追いかけてこないところから
好奇心旺盛な少年はもう一度、その大男に会いにいく。
するとそこに居たのは大きなイエス・キリスト像だった。少年は、彼にこっそりパンを持ち運び手渡すと、イエス様はそれを受け取った。それをきっかけに度々、イエス様に会いに行く。そしてイエス様は「私が誰だかわかるか?」と尋ねる。マルセリーノは誰に教わったわけでもなく「あなたは、神様です」と言い当てた。そしてラストにイエス様は「母親のところに行きたいか?」と尋ねてくる。少年は何の畏れもなく承諾する。それは本当に何の疑いもない無垢な目だった。そして、少年はイエス様の傍で謎の死を遂げる。そのラストをこっそりと見届けていた修道士は「マルセリーノが天に召された」と皆を呼んだ。
マルセリーノの死、それを神の奇跡とした。それから歓迎されていなかったマルセリーノの墓に人々が花を手向け、二階の奥で隠されていたイエスの像が表に出てきたのである。
そしていろんな人々の祈りの場となった。

これがとある村の「聖マルセリーノ祭」の由来である。

この作品は最もカトリックらしい作品だと言われている。

鍛冶屋は修道士たちが気に入らずに取り壊そうと必死だったが、この少年の奇跡でこの鍛冶屋の存在は消えたかのように、この修道院は寺院へと建て替わっていた。そして、歓迎されていなかったキリスト教の集まる場所に人々が集まるようになるのである。
現代倫理感でいえば、この少年の死は不幸にも思える。自殺にも思える隠喩、イエス像の何かに刺さって死んでしまったとも思えてしまう。しかし、天国は父がいて愛のある場所だ。何故、生だけを肯定し、死を不幸だと私達はこの世に未練を残すのだろうか。この少年が幸福かどうかでさえも捉えられない。以前書いたノヴァーリスの花粉の愛するゾフィーへの想い、「すべての愛する対象は、それぞれ天国の中心である」というのとつながるような気がした。愛した人が行った場所だから、愛があると信じずにはいられない。歓迎されなかった少年、その少年が死を通して愛されている。愛すべき存在である父と、愛されるべき存在の子の結合、マルセリーノも天国の中心、愛が溢れる場所へと行ったと信じるほかないだろう。鑑賞者にはその感情しか残されない。
 画像著作権は株式会社 アイ・ヴィー・シーにあります。

女子パウロ会

女子パウロ会の金井照子様より、
出版作イコノグラフについて
酒井司教様の素晴らしい書評通りに万華鏡のような世界で、哲学やら色々と幅広い視点を広げられていて、とても私達のレベルでは書評が書けません。何処か新しい世界へ飛びだっていきそうな話でしたとの評価を頂きました。
女子パウロ会はカトリックでも大きな出版社です。Chris Kyogetu

酒井司教様(当時は神父)の書評

https://drive.google.com/file/d/1IWf3mKShI53901pN2mijLoOATJsu77CH/view

Dekalog episode5

デカローグ エピソード5(ある殺人に関する物語)
 ――恩赦の請願は却下された
 ――誰が弁護しようとも、判決は決まっていた
 まるで晴れることがない天候を表すかのように、このドラマは緑色のフィルターを使って撮影している。監督キェシロフスキによると、不要なものを取り去るためにこのフィルターを使ったようだ。この不穏な天候に相応しい登場人物達が一人、また一人と集まってストーリーを紡いで死刑執行という秩序を完成させていく。その冷徹さが秀逸だった。まずは殺されることになる太ったタクシー運転手。妻がいながら若い女性に色目を使い、乗客を選んでしか乗せない。悪戯にブザーを鳴らして子犬を驚かせては嫌味を吐く。時々は犬に餌を与えるなど、善人な一面も見せるが鑑賞者は誰もこの嫌味な男に好意を抱かないだろう。
 次に、ヤツェック。まだ二十歳の若い青年は、着々と殺人までの準備をしている。彼は事故で妹を失っていて、それから変わってしまったようだ。彼は殺人に使う道具を購入するだけではなく、自分の末路を予見していたかのように、写真屋に妹の聖体拝領の写真の引き伸ばしを頼んだりする。やがて、無差別にタクシー運転手を長い時間をかけて殺害する。

そして主要な登場人物はもう一人いる。それは彼を担当した弁護士だ。

物語は彼の法制度への想いの語りから物語は始まる。

「司法機械とでも呼べる兄弟な法制度が犯す過ちについて考えはじめました。弁護士ならば、その過ちを矯正することが出来る、少なくとも矯正を試みることが出来る、これは立派な社会的機能の一つなのだ」と。

  作中でもあるように、個人と個人の殺人は旧約聖書のカインとアベルの頃から続いている。次に、それを死刑として裁くのが法であり、国である。この措置を「殺人」と呼ぶのか「秩序」と呼ぶのか、これは問いかけているというより、フィルム全体が叫んでいと言えるのだろう。このフィルムは未だに整理がつかない問題を叫んでいる。その代理人が、死刑執行後に叫んだ若き弁護士となる。彼はドラマの最後まで怒りや悔しさを叫び続けた。
 私も昔は法学部で、死刑は賛成か反対かというのは散々考えた。(考えさせられた)けれども、常に答えは流動し、賛成にもなったり反対にもなったりと定まらない。そして、法律から離れると気が付けば考えなくもなった。けれども、それは法律中心に考えなくなったというだけのことで、心の何処かで意識せずにはいられないのだろう。例えば哲学をやっていれば必ずこの問題はやってくるし、小説としても殺人は必要な「設定」となる。このような非日常は常に自分の日常の裏に潜んでいるし、日常になることを恐れながら考えては関わろうとする。
 このドラマを見ていると、二年前、近所の神社で猫の手のようなものが落ちていたことを思い出す。しゃがんでじっくりと見てみると、やはり猫の手で血の跡と猫の華奢な手の切り口から肉が食み出ていた。例えば交通事故によって、猫は死に、偶然にもカラスが摘まんで、手首だけここに置き去りにしたというようなものを想定したが、明らかに、これは人工的なナイフの跡だと分かった。よく言われるのが、このようなものを見つけたら誰かが練習用に使っていると聞いたことがある。立ち上がって辺りを見渡してみると、小鳥達が見えないところで鳴いては木々を飛び移っては微かに木の葉を揺らすだけで誰もいない。ただ私が勝手に作り上げた不穏が立ち込めていた。埋めてあげようかどうか、足が迷いを表した。私は立ち去ることにしたが、結局はすぐに引き返して、ハンカチを取りだしてその猫の手を包んで、手で土を掘ってハンカチごと埋めた。
 良いことをしたとも、悪いことをしたとも思えない出来事。この時間は空虚だった。私はこの手を土に埋めることによって、剥き出しに転がっていた日常を非日常に戻した。この痕跡を近所に残すべきか、魂のことを埋めてしまうべきか迷った。どちらも必要なことだったからだ。私は結局は姿を知らない猫の魂を選んだ。
この小さな出来事、おそらくどんな作家や監督が「殺人」というテーマに挑もうとすると、自分の身体の小さなことに気づくだろう。土に埋めて沈黙すべきか、叫んでみるのか、迷いは必ずあるはずだ。


 この作品でも、カトリックの恩赦の請願は却下され、ヤツェックは司祭の手を接吻しようとするが、それを拒まれるかのように司祭は参列者のところへとすぐに戻ってしまった。若き弁護士の誰にも聞こえない叫びで終わるところから、キェシロフスキも分かっていたように私は思う。そしてこの「小さな」出来事が非日常ではなくて日常として考えられるように、殺人から死刑執行のシーンまで長く目を当てられない程、残酷に撮影されている。
デカローグ(その他) 

画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。 



エピソード1
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalog-episode1.html

エピソード8
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html

エピソード4

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalogepisode4.html#more




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Dekalog episode4

「デカローグ エピソード4」
普通われわれには、自分が恋をしているのだと認める様々な印がある。
マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」





   二十歳の演劇大学生アンカは、やもめの父親ミハウと二人で暮らしている。ある日、父親の書斎の引き出しからミハウの字で「私の死後、開封のこと」と書かれた封筒を見つける。それは、まるで見てほしいと言っているかのようだった。少し体から手紙を離すと、その文字がぼやけて見えるほど、アンカは視力が落ちていて、眼科へと行く。そこから何かを示しているようだ。アンカは外でその手紙を開けてみるが、入れ子式のように母親の手紙が封をされた状態で入っていた。そこには「わが娘、アンカに」と記されている。アンカはこれも開けようとハサミを入れようとするが、入れなかった。

   彼女はこの手紙は自分の出生に関する話だと予感が走り、今までミハウに抱いてきた感情を発露させてしまう。アンカは母親の筆跡を真似て、自分がミハウの子ではないという遺書を作り上げてしまう。それを父親の帰省後に空港で暗唱したかのように聞かせるとミハウはアンカの頬をぶった。すぐにアンカは恋人と結婚すると言い出し、二人は仲直りをしたが、父親はアンカに好きに生きてほしい、このままだと男と女の嫉妬になってしまう。そうはなりたくないと娘以上の感情を抱いていたことを仄めかす。
最後は、ミハウにアンカは本当のことを話す。あの遺書は私が作ったもので本物ではないと。そして二人で「事実」が書かれた封筒を燃やして終わる。
恋愛は四種類あるとスタンダールは言った。一つ目は「情熱恋愛」二つ目は「趣味恋愛」、三つ目は「肉体的恋愛」、四つ目は「虚栄恋愛」。(これは各自調べてください)

 今回のデカローグ、エピソード4はこの四種類に当てはめるとしたらどれかに当てはまるのだろうか。それともどれにも当てはまらないのだろうか、それさえも明確には分からない。ただ、プルーストによれば、恋をしているとそれぞれ印があるようだ。私はこれは信じられる。二人ともその『印』には自覚はあったようだ。それは視聴者には見えない奥深い場所にある。今回のエピソード4はモーセの十戒の「父母を敬え」というものをキェシロフスキの技巧によって複雑にしている。キェシロフスキは「このドラマシリーズは観客が真実を読み取るべきである」と言ったそうだ。最後に燃やしてしまった意味は何だろうか、私もこの選択が一番だったと思う。本能的に事実を突きつけられて先に進むよりも、自分達の心でどうするのか決めたかったのではないかと私は思う。

真実を突きつけられたくなかったのはまだ異性として愛していたからこそでもあり、燃やしたことは何処かへ進まなければならないからこその選択。観客は親子関係が崩れなかったことを見届ける。そしてこの二人の心の旅の道のりはまだこれからも長くなるということの暗示さえ感じさせる。






画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。


デカローグ

エピソード1
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エピソード8
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出家とその弟子




お前のさびしさは対象によって癒されるさびしさだが 、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ 。人間の運命としてのさびしさなのだ 。(中略)

さびしい時はさびしがるがいい 。運命がお前を育てているのだよ 。

親鸞 (出家とその弟子)より。



 これは倉田百三による戯曲で、実際に親鸞が言ったわけではないのでしょうが、著者は歎異抄を何度も読み、これを歎異抄の解説とした。著者は熱心な浄土真宗だった。

私はカトリック信者だが、イエスを見ているからこそ、親鸞の人間味をより感じ、この言葉に感傷深さを感じる。これは闇の優しさなのだ。無理に光を灯さないこの優しさは、真の孤独を癒してくれる。緩やかに絶望を受け入れることによって、運命に乗って実は一歩前に出るのだ。無理に光や希望で絶望に蓋をすることはない。

イエスも処刑前夜は叫んだりと人間らしいところがあったが、教えでは「完璧」とされている。 それに比べると親鸞は仏教の天台宗では落ちこぼれであったことは明るみに出ている。

親鸞が説いたとされる教えは、歎異抄となって弟子、唯円によって書かれたとあるが本当のところは分からないらしい。そしてこの本は秘教のようなものだ。どんな悪人も赦されると記しているからだそうだ。歎異抄の最後にはこう書かれてある。

仏心が無ければ読まないで欲しいと。

高校が浄土真宗の学校だったが、この歎異抄の最後だけ知って読まなかった。(現在は読了)
それに比べて聖書はホテルにおいてあったり、扉が開いているように思えた。 けれども、最初に扉が開いていても、途中で重たく閉じているものだし、最初は扉が閉じてあっても、後で自然と開くものだと分かった。

文学は審美眼が必要だ。私がこうやって仏教を目にすることによって、審美眼が鍛えられることを願う。

「運命がお前を育てている」

私は 彼に言われる前からいつもそれを信じ、いつのまにか主の呼びかけとなった。
運命と主、その違いはまだはっきりと分からないが、どちらにしても
「育てられている」と思うのだからこそ生きていられるのかもしれない。

他に印象に残ったのは「恋愛」の章だが、この話はまた機会があれば。


*****


そんな私でも、チャイルドスポンサーの5歳の子ども(フィリピン)には
「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える」
(ゼパニヤ3:17)

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます」

(詩篇 13:5)


というカードを送る。言葉は人を育てるし、私も光を知っているからだ。
光は蝋燭の炎のように分け与えるべきであり、闇は深淵のように自分で気付くべきなのだ。だから、人に贈り物をするときは光が望ましいのではないのだろうか。誰しも十字架を背負い、闇を持っているのだから。



**感謝**

イコノグラフの
感想をまとめてみました。(書評を除く)
(web掲載の場合、変更や消えてしまった投稿もあります)
これから、少しづつこういうページが増えていきます。

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書評はこちらから
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

◎心が洗われました。もっとこんな小説が増えてほしい (カトリック教会・Yシスター)

(amazon.co.jp amazonページの掲載は9・30日までの記載で終了)

◎Amazonで購入

●前作の頃からファンです。前作は病だったので主人公の独白メインでしたが、今回は三人称によって神の視点のような、誰とも言えない視点がメインで更に文が綺麗になって読み応えがありましたし、それぞれの登場人物の独白も引き込まれました。作者自身も真摯で綺麗な人なのでずっと憧れています。哲学や宗教を取り扱っているけれども映像を見ているかのような描写の細かさで読みやすく、恋愛小説としても感動しました。

●冒頭から謎の文章で始まるこの作品、
ぜひ試し読みでも公開されている第1章「黙祷」を熟読されてから読み進める事をお勧めします。
全てはここに集約されていると言っても過言ではないでしょう。

淡々と秒針が時を刻むように物語は展開されていくのですが、
伏線と種明かし、それから新たに生まれる謎の投下、タイミングが絶妙すぎて、
あっという間に物語の世界へ惹きつけられ、引き込まれてしまいます。
そして物語に彩りを添える数々のキーアイテム。
ゆっくりと廻すと異なる輝きを魅せる万華鏡さながらに、鮮やかさを増し、心躍らせてしまいます。

そして最後には巨大なジグソーパズルを完成させたような達成感。

久々に読み応えのある作品に出会いました。

●本当に美しいけど、それ以上に実はこの小説は普遍的な小説だと思います。
多くの神話、哲学、聖書を学び、何度も考えて、読みなおし、多くの悲しみとよろこびを取り込みながら、長い時間をかけて、出できたこの小説を、待ち望んでいました。
恋と愛、神話と哲学と信仰の境目がわかる小説は日本で久し振りに出たと思います。
色彩や風景の美しさは、はじめて読んでも堪能できますが
何回も読めば読むほど、多くのことが見える。他のヨーロッパの小説や哲学や神話が読めるようになると言う読者も少なからずいます。
学び自分の経験を以てまたこの小説に戻りまた出て行く、そのくり返していくと、本当の美しさと色彩が見える日がくるのでしよう。
場面転換に戸惑う人が多いかも知れません、それをかみしめて、感じたことを味わつてほしいです。対話と鍵が、天文時計の部屋への入口があるから。多くの人に読んでもらつて、幸せになつてほしいです。

●Chris Kyogetuさんの本 ICON O GRAPH 読み終わりました。物語の冒頭から引き込まれていきます!
時の物語 私達はその一部を少しずつかき集めて世界をつくる。誰かのために。それは神に繋がり私へと繋がる。宇宙を感じて運命を感じる。この物語はこれからも繋がっていくのだろう。この先も!

●facebook

こんはんば。随分長い旅になりましたが戻って来ました。感謝しています。この作品に出会えた事を。小説というよりも自分には思想、哲学書であるし詩のようでもありました。ダンテやミルトン、ゲーテのような。何故、こんなに時間が必要だったのかというと少し読んでは、想いを巡らし、思索する、イメージは拡散していく。前に進みたくとも進めない、そんな状況でした。読みにくいのではなくその逆でヴァレリィの失われた美酒のように吸引力の強い文体にページをめくる誘惑、抑えがたし、でありました。(略)

でも最終章、泣いてしまいました。理由はわかりません。では善い夜を。

S・T様(画像掲載の許可は頂いております)

(amazon.com)

◎I want to invent you,
Her novel.
She can stand crosspoint grand and heven.
She can jamp and fly all world, univerce, , past 、now ,future.
Do you know silence? Susaku Eendo?
Her existance over come Susaku Eendo.
I convince so.
She understand crist and catholic in deep point.
She is true cosumopolitan.
Not from stat ,I feel.
Until now She must travel long long load.
When I read the novel,
I can understand and feel true meening, god and love .Plasee listen symphony in her novel.
You can feel body of god and happiness
God bless you.

ブログ

http://d.hatena.ne.jp/yula355/20170218/p1

ブクログ

◎彼女はセルフパブリッシング の一握りの成功者。すっかりこの出版方法の評価は落ちてしまったが、この人は違う。色々と売り上げは勿論、著名人や専門家からの評価を手に入れている。日本でここまで博識で、色香のある文体、若さ、正統派文学で貫き通した人はいるのだろうか? 日本の出版社は長編小説の持ち込み不可。持っていけば原稿も見られず、あしらわれる現実。賞も無い。私はもう還暦の小説家志望だが彼女は希望。どうか成功してほしい。美しい文体に、人称が切り替わるという斬新さ、古典的であり、新しい世界を見せてくれた。

◎神の言葉は 何処で育つのか、いつ育つのか。それはいつ機は熟すのかということ。著者の経歴にキリスト者でありながら現象学を選択したのが見えた。哲学的に世界を整理する冷静さと神への情熱がこの世界を創り上げたに違いない。世界の一部を掻き集めた鳥の巣、これを見つけた著者の美しさに脱帽する。

愛を識ること








「言葉は聖霊の住むところです」(日本語版 p134)

「こうして私たちは再び、神の内的な神秘についておぼろげながら語ることが
できます。父と子はお互いにお互いを純粋に与え合い、純粋に引き渡しあう運動です。この運動において、両者は豊かであり、その結実は両者の一致です。……三位一体の神秘はこの世にあっては、十字架の神秘に翻訳されなければなりません」

(日本語版 p137~138)

Der der Geist der ewigen Freude ist. (神の霊は永遠の喜びの霊なのです)
derが二回並ぶことについては説明が長くなるので省きます。
(Germany ver : p93)

イエス・キリストの神 ヨゼフ・ラツィンガー(ベネディクト16世)

 洗礼を受ける前に勉強したのは、聖書の他にカテキズムとベネディクト16世の本でした。三位一体の解説の美しさ、ヨハネの福音書の解説、言葉に住む聖霊の神秘に圧倒されました。文学としてもこれだけ美しい言葉を並べられる彼に敬意を表したい。但し、彼の時代はカトリックの問題が浮上した時期でしたので、学問的な、論理性を高めた神学の死を感じました。ですので、もしかしたらこの本は時代遅れかもしれません・・・・・・。カテキズムだと、感動した箇所は天使の項目です。(英訳版:334~336)今となってはそれを生かすことは人間限られているのだなと実感します。それはとても小さなことで、今はチャイルドスポンサーの子どもに、イースターカードのメッセージカードを何て書こうか悩んでいます。
天使についての記事はこちら




 よく聞かれることは、「鏡玥さんにとって信仰とは何か」ということですが、私にとっては「愛を識ること」(知ること)です。特に神は愛というのが強いのはカトリックで、洗礼前はあまり実感が湧きませんでした。というのは神は愛も与えもするが奪いもする、というのが私の捉え方でした。
 私にも大事なものが奪われたことがあった時があり、奪われただけではなくて、奪われる前から生きていることに無意味さを感じたときに、神に奪われたというのなら意味があるように思えました。不幸との対話は、無常との対話ではなくて、神との対話と信じたかったのですね。私の神への信仰の始まりは悲しい。
それでも本来なら洗礼講座を1年受けてから受けられるものを、私はたまたま、特別にその時期だけ試験期間であった夏の洗礼式を受けることになりました。ですので洗礼講座を受けたのは二か月あまりということになります。私みたいな疑い深い人間に対して、まるで招くみたいに入ったわけです。私はどちらかというと、当時は信仰義認のプロテスタント寄りだったと思います。
  洗礼後、幸せがいっぱい待っているかと言えばそうではありません。それでも訪れる不幸や問題を神様への愛で蓋をすると盲目になってしまいます。重要なのは己に返り、己を見つめ、問題点から逃げないことです。洗礼前と変わらない課題もあれば、キリスト教徒だからこそ感じる苦難はあります。洗礼後のほうが自分らしい居場所に連れていかれることがあるかもしれません。
 それと、キリスト教徒になってからのほうが愛が何なのか愛に関することが力動化するようになりました。ギリシャ語ではアガペー、エロース、フィリアー、ストルゲー、とありますが、私にとって翻訳されない愛が何なのか? というのが哲学としても、生き方としても重要になりました。必ず、ギリシャ語の愛だけが全てではありません。日本文学の曽根崎心中を含め、酒井抱一の絵画のような未分化された愛があります。もっと言えば古事記のイザナミとイザナギでしょうか。それを感じ取ることは考え込むことではありません。自分の足で動いて、機会を作り出し心を動かすのです。
 愛は与えらえる喜びもありますが、愛によって失望することもあります。でもそれも愛があるが故なのです。信者になってからのほうが男女の恋愛だけではなく、友愛やいろんな意味での愛への捉え方が深くなりました。それは説教を聞いたからとか、啓示があったとか具体的な理由はありません。信者になってから、遭遇するものによって変わっていくのです。
私の場合はですね。
 以前、神学者でもある和田幹夫神父様からバルタザール(hans urs von balthasaer)の本、7巻セットを貰いました。彼は神学で美を突き詰めた人で、日本語訳になっていないものです。サブタイトルとなっているSeeing the formとは十字架、三位一体のことであり、Looking(意識的にみる)ではなく、Seeing(自然と目に入る)ということに意味があるのでしょう。これから色んな経験を通して、この三位一体の愛の謎について観ていきたいと思います。何せ分厚い本で7巻もありますので、長い時間をかけて読むことになるのでは
ないのでしょうか。言葉に住まう聖霊を忘れずに、いつか十字架の神秘に翻訳されるその日まで。
酒井抱一についての記事

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