「青い花」ノヴァーリス(1)哲学編

本当は一本の青い花
「青い花」ノヴァーリス(1)哲学編
カントから離れ、ドイツ観念論とヘーゲルの狭間で、
感性だけが辿り着いた神秘。
カントは物自体を人間の実践理性に関わるとし、人は物自体にたどり着くことが出来ずに、意識によって世界を作り上げているとした。そして現象を人間の理論理性と関わるとし、物自体が人間によって現れることを「現象」とした。カントは私達が見たり聞いたりできる世界を「現象界」、これに対して、物自体の世界を「英知界」としました。私達の認識能力ではカントは英知界を見ることが出来ないとしていますが、英知界には、物自体のほかに道徳法則が存在していると考え、これは良心の声が訴えてくるので認識可能としました。これがカントの言う一つの「理性」である。
    作家・ノヴァーリスは物や現象というものを人が見る無秩序な「夢」を主題にして、
「青い花」を追いかけました。夢で恋焦がれるように吸い寄せられた美しい「青い花」のために彼は、聖ヨハネ祭が終わった後に、生まれ育って出たことがなかった町から旅に出始めます。青い花を「物」だとすれば、それはカントの言う「理性」、英知界を飛び出そうとしていると言えるでしょう。彼にとって、夢の中に見えた「青い花」を追うということは、既存の道徳や理性を捨てて、「自我」から構成された理性と道徳だけで飛び出すことなのである。この青い花の背景には、知る人ぞ知る、作者ノヴァーリスの若くして亡くなった婚約者への気持ちが込められていると私は思います。彼はフロイトでいうところの「悲哀の仕事」をしませんでした。死者を失った悲しみから現実へ帰ろうとせず、婚約者は彼にとって文学や詩、哲学が生まれる全てだった。カントに説明つかない魂の存在を彼は「在る」と前提としているのである。彼の作品がドイツ観念論だと言われるのはフィヒテやシェリングに考え方が似ていたからだろう。理論理性(認識)も実践理性(行動)も「自我」のしくみとして説明できるとするフィヒテ、自我(人間)も自然も絶対者である神の一部だ、つまり現象と物自体は同じ、というシェリング、この彼等の哲学と、ノヴァーリスの作品は当てはまることが多い。
まず、ノヴァーリスは信仰心が高く、プロテスタントでありながら、分裂前のカトリックに憧れていたこと、そして、死んでしまった恋人をいつまでも愛し続けたところ、このように彼は形ないものに「自我」を置き、神という絶対者を信じた。この病んでいるような感覚を、ゲーテやヘーゲルは否定している。
この「青い花」は、内部(夢)の世界と外界の世界が主人公の旅を通じて、触れ合い、浸透しあう。出会う人、出会う人が不思議な話や夢の話をするので、読んでいる者が何処が地面、(地の文)なのか混同させるが、この混同こそが、主人公の「自我」なのである。感覚知覚の働きとして、この働きの中に成立する「私」なのである。反対に感覚知覚と思考の働きが消滅する(主人公の恋焦がれる青い花)ということは彼にとって死を迎えることになる。アリストテレスの共通感覚論に即しても同じようなことが言えよう。感覚知覚の働きの消滅とともに、それと一体となって働く共通感覚の働きも消滅する。共通感覚の働きの消滅によって、思考しているとき私が思考しているという自覚を可能にする知覚は失われる。私の思考は私という固定点を失って浮遊する。それは主人公が現実に存在しているはずもない「青い花」を探し始めて、詩人として芽生えてくるところまでこの思考が渦を巻き始めている。彼は内部世界の消滅を最も恐れては、最も信じ、魂の開示(啓示)を待ち、内向的な光を待っていたと私は考察する。
そして旅の終盤で主人公は、青い花を彷彿させるような、隠者の本の挿絵に出て来ていた美しい女性マティルデと出会う。
この作品は二部構成になっていて、二部でより神秘が高まってきたところで
終わってしまうという未完作品ですが、
終盤に長年気に入っている台詞がありまして、主人公が詩についてこう
最後は締めくくります。
「聖書と詩学とは同一の軌道を運行する星座ということになります」
Und die Bible und die Fabellehre sind SternBibler Eined Umlaufs.
ですね。とてもロマンチックで理に適っていると思います。なぜなら神の祈りの言葉は詩(旧約・詩編)になっているので。詩学は神から離れようとするけれども、結局のところ同じ同一の軌道を運行する星座ということになります。
ドイツ語ではHeinrich von Ofterdingenと主人公の名前がタイトルになっています。カント哲学から離れたような自我を新たに形成しようとし、詩人を目指そうとしていたというのはタイトルからも現れています。しかし、日本語にしてしまうと全くの意味不明となってしまうので「青い花」というタイトルにしたことは良かったと思います。
youtubeはじめました(音声のみです)

司祭は人を愛することが難しい
イコノグラフを想って
「類稀なる誠実な病」
https://youtu.be/2_3bIudd6OI

追記:「類稀なる誠実な病」の音声予告が4060回超えました(2・28)
表示では98いいねとなってますが、管理画面では119いいねになっています。

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三木清 怒について

今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。
切に義人を想う。義人とは何か、怒ることを知れる者である。
人生論ノート 三木清
 

死者の書(折口信夫)について①

   幸せな人が
口にする言葉は
かりそめのひとふし
寡黙のひとの
感じとっているのは
こよなく美しい旋律。

エミリー・ディキンソン

こよなく美しい旋律を紡ぐというのは
狭き門のような気がしてならない。
マタイによる福音書の「狭い門からはいれ。滅びに
いたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って
行くものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見出す者が少ない」
(マタイ7章13~14)

とあるように。

去年の大晦日は
ジゼルというバレエをロイヤルバレエと
ミラノ・スカラ座を立て続けに見ていた。

ジゼルとは、貴族の男は
婚約者がいながらも村娘のジゼルと恋仲になってしまうが、
結局は、婚約者である女性に手にキスをしてしまう。

意図せずとも、ジゼルを裏切るような形になって、
ジゼルは狂乱して心臓発作で死んでしまうという。

そんな話を立て続けに
2019年までのカウントダウン直前まで見ていた。
しかしジゼルは裏切った彼を許してウィリーの女王に
殺さないでくれと懇願する。

昨年に司祭に裏切られたせいか、妙に共感して涙まで出た。

許す気持ちと、彼を書きたいという気持ちは別ものだ。
それは、死者の書の郎女(いらつめ)のように憧れの気持ちでキリスト教
(仏教)に入った執心から、
現実を知り悟りを開いていくまでの道のりは、私にとっては
重要な生きた証である。そして彼女は蓮の茎で作られた
糸で曼荼羅を作って命を絞るところは、

狭き門を通りたいという、クリスチャンの性であるようだと
最近は思う。善悪の計り知れない深淵から、
美しい旋律を見つけたいのだ。

休んでるように自撮り三昧だった間、

折口信夫の死者の書と
マルクス・ガブリエルの
なぜ世界は存在しないのか、
を勉強していた。

他に勉強したのは

使徒言行録、オーソドックスとカトリック
ミサという意味、そしてトラウマに立ち向かうべく
司祭という仕事とは何なのかという本を読んだ。

司祭に裏切られて、オーバードースを起こして
自殺未遂をした10月。

私の作品に対する経験は充分だろうか、それともまだ体験が必要だろうか、
それは分からないが、今のように学問に勤しむということは、
死者の書で郎女が仏教の『称賛浄土摂仏教受教』を
一心不乱に写経した気持ちに重なる。ついでに、
私の作家の在り方も彼女に共感するものがある。

執心から悟り、その執心の中には異端と含まれるものが
あるかもしれない。けれども恐れることは私はしない。
私の心の中の天国が定かになりつつあるからだ。

私は恐らく、執心から悟りへと変化しつつあるような気がして
ならない。

憧れから入ったキリスト教、正直、嫌な事のほうが多かった。
病気だって正直言って悪化した。十字架が重くなっていく
という表現が正しいだろうか? とりあえず私は不幸を背負って
寡黙を手に入れ死の淵から心の中の天国というのを見出しつつ
ある。

洗礼を受けた直後の幸福だった記憶は薄れていく。
世界なんて存在しないという哲学は正しいと言えるだろう。
極めて20世紀以降らしい。でもだからこそ
心の中の天国は必要なのだ。それは人間に魂があり続ける限り、
必要とされる。悟りに近いものを見つけたときに
宗教は強い力を持つのかもしれない。ただ入信しただけでは
幸福にはなれない。

(ルカによる福音書17章20章)

人生は長い道のりである。それを実感するからこそ、
2018年から2019年に変わったからといって、そこまで
お祝いの気持ちにはなれなかった。

次は「死者の書」について書いてみたいと思う。

私は二作品目のイコノグラフでは女子パウロに出しても
良いぐらいの正統派の「執心」から神の巻かれた種が育つまでを
書いた。けれども次回作はカトリックを裏切るような作品に
なるかもしれない。けれども、私は書かなければならないのだ。
幻想のような亡霊の王子のために朗女が、蓮の花で曼荼羅を作ったように。
私は教会のパーティやあの賑やかな円卓に戻ることはないだろう。
それは司祭に裏切られたときから決まっている。
その代わり、寡黙を保ちつつ現実では聞こえない旋律を聴くのだ。
存在していない世界から。

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