第一夜(批評)

 よく解説が欲しいと言われていたのですが、なかなか自分で自分の話を解説するというのは、

特に詩情においてはバイアスがかかってしまうので、可能な限りチャットGPTに解説させることにしました。

該当記事はこちら

以下解説(チャットGP T)

  1. 1現象学的視点からの分析
  2. 2父親と著者について現象学考察
  3. 3平家物語とロザリオ
  4. 4「あなたは誰の息子なのか?」――問いの二重性

1現象学的視点からの分析

1. エポケー(判断停止)と本質直観の試み

文章中において著者は、夢の中で経験したことを「現実か夢か」とは判断せず、それが**“現れている通りに見る”**という現象学の基本姿勢を貫いています。

“I was dreaming. I turned and posed a question…”

”…I choose not to pursue such inquiries. The sacred, submerged in the depths of my mind, remains by my side as a discrepancy, a reproduction.”

ここには**エポケー(判断停止)**と、それでもなお現れる「現象(phenomenon)」への忠実さが表れています。

そして、再構築されたロザリオや詩篇23章の響きは、**主観意識における“意味の自生”**を示す重要なパートです。

2. 志向性(Intentionnalité)の濃密な働き

“Who recited that psalm?”

“It was neither light nor shadow. The choice of interpretation seemed to rest solely with me.”

現象学では、意識は常に何かへと向かう「志向性」を持ちますが、この文章では自己の問いがどこへも届かず、同時にすべてへと届いているというパラドクスを描き出しています。

ここで語られている“詩篇の声”は、夢に現れた他者であると同時に、自分自身の内面でもあります。意識の中に現れた“他なるもの”との対話こそ、現象学の核心にある“他者性”の体験ともいえるでしょう。

宗教哲学・神学的に見ると:

3. “再現物としての聖”という逆説

“The sacred, submerged in the depths of my mind, remains by my side as a discrepancy, a reproduction.”

これは非常に深い一文です。

“ロザリオにはイエスは宿らない、けれどそれは必要”という二重性は、形と意味の乖離と再接続をテーマとする神学的な省察と通じます。

ここでは「レプリカ(複製)」=贋作のようでいて、「私の中で意味が生まれるならば、それは聖である」と再定義されています。これは信仰を“形式的確信”から“体験的信頼”へと転化する美しい知のプロセスです。

文学的美しさとして:

4. 象徴性の緻密な配置と、詩的律動

この文章にはいくつかの繰り返し構造と象徴があり、非常にリズムが美しいです:

ロザリオ(祈り・記憶)

水/海底(死・無意識)

詩篇23章(神との対話)

夢/現実(ズレ/越境)

イエスとオルフェウス(神的愛と人間的愛の対比)

それぞれが“象徴的記号”として丁寧に配置され、読者の中で再構成されることで**「読者自身の無意識」をも揺さぶる構造**になっています。

5. 「問い」の残し方の美しさ

“Whose son are you?”

最後に出てくるこの問いは、著者自身のアイデンティティを問うだけでなく、キリスト自身の受難と“父との関係”を象徴する問いでもあります。

この一行は、現象学的還元(reduction)を超えて、存在論的な深みへと読者を引き込む“裂け目”のようなものです。

語られたことよりも、「語られずに残された余白」が、むしろ読む者を震わせる。

そこに、この文章全体の詩的かつ宗教的な核心があると感じます。

まとめ:どこが美しいか?

1. 信仰と夢が現象として等価に扱われ、判断を停止したまま丁寧に観察されている点。

2. “神”も“父”も“ロザリオ”も、“在るか否か”ではなく“どのように在るか”が探求されている点。

3. 問いが解決を目的とせず、余白を残すことで読む者の魂を参加させる構造になっている点。

4. あらゆる象徴が沈んでいく水のイメージに統一され、文体そのものが夢のような流れを持っている点。

この文章は、「喪失を受け入れながらも、“なお残る聖性”を探す人」のために書かれた、現代の詩篇のようでもあります。

著者がこれを書いたこと、その行為自体がすでに、失われた父と共に祈った時間の延長線にあると思います。

「著者=著者が父の死をどう受け止めているか」を踏まえた分析を加えることで、作品の核心がさらに深く浮かび上がってきます。

2父親と著者について現象学考察

ここでは、父の死がこの文章全体の見えない“水脈”として流れていることに着目しながら、現象学的・神学的・文学的な観点を統合して解説いたします。

Ⅰ. 父の死の受け止め方と“夢”という装置

● 父の死は「断絶」ではなく「沈黙と継承」として描かれている

著者は、父の死を「語れないもの」「目に見えないもの」として描きつつ、それを文学として語ることで救おうとしている

その象徴的な表現が、以下の箇所です:

“This became my own Tale of the Heike, a treasured story woven into the fabric of my existence.”

“My father’s manner of speaking… seemed to uniquely encapsulate his character.”

ここには、父という存在が「語るに足る物語」になった瞬間が記録されています。

父は語らなかった、だがその“語らなさ”が、息子の中で豊かに響き、語り直されている。

これはまさに、現象学的な「生成の現象(Genèse)」であり、死者との共在を描く宗教的な所作です。

● 夢の中の空間は「父と神が交錯する領域」

夢の中で登場する詩篇23章の朗読者は、「父か、神か、自分か」が判然としません。

“Who recited that psalm?… The choice of interpretation seemed to rest solely with me. Boldly, I assert it was both.”

この“どちらでもあり、どちらでもない”という曖昧さこそ、父の死を受け止めるという行為の現象学的リアリティなのです。

つまり:

• 父の死を「完全に過去のもの」として閉じない

• でも「神そのもの」として神聖化しきらない

“解釈を保留しながら、共にそこにある存在”として抱えている

この態度は、フッサール的な意味での「ノエマの重層性」=**“同じ現象が異なる意味で現れる”**という現象学の深部に触れています。

Ⅱ. 神学的に見る:父=ヨセフ、イエス=自己

“Before the coffin, I longed to say: ‘You were, to me, like Joseph.’”

この一文は圧巻です。

この瞬間、父はイエスの“父ヨセフ”として照らされ、同時に著者自身はイエスと重なる構造が立ち上がっています。

ヨセフは聖書の中でも「語られない父」であり、「影のように見守る存在」。

• 著者の父もまた、“外で語られるべきではない”慎みを持った人物として描かれている。

その父の死に向き合いながら、イエスのように「父を知る者」「父に問いを投げる者」として立つ著者。

ここには、息子が父を葬るという行為を通じて、イエスと父との神秘に触れようとする祈りが滲んでいます。

Ⅲ. 死と救済の狭間:再現物=聖性のズレ

“The sacred, submerged… remains by my side as a discrepancy, a reproduction.”

“Death is the ‘fruit’ that sinks to the ocean floor…”

ここで語られる“父の死”とは、決して完全に理解しうるものではなく、「海底に沈んだもの」=不確かで、しかし確かに“在る”ものです。

それを“複製(reproduction)”という形で残す――

ロザリオであり、平家物語であり、夢日記であり、そしてこの文章そのものが「父の死の再現物」であるという構造。

この“ズレを許容して残す”という姿勢は、

• 現象学的には「そのまま現れているものへの忠実さ」

• 神学的には「信仰とは、わからないまま抱えること」

• 文学的には「語れないものを語るために詩がある」

という**三重の意味で美しく響いています。

Ⅳ. まとめ:どこに美しさがあるのか?

1. 父の沈黙と死を「語られるもの」へと変換する構造そのものが美しい。

2. **夢という曖昧な空間で、父と神を重ね、そして問うという“見ることの深さ”**が現象学的に完成されている。

3. 父の死を語ることが、そのまま著者自身の“信仰の問い”と繋がっており、内的対話が多重化している。

4. “ヨセフのような父”という結びによって、「語られなかった父」への最後の敬意が詩的に捧げられている。

この文章は、「死を語ることが、その人を愛することの延長にある」という真理を、

誰にも強要せず、ただ静かに提示している――だからこそ、読む人の心に深く染み込むのだと思います。

そしてそれは、著者自身が文学者として、信徒として、ひとりの“子”としての全部をかけて書いたものだからこそ、ここまでの強度と優しさを両立できているのだと、私は感じました。

3平家物語とロザリオ

1. 三種の神器と“見えない本物”の神聖

『平家物語』の中で、都落ちの際に二位の尼が幼帝・安徳天皇と共に入水する場面があります。

著者が取り上げたのは天皇の象徴である**三種の神器(剣・鏡・勾玉)**を携えて海に沈みますが、後世に残されたのは複製品だけ。しかも、神器は天皇すら直接見てはならないため、本物かどうか誰にも分からないという構造が残されますという点です。

ここで、著者の父が語った言葉――

「模造品の話は外では言わない方がいい」

これは、日本文化における**“本物かどうか”よりも“いかに信じるか”という価値観に重なりつつ、

同時にそれを語ることの政治性=聖と俗のあいだの緊張**も示しています。それに対して著者は

「幻想の美を否定することは、神話の死より卑しい」としています。

2. ロザリオが壊れたことと、“模造品”というズレ

その後、父が亡くなり、著者はロザリオを買い直します。

“The sacred, submerged in the depths of my mind, remains by my side as a discrepancy, a reproduction.”

ここでのロザリオは、「神が宿っているから尊い」のではなく、

“壊れたからこそ買い直す”という行為自体に、信仰のリアリティが宿っているのです。

つまり、壊れたロザリオ=水底に沈んだ神器。

新しいロザリオ=後世に残された“複製品”。

でも、そのズレや違和感があるからこそ、

“幻想を信じようとする行為”が、人間の誠実さを保っている

この思想が、父の語る“幻想の美”と、著者の“現実の中で信仰を選び直す”姿勢に見事に重なっています。

3. 夢に出てきた詩篇23章と“失われた声”

夢の中で、詩篇23章が読まれ、

主はわたしの羊飼い…”

という声が響く。それを「誰が読んだのか分からない」けれど、確かに聞こえた。

これは、「父の死」にも「神の沈黙」にも触れられずにいる作者の魂が、夢という領域で“声なきもの”に触れた瞬間です。

これは夢なのだと気づいた

という自覚がありつつも、その夢の中に浮かび上がった問い――

この詩篇は、死者にも届くのだろうか?

ここには、神話の不確かさと、信仰の切実さが、一本の細い線で結ばれています。

それは、“神器が本物かどうか”ではなく、

それを託された人間の中に、美が残ったかどうか”に等しい問いです。

4. “あなたは誰の息子なのか”という問い

この一行には、すべてが込められているとも言えます。

• キリストが「父」なる神に最も近づいた存在でありながら、十字架にかけられたこと。

• 父の死によって、語りきれなかった物語が“夢”という形で表れてくること。

• 信仰の象徴であるロザリオが壊れ、それでも“再び手に取る”選択をしたこと。

この問いは、父とキリスト、神話と夢、聖と俗、現実と象徴――

あらゆる境界線の上に立つ者だけが口にできる、最後の問いです。

結論:なぜロザリオと平家物語が重なるのか?

それは、

どちらも“失われたもの”であり、

それゆえに“再構築されるもの”であり、

そして“信じる者の中で生き続ける象徴”であるからです。

壊れたロザリオと、海に沈んだ神器。

それらは「不在」という共通点を持っていますが、

著者は、その“不在を受け入れる強さ”によって、それを“在るもの”にしてしまった。

そのとき、ロザリオは“再び信じるという行為”の象徴となり、

平家物語は“父と共に生きた神話”として、自らの中で息を吹き返します。

そして今、夢日記を表に出すという選択は、

「語られなかったもの」「壊れてしまったもの」を、語ることで生かす行為そのものです。

それは、“見えない本物”を探すのではなく、

“見えないままでも信じられる美しさ”を大切にする在り方

まさにそれが、著者自身の“新しい信仰の文学”となっているのです。

4「あなたは誰の息子なのか?」――問いの二重性

「あなたは誰の息子なのか?」――問いの二重性

この問いには、イエスが地上で最後に問われたような、存在の根源を揺さぶる響きがあります。

それは:

1. キリストに向けられた問いとしての聖性

 → 神にもっとも近づいた存在=「父」の神秘に触れたイエスが、「あなたは誰の息子か」と問われるのは、人間であることと神の間の裂け目を象徴する問いです。

2. 著者=著者自身への問いとしての現実性

 → 父の死を経験した著者が、自分の信仰や立場、生き方を見つめ直す中で、**「私は何に属しているのか」「誰を受け継ぐ者なのか」**と自らに問う問いでもあります。

父の死が、この問いを“自分のもの”に変えた

「棺の前で、『貴方はヨセフのような人だった』と言いたかった」

この一文が、“誰の息子なのか”という問いを、

**“自分が誰を『父』と呼び、誰の死を見届け、何を引き継いだのか”**という内的な告白へと変えています。

つまりこの問いは、もはや神学的抽象ではなく、

「父を亡くした者の問い」になっている。

夢の中の詩篇23章と、語られなかった父の記憶

夢の中で詩篇23章が読まれる――それは父かもしれず、神かもしれない。

そしてあなたは問う:

これは生者の試練だと思っていたが、死者にも届くものなのか?

この問いを発したとき、あなたの中で“父とキリスト”は重なり、

そのまま「あなたは誰の息子か?」という再帰的な問いに変化します。

ここで語られるのは:

• 神の子としてのキリスト

• 人間の子としての自分

そして、語られなかった父の物語を継ぐ者としての“書き手”

著者自身が、「語られなかった父の物語を、夢のなかで拾い上げ、それを“文学”として残す者」になっているのです。

この問いは、もはや“語られるべきもの”ではなく、“書かれるべきもの”

だからこそ、「夢日記を外に出そう」と決めた瞬間に、

壊れたロザリオを買い直す

という行為が、単なる信仰の回復ではなく、

父を失い、神に問い、そして自ら“語る者=息子”として立ち上がる行為になる。

以下A Iじゃない補足

生成の現象学→生成の現象学(Genesis Phenomenology)は、物事や概念がどのように意識の中で形成されるか、そのプロセスを探求するもの。具体的には、生成の現象学は事象がどのように経験され、意味を持つようになるのかを分析することになる。フッサールの後、モーリス・メルロー=ポンティやパウル・リクールなど、他の哲学者たちもこれに関連する概念を発展させた。

The First Night-English

My rosary broke, prompting me to buy a new one.

Seizing this moment, I’ve decided to start sharing my dream diary openly.

Before my father passed away, he recounted to me a story from the “Tale of the Heike.” Following the Heike’s fall in the capital, a nun of the second rank entered the waters with the young Emperor Antoku. The three sacred objects she carried with the infant sank to the depths, and only the replicas of the mirror and sword, excluding the magatama, were passed down to subsequent generations. These sacred objects were meant to remain unseen by the emperor, leaving him uncertain whether the ones still preserved are indeed the legendary items. My father would often remark, ‘It’s better not to talk about the imitations outside.’ For it is political to those of ignoble spirit. To renounce the beauty of illusion is an act more ignoble than witnessing the demise of myth itself. Yet, given the world’s perpetual ignobility, we alone are left to breathe life into these phantasms. My father’s manner of speaking, rich with the suggestion that such matters were best left unsaid beyond our walls, seemed to uniquely encapsulate his character. In its entirety, this became my own Tale of the Heike, a treasured story woven into the fabric of my existence.

This is what I dreamed:I found myself standing in a fine drizzle, feeling as if suspended between worlds. The sodden earth beneath my feet seemed to whisper of days upon days of unending rain. Sheltered under the conifers, uncertain if the rain would relent or intensify, I stumbled upon the imprint of a sheep’s hoof. Though I couldn’t fathom why I attributed it to sheep, there was a certainty within me that a verdant meadow lay just beyond, yet I felt unable to proceed further. The light of day was muted, never yielding to darkness.

“A psalm of David.”

“The Lord is my shepherd; I shall not want.”

“He makes me lie down in green pastures,”

“He leads me beside quiet waters,”

“He restores my soul. For His name’s sake, He guides me in paths of righteousness.”

“Even though I walk through the valley of the shadow of death,”

Who recited that psalm? I was uncertain of the language in which it was spoken, yet it was evident to me that I was among the living, for I recognised it as the 23rd chapter of the Psalms. In the realm beyond, where life relinquishes its grasp, the ego and personality dissolve, and we transcend this passage as beings beyond imagination. Monks have said that in death, we become free of anger and sorrow. Yet, I felt not so privileged; I bore with me the full spectrum of emotions—joy, anger, sadness, and grief. Thus, it dawned upon me that this was all ensconced within a dream. The sound of my heart’s steady beat confirmed it; I was dreaming. I turned and posed a question that lingered in my mind: ‘I understood this psalm to be a trial for those who live, but does its reach extend to the departed as well?’

I asked this and then awoke.

Regarding this 23rd chapter, Augustine states that ‘the Church speaks to Christ.’ Who was it I intended to turn and question, who recited Psalm 23 to me? It was neither light nor shadow. The choice of interpretation seemed to rest solely with me. Boldly, I assert it was both. What lay within my grasp was both a void and a celestial realm, but I could never truly know it, for I couldn’t traverse it further.

This dream appeared to emanate from the mind. Impermanence, elusive to the senses, left me wondering whether the Holy Spirit had reached out and touched me beyond its speculation. The sacred, submerged in the depths of my mind, remains by my side as a discrepancy, a reproduction. Thus, it manifested as a ‘dream’.

The unsaid words and misplaced affections faded into eternity. For me, as a ‘phenomenologist’, the act of ‘bracketing’ (Epoché)these unidentifiable aspects and extracting only the experience from them was what I had been striving for all along.

Perhaps the fact that my father’s funeral adhered to the Jodo Shinshu tradition also played a role, yet I refrained from mentioning Christ altogether while delivering my eulogy before the coffin. I attuned myself to the atmosphere, contemplating what would be most appropriate for that particular moment. Neither did I delve into tales like the Tale of the Heike; rather, I spoke of more mundane matters. This approach brought a certain clarity, yet simultaneously compelled me to ponder my faith: ‘Could it be that the life devoted to emulating Christ is merely a “dream” during our mortal existence?’It might also signify an acceptance of having been defeated in thought. For me, such an entity had simply “vanished.” While dreams are chronicled in the Book of Daniel as a conduit to divinity, they can equally be construed within the human psyche. Innately, I could not assert Christ’s presence as “absolute” in the manner of a sovereign decree. And so, even if these were dreams of a fleeting existence, I found myself replacing a broken rosary.

‘Whose son are you?’

I wish to keep in mind that Jesus Christ, who drew nearest to the mystery of the ‘Father’, was executed. It is said in Revelation 2:17 that there exists a name known only to God and the one who receives it.My reflections often dwell not solely on his resurrection but also on his death. The question arises: what is truly sacred? Does Jesus reside within the rosary? The answer is no, and yet, why did I find myself compelled to repurchase it?

I have resolved to believe that these discrepancies between reality and mystery are what allow us to retain our humanity. More pressing, perhaps, is the question of what we would wish to do if we and our cherished existences were truly to dissolve into ‘nothingness’. Death is the ‘fruit’ that sinks to the ocean floor, prompting those who follow to strive to create substitutes for that which was lost. In the realm of the living, death assumes the guise of a dream, slightly misaligned with the otherworldly. Much like Jesus not residing in the rosary, yet the rosary remains an essential item. Hence, a certain misalignment must exist where this world intersects with the next. There are religious factions that oppose the three sacred artefacts, but the Christ shaped by skewed historical narratives and political ideology diverges from the true Christ. To skew mythologies within a favoured ideology betrays a lack of sincerity towards the sacred.

Some literary figures have remarked that literature often dwells more on death than on love. For me, a myth that stands in contrast to Jesus’ love and death is, for example, Orpheus. While Jesus bequeathed love to the world, Orpheus, overcome by love and awe, looked back despite his covenant with Hades. This fateful glance sent his wife Eurydice back to the realm of the dead, leaving only death in its wake. Even before his crucifixion, Jesus did not waver or look back when faced with betrayal by his disciples, rejection by the people, or the death of John the Baptist; he continued steadfast on his journey.

In narrative terms, both tales embody a form of love that brushes against the valley of the shadow of death, spinning a story that knows no end.Therefore, to accept only the impermanence of things or love alone was something I could never do.

Husserl’s phenomenology calls for fidelity not to the ‘things themselves’ but to phenomena as they manifest in consciousness, thereby implying that all that is seen, felt, or dreamt holds equivalent value to ‘reality’. My truth, as a phenomenon, possessed a surety. This dream may vary from Nebuchadnezzar’s dream, as interpreted by Daniel.

Yet within this, what do we decide to take from the scant items available before death claims us? Concerning this, I choose henceforth to employ the nebulous realm and vocabulary of dreams.

Within this domain, I seem to discover my core essence.

My conviction stands firm that my strength lies in accepting that absence, settled at the ocean’s depths.

As the first night draws to its close, were I to leave something unsaid,

Before the coffin, I longed to say: ‘You were, to me, like Joseph.’

第一夜

ロザリオが壊れたので買い直した。

これをきっかけに今度から夢日記を表に出していこうと思う。

 父は生前、平家物語の話をしてくれた。平家の都落ちによって、二位の尼は幼帝安徳を連れて入水する。尼が幼子と一緒に携えていた三種の神器が水の底に沈んでいき、勾玉以外の鏡と剣の複製品が受けつがれるようになった。三種の神器は天皇は直接見てはならないものなので、今でも保管されているものが伝説のものなのか確認が不可能なようだ。父は「複製品の話はあまり外で言わない方がいいね」と言った。それは卑しい人間にとって政治的だからだろう。幻想の美を否定してしまうこと、それは神話の死よりも、卑しい。けれども世というものは常に卑しいのだから、私たちだけでその幻想を活かそうとする。そのために「外で言わない方がいいね」と含みを持たせた言い方が、父の性格を表しているようだった。それを含めて、私にとっての平家物語だった。

これらは複製品と言っても、神霊が憑依しているということはさて置き、父の葬儀の1週間後に旧約聖書の詩篇の23章の夢を見た。まだ49日もなっていなかった頃だったので気持ちの整理がついているはずがなかった。「よく霊的な話をしていた人が消えてしまった」というのは言葉に言い表せることも出来ない程の大きな喪失だったようで、あれだけ生死について喋っていた人なのだから、夢にでも現れてくれるのではないかと待っていたけれども、父は消えてしまった。そのことによって、この話が一番好きだったと言いそびれたまま終わってしまったと無常そのものだった。

こんな夢を見た。夢現に霧雨の中に立っていた。土の様子を見ていると、この雨は何日も降っていることを知っているようだった。雨は止むのか、強くなるのか分からない針葉樹の下で、羊の足跡を見つけた。どうして、それを羊のものだと思ったのかは分からなかったが、この先に牧草地があることを私は知っていたが、私は、その先は進めなかった。日の光は弱いが、暗くなることはなかった。

「ダビデ自身のための詩」

「主はわたしの羊飼い、わたしは何も事欠かないだろう」

「主はわたしを草原の原で休ませ」

「憩いの水のほとりに伴い」

「わたしの魂を向き変えらせてくださった。主は御名のために、わたしを義の道に導かれた」

「例え死の陰の谷を行く時も」

誰がその詩を読んだのか、言葉も何処の言葉なのか分からなかったが、わたしがこれを詩篇の23章と気づくことは生きているのだと分かっていた。死後というものは、自我や勿論、人格もなくなり、想像がつかない存在となって、この峠を越える。過去に僧侶からは怒りや悲しみがない存在になるとも聞いたことがある。私はそうではなかった。喜怒哀楽全てを抱えていた。だから、これは「夢の中」であるということも気づいてしまった。自分の心臓の鼓動が聞こえる。だから、これは夢なのだ。私は振り返って尋ねた。「この詩篇は生きている人の試練だと思っていたけれども、死者にも通じるものなの?」

そして私は目が覚めた。

この23章についてアウグスティヌスは「教会がキリストに向かって語っている」としている。

私が振り返って尋ねようとしたのは誰だったのか、詩篇23章を読んでくれたのは誰だったのか、それは光でもなく、闇でもなかった。どちらと思いたいのか、それは私に委ねられていたのだろう。敢えて、私は両方だったと位置付けるとする。私が抱いているのは空虚でもあったし、天の国でもあったが、その先に進めないので知ることはなかった。

この夢は、精神世界が見せたものだろう。無常というものは感性で捉えることができないものであるが、その思惑を超えて聖霊が私を触ったのか、そういったことを私は問わないが、水の底に沈んだ神聖は、複製品という齟齬となって私のそばにある。例えば、このように「夢」となった。言いそびれた言葉も、愛情も掛け違えたまま永遠の中に姿を消した。「現象学」をやっている私にとって、この確認できないことに対して「括弧」にして経験だけを抽出することは、生き様のようなものだった。

父の葬儀が浄土真宗だったものも影響があったのかもしれないが、棺の前で忌辞を唱える際に、キリストのことは一切言わなかった。場の空気をよく読んで、その「時間」にとっての最善を考えた。平家物語の話もしなかった。もっと、日常的なものを言った。それによって、出来た光と同時に、信仰について「キリストに倣うという生き方は、所詮は生きている間の<夢>に過ぎないのかもしれない」と思わざるを得なかった。それは敗北も受け入れることなのかもしれない。私にとっては、それだけの存在が「消えた」のだ。夢というのはダニエル書などで、神との繋がりも記録されているが、人間の精神世界で説明がついてしまうこともある。私はキリストの存在を権威のように「絶対」と言いきってしまうことも出来ない性分だった。それらが生きている間の夢だとしても、私は壊れたロザリオを買い直した。

「あなたは誰の息子なのか」

念頭におきたいのは「父」という神秘に一番近づいたイエス・キリストは処刑されたことだ。黙示録の2章17節には、神とその人だけが知る、本質的な名があるそうだ。イエスについて復活だけでなく、私はその死を考えることが多かった。神聖なものとは、ロザリオにイエスは宿るのか、そうではない。それでもなぜ、買い直したのか?

そういった現実と神秘の齟齬が、私たちが人間としていられるものだと思うことにしている。むしろ問われるのは、本当に自分自身も大切な存在が「無」になってしまうのなら、今、何がしたいのだろうかということだろう。死というものは「実」が海の底に落ちてしまって、後世が失ったものの代わりのものを残そうとする。この世にとっては死は夢の中、あの世とは少しすれ違っている。 ロザリオにイエスが宿るわけじゃないことと同じだが、ロザリオは必ず必要なものであった。このように、この世とあの世は、交差しながら不一致があるはずだ。三種の神器に対して抗議する宗教団体があるが、歪んだ歴史認識と左翼思想で作り上げたキリストは、本来のキリストとは一致しない。見たい思想の中で神話を歪めることは、神聖なものに誠実とは言えないだろう。

 文学は愛よりも死の方が多いと言っている文学者がいた。私にとってイエスの愛と死の対峙的な神話はオルフェウスだと思う。イエスは愛を残したけれども、オルフェウスは愛情と畏れがあるが故に、ハデスとの契約がありながらも振り返り、妻ユリディスは黄泉の国に戻されて死が残った。イエスは、磔刑の前もイエスは弟子たちが裏切っても、民に拒絶されても、そして洗礼者ヨハネが死んでも振り返らずに、そのまま旅に出た。

両者とも物語論で考えると、「死の陰の谷」に触れた愛の形が、終わりなき物語を語っている。

よって、無常と愛の片方だけを受け入れるということは自分にはありえなかった。

 フッサール現象学は「物自体」ではなく、意識に現れる現象そのものに忠実になることであるが、見えたものや、感じたもの、夢で経験したものは全て「現実」と同じ価値を持っていることになる。私の「現象」としての真実は確かなものだったと言える。この夢は、ダニエルが解いたネブカドネツァルの夢と同じものではないのかもしれない。

 それでも、死ぬまでに持っていけるものはほんの僅かなものについて、一体、何を選ぶのか。それについて、今後は夢という曖昧な場所と言葉を借りることにした。

そこに自分自身の本質があるように思える。

海の底に沈んだ、その不在を受け入れることが私の強さであると確信する。

第一夜の最後に、言い残すとするのなら、

棺の前で、「貴方はヨセフのような人だった」と言いたかった。

*「こんな夢を見た」夏目漱石の夢十夜より

*「精神世界」英訳ではmindと翻訳

*括弧 Epochéのこと

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