Joseph Anton Bruckner

 Joseph Anton Bruckner,


初めて聞いたとき、この人はカトリックだなと何故か分かった。
近代に近づくにつれプロテスタント系列の作曲家が多い中、
特に宗教性を感じさせない曲調でありながらも、カトリックの
人の思考性を感じた。ブルックナーは修道院では音楽について
何も評価されなかった過去を持っている。この曲は交響的か教会的かといえば
聞けばすぐ分かるが交響的要素が強い作品である。ブルックナーは
ミサ曲など、明らかに教会曲と分かる曲も作曲しているが、
彼は、教会的な音楽は神との対話、
そして交響曲は人間との対話だと言われている。

しかし、身についた性なのか、宗派は人間と対話していても
すぐに表れてしまうのかもしれない。「栄光を」という感覚が
拭いされないのだろう。


またあなたが抱いている偽りの無い信仰を思い起こしている。
この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに
宿ったものであるが、今あなたにも宿っていると私は確信している。

こういうわけであなたに注意したい。私の按手(あんしゅ)によって
内にいただいた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。

テモテへの手紙 第二の手紙 第一章 5節6節




人気があった投稿2

今、映画の批評を書いてるのでそれまで過去のおさらいとして人気があった投稿を
載せていきます。

6位 「心の中を流れる河」
https://chriskyogetu.blogspot.com/2017/12/blog-post.html?m=1&fbclid=IwAR0DLTOUtlCpKbG69ZnZsFSem1lWrOjuTLgqoQRQ3X43MMG72gJ5WHWX_nM

7位

「桜桃」

https://chriskyogetu.blogspot.com/2017/06/blog-post.html?fbclid=IwAR06L5RBqHSnv-9lQj0FT4wi0GlYwgGqD-kCPLjJC0umfDdEqso9to0f7ok

8位

「諸行無常」

https://chriskyogetu.blogspot.com/2017/08/blog-post.html?fbclid=IwAR1dBnKkI02kLs07J4N7ERT_LugUlsjfVxOC9rlU-i4siq5k9DkJW5iDKDA

9位

「芋虫」

https://chriskyogetu.blogspot.com/2017/04/ranpo-edogawa3-caterpillar.html?fbclid=IwAR2nJjjd-m8zkdrKUiq0fsH3v7QxnN952JPxNhUjaoBjaFIB6niJm3KyqeM

10位

サクリファイス

https://chriskyogetu.blogspot.com/2018/02/offret-sacrificatio.html?fbclid=IwAR3swtXL5HH8NMtQZuHBWG6tlPVSDgSbi7WGIU1kFGDM5ngyibsnSNa18no

忘却の河と福永武彦

「忘却の河」と福永武彦

 「私がこれを書くのは私がこの部屋にいるからであり、ここにいて私が何かを発見したからである。その発見したものが何であるか、私の過去であるか、私の生き方であるか、私の運命であるか、それは私には分からない。ひょっとしたら私は物語を発見したのかもしれないが、物語というものは人がそれを書くことによってのみ完成するのだろう。ひょっとしたら私はまだ何ひとつ発見せず、ただ何かを発見したい、私という一個の微小な生き物が何を忘れ何を覚えているか、もし忘れたとしたらそこに何の意味があり、もしおぼえているとしたらそこに何の発見があるかを知りたいと望んでいるだけのことかもしれない。

それはつまりこの部屋のせいなのだ。」

———————————————————————————

  未分化された自我から、次第に浮き上がってくる部屋。この巧妙な描写こそ福永武彦だと私は思う。自我が未分化されているということは何という孤独だろうか。せめて人は鏡像ぐらいは友にするものである。この独白はまるで闇そのものである。独白だからこそ男の姿形は朧気で、まるで病床で寝たきりの妻の視点そのもののようだ。男が朧気だから、抱かれる女や、自分の自我と向き合う娘たちの艶や色気が浮き出てくる。

この続きはPDFで→https://drive.google.com/file/d/1HmLnsYBluFxE9PYzqLY61DOaCGhem-Iu/view?usp=sharing

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Shining

メモ(メモですので無責任な発言もあります)
  シャイニングについて
 短編と長編の違いについて、シャイニングの原作と映画の違いによって説明しやすいことに気づいた。小説を書いている身から見てみると、大体2時間程度の上映時間を制作側は長編として捉えているか、短編として捉えているか、総集編として捉えているか違って見える。主に総集編として捉えているのはアニメや漫画を実写化した場合が多い。

 私にとってはスティーブン・キングの原作は長編で、キューブリック版は短編としてのシャイニングである。短編とは単に省いて、長編の旨味だけを押し出して短くすれば良いというわけではない。短編は短編でまた別の旨味を引き出さなければならない。それをキューブリックは分かっていたように思える。(それが後に原作者と揉める原因になるが)映画版のシャイニングの場合は、ホテルに入ってからおかしくなる前の父親の像ははっきり分かってはいない。淡々と冬の間の閉鎖中のホテルの管理人を任されて、車の中で家族と些細な会話する程度しか分からない。


鑑賞者は一般的な父親像と比べると不気味だということで、父親の様子がおかしいと認識するようになっている。しかし、母子の父親に対しての驚きがそこまでないことと、おかしくなった後の見切り方が早いのが不可解だった。一般的な家庭像の感情と違うところが多い。息子が内向的で、霊感があるだとか、イマジナリーフレンド的な存在と話しているのも、母親が何もかも受け入れている様子も不可解だった。なので、この家族にとって問題点は他にあって、元々良き父親では無かったのではないのではないか、というのが私の予想だった。

だから、原作を読んだのだが、原作では父親のことは善良であるがアルコール依存症での葛藤がある人物として登場する。映画で「魂を売ってでも酒が飲みたい」とノイローゼ気味に言うところは、原作へのヒントである。そして最後はホテルの不思議な現象(悪霊的なもの)に打ち勝ち、息子を守るが、映画版では結末は全く違うものになっている。

しかし、キューブリックは様々な方法で原作の表現を役者にさせている。例えば、昔の父親像とあまりにもかけ離れていたのなら、「お父さん元に戻って」とかそんな台詞が出てきてもおかしくないだろうに、父親を恋しがる様子もない。息子が何者かに首を絞められた跡を残してきたときに、母親がすぐに父親を疑ったことや、息子が父親に大して、「もう虐めないで」と父親に言うところも原作へのヒントである。息子は、どちらかというと冷静に母親の言うことを聞き、ラストでは何もかも受け入れたように雪の中を走って庭の迷路へと逃げこむ。それはなんだか、逃げ慣れているという印象を受ける。というのは、原作では既に父親はホテルに入る前から家庭内暴力を奮っていたという設定だからだ。(映画では少しだけぶったという設定になっている)それは原作で母親が父親に詰め寄るところで明らかにされる。原作を知れば、母親がおかしくなった父親に、すぐにバットを振ったことや、雪の中で息子が逃げるシーンに感情の矛盾がないことが分かる。元々が良き父親だったのなら、少しは立ち止まってしまうだろう。


 短編はより一層、観客の一般的な心理や認識の把握が必要になる。短編は観客の心を動かす時間が短い。長編やテレビシリーズのドラマのように観客に登場人物に愛着を持たせたりする時間があまりない。例えばこの映画のように、父親「頼もしい存在」、母親「子を守る存在」、子ども「親を頼っている」という無自覚に思い込んでいる観客の心を揺らさなければならない。
限られた時間・表現の中でいかに観客を引き込み、少ない情報の中で観客に映像以上のものを「連想」させることが重要となる。そして短編、長編に関わらず、私のように親子の会話の感情の矛盾点に気づかれて二度、三度見られたときに、矛盾が無いようにしなければならない。これが出来れば一流である。父親を助けようとか、恋しがらなかった母子のように。この映画は、悪霊に取りつかれる前から、みんなが理想としている家族像でなかったという秘密が最大の残酷ではないか。




*映画の序盤でホテルの料理人が息子に「人は言葉を交わさずに交流できる」と言っている。これも
この映画の語られない映像描写へのヒントだと思う。

Dekalog episode5

デカローグ エピソード5(ある殺人に関する物語)
 ――恩赦の請願は却下された
 ――誰が弁護しようとも、判決は決まっていた
 まるで晴れることがない天候を表すかのように、このドラマは緑色のフィルターを使って撮影している。監督キェシロフスキによると、不要なものを取り去るためにこのフィルターを使ったようだ。この不穏な天候に相応しい登場人物達が一人、また一人と集まってストーリーを紡いで死刑執行という秩序を完成させていく。その冷徹さが秀逸だった。まずは殺されることになる太ったタクシー運転手。妻がいながら若い女性に色目を使い、乗客を選んでしか乗せない。悪戯にブザーを鳴らして子犬を驚かせては嫌味を吐く。時々は犬に餌を与えるなど、善人な一面も見せるが鑑賞者は誰もこの嫌味な男に好意を抱かないだろう。
 次に、ヤツェック。まだ二十歳の若い青年は、着々と殺人までの準備をしている。彼は事故で妹を失っていて、それから変わってしまったようだ。彼は殺人に使う道具を購入するだけではなく、自分の末路を予見していたかのように、写真屋に妹の聖体拝領の写真の引き伸ばしを頼んだりする。やがて、無差別にタクシー運転手を長い時間をかけて殺害する。

そして主要な登場人物はもう一人いる。それは彼を担当した弁護士だ。

物語は彼の法制度への想いの語りから物語は始まる。

「司法機械とでも呼べる兄弟な法制度が犯す過ちについて考えはじめました。弁護士ならば、その過ちを矯正することが出来る、少なくとも矯正を試みることが出来る、これは立派な社会的機能の一つなのだ」と。

  作中でもあるように、個人と個人の殺人は旧約聖書のカインとアベルの頃から続いている。次に、それを死刑として裁くのが法であり、国である。この措置を「殺人」と呼ぶのか「秩序」と呼ぶのか、これは問いかけているというより、フィルム全体が叫んでいと言えるのだろう。このフィルムは未だに整理がつかない問題を叫んでいる。その代理人が、死刑執行後に叫んだ若き弁護士となる。彼はドラマの最後まで怒りや悔しさを叫び続けた。
 私も昔は法学部で、死刑は賛成か反対かというのは散々考えた。(考えさせられた)けれども、常に答えは流動し、賛成にもなったり反対にもなったりと定まらない。そして、法律から離れると気が付けば考えなくもなった。けれども、それは法律中心に考えなくなったというだけのことで、心の何処かで意識せずにはいられないのだろう。例えば哲学をやっていれば必ずこの問題はやってくるし、小説としても殺人は必要な「設定」となる。このような非日常は常に自分の日常の裏に潜んでいるし、日常になることを恐れながら考えては関わろうとする。
 このドラマを見ていると、二年前、近所の神社で猫の手のようなものが落ちていたことを思い出す。しゃがんでじっくりと見てみると、やはり猫の手で血の跡と猫の華奢な手の切り口から肉が食み出ていた。例えば交通事故によって、猫は死に、偶然にもカラスが摘まんで、手首だけここに置き去りにしたというようなものを想定したが、明らかに、これは人工的なナイフの跡だと分かった。よく言われるのが、このようなものを見つけたら誰かが練習用に使っていると聞いたことがある。立ち上がって辺りを見渡してみると、小鳥達が見えないところで鳴いては木々を飛び移っては微かに木の葉を揺らすだけで誰もいない。ただ私が勝手に作り上げた不穏が立ち込めていた。埋めてあげようかどうか、足が迷いを表した。私は立ち去ることにしたが、結局はすぐに引き返して、ハンカチを取りだしてその猫の手を包んで、手で土を掘ってハンカチごと埋めた。
 良いことをしたとも、悪いことをしたとも思えない出来事。この時間は空虚だった。私はこの手を土に埋めることによって、剥き出しに転がっていた日常を非日常に戻した。この痕跡を近所に残すべきか、魂のことを埋めてしまうべきか迷った。どちらも必要なことだったからだ。私は結局は姿を知らない猫の魂を選んだ。
この小さな出来事、おそらくどんな作家や監督が「殺人」というテーマに挑もうとすると、自分の身体の小さなことに気づくだろう。土に埋めて沈黙すべきか、叫んでみるのか、迷いは必ずあるはずだ。


 この作品でも、カトリックの恩赦の請願は却下され、ヤツェックは司祭の手を接吻しようとするが、それを拒まれるかのように司祭は参列者のところへとすぐに戻ってしまった。若き弁護士の誰にも聞こえない叫びで終わるところから、キェシロフスキも分かっていたように私は思う。そしてこの「小さな」出来事が非日常ではなくて日常として考えられるように、殺人から死刑執行のシーンまで長く目を当てられない程、残酷に撮影されている。
デカローグ(その他) 

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エピソード1
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エピソード8
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html

エピソード4

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalogepisode4.html#more




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Dekalog episode4

「デカローグ エピソード4」
普通われわれには、自分が恋をしているのだと認める様々な印がある。
マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」





   二十歳の演劇大学生アンカは、やもめの父親ミハウと二人で暮らしている。ある日、父親の書斎の引き出しからミハウの字で「私の死後、開封のこと」と書かれた封筒を見つける。それは、まるで見てほしいと言っているかのようだった。少し体から手紙を離すと、その文字がぼやけて見えるほど、アンカは視力が落ちていて、眼科へと行く。そこから何かを示しているようだ。アンカは外でその手紙を開けてみるが、入れ子式のように母親の手紙が封をされた状態で入っていた。そこには「わが娘、アンカに」と記されている。アンカはこれも開けようとハサミを入れようとするが、入れなかった。

   彼女はこの手紙は自分の出生に関する話だと予感が走り、今までミハウに抱いてきた感情を発露させてしまう。アンカは母親の筆跡を真似て、自分がミハウの子ではないという遺書を作り上げてしまう。それを父親の帰省後に空港で暗唱したかのように聞かせるとミハウはアンカの頬をぶった。すぐにアンカは恋人と結婚すると言い出し、二人は仲直りをしたが、父親はアンカに好きに生きてほしい、このままだと男と女の嫉妬になってしまう。そうはなりたくないと娘以上の感情を抱いていたことを仄めかす。
最後は、ミハウにアンカは本当のことを話す。あの遺書は私が作ったもので本物ではないと。そして二人で「事実」が書かれた封筒を燃やして終わる。
恋愛は四種類あるとスタンダールは言った。一つ目は「情熱恋愛」二つ目は「趣味恋愛」、三つ目は「肉体的恋愛」、四つ目は「虚栄恋愛」。(これは各自調べてください)

 今回のデカローグ、エピソード4はこの四種類に当てはめるとしたらどれかに当てはまるのだろうか。それともどれにも当てはまらないのだろうか、それさえも明確には分からない。ただ、プルーストによれば、恋をしているとそれぞれ印があるようだ。私はこれは信じられる。二人ともその『印』には自覚はあったようだ。それは視聴者には見えない奥深い場所にある。今回のエピソード4はモーセの十戒の「父母を敬え」というものをキェシロフスキの技巧によって複雑にしている。キェシロフスキは「このドラマシリーズは観客が真実を読み取るべきである」と言ったそうだ。最後に燃やしてしまった意味は何だろうか、私もこの選択が一番だったと思う。本能的に事実を突きつけられて先に進むよりも、自分達の心でどうするのか決めたかったのではないかと私は思う。

真実を突きつけられたくなかったのはまだ異性として愛していたからこそでもあり、燃やしたことは何処かへ進まなければならないからこその選択。観客は親子関係が崩れなかったことを見届ける。そしてこの二人の心の旅の道のりはまだこれからも長くなるということの暗示さえ感じさせる。






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デカローグ

エピソード1
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エピソード8
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Dekalog episode1

デカローグ エピソード1「運命に関する物語」
クシシュトフは神や魂を信じていない男だった。彼の妹は敬虔なカトリック信者で愛と神を信じていた。その兄妹の間で彼の息子、パヴェヴは育った。パヴェヴが「人は死んだらどうなるの?」とクシシュトフに尋ねると、彼は「その人がしてきたこと」「その人の周りの人にはその人の記憶が残る」と答えた。それに息子はこう返した。「人は思い出のために生きているの?」と。

クシシュトフとパヴェヴはとても仲の良い親子だ。一緒にチェスを打ったり、コンピューターに質問をしたりする。パヴェヴは池の氷でスケートを滑りたがっていたので、二人はコンピューターで滑れるかどうか、氷の厚さを測っていた。ワルシャワの厳しい寒さの中、漸くパヴェヴが待ち望んでいた日が訪れる。コンピューターによると最高のスケート日和だと結果が出たのだ。父親も事前に本当に大丈夫かどうかを確認しに池の氷の上を歩いている。それでも、悲劇は起きてしまった。氷が割れてパヴェヴは池に落ちて命を落としてしまう。パヴェヴが池に落ちた時間帯に、クシシュトフは翻訳機械についての論文を書いていた。そこで息子の死を暗示するかのように、突然、青いインクの大きな染みが出来る。その前に、彼は大学の講義で、コンピューターには選別能力、つまり意志があり、意識があると言っていた。まだプログラムされる一方だから、人間の意識とは一緒に出来ないが、コンピューターにも個性があると言っていた。そして、エリオットの「詩は翻訳不可能なものを謂う」というのに対してこうも付け足した。「コンピューターは夢を見ている」と。
私はこの場合の「詩」とは信仰のことであり、コンピューターとは日常だと思っている。カトリックは共同体と言うが、各々が抱いている信仰心は翻訳不可能であり、人間の日常は俯瞰視点だとプログラミングされたように動いているからだ。それでも人々の日常は個性があり、日常とはまるで夢の世界のように説明がつかない。
 
 鑑賞者として人の運命を見るということは結局のところ自分の運命と照らすことになる。まるで他人の人生を見て、自分用に翻訳するみたいだ。この話の悲劇は誰しもが翻訳しやすい「神」であり、共感出来る「神」であろうと思う。けれども受け入れがたい話である。実在者であった息子の存在が消え、魂という曖昧な存在になってしまった時に、クシシュトフにとって息子の非存在は神と同列になったと体感したのかもしれない。彼にとっては魂も神も同列の拒絶していた存在だったからだ。だから、建設途中の祭壇に飾られている聖母マリア画へと向かったのだろうと私は思う。そして彼は祭壇に手をかけて押し倒してしまう。


例えば、

Aを拒絶し、Aを受容しない生き方は可能である。その代わり、持続する信念が必要だとする。

神を拒絶し、神を受け入れない生き方は可能である。しかし、人間に愛という必要な感情でもあり不確かな感情があり続ける限り、その信念は脆くなってしまうのではないのだろうか。彼が聖母マリアの元へと足を運んだように。

なぜなら、神は人間を愛しているのだというのだから、心をかき乱さずにはいられない。特に大切な人を失ってしまった後は。


十戒 1.「あなたは私の他になにものにも神としてはならない」






デカローグ エピソード8について
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The Bowman

“その料理店では、客に出す料理の皿にはどれにも聖ジョージの御影が青く染めつけてあって、ラテン語で、「聖ジョージよ、イギリスに救いをさずけ給え」と書かれてあった”

 ドイツ軍に追い詰められたイギリス兵達が、聖ジョージにお祈りをすると灰色の人影が長い列を作り、ドイツ人達を弓矢で打っていくのである。人々は天使の軍、聖ジョージの助けだと確信した。これは、アーサー・マッケンの「弓兵」の小説だが、発表された当時は、実話だと勘違いされたのだとか。(モンスの天使事件)
隠れた名作。


霊的な話というのは数行の「説明」で面白さが伝わるものだ。




https://backpackerverse.com/the-angels-of-mons/





出家とその弟子




お前のさびしさは対象によって癒されるさびしさだが 、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ 。人間の運命としてのさびしさなのだ 。(中略)

さびしい時はさびしがるがいい 。運命がお前を育てているのだよ 。

親鸞 (出家とその弟子)より。



 これは倉田百三による戯曲で、実際に親鸞が言ったわけではないのでしょうが、著者は歎異抄を何度も読み、これを歎異抄の解説とした。著者は熱心な浄土真宗だった。

私はカトリック信者だが、イエスを見ているからこそ、親鸞の人間味をより感じ、この言葉に感傷深さを感じる。これは闇の優しさなのだ。無理に光を灯さないこの優しさは、真の孤独を癒してくれる。緩やかに絶望を受け入れることによって、運命に乗って実は一歩前に出るのだ。無理に光や希望で絶望に蓋をすることはない。

イエスも処刑前夜は叫んだりと人間らしいところがあったが、教えでは「完璧」とされている。 それに比べると親鸞は仏教の天台宗では落ちこぼれであったことは明るみに出ている。

親鸞が説いたとされる教えは、歎異抄となって弟子、唯円によって書かれたとあるが本当のところは分からないらしい。そしてこの本は秘教のようなものだ。どんな悪人も赦されると記しているからだそうだ。歎異抄の最後にはこう書かれてある。

仏心が無ければ読まないで欲しいと。

高校が浄土真宗の学校だったが、この歎異抄の最後だけ知って読まなかった。(現在は読了)
それに比べて聖書はホテルにおいてあったり、扉が開いているように思えた。 けれども、最初に扉が開いていても、途中で重たく閉じているものだし、最初は扉が閉じてあっても、後で自然と開くものだと分かった。

文学は審美眼が必要だ。私がこうやって仏教を目にすることによって、審美眼が鍛えられることを願う。

「運命がお前を育てている」

私は 彼に言われる前からいつもそれを信じ、いつのまにか主の呼びかけとなった。
運命と主、その違いはまだはっきりと分からないが、どちらにしても
「育てられている」と思うのだからこそ生きていられるのかもしれない。

他に印象に残ったのは「恋愛」の章だが、この話はまた機会があれば。


*****


そんな私でも、チャイルドスポンサーの5歳の子ども(フィリピン)には
「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える」
(ゼパニヤ3:17)

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます」

(詩篇 13:5)


というカードを送る。言葉は人を育てるし、私も光を知っているからだ。
光は蝋燭の炎のように分け与えるべきであり、闇は深淵のように自分で気付くべきなのだ。だから、人に贈り物をするときは光が望ましいのではないのだろうか。誰しも十字架を背負い、闇を持っているのだから。



Ophelia

Well,  God yield you!  They say the owl was a baker’s daughter. Lord, we know  what we are, but know not what we may be. God be at your  table.

――ありがとう、God yield you!  フクロウは元々はパン屋の娘、イエスから罰で姿を変えられたの。でもわたくしは違うのよ、こんな姿になってしまったのは。ねぇ、王様。私達は先のことは分かることは出来ないのよ、God be at your table.

–Ophelia

A document in madness, thought and remenbrance fitted.
――侠気にも教訓があるというものか、物を思っても忘れるなとでも言うようだな――

–Laertes

Hamlet 


Act4 Scene4







 私が持っているのは英訳のシェークスピア全集で、触り程度にしか読んでいなかったのですが、最近になって(2017年4月)真面目に読んでいた。和訳版を読んだ人と話していると牧師の話になったが、私は牧師なんて出てきた覚えがなくて再度見てみると、Priest(大体、司祭と訳する)になっている。

一瞬、思考が停止したが「あ。イギリスだから聖公会か」と繋がった。 聖公会の場合はPriestだが、日本語訳は司祭でも牧師でも良いと聖公会の公式ページに解説があった。カトリックとプロテスタントの「中道」だと掲げてる聖公会。他にも和訳ではカトリックのようにミサや聖歌と訳しても良いし、プロテスタントのように礼拝、賛美歌でも構わないらしい。そうは言ってもやっぱりシェイクスピアはなるべくなら英訳のほうが良い気はする。特に頭がおかしくなったオフィーリアの台詞は、古いイギリス英語で読みにくいものはあるけれども、英訳をそのまま飲み込んだほうがイマージュは湧く気はする。

God yield you! やGod be at your tableは翻訳をせずにそのままにした。

特に“God be at your table”について。私はやはり最期の晩餐をイマージュするが、それがどう聖書の意味が繋がるとかは考えてはいない。理由はオフィーリアは病んでいるからだ。 それでも和訳になると意味が限定されてしまって、侠気に詩情が消失し、ただ現実味が増して虚構にした意味が無くなる気がしてならない。God yield you!は、挨拶言葉では
あるだろうが、直訳すると「神が貴方にもたらした」となる。

 オフィーリアと言えば、夏目漱石の『草枕にも使われたラファエル前派のミレイの「オフィーリア」』の絵画が有名だけれども、私は一度だけ十代の頃に展示会を見たことがある。残念なことに、ラファエル前派に見られる哲学の「見える」ということは「知っているということから離れられない」というのに当てはまるかのように、オフィーリアに散りばめている「野の花」が偶然の産物にしか見えなかった。(解説があったのかもしれないが確実に私は見落としている)

****

 OpheliaとLaertesの台詞を並べたけれども、これは繋がっているわけではない。登場人物の入れ替わり、シーン切り替えはあるが、原作上同じ場面、オフィーリアの侠気への台詞である。オフィーリアのフクロウの台詞は興味深かった。フクロウとは夜行性のせいか視力が弱いと思われがちで、恐らく、シェークスピアの時代はそう思われていたのかもしれない。どちらかというと、フクロウで特徴的なものは「鳴き声」であり、智慧ある鳥という見方と、不浄の鳥という見方がある。古今、作家ではフクロウの鳴き方を死の予言かのように仄めかす話も多い。けれども実際、見え方が違うだけでフクロウは視力が弱いわけではない。弱いのは色の判別であり、遠くのものを見ることが出来て、近くのものが苦手、両眼視と単眼視の性質を両方持っている。この性質と、Laertesの台詞は科学を先取りしたかのように 一致しているということになる。

ミレイの絵画のオフィーリアは赤や青の「ケシの花」を散りばめて水に浸かっている。
 ケシの花、「野の花」で有名な聖書の箇所は詩篇の「野の花のように咲く、風がその上に吹けば、消え失せ、生えていたところを知る者ももはやない」(詩篇:103、15―16)の、地上的、現世的な一切のものの移ろいやすさも意味するし、「何故、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない」(マタイの福音書6:28)の有名な「思い悩むな」というイエスの言葉も意味する。両方、意味するからこそこの、ミレイのオフィーリアの死は一枚の絵画として意味をする。

オフィーリアを死に追いやった一番の原因は恋人のハムレットが自分の父親を誤って殺してしまったことである。そのハムレットは過去に「自殺」について宗教性を意識して思いとどまっているのに対し、オフィーリアはイエスの言葉を抱いたまま侠気へと陥り、水の中へと身投げする。 

ミレイの絵画は思い悩むなといったイエスの言葉が届かなかった死のように見え、移ろい易さという現実味も出しているが、何よりも、「私がフクロウのようになったのは、イエスの罰ではない」と言ったフィーリアの台詞が胸に来る。

それは暗闇の中で鳴くことなのか、本当は見えているということなのか、
それは水底のように届くことのない真実だけれども、
ミレイのこの絵画について、ある人が面白いことを言った。

「どんなときでも、オフィーリアのように身投げした人間にも神の御言葉はついてくる、この絵の草花は聖書の言葉なんだ。人間劇を情熱とか人間の力だけだと思っているシェークスピアファンに言ってやりたい」

この言葉は過激なのかは分からない。プロテスタントだったこの人はもうこの世にいないけれども、あの頃の記憶は薄らいでいて、感覚もこの頃と変わってしまった。きっとその人に似たような話には二度は惹かれないのだろう。

それでも、確かにこの時に調べたイエスについては私の心に残った。 赤や青のケシの花、オフィーリアを囲む名前もよく分からない野の花と共に。

*God yield you!をお陰さまで、 GodやLordをイエスと訳することについて、他の翻訳について。持っている英訳版の解説書に添って訳しました。

(2017/04/02)

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朗報④



先日、お世話になりました映画監督/松本准平様に私の出版作、「Icon o graph」の
感想を頂きました。DVD発売にもなった
「パーフェクトレボリューション」の監督です。リリー・フランキー、清野菜名が体当たりの演技で挑んだ実話を基に、障害がある「最強のふたり」の至極の物語。

監督から


「遅くなりましたが、イコノグラフ、読み終わりました。

はじめ、ギムナジウムの舞台を思い出すような少女漫画的な世界観で、次第に、キリスト教的主題を持った、より生な文学的重さを持っていくに連れて、一層物語に引っ張られていくのを感じました。
鏡月さんにしか書き得ない小説になっていて、非常に好感を覚えます。

キリスト教のモチーフや引用が少ない作品も読んでみたく思いました。より読ませる物語として純化させて行った時に、鏡月さんの持ってらっしゃるキリスト教的主題や、物語が、逆にもっとハッキリした形で、現れてくる気がしたのです。

この作品は、何作目ですか?
今後鏡月さんが作品を発表していって、でも実はここに全てがあった、というような作品だと思います。とても力作に思いましたし、傑作だと思います。

欲を言えば、人称やドラマの展開が、狙っているのでしょうが、僕的にはわかりにくい部分が多く、そこら辺を整理されてくれば、今後一層広く読まれる作品を残す方だろうと思いました。一方、ある意味でその荒さがこの小説の魅力のようにも思いました。

ラストでは、感動してウルっと来ました。
読ませていただき、ありがとうございました!」

松本准平様より(映画監督)

「パーフェクトレボリューションの試写会感想」
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_14.html


La Barbe Bleue



 Il était une fois un homme qui avait de belles maisons à la ville et à la Campagne, de la vaisselle d’or et d’argent, des meubles en broderie, et des carrosses tout dorés ; mais par malheur cet homme avait la Barbe bleue : cela le rendait si laid et si terrible, qu’il n’était ni femme ni fille qui ne s’enfuît de devant lui.

「昔々、町にも田舎にも美しい家を持ち、金や銀の食器、刺繍の家具や、金の四輪馬車を持つ男がいました。けれども、不幸なことに、この男には青髭がはえていました。そのため、とても醜く恐ろしく見え、どんな女も娘もその前から逃げ出させずにはいられませんでした」(訳:私)

 シャルル・ペローとグリム童話と両方ある「青髭」という話。今回はペロー版についてですが、青髭の妻が再婚するた度に行方知れずになっていると知っていながらも、隣人の高い身分の婦人の妹娘は彼の内面を気に入り結婚します。若き妻となった妹娘に青髭は沢山の部屋の鍵を渡します。そして一つだけの鍵について、「この鍵の大廊下の下にある小部屋は絶対入ってはいけない、入ってしまえば怒って私はお前をどうするか分からない」と言って渡しました。

しかし、若き妻は夫が留守の間に、どんな豪華な部屋を自由に行き来するよりも、好奇心に負けて禁じられた部屋を見てしまいます。そこには、床一面が凝固した血でおおわれ、前の妻らしき女の身体が頭部を切断されて壁際にくくりつけられていたのです。

 
 若き妻は思わず鍵をその血の床に落としてしまいます。急いで拾い上げますが血が全く落ちません。青髭が予定よりも早く帰ってきてしまい、その禁じられた部屋に入ったことがバレてしまいます。青髭が今までの妻のように首を切り落とそうとすると、若き妻は、

donnez-moi un peu de temps pour prier Dieu.(神様にお祈りする時間を少しください)

と言います。この時間稼ぎのようで、宗教的な意味を持つこの瞬間は素晴らしい。この後に若き妻の兄が助けにきてくれ、死なずに済みます。

*****

実写版は、この原作を読み上げる現代人の姉妹と、映画オリジナルの脚色のストーリーとなっています。原作では裕福な家庭の設定でしたが、実写版では、父親の死をきっかけに、私学のカトリック学校を退学させられた貧しい姉妹となっています。

原作者、シャルル・ペローは有名なルイ14世に仕えた作家で、貴族の読み物用に作られた民話と庶民への接点を作り上げたと言われています。そして青髭の青という意味、フランス革命以降、青は「自由」や宗教的意味でも神聖という意味がありますが、ペローは1628~1799年に生きていたので、フランス革命前の「青」の価値観で書かれていると思われます。例えば、フランス語の「青」はギリシャ語由来のκυανοειδης:暗青色、アッシリア語の瑠璃を意味することや、もともと青ざめる、恐怖に感じた、顔色が悪いなどに使われる「青」だということになります。映画では「一番信用出来るかもしれないこの少女まで秘密の部屋を開けてしまった」というような、

人間の普遍的な何らかしら存在する欲求についての、
リアリズムに仕上がっています。
見ているだけでも美しい実写版なので是非。

画像の権利はDVD販売元のCCRE社にあります。

愛を識ること








「言葉は聖霊の住むところです」(日本語版 p134)

「こうして私たちは再び、神の内的な神秘についておぼろげながら語ることが
できます。父と子はお互いにお互いを純粋に与え合い、純粋に引き渡しあう運動です。この運動において、両者は豊かであり、その結実は両者の一致です。……三位一体の神秘はこの世にあっては、十字架の神秘に翻訳されなければなりません」

(日本語版 p137~138)

Der der Geist der ewigen Freude ist. (神の霊は永遠の喜びの霊なのです)
derが二回並ぶことについては説明が長くなるので省きます。
(Germany ver : p93)

イエス・キリストの神 ヨゼフ・ラツィンガー(ベネディクト16世)

 洗礼を受ける前に勉強したのは、聖書の他にカテキズムとベネディクト16世の本でした。三位一体の解説の美しさ、ヨハネの福音書の解説、言葉に住む聖霊の神秘に圧倒されました。文学としてもこれだけ美しい言葉を並べられる彼に敬意を表したい。但し、彼の時代はカトリックの問題が浮上した時期でしたので、学問的な、論理性を高めた神学の死を感じました。ですので、もしかしたらこの本は時代遅れかもしれません・・・・・・。カテキズムだと、感動した箇所は天使の項目です。(英訳版:334~336)今となってはそれを生かすことは人間限られているのだなと実感します。それはとても小さなことで、今はチャイルドスポンサーの子どもに、イースターカードのメッセージカードを何て書こうか悩んでいます。
天使についての記事はこちら




 よく聞かれることは、「鏡玥さんにとって信仰とは何か」ということですが、私にとっては「愛を識ること」(知ること)です。特に神は愛というのが強いのはカトリックで、洗礼前はあまり実感が湧きませんでした。というのは神は愛も与えもするが奪いもする、というのが私の捉え方でした。
 私にも大事なものが奪われたことがあった時があり、奪われただけではなくて、奪われる前から生きていることに無意味さを感じたときに、神に奪われたというのなら意味があるように思えました。不幸との対話は、無常との対話ではなくて、神との対話と信じたかったのですね。私の神への信仰の始まりは悲しい。
それでも本来なら洗礼講座を1年受けてから受けられるものを、私はたまたま、特別にその時期だけ試験期間であった夏の洗礼式を受けることになりました。ですので洗礼講座を受けたのは二か月あまりということになります。私みたいな疑い深い人間に対して、まるで招くみたいに入ったわけです。私はどちらかというと、当時は信仰義認のプロテスタント寄りだったと思います。
  洗礼後、幸せがいっぱい待っているかと言えばそうではありません。それでも訪れる不幸や問題を神様への愛で蓋をすると盲目になってしまいます。重要なのは己に返り、己を見つめ、問題点から逃げないことです。洗礼前と変わらない課題もあれば、キリスト教徒だからこそ感じる苦難はあります。洗礼後のほうが自分らしい居場所に連れていかれることがあるかもしれません。
 それと、キリスト教徒になってからのほうが愛が何なのか愛に関することが力動化するようになりました。ギリシャ語ではアガペー、エロース、フィリアー、ストルゲー、とありますが、私にとって翻訳されない愛が何なのか? というのが哲学としても、生き方としても重要になりました。必ず、ギリシャ語の愛だけが全てではありません。日本文学の曽根崎心中を含め、酒井抱一の絵画のような未分化された愛があります。もっと言えば古事記のイザナミとイザナギでしょうか。それを感じ取ることは考え込むことではありません。自分の足で動いて、機会を作り出し心を動かすのです。
 愛は与えらえる喜びもありますが、愛によって失望することもあります。でもそれも愛があるが故なのです。信者になってからのほうが男女の恋愛だけではなく、友愛やいろんな意味での愛への捉え方が深くなりました。それは説教を聞いたからとか、啓示があったとか具体的な理由はありません。信者になってから、遭遇するものによって変わっていくのです。
私の場合はですね。
 以前、神学者でもある和田幹夫神父様からバルタザール(hans urs von balthasaer)の本、7巻セットを貰いました。彼は神学で美を突き詰めた人で、日本語訳になっていないものです。サブタイトルとなっているSeeing the formとは十字架、三位一体のことであり、Looking(意識的にみる)ではなく、Seeing(自然と目に入る)ということに意味があるのでしょう。これから色んな経験を通して、この三位一体の愛の謎について観ていきたいと思います。何せ分厚い本で7巻もありますので、長い時間をかけて読むことになるのでは
ないのでしょうか。言葉に住まう聖霊を忘れずに、いつか十字架の神秘に翻訳されるその日まで。
酒井抱一についての記事

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

残酷な話を書くということ

The Cement Garden(セメントガーデン)映画

読んだのは英訳版

セメントガーデンとは、イアン・マキューアンの小説で、


父親が発作で死に、そして母親も病気で死んでしまうと、両親を失い養護施設に入れられると思った子ども達は、父親が趣味で買いだめしてあったセメントに目をつけ母親をコンクリート漬けにし、子ども達だけの楽園にした。隠された腐敗、遠ざけた社会、近親相姦、閉ざされた楽園・・・・・・



 この作品に関しては、まだ大した分析は出来ていないし、今まではこれが上手いのかどうかも分からなかった。(2017年12月)

実際に最近、日本でセメントに母親が我が子を乳児期に埋めて何十年も共に暮らしてきて自首をしたニュースがあった。(あまりこういうのを書くことは好まないが)話を聞くだけで、ストーリー性で言ってしまえば、この事件はイアン・マキューアンを超えている。こういうことが起きるからこそ、フィクションは別の旨味を求められる。それはノンフィクションとは比較されないものを作り上げることだ

それでも、この現実の事件を分析していく間に、マキューアンはやっぱり上手いのだなと気づくようになる。

現実の事件では、以下の点が気になった。

① 殺された乳児達には、生きている兄弟もいて、もう既に成人している。母親がお腹が膨らんで
無くなって戻ってきても、赤ちゃんが来なかったという現実をどう理解していたのだろうか。何を聞かされていたのだろうか。

②母親の収入源は何だったのだろうか。

などなど。

こういった現実での疑問が、マキューアンの小説の法則が少し読めるようにさせた。


小説の話に戻ろう。

  姉が母親が死ぬ前から何処か狂気めいているということだ。イノセントと言えばそれまでだが。何故か、母親が病気だったことは姉のジュリーしか知らない。主人公の長男は14歳。それぐらいの年だというのに母親の病気に気づかなかったとうのも変な話だ。そして、兄弟に母は死んだと告げたのもジュリーだ。

 姉のジュリーが今日は死体を見てはダメと指示をしたので、兄弟が母親の死体を見るまでにも空白はあるし、 コンクリート詰めするのもジュリーが指揮を取る。兄弟で揉めるのはセメントに混ぜる水を運ぶことだ。

残酷なものには他人から見れば、何故そんなの信じたのだろうというのがある。けれども当人達にはその世界が全てになる。

このバランスと緊張感が マキューアンは上手いということに漸く気づいた。



   私は、人を殺したことも埋めたことがない。なので、やっぱり読んだだけじゃよく分からないこともある。単に狂気っぽく書いただけなのかなとか、批判的な見方もあった。

フィクションは現実と比較されない何かを作らなければならない。
それこそフィクションへの追求である。

例えばカミュの異邦人も、ストーリーだけなら
もっと残酷な現実がある。実際はゾディアック事件や、アイリーン・ウォーノスのほうがストーリーとして見れば、面白さが格別だろう。けれども決定的に文学としてたらしめたのは、

最後の死刑執行前に、赦しを与えようとした司祭への反発だ。

「僕は僕自身のためにやった!」

この瞬間を作ることだ。

主人公が人を殺した理由が

「太陽がそうさせたのだ」

というセリフが有名だが、私はそこだけではないと思う。

「俺は俺の意思でやった!」 と言う主人公に司祭は涙を流す。
これには司祭(イエス)は常に赦しを与えようとするという隠喩がある。

   文学は、ただ残酷なものを書くのは好きではない。バッドエンドでも、人を何人殺そうとも小説世界の外での秩序の視線を予測しておくことであり、それを見つけておくことだ。それは神の視線を意識することと似ている。現実は役に立つのはFBIや心理捜査官、法廷かもしれない。 けれども作家は神を探さなければならない。

現代でも現実でどんな残酷なことがあっても、カミュの異邦人は色んな考察によって何度も読める旨味は、形骸化扱いされてしまった司祭が握っている。儀式を形骸化として捉えるのは、それは人々が理屈無き儀式への神秘を忘却しつつある証拠であり、本当に無意味かもしれないという現実が付き纏うことである。

現実との比較でしか読めない人はこの旨味を見つけられない。

   セメントガーデンは何処に秩序が存在していたのか。 私は、幼い兄弟だったと思う。部屋に閉じこもり、終始日記を書き続けていた妹、女装が趣味となり、次第に乳児へと退行してしまった最も幼い弟。この2人の非力な存在がこの楽園を地獄へと認識させる、唯一の秩序だった。コンクリートの隙間に生える草、

上の兄弟は残酷な背景を隠してしまうのだから。

セメントガーデンとは、固められた子ども達ではなく、固められたセメントの隙間に咲く草花のことだ。その小さなガーデンを楽園と言えるか、狭いとするか。その筋を見つけるとこの話が読めた。


******

(私は イアン・マキューアンだったら「贖罪」が1番好きですね)


カミュの異邦人についての書評もあります。
それこそフィクションへの追求である。についてもこちら。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/letranger.html



酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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アマゾン→https://www.amazon.co.jp/Icon-graph-Chris-Kyogetu/dp/153493037X/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1512118298&sr=1-2

紀伊国屋→https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781976279713




Alice

Jan Švankmajer:Alice

 ルイス・キャロルの不思議の国のアリスを映像化したものは大体全部持ってるのではないかなと思う。

(輸入版が多い)中々、原作通りというものがなく脚色が入っていてもシュヴァンクマイエルのアリスが一番好きかもしれない。理由はよく分からないが、よく分からないからこそシュルレアリスムならでは何だと思う。

視覚効果、触感、触覚、感触を感じさせる映像美、グロテスク、全て文句無し。

 それではDVD版の説明を一部抜き出してみる。

 Q あなたの特有の解釈のため、何故アニメーションという手法を選んだのですか?

幼児期との対話、もしくは原風景の探索には、アニメーションのテクニックを通して初めて夢として必要なリアリティを与えられているのです。アニメーションは幼児期の心像に再び生命を吹き込むことが出来ます。それに

真実性を与えるのです。オブジェクト・アニメは我々の幼年期の真実を支えてくれます。


***



心像には二種類ある。一つは「知覚心像」、もう一つは「記憶心像」である。前者は、現在進行形で起こっていることを知覚しつづけることであり、後者は、すでに心に溜め込まれていることを言う。シュヴァンクマイエルが言っている心像とは幼年期の心像、両者ともさすだろう。純粋な幼少期の心ということになる。そういえば、私がこれを初めて見たのは大人になってからですが、実はこのジャムに画鋲が入っていた夢というのは子どもの頃に見たことがあった。だから惹きつけられたというのがあります。



画像、及び動画の権利は販売元のコロンビアにあります。



まとめ

お友達が作ってくれたカスタムブライス。
ジュニームーンのイベントとかにも出ていた作家さんです。苺家🍓さんなんだけど、小学生の頃からの友達ですね^^。ひみつのアッコちゃんを作った人なんだけど分かるかな? クオリティ高いので ひみつのアッコちゃん ブライス で検索してみてね!
アリスの衣装も他のお友達が作ってくれたものです。
* 背景はシュヴァンクマイエルのアリスの本を
使いました。
それでは今週アクセス数が多かった記事を5件紹介します。
ブログの人気記事は月間です。
2位 諸行無常 

4位 朗報②
5位 異邦人

あと他には、何となくですがこの子がトム・スウィート君に似ている気がします。
意識して作ったわけではないので、リップが赤いのですけれどもね。


映画の感想(上映後の感想)ライトに書いています。→
サルトルについて。これもライトです



L’amant

je suis la préférée de sa vie
私は彼の人生のお気に入り
L’histoire de ma vie n’existe pas. Ça n’existe pas. IL n’y a jamais de centre.
私の人生の物語というものは存在しない、そんなものは存在しない。物語を作るための中心なんてないのだ。
L’amantMarguerite Duras)
(①と②はページでいったら順番は逆)
ILについて、フォントの関係でIlになってしまうのでLも大文字にしました。



   je suis:私は~です、sa、所有されているもの、人が女性名詞の場合にsaを使います。この場合は主人公の少女のことで、このsa 2人が逢瀬を重ねていたことを表しているので、この一文だけでも色気があります。15歳のときにメコン河の上で出会った金持ちの中国人青年との性愛。そのイマージュは河を横断していく間持続する。長男しか愛さない母親、身体が弱い次男、意地悪な兄、家庭に圧迫を感じる中で、自分の持ち物に対しての拘りと、一回り年上の彼が彼女にとって居場所となっていく。
 香り立つように現れた二人はすぐに触れ合う。永遠を考えた男と、小説家としての未来を見ていた少女、男は掟を破ってでも彼女と居たいとは一度は言ったが、彼女には若さと未来があるが故に答えをNOと言った。

 度々、登場するイマージュという言葉、著者は少女時代の視線や記憶をすべてイマージュ(image)と表しました。フランス語ではイマージュとは「再現」という意味もあります。それは生き写しでもあり、忠実な似姿ということにもなります。これは少女にとって経験というイマージュと、著者にとっての再現のイマージュが展開されています。「彼」と言ったら必ず人を差したりしますが、例えば②のようにフランス語は il(彼)というものが、属性にもなるときがあり ます。「彼」と「それ」という意味が私から見ると、話の内容に沿って効果的に利用されているように見えました。「彼」と敬愛を込めて呼んでいるのは老いた著者であり、客観的に「それ」という出来事を見つめているのは少女の頃の著者かもしれません。誰もがこの二人の情事に注目し、彼との想い出を標本のようにしたかったと思うのかもしれませんが、私にとって、IL(彼)は物語にとって中心では無いと宣言しているかのようでした。―――この話の二人は本当に愛し合っていたかどうか、少女は本当に愛していたのかというところに焦点がよく当てられますが、私はこのように恋愛には行き場の無い感情というものはあると思います。行き場の無い想い、想いとは必ずしも常に何かを望み、何処かへ進みたいと具体性を持っているわけではありません。

このように、祝福も受けず、理解や共感もされず、核を失ったような想いがあったとしても、肌が触れ合って、見つめ合えば、心は交わっていきます。
このような交わりの意味を感じ取れる人は、メコン河の抽象的な描写を感じ取れるでしょう。人間の感傷深さとは関係無く、メコン河は貿易や人を渡しながら変わらず流れていきます。ただそれだけで、胸が痛くなることでしょう。その快楽を知り、そしてその内面の破壊を知る。愛の希求を知るつもりが、自分達はまるでメコン河に漂よう藻屑のように思えるのですから。覚えていることは、二人の関係は、メコン河の描写で事足りるかのように全てを呑み込む―――。
 著者であるマグリット・デュラス自身の自伝的小説と言われているこの作品は、1971年に出版さ れ、1984年にゴングール賞を受賞しました。1914年生まれの著者が十代の頃の、それこそ作中の表現であったimage:イマージュというのを出版したのは50代ということになります。小説家としての神の啓示もこの思い出のようです。小説では「練習しても弾けなかった曲、ピアノを断念するきっかけとなった曲」、映画ではショパンのワルツ第10番、ロ短調Op69-2が使われていました。

 彼との触れ合い、小説家への想い、母親や家族に対しての想い、彼の結婚、二度と会えないと漸く気付いたこと、物悲しいようで、老いた口調が安定を与える。

 執筆するときにどのような気持ちだったのか想像出来ませんが、映画では船の手摺りに足をかけていた。もう一度過去に振り返るとき、その水は記憶の水であり、イマージュの水面である。水底に潜らずに、渡し船に乗って運ばれるように、在った出来事だけを記していく。愛が分かっていなかった時、愛していなかったと言えなくなった時を正確に。
読者にはその愛の盲点を示すかのように、

そのイマージュ、その不安定なイマージュ、

少女は彼の愛を頼りに 足をかける。

(画像及び、動画はブルーレイ販売元のユニバーサルに権利があります)

Vision2 




vision

Die Adern der Flügel zieren den Schmetterling, 
seine Organe, Nerven und sogar Knochen.

Einen Schmetterling zeichnend, bedarf es besonderer Sorgfallt bei seinen Adern. 
Sonst zeigt das Bild nur einen armen Schmetterling unfähig zu fliegen. 

Glauben und Philosophie sind für mich der Flügel Adern. Schöpfung zeigt sich im Aufsteigen in die Lüfte – Fliegen.

Fliegen ist Freiheit bestimmt durch der Flügel Adern.

Andere Freiheit gibt es nicht.

MY Vision Germany ver. 


Cocytus

ダンテの神曲、時獄篇のコキュートス。
ロードオブザリングの 死者の沼地を見たとき、
コキュートスの氷漬けになっている死者を思い出した。
学生の頃は地獄篇しか読まなかった。馴染みやすく、考えやすかったからだ。
煉獄は神秘性(占星術要素)が強くて、天獄篇は宗教的過ぎて読めなかったが、独学で聖書やキリスト教の歴史を勉強してくると煉獄篇が読みやすくなった。 そして洗礼を受けた後に天獄の意味が分かるようになった。
地獄篇だけが読み込まれた跡を残し、煉獄、天獄は新品同然だったのが、長い月日を経て、地獄篇と同じような姿になっていく。
心の経験は、軽視出来ない。この気持ちがあれば哲学も宗教も面白くなり、物語が容易に近くに感じる。死者が眠る姿が見える水面を覗くことも、感覚を研ぎ澄ますことも大差無い。

コキュートスの夢は一度だけ見たことがある。洗礼を受ける前ですね。

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