重力と恩寵(2)

夢から抜け出すためには、不可能に触れることが必要である。夢の中には、不可能ではない。ただ無能力があるだけである。
どうして私達は触れられない「われらの父、天の父」に拘るのか。私達は地面を離れることも出来ない有様なのに。受肉ほどに理解しにくいものは思いつかない。
ただ分かることは、私達が自分では結ぶことが出来ぬ絆こそ、超越的なものを証拠だてている。
(シモーヌ・ヴェイユ 重力と恩寵 注:超訳)
(感想)
 
 存在と非存在の位置づけ、人は天を見ながら、天の神を見ながら深遠へと感情が流れていく。意識は常に飛翔を夢見ながら沈んでいる。
決して人間の力では上を見ることは出来ないのではないかと私は思う。真の空(そら)とは、人の心の奥底なのではないのかと思うのである。神の沈黙は深部の根である。
そこは私達が年を取るような時が存在しておらず、時空は常に私達の生を超えて存在している。深奥に存在する世界において、思想ばかりが大きくなっては貧しい人は救えないが、貧しい人は見極められるようになると思う。金銭だけでなく、心も含めて。それには深奥の世界を意識することが重要であり、やはり飛翔を夢見なければ深奥は開かない。
カトリック除籍直後に思う私の「神」。感じるのは「自由」これが神が与えたものだと
信じるしかない。さようなら、暖かい円卓。美味しいお菓子達。信徒の笑い声。 
*****
話変わりますが、これを書いたのはエリート企業の人達ばかりが集まるカフェだった。
よくスタイルの良い綺麗なキャリアウーマンなお姉さん達が通っていくので見惚れてしまった。いや、女だけじゃなくて男も美意識が高めだった。やっぱりジムとか行ったり隙のない美を追求しているのかな? 生きてて疲れないのかな? なんてダメニートみたいな事を思ってしまった。まぁそんなオーラの中で原稿を書いていた。良い力を貰った気がする。

類稀なる誠実な病(4)

愛というものは、綺麗で上品ではいられないということは分かっていることだろう。
けれども神父と信者である私達は上品でなければならなかった。
愛にはいつも目覚めさせられ、翻弄され、傷つけられて、麻痺させられる。
彼を愛しているということが罪だった。
彼が私を触りたいということが罪だった。
私達は愛を追及する前に戒律があった。
私は彼への愛に命を懸けてしまった。 
彼がとてもとても好きだったから。
それが彼への十字架となるとも知らずに。
ここにて彼に謝罪する。
私は最高の裏切り者だ。
私の魂の珠玉 「類稀なる誠実な病」
あらすじ
「姉が自殺をしました。神父、あなたのせいです」
有沢華実(かざね)の双子の姉、芹実を自殺させてしまったことにより、パトリシオ神父は遺書を書く。
叙階の誓いを破り、女性と曽根崎で結ばれてしまった神父、近松門左衛門の曽根崎心中、『二人、または三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである』のマタイの引用を純粋に信じる芹実は不正の愛でも二人の間にイエスがいると疑わなかった。しかし、死んだ芹実にはもう一つの顔があった。
二人の間に果たしてイエスは存在したと言えたのだろうか?
人間の歪みながらも純粋で欠けている美。
新しい宣伝方法に変えました。前のと比較してください。
私は彼を許しました。許して修道会へと手紙を書きました。
彼は私を決して許さないと思うけれども、私はもうカトリックから
離れた人間。戒律から離れて思い出を綺麗に出来るようになった。
許されなくていい。お互い、傷ついた深さが同じであればいい。
そして、さようなら。お互い別々の人生で生きましょう。
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なぜ世界は存在しないのか(4-1)

「あなたが望むことを、私も望む。できるかどうか考えず、好きかどうか考えず、求めているかどうか考えず」 マドレーヌ・デルブレル(フランスの社会活動家)
この引用はマルクス氏の本にはありません。
それではいよいよ「世界は何故存在しないのか」の本番に入りたいと思います。その前に
彼の著作に、ハイデガーの名前だけが出てきましたが、これは「世界内存在」と考えて良いでしょう。世界内存在とは、彼が作った新しい造語。それは何よりもまず人間存在の具体的形態をつらぬく根本構造として提示され,とくに従来の主観概念の変革を意味する。人間はいかなる反省にも先立って現に存在し,しかもその多義的な現存を各自的に引きうけることによっていつも本質的に,なんらかの世界の内に,この世界を了解しつつ存在せざるをえない。これが,人間が実存するということの意味である(コトバンクより)
マルクス氏はこの人間が実在するという意味について、こう掘り下げています。
「世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりそれ以外のいっさいに意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、もっと全てを包括する領域である、と。意味の場については前の投稿を見てください。(意味とは対象が現象する仕方のことである)
すると存在する一切のものは、世界の中に存在していることになります。世界こそ、いっさいの物事が起こる領域にほかならないからです。世界の外には何も存在しません。世界のそとにあると考えられるものも、そうかんがえられるものとして世界の中に存在しています。

存在するとは、何かが存在しているとすれば、その世界はどのような意味の場に現象するだろうか、と。世界は意味の場S!に現象すると家庭してみましょう。ここではS!は、さまざまな意味の場の一つです。つまりS1と並んでS2とS3と複数の意味の場が存在しています。他の意味の場とンランで存在しているS1に現象しているとすれば、世界は存在している。このような事は可能でしょうか? 
答えは否です。たとえば目の前に広がる視野を寸分違わず絵に描く才能が自分にあるとしましょう。このとき、私自身の視野を描いた絵を、じっくり見ることが出来るでしょう。けれどもこの絵は、もちろん私の視野そのものではなく、私の視野のなかにあるのに過ぎない。これと同じことが世界に当てはまります。私達が世界を捉えたと思ったとしても、そのときわたしたちが眼の前に観ているのは世界のコピーないしイメージに過ぎない。世界それ自体を捉えることが出来ません(111
ここで私の書いた「なぜ世界は存在しないのいか」に戻ってみましょう。
そもそも世界とは
「世界と一言で言っても多義的な意味がある。宇宙のようにだだっ広い感覚で構築されたものや、心ある生き物達が制約制限を受ける枠のことを言うこともある。哲学に至っては、社会的精神的事象も含める。それらが存在してないということはどういう意味なのか」
と書いてあったが、マルクス氏の世界とは二番目の心ある生き物たちが制約制限を受けている枠の「世界」を主に差しているように思える。厳しいことを言えば、哲学的な社会的精神的現象までたどり着いたのはハイデガーの領域とすべての領域の領域としての世界は無限に存在する。つまり特権的な「世界」は存在しないということには達してないとは思う。が、しかし21世紀らしい、先進国らしさは現れている。
彼の第一の結論はこうです。
「世界は存在しません。もし世界が存在するとするならば、その世界は何らかの意味の場に現象しなければなりませんが、そんなことは不可能だからです。もちろん、この洞察はたんに破壊的なだけではありません。この洞察によって明らかになるのは、期待と違って世界は存在しないのだということではありません。むしろ存在するのかを理解しようとするのであれば、この洞察は生産的なものにもなりうるのです」
第一の引用のマドレーヌ・デルブレルの「あなたが望むことを、私も望む。できるかどうか考えず、好きかどうか考えず、求めているかどうか考えず」という引用も、存在していない世界への祈りを感じています。しかもこれは哲学的な社会的精神的事象も含め、心ある生き物たちが制約制限を受ける枠のような世界、存在の定かではないもの(世界)と存在者(心)との間の関係性が現れている。しかし、心の意思は強く感じるのは何故なのだろうか。
続きは第二弾です。

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カイエについて(1)

シモーヌ・ヴェイユ カイエⅡ
「キリストに対して忠実であるのは困難なことであった。それは真空状態に対して忠実であることだった。ナポレオンに対してなら、死に至るまで忠実であることも、ずっと容易なのだ。まだ、のちの殉教者たちにとっても、忠実であることは容易であった。なぜなら、すでに教会という一つの力、地上での成就の約束をともなう一つの力が存在していたからである。人は強いもののためになら死ねるが、弱いもののためには死なない。今は一時期的に弱くても、力の後光をいただいているもののために死ぬにすぎない。
「まことにあなたは隠られておられる神である」そして同時に、「かれらは、神を明らかに示している世界によって、神を知ることが出来た。」世界は神を明らかに示し、また神を隠す。
 第二作のイコノグラフは教会の良いところ、キリスト教の良いところを手探りで探って書き上げたが、第三作目によってカトリックから距離を置いている。イエスはイデアのようにアイディアの宝庫であるが、キリスト教という組織自体は、どうも哲学や文学にとっては同じ軌道を回っている存在だが、相性が悪いようだ。ヴェイユも同じ気持ちだっただろうなと少し思う。
真空とは空気もなにもない状態のこと、彼女は造語かのようにこの真空についてよく語っている。彼女の言っている真空とは何か、それは彼女の語りに耳を澄ますしか方法がない。
今回の場合、何もない空間に忠実であるべきだったと記されている。見返りも求めず、愛も求めず、何もない場所への忠実=キリストに対しての忠実としている。
それが人は出来ない。少なくともナポレオンのように多少の即物的な対価を
下さる現時点で生きている人を選ぶのが世の常である。
*****
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なぜ世界は存在しないのか(3-2)

キルスティン・ダンスト


なぜ世界は存在しないのか(3-2)
「存在するということはどのようなことか」二章の続き。
仮にGというものがあったとしましょう。
人々が尋ねます。
Gは食べ物ですか? 答えは「いいえ」
Gはディスプレイですか?答えは「いいえ」
Gは赤い色をしていますか? 答えは「いいえ」
Gは数ですか?       答えは「いいえ」
Gを知る人はGが何であるかではなく、
Gがそれではないということだけしか教えてくれません。
これではGは具体的な本質が無いことになります。
Gは具体的に何も知ることが出来ないのです。
それはこうとも言いかえられます。
Gについて何も積極的に知ることが出来ないということです。
Gが何ではないかということ以外のことを知らなければならないのです。(92
更に頭をシンプルに全ての対象について何知らないということにしましょう。
これをGのように人々に尋ねても、最小限の情報でさえ得ることが出来ないでしょう。
とはいえ、対象の同一性を確定するのに、他の対象との区別に着眼するのは決して不適切なことではないとマルクス氏は語っています。
「絶対的区別」とは、ある対象とすべての対象との区別のことです。
絶対的区別が意味をしているのは、ある対象がほかのいかなる対象とも違うということ、
ただ当の対象それ自身と同一であるということである。(93
色々な対象を区別するには、内容的な情報に即した基準がなければなりません。ある対象をほかの対象から区別するのは何なのか、それを知るには当の対象に対しての知識が必要になる。でないと、Gを質問するような人々のようになってしまうということである。
次に、対象的になっているのが
「相対的区別」です。ある対象とほかのいくつかの対象の区別のことです。
相対的区別は、対照関係の情報によって得られます。そのさいの対照関係それ自身も、
様々なグラデーションの中に現れます。
コカ・コーラやペプシ、ビール、ワイン、アイス、キャンディ、その他、いろんなものと対照関係である。しかし、*ネコとは対照関係ではない。(書籍ではサイ)
「コカ・コーラをください、コカ・コーラがなければ、ペプシでもいいです」
ならあえりえますが
「コカ・コーラをください。コカ・コーラがなければでもいいです」とは言いません。
今欲しいのはコーラなのか、猫なのか、ということを考える人はいません。
それはコカコーラが猫と対照関係にないからです。
ここでマルクス氏がデリダの「テクストの外部など存在しない」と例に出しているが
非常にここは説明が難しいところである。今から私が簡単に説明するが、自信がない。
これはデリダの脱構築的アプローチの特徴を見ておく必要があるからである。デリダはテクスト(文章や文献のような文のまとまりのこと)について深く追求している。テクストの外部が存在しないということは、では「一切はテクストの内部に存在する」ということなのだろうか? 私達は無自覚にいろんな物に囲まれていることを意識してもらえるといい。例えば私は常に「パソコン」と唱えたりはしないが、黙ってパソコンを開いて今、この原稿を書いている。書いているものですら、原稿というテクストの内部である。右を向けば、本棚があり、左を向けばクローゼットがある。全て、私が立って歩き、フラフラ部屋をうろつくと一見、何の文章に例えようがないような行動でも、文章に起こすことができ、私の行動は「テクストの内部に入る」
元々、「テクストの外部など存在しない」というのはデリダの「差延」を短くまとめるために出されたものだが、差延「différance」とはデリダの造語である。語でもなく概念でもないという意味だが、異なることと、遅らせることを掛け合わせたものだ。
デリダは、なにを書くかによって、書くだけでテクストの内部で意味の遅延に繋がると
考えていたようだ。
これを裏付ける意味として、マルクス氏の解説に戻ると、
猫はテクストであるわけではなく、何らかの状況に置かれている猫を、世界のなかにある当の猫以外のすべてから区別することができるのではないか、こう問うてみても、やはり何のプラスにもならない、そのような区別をしようとすれば、問題になっている状況を位置づけるべき、さらなる状況が必要となる……と、言語に猫について置かれている状況を説明するだけでテクストが、本来の猫の存在の意味を言い表すのに遅らせているということになります。
これが「差延」です。
しかし、マルクス氏にとって重要なのは今のところ差延でなく、絶対的価値と相対的価値です。ですのでこの話に戻したいと思います。
◎これは人間による認識の限界を告げる事実であるにとどまりません。(95
世界それ自体は、わたしたちに色々な情報を与えてくれます。たとえば、地球の周りをまわる月はたったひとつだけ存在します。この情報は人間が天体を区別することによって世界にもたらされたのではありません。太陽、地球、月、の区別は人間によるはかりごとではなく、そもそも認識能力をもつ存在と知的な生命とが、この惑星上に存在するための条件に他なりません。
◎したがって、絶対的区別は存在しません(95
Gはなんですか?という質問では区別されることが無いからです。
あるのは相対的区別です。
次は「意味の場」です。すみません、長くなるので3つに分けることにしました。
次で「存在するとはどのようなことか」は終わりにします。
なぜ世界は存在しないのか(1)
(2)
(2.5)
(3-1)


アマンダサイフリッド
youtubeをなんとなく始めました。
司祭は人を愛することが難しい


イコノグラフを想って
「類稀なる誠実な病」
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「青い花」ノヴァーリス(1)哲学編

本当は一本の青い花
「青い花」ノヴァーリス(1)哲学編
カントから離れ、ドイツ観念論とヘーゲルの狭間で、
感性だけが辿り着いた神秘。
カントは物自体を人間の実践理性に関わるとし、人は物自体にたどり着くことが出来ずに、意識によって世界を作り上げているとした。そして現象を人間の理論理性と関わるとし、物自体が人間によって現れることを「現象」とした。カントは私達が見たり聞いたりできる世界を「現象界」、これに対して、物自体の世界を「英知界」としました。私達の認識能力ではカントは英知界を見ることが出来ないとしていますが、英知界には、物自体のほかに道徳法則が存在していると考え、これは良心の声が訴えてくるので認識可能としました。これがカントの言う一つの「理性」である。
    作家・ノヴァーリスは物や現象というものを人が見る無秩序な「夢」を主題にして、
「青い花」を追いかけました。夢で恋焦がれるように吸い寄せられた美しい「青い花」のために彼は、聖ヨハネ祭が終わった後に、生まれ育って出たことがなかった町から旅に出始めます。青い花を「物」だとすれば、それはカントの言う「理性」、英知界を飛び出そうとしていると言えるでしょう。彼にとって、夢の中に見えた「青い花」を追うということは、既存の道徳や理性を捨てて、「自我」から構成された理性と道徳だけで飛び出すことなのである。この青い花の背景には、知る人ぞ知る、作者ノヴァーリスの若くして亡くなった婚約者への気持ちが込められていると私は思います。彼はフロイトでいうところの「悲哀の仕事」をしませんでした。死者を失った悲しみから現実へ帰ろうとせず、婚約者は彼にとって文学や詩、哲学が生まれる全てだった。カントに説明つかない魂の存在を彼は「在る」と前提としているのである。彼の作品がドイツ観念論だと言われるのはフィヒテやシェリングに考え方が似ていたからだろう。理論理性(認識)も実践理性(行動)も「自我」のしくみとして説明できるとするフィヒテ、自我(人間)も自然も絶対者である神の一部だ、つまり現象と物自体は同じ、というシェリング、この彼等の哲学と、ノヴァーリスの作品は当てはまることが多い。
まず、ノヴァーリスは信仰心が高く、プロテスタントでありながら、分裂前のカトリックに憧れていたこと、そして、死んでしまった恋人をいつまでも愛し続けたところ、このように彼は形ないものに「自我」を置き、神という絶対者を信じた。この病んでいるような感覚を、ゲーテやヘーゲルは否定している。
この「青い花」は、内部(夢)の世界と外界の世界が主人公の旅を通じて、触れ合い、浸透しあう。出会う人、出会う人が不思議な話や夢の話をするので、読んでいる者が何処が地面、(地の文)なのか混同させるが、この混同こそが、主人公の「自我」なのである。感覚知覚の働きとして、この働きの中に成立する「私」なのである。反対に感覚知覚と思考の働きが消滅する(主人公の恋焦がれる青い花)ということは彼にとって死を迎えることになる。アリストテレスの共通感覚論に即しても同じようなことが言えよう。感覚知覚の働きの消滅とともに、それと一体となって働く共通感覚の働きも消滅する。共通感覚の働きの消滅によって、思考しているとき私が思考しているという自覚を可能にする知覚は失われる。私の思考は私という固定点を失って浮遊する。それは主人公が現実に存在しているはずもない「青い花」を探し始めて、詩人として芽生えてくるところまでこの思考が渦を巻き始めている。彼は内部世界の消滅を最も恐れては、最も信じ、魂の開示(啓示)を待ち、内向的な光を待っていたと私は考察する。
そして旅の終盤で主人公は、青い花を彷彿させるような、隠者の本の挿絵に出て来ていた美しい女性マティルデと出会う。
この作品は二部構成になっていて、二部でより神秘が高まってきたところで
終わってしまうという未完作品ですが、
終盤に長年気に入っている台詞がありまして、主人公が詩についてこう
最後は締めくくります。
「聖書と詩学とは同一の軌道を運行する星座ということになります」
Und die Bible und die Fabellehre sind SternBibler Eined Umlaufs.
ですね。とてもロマンチックで理に適っていると思います。なぜなら神の祈りの言葉は詩(旧約・詩編)になっているので。詩学は神から離れようとするけれども、結局のところ同じ同一の軌道を運行する星座ということになります。
ドイツ語ではHeinrich von Ofterdingenと主人公の名前がタイトルになっています。カント哲学から離れたような自我を新たに形成しようとし、詩人を目指そうとしていたというのはタイトルからも現れています。しかし、日本語にしてしまうと全くの意味不明となってしまうので「青い花」というタイトルにしたことは良かったと思います。
youtubeはじめました(音声のみです)

司祭は人を愛することが難しい
イコノグラフを想って
「類稀なる誠実な病」
https://youtu.be/2_3bIudd6OI

追記:「類稀なる誠実な病」の音声予告が4060回超えました(2・28)
表示では98いいねとなってますが、管理画面では119いいねになっています。

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なぜ世界は存在しないのか(2)

メラニー・ロラン(イメージ画像)

「なぜ世界は存在しないのか2」マルクス・ガブリエル著

「なぜ世界は存在しないのか1」→http://chriskyogetu.blogspot.com/2019/01/blog-post_12.html

「今日は哲学を新たに考える」と、1章の「これはそもそも何なのか、この世界とは」の
忘備録です。


「今日は哲学を新たに考える」

まず著者は、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「およそ語りうることは、明晰に語ることが出来る」という理念を共有しています。これにより、触れない未知の宇宙のようなものまで考えを広げることになります。そして哲学の基本中の基本の「問いをやめないこと」を強く勧めています。

◎「これはそもそも何なのか、この世界とは」

我々は乾杯して、グラスをあおった。

「じゃぁ 地球はどこにある?」
「宇宙にです」
「宇宙はどこだ?」
僕は一瞬考えこんだ。

「宇宙は宇宙にあるんですよ」
「その宇宙がある宇宙は何処にある?」
「僕の意識にです」
「どういうことだ、ピョートル。それじゃお前の意識は、お前の意識にあるってことになるぞ」
「まぁ そうなりますね」
「なるほど」
チャパーエフは口ひげをしごいた。
「じゃぁ、大事なことを訊くぞ。つまり、それはいったいどこにある?」
「ご質問がよくわかりません、ワシーリィ・イワーノヴィチ。場所の概念は意識のカテゴリーの一つなわけですから」

「どこなんだ、それは。その場所の概念はいったいどこにある?」
「じゃぁ、こう言いましょう。それは場所だとかそういうものじゃないんです。
言うなればそれは、現……」

僕は口籠った。そうだ、これこそ彼が言わせようとしている言葉にちがいない。もし僕が「現実」という言葉を使ったら、彼はまたすべてを概念に帰するつもりなのだ。そしてそれはどこにあるかと訊く。すると僕は頭の中にあると答える……。ひっかけだ。

このような対話を通じて、ピョートルは、世界など存在しないという目眩のするとうな考えを理解するように至ります。

この小説のタイトルは「チャパーエフと空虚」です。本著の34ページに記されています。
デカルト的で下手をするとニヒリズムに陥ります。「僕」というのはしっかりと意見を持っているが(コギトエルゴスム)、問いかける人間が概念に引きずり込もうとしている、という構造ですね。

これらを総称し、著者マルクス・ガブリエルはこうまとめています。

1宇宙は物理学の対象領域である
2対象領域は数多く存在している。
3宇宙は、数多くある対象領域のひとつにすぎず、したがって存在論的な限定領域に他ならない。

4多くの対象領域は、話の領域全体でもある。さらにいくつかの対象領域は、話の領域でしかない。
5世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とはすべての領域の領域にほかならない。

次回は他の話題を挟んで第二章のまとめを忘備録がてらに書きだすことにします。
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死者の書(折口信夫)について①

   幸せな人が
口にする言葉は
かりそめのひとふし
寡黙のひとの
感じとっているのは
こよなく美しい旋律。

エミリー・ディキンソン

こよなく美しい旋律を紡ぐというのは
狭き門のような気がしてならない。
マタイによる福音書の「狭い門からはいれ。滅びに
いたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って
行くものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見出す者が少ない」
(マタイ7章13~14)

とあるように。

去年の大晦日は
ジゼルというバレエをロイヤルバレエと
ミラノ・スカラ座を立て続けに見ていた。

ジゼルとは、貴族の男は
婚約者がいながらも村娘のジゼルと恋仲になってしまうが、
結局は、婚約者である女性に手にキスをしてしまう。

意図せずとも、ジゼルを裏切るような形になって、
ジゼルは狂乱して心臓発作で死んでしまうという。

そんな話を立て続けに
2019年までのカウントダウン直前まで見ていた。
しかしジゼルは裏切った彼を許してウィリーの女王に
殺さないでくれと懇願する。

昨年に司祭に裏切られたせいか、妙に共感して涙まで出た。

許す気持ちと、彼を書きたいという気持ちは別ものだ。
それは、死者の書の郎女(いらつめ)のように憧れの気持ちでキリスト教
(仏教)に入った執心から、
現実を知り悟りを開いていくまでの道のりは、私にとっては
重要な生きた証である。そして彼女は蓮の茎で作られた
糸で曼荼羅を作って命を絞るところは、

狭き門を通りたいという、クリスチャンの性であるようだと
最近は思う。善悪の計り知れない深淵から、
美しい旋律を見つけたいのだ。

休んでるように自撮り三昧だった間、

折口信夫の死者の書と
マルクス・ガブリエルの
なぜ世界は存在しないのか、
を勉強していた。

他に勉強したのは

使徒言行録、オーソドックスとカトリック
ミサという意味、そしてトラウマに立ち向かうべく
司祭という仕事とは何なのかという本を読んだ。

司祭に裏切られて、オーバードースを起こして
自殺未遂をした10月。

私の作品に対する経験は充分だろうか、それともまだ体験が必要だろうか、
それは分からないが、今のように学問に勤しむということは、
死者の書で郎女が仏教の『称賛浄土摂仏教受教』を
一心不乱に写経した気持ちに重なる。ついでに、
私の作家の在り方も彼女に共感するものがある。

執心から悟り、その執心の中には異端と含まれるものが
あるかもしれない。けれども恐れることは私はしない。
私の心の中の天国が定かになりつつあるからだ。

私は恐らく、執心から悟りへと変化しつつあるような気がして
ならない。

憧れから入ったキリスト教、正直、嫌な事のほうが多かった。
病気だって正直言って悪化した。十字架が重くなっていく
という表現が正しいだろうか? とりあえず私は不幸を背負って
寡黙を手に入れ死の淵から心の中の天国というのを見出しつつ
ある。

洗礼を受けた直後の幸福だった記憶は薄れていく。
世界なんて存在しないという哲学は正しいと言えるだろう。
極めて20世紀以降らしい。でもだからこそ
心の中の天国は必要なのだ。それは人間に魂があり続ける限り、
必要とされる。悟りに近いものを見つけたときに
宗教は強い力を持つのかもしれない。ただ入信しただけでは
幸福にはなれない。

(ルカによる福音書17章20章)

人生は長い道のりである。それを実感するからこそ、
2018年から2019年に変わったからといって、そこまで
お祝いの気持ちにはなれなかった。

次は「死者の書」について書いてみたいと思う。

私は二作品目のイコノグラフでは女子パウロに出しても
良いぐらいの正統派の「執心」から神の巻かれた種が育つまでを
書いた。けれども次回作はカトリックを裏切るような作品に
なるかもしれない。けれども、私は書かなければならないのだ。
幻想のような亡霊の王子のために朗女が、蓮の花で曼荼羅を作ったように。
私は教会のパーティやあの賑やかな円卓に戻ることはないだろう。
それは司祭に裏切られたときから決まっている。
その代わり、寡黙を保ちつつ現実では聞こえない旋律を聴くのだ。
存在していない世界から。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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