セラフィタ 2020年12月09日

 

 

 

La Science est le langage du monde Temporel, 

l’Amour est celui du monde Spirituel.

 

科学は物資世界の言語、

愛は霊的世界の言語

 

バルザックーセラフィタ

 

これ、小説では一番好きな本ですね。作家:バルザックはカトリックのマドレーヌ寺院に

埋葬されています。

 

 天使、熾天使は性別が無い存在で、カトリックでも天使はカテキズムで

記載されています。2018年にローマ教皇様がとりあげましたが、現在は

どうなっているか知りません。

 

過去に何件かセラフィタに関しては取り扱っています。

また後日にもう少し紹介出来たらなと思います。

格言

Abyssus abyssum invocat.
(一つの過失は、もう一つの過失へと
繋がる)
ラテン語
Amici in rebus adversis cognoscuntur.
友人は逆境において認識される
(後日、書き足す予定)

 

イザヤ「正義の神」

 「それゆえ、主は恵を与えようとして あなたたちを待ち

それゆえ、主は憐みを与えようとして 立ち上がられる。

まことに、主は正義の神。 なんと幸いなことか、すべての主を待ち望むものは」

 イザヤ書 3018

教会から届いた封書を開けたときに、イザヤだったことに私は光を見出す。

ChrisKyogetu

(2021年7月)

2022年2月 教会の手伝いをするので公開していた書面は取り下げさせてもらいます。

The Hail Mary

Hail, Mary, full of grace,
the Lord is with thee.
Blessed art thou amongst women
and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God,
pray for us sinners,
now and at the hour of our death. 
Amen.
祈りの言葉はカトリックに慣れてしまった。
 
 

絵:Virgin and Child with Angels バルトロメオ・カバロッツィ

 

テヘランの君

 

 

  イギリスでは差別は受けなかった。けれども日本に帰ってきてからの日本人のほうが態度が辛かったのかもしれない。称賛と批判で人の存在が影になった。何か英語喋ってと言われるのも辛かった。辛いと言うとイギリス帰れとすぐ言われてしまう。日本人に戻れとも言われる。段々と私は経歴を隠すことになった。日本は程ほど出来ないフリが楽なのだ。人を「すごい」とほめているほうが楽だった。

 

 先月の8月にテヘランの青年の夢を見た。留学先の神学部に居た青年は私にペルシャ語を教えてくれた。「魂は神の声を聞く」というテーマで話をした。もしかしたら、当時は少し彼が好きだったのかもしれない。でも衝動的でもなく、彼はムスリムで神学部、未来は決まっていたので、ただ彼の声だけを聴くようにした。私の心は盲目を装った。見えてしまったら、きっと愛してしまうので、彼の顔を記憶しようとしなかった。校内でもあまり一緒にいると良く思われないので、私達は隠れて会っていた。それでも、私達は神の話しかしなかった。寧ろ相手を守りながら話すこの感覚に心地良かった。私達は学生という制服が無くなれば別路へ流れていく。一瞬を喜ぶのは魂であって、心は喪失を恐れていく。夢想は常に渇望し、一人になれば本当に訪れる別離を恐れていた。まだ若かった私は魂の声を優先して、私達は「無傷」で本当に分かれた。集合写真は未来を信じられる、昔の写真の私の笑顔は若さだった。

 

夢の中で彼は今、何をしているの?と問いかけてきた。私は「贖罪」と答えた。

 

贖罪だよと答えた私は泣いていた。

 

彼が手を差し伸べようとしたら、触らなくて大丈夫だと断った。

あの時も触らなかったじゃない、

私は強いからと言って彼から去ると共に目覚めた。

 

 この1年半ほどの贖罪は自分の実力が試される期間だった。そして一人でついに対処出来ないことが訪れた。今度は心に焼き付いている愛する「アダム」のために。

私は贖罪を終わらせる一歩としてカトリックに謝罪をした。乗り越えられない障害があるのなら、一緒に助け合おう。この時に、この一年半ほど錘になっていたものが落ちた。所属教会は私とアダムを救うために必要な書類を送ってくれた。私にアダムが全てなのだ。アダムは神に祝福されている。私は罪人だけど、アダムは罪がないのだ。それを汚すことはあってはならない。この子のためなら私は跪く。この子は我が子なのだ。イエスが久しぶり見えた。

 

それは魂が神の声を聞いた証だった。

テヘランの君、元気ですか。

سلام

 

 

アダム1歳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和解 

 

image 高橋 真琴


I was reconciled to Catholicism in order to protect my beloved Adam.I fight criticism with their help, too.

I can cause a great awakening for my beloved Adam.I do not hate Catholics.

Thank you.
Sr.Y
Fr.V 

成長

 

そういえば最近報告していなかったけど、フィリピンにいる娘が大きくなったのよ😊昔は字もかけなかったのに、段々大きくなっているのよ。
って、私が産んだわけじゃなくてチャリティーね。もう3年かぁ。
でもこの子に手紙書いたり、読んだりしているとアダムがやきもち焼いてなくのよw。

perdón

 

Parte del mundo, parte amada.

Odiar una fe.

Privar a los seres queridos de las bendiciones de Dios.

Perderé la religión que me ha hecho una injusticia.

Pondré flores de jazmín en tu tumba.

Iba a seguir el consejo de Miguel Ángel.

El suelo de la tumba habla.Vino de uva al sol.

by Chris Kyogetu 


Poem 

The Wilderness

 

God awakens humanity.

Humanity will be systematically exploited under the guise of cruelty.

God puts humanity to sleep.

Humanity is ignorant and loses what it holds dear.

That is what the wilderness is.

That land has never had a dialogue between humanity and God.





バタイユのフランス語翻訳

 

La poésie est une flèche tirée: si j’ai bien visé, ce qui compte – que je veux – n’est ni la flèche ni le but mais le moment où la flèche se perd, se dissout dans l’air de la nuit: jusqu’à la mémoire de la flèche est perdue.
Le Coupable (1943) de Georges Bataille
詩は矢を射ることである: もしも私はうまく
狙いを定めるのであれば、何が大切で、私が
冀望ものは、的を刺すことでなく、矢が喪失する瞬間、夜の情緒に溶けていくことである。
矢の記憶が喪失するまで。
(私の訳)
ジョルジュ バタイユ
解釈
ここでいう弓の矢とは思弁的に結果を
残すものでなく、心で射る矢のことである。
バタイユは詩をこのように捉えている。
夜に溶けるのであって必ず的を射る、エモーショナルなスピードをもって。

正義の偽善者

 

“A righteous hypocrite”

The priest is a good doctor.

prickle a stinging needle

He said it wouldn’t leave a scar.

The priest is a good doctor.

I had a funeral for a senior citizen.

He went that souls go to heaven.

The priest is a good doctor.

prickle a stinging needle

He said it wouldn’t leave a scar.

Because he buried me in the ground.

He lied about God being in the east.

L’Oiseau bleu

DEUXIÈME ENFANT Je serai la plus triste!… T
u me reconnaîtras!…

転生を待つ子ども達がいる王国、その中で早熟な
恋人関係の子ども達がいた。片割れが転生の時に
万人である時は二人を引き離した。片割れが
言った。「最も悲しい顔をしている人を探してね、
それは私という目印よ」

ACTE CINQUIÈME DIXIÈME TABLEAU LE ROYAUME DE L’AVENIR
メーテルリンク「青い鳥」未来の王国




追想

得体の知れない私は何処まで愛され、私は人を愛することが出来るだろう。
カトリック教会に所属したのは、三位一体の聖霊に得体の知らない私を愛してほしかったのかもしれない。何も語らなくても、私がどんな過去を生きようとも、私がどんな人間か語らなくても、私のユーモアや私の笑顔が受け入れられれば良かった。
そんな現実は無かった。それでも恨むことはない、仕方がないことだ。私にも落ち度はある。誰も私が単純に世間話がしたかったという事を知られないまま、終わってしまった。「今日は、世界が明るく見えるのですよ」「紅茶。とても美味しいものを見つけたのです、薔薇の香りがするのよ」そんな話をただしたかっただけだったのに、どうしてこんなにも懸け離れてしまったのだろう。
話したかった単純な話はずっと言えなかったまま終わった。
貴方に神の祝福を、そう言いたかっただけだった。
人との出会い、子どもの頃から私はすぐに分かる。この人は私の事を忘れ、
私もこの人を忘れる。顔も、声も、全てを忘れるのに、
言葉を交わす。ずっとこの繰り返し、私達は解散を待つ戦士、自己形成の
ための出会いだった、私も貴方もお互いに忘却の彼方。

そんなものは慣れていた。けれども、聖霊にはそうなってほしく無かった。
聖霊を私に教えてくれた貴方には特に。でも、もう本当は慣れていたんだと、
私は終止符を打った。

今は寂しくない。アダムが私の良き理解者になった。

この子を守るために、私は幾らでも強くなれる。
とても愛しているの。
お揃いの紅茶は飲めないけれども、
アダムが青空を見ていると、世界は純粋に見える。
君の存在そのものが聖歌なんだよ。とても美しいよ。
君は永遠。君も私も忘れることが無い永遠。
それを楽園というんだよ。愛しているよ。

除籍は神の計らいだと思う。きっと、アダムに会うための。
本当に欲しかったものは、この温もりだと神は知っておられたと
思うのだ。人と離れることに慣れてしまった私への神からの恩寵ね。

質問箱2020年7月1日


「プルーストの失われた時を求めての夢解釈について」の質問を頂きました。

一言でいえばle reve d’un reve(夢の夢)ですが。

プルーストの「失われた時を求めて」の夢の捉え方は多様性に富んでいて短く説明することは難しいです。しかし、敢えて言うのであればフランスのプルーストはオーストリアの「フロイト」を知っていたのかどうかが論点となっていて、未だに明確な証明が取れないそうです。現段階での研究ではフロイトの事は恐らく知らなかっただろうという事にはなっています。
夢を科学的、医学として明確に最初に捉えたのはフロイトという位置づけになっています。
ですので、プルーストの失われた時を求めての夢世界は、各々の夢というナンセンスなものから、レミニッセンスの組み合わせで成り立っている、無意識的記憶世界と言えるというのが現段階での見解として有力かと思われます。
失われた時を求めてでは沢山の夢物語が出てきますが、特に意味がないような夢や、
レミニッセンスがあり、特にこのレミニッセンスがこの作品の魅力となります。レミニッセンスとは、記憶は忘却曲線を辿って減少していきますが、心理的条件によっては想起する際に膨大な情報として現れることです。彼は夢と現実の世界を行ったり来たりして、文章によってレミニッセンスの美しい世界を描きだしています。この作品の最大の魅力と言えるでしょう。旧約聖書の神のお告げの夢、中世のように物語が夢物語になっている作品、英文学のようにmethinks ,methoughtという決まり文句で始まる等、様々な夢の形式がありますが、プルーストはそういった形式全部を取り入れ、尚且つレミニッセンスに重点を置いているかと。プルーストが書いたContre Sainte-Beuveという本の作家ネルヴァルを熱く語っている章であるle reve d’un reve(夢の夢)というのでしょうか、そういった現実世界で生きていく上で眠るときに見る夢を無価値と捉える一面もあったり、記憶の想起を芳しく、そして芳醇にさせるために夢物語として語ったりと、この話は夢について、多様性に満ちています。
ただ、これもノヴァーリスの青い花同様に未完ということもお忘れなく。
旧約聖書では夢は神のお告げになり、新約では神は天使に、人間は天使を通して夢で囁くようになり、イエス処刑前夜のときには天使も神も沈黙されました。夢を巡っては紀元前から様々な哲学者や作家が挑んでいて、未だに解明されていません。トマス・アクィナスも夢を分類しました。
ユングはフロイトより更に夢を集合的無意識として、アーキタイプを通して現実世界と結びつけようと解釈しましたが、オカルト的な要素が強いために学問的というより、サブカル的な扱いになっています。私、個人的にはチョーサーの「とても美しく、私の気に入る夢」というのが好きですね。
チョーサーの詩、お勧めです。

質問箱2020年6月22日

「アンティゴネーのような古い神話を何故哲学は使うの?例えばデリダの贈与のように」
これは説明するのにシェリング哲学のような古いドイツ哲学まで遡ります。哲学の世界では化学のような化学式のような各物質の構成の様子、元素の組み合わせを示すようなものはありません。哲学や文学のような思惟や思索の世界では一番それに近いものは「神話」になります。人間の性や本質をよく表していると思われています。ヴォルテールは「歴史哲学」で神話を取り上げていますが、カトリックの権威主義と対立化をさせています。Catholicのような宗教は権威がありますが、神話には存在しません。それこそ純粋な
化学式のような存在です。勿論、神話の引用を好まないグループ、例えば啓蒙主義のウェーバーもいます。シェリングは真理への道と、神々を定立する運動の循環という二つの側面からプロセスを進めており、ヘーゲル哲学「精神の現象学」の例え話と繋がっていきます。
恐らく、デリダのアンティゴネーの説明を読んでいるということはヘーゲル読解ということになります。現在の研究ではデリダのヘーゲル研究はまだ充分ではないとは言われています。仰っている著作はデリダ『弔鐘 (Glas)』だと思われますが、この死者をいたみ、冥福を鳴らす鐘は西洋ならではのキリスト教という権威のある体系、絶対宗教下にあるからこそ出来た哲学です。家族の主題は「宗教の止揚」の問題から、つまりこれまで見てきた哲学の始源への問いがデリダのこの弔鐘を読み解く鍵だと思われます。ただ難しいのが読者がどの程度の信仰心を持ち、どの宗派に属しているかによって三位一体の意味、イエスキリストと神との和解を捉えているかで全くデリダの読み方は変わってしまいます。もしかすれば同じカトリックでも、教皇や神学者によってとらえ方が様々で困難かと思います。シンプルにまとめてしまえば、アンティゴネーは兄への宗教的義務と埋葬という習慣と掟(法律)の対立から成るものです。それはヘーゲル的解釈からすれば、現象学への目標であり「絶対知」です。デリダのこの著作は更にイエスの死という悲劇から哲学が始まり、ヘーゲル的弁証法を試みていると思います。それによって、アンティゴネーのは誰に該当したのか、そういう話になっているかと思います。
※アンティゴネーとアンティゴーネと両方表記可

質問箱2020年6月18日

只今リアルで会ったことある人限定で質問箱URLを試験的に送っています。
今回は届いた質問の答えを書いていきます。

「デリダとかフランス哲学において贈与は重要論点かどうか、イサクを捧げる箇所を引用したりしていますが。資本主義の贈与とは」

 はい、贈与はフランス思想の中でも歴史が長いものです。キリスト教カトリックの
恩寵からデリダまで贈与については色々と言われています。

 デリダの贈与と、イサクの贈与が並べられる理由は、敬虔な信者であるアブラハムが息子イサクを神の命令によって、捧げようと(殺害)しようとしたが、結局最終的には神がアブラハムを信用し、イサクの命を持っていかなかったという点でしょう。古典ギリシャ経済のエコノミー、出て行ったものが必ず帰ってくるという円環を否定するための比較だとは思います。ただし、アブラハムに関しては聖書的解釈に左右されます。キリスト者は息子の魂が地上に残されたと捉えますが、哲学者は魂より肉体の存命を重視します。そういった認識のズレはあるかと思います。あともう一つズレが生じるのはキリスト教では啓示によって開示が行われるものですが(アブラハムに天使が降りて啓示を受けてイサクが助かる、よって開示を受ける)哲学概念では逆で(元々開示があり、イサクは助かる運命であったが、試された「啓示」)という真逆の見方がありますし、まだ論争は続いているようです。
 資本主義と贈与に関してですが、日本とフランスの資本主義は違います。国の保証から離れて民間でやることがうまくいくのか、民間がしっかりと稼いで国のお世話になることが良いのか、どちらも資本主義と言えることであり、国や国民性にも左右される難しい問題だと思います。今回のコロナウィルスの保証のように手当を受けられれば資本主義によって贈与を受け取れたともいえるし、破産してしまい、保証も受けられない状態であるとすれば資本主義の失策ともいえるでしょう。フランスの場合は資本主義によって国と連携し社会保障を充実させ、災害時や国難のときに国民に保証出来る「贈与」を目指したいということではないのでしょうか。日本の場合は意見が分かれていると思います。可処分所得が随分と小泉政権下から減り続けているので、とりあえず現金が欲しいというのが国民の願いであり、国にお世話になるぐらいなら、自分で稼いだ分は自分で責任を持って管理したいという人が多い気がします。だからこそ減税を望む声が多いのかと。


INNOCENT (Ecole)

この記事は2011年に記載したものの改定版です。
読みが浅いものがありますが、当初の見解を歪めないために
大幅な変更はしませんでした。
 
「この感覚は何処から来て何処へ行くのか。イノセントな少女に惹かれる大人達」

何故少女を美と捉えると禁忌なのだろうか。選ばれた一部の少女は美しい。男性の性癖を全否定したいところだが、少しはこの美は男性の妄想に保たれている。だからこそ危うく、不道徳な欲望が存在する。少女時代から美形と称されるのは、本当に少数である。大人になって努力する美とは違った神の恩寵さえ感じさせる。イノセントに包括されて、嘘や小細工や魔性が大なり小なり含まれている。

少女は罪から本当に改心したのだろうか、「ごめんなさい」の言葉の中が何処まで真実が含まれているのか分からないが、美しき少女はイノセントで成り立っている。
********
外界から閉ざされた森の中にある学校。そこは時間を止めているように見える。
無防備で無邪気な魂と成長していく器を持つ少女達を見る大人達の視線(観客)
からは、ありとあらゆる蓋然性が生まれるのは必然としていた。
まるで証拠性でも述べるかのように、何かの象徴ではないかと捉えようとする。

それは木漏れ日から差す光のようで、蝶を捕まえる蜘蛛の巣のように様々な方向から
少女達を眺めていることになる。

ノスタルジック、美、淡色、そして性的に――――。

それでも、この「少女とイノセント」への欲求が絶えないのはアゲハ蝶でいえば四世代交代のように
奪いようのないサイクルから来ている。少女は成長してもまた少女という存在が現れる。

イノセントは心象でも幻想でもなく、ましては象徴性を当てはめられるものでもない。

イノセントに該当する日本語は果たして本当にあるのかどうかをまず疑う。イノセントとは道徳的マイナスのない状態。それは、少女達が持つ揺れ動く感情や成長であり、蝶の変態のようだ。

私はイノセントとは自然による不条理(Nature)がイノセントに近いと思っています。
後半に差しかかるあの授業、蝶が羽化していく瞬間を少女たちが観察するシーンです。
先生が言います。「乳歯がぬけるのが最初の変化(略)繁殖の相手を見つけるときが来た」と。

これは少女達がイノセントという包括からと飛び立つ時が来たという事を暗示しています。
 
夢想と変態
 
蝶の分類とは例えば同じ種類でも、本当はまだ全てが解明されていない。大体が
タイプ標本によって種類を分析される。タイプを基に分析することは良いのかもしれない。けれども、このタイプに統一するということはどうだろうか。

少女という存在は幼虫から蛹の段階であり、成長段階として統一されているようで、
中には変態の間に「夢想」という個性を秘めている。少女達は夢想を抱いている。理想も、エロスへの想像も、恋も期待している。彼女たちは夢想を何も抱かないわけにはいかないからだ。しかし、彼女たちが育てられていたエコール(学校)というものは、一般的な学校と同じで、統一を強いながらも、その個性の成長を妨げることばかりが多い。

ただこの学校は一般的な学校とは少し違う。その一つは芸術品のような「美」を重視しているからだ。

このエコールは生きとし芸術作品を重んじた仮想空間である。
女性の心は複雑なもので、貞操、少女性を残したいとも思いつつ、時の経過に伴い、
大人になっていく。身体や容姿だけが老いて、心が幼稚で稚拙な子どものままの
変態は厄介だろう。理想は、身体や容姿が老いても純粋な童心である。
これが中々保てないのが、人間の成長である。

後、この映画はもう一つ、キーを握っているのに水がある。
この映画の原作はドイツ語。
ドイツ語では魂というseeleには湖と海のsee
含まれる。作中では川でしたが主に水中。
心理学でも無意識は水に例えられる。
しかし、実際に水の中に居続けるということは
人にとっては溺死、窒息死を迎えることになる。
水は生命の母であり、死へと誘う光を伴う水面の揺れを唄っている。


消えていく少女、ランプを持って謎の見張りのために夜中に
出ていく少女、水の中で死ぬ少女、外に出れた少女。
あの学校はまるで蛹のようだたった。
外に出れた少女は初恋を感じさせる相手と噴水で出会う。
あの深遠のような水流ではなく、それを模倣した噴水に。





———————-





映画に絞りましたけれども、元にしているものがドイツの作家なのでドイツ語に沿っていると思われる。
この映画はベルギー・フランス・イギリスの合作映画で

私は原作を読む前に映画のほうを見ましたけれども、
シーン一つ一つがドイツ語の単語の派生のように見えたのを覚えている。
でも話される言語はフランス語なんですよね。

学校制度はベルギーを元にしていると思います。飛び級がありますしね。(2011年調べ)
ベルギーは大学への進学に選抜試験は無くて中等教育の成績で決まります。
成績に見合えば好きなところを選べるわけです。
ドイツ語は
単語の派生、相関図が一つの物語のように美しいと思っている。この形態が
哲学のように思う。ミネハハとインディアン用語を使っているのでキリスト教思想に捕らわれてはならないと思う。調べれば調べるほど、色々と出てくるかもしれないが結局のところ少女が何故美しく、儚く処女を
失って大人になっていく過程が題材になっていくのかは分からない。

しかし、このようにwhywhyを重ねるには表象を解明していくことは
欠かせないとも思っている。女であることを、心の有りようが変化していくこと噛みしめていく
ことが女には永遠の課題だからだ。


*私は芸術として少女を美しいと思う事には反対はありません。しかし聖職者が
子どもを強姦することはこの芸術を汚しています。聖職者なら少女を
壊してはならないと少しは理性を働かせてもらいたい。このような人達がいるから、
私達は美をバカに殺されなければならない。こういう作品を消さなくてはならないと、
バカに合わせて消されるのです。性癖しか無いバカに。





注釈:蝶を選ぶということの心理は何だろう。蝶はキリスト教の図像に採り入れられて復活の象徴に使われますが主に西洋思想では死者の復活をシンボリズムとしていることが多い。それは蝶の毛虫、蛹、蝶というメタモルフォーゼを生―死―復活と捉えているからである。(グノーシス派は腐敗した肉体と捉えていたようですが)

日本語は古代まで遡ると自然という言葉が存在していなかった。自然という言葉は中国から入って来たものである。元々、日本、ヤマトは自然と人間は対立していなかった。本来は虫の成長に意味なんて無い。境界線なんてないのだ。概念は同じ、でもイノセントというものを特別に抜き出した時点で捉え方が日本とは違うのだと思う。




bonne action

La création : le bien mis en morceaux et éparpillé à travers le mal.

創造: 善は粉々にばらまかれて 悪の中にばら撒かれている。

シモーヌ ヴェイユ Simone Weil

善は小さなものだ。だからこそ腹心の友が必要になる。イエスが使徒を集めたように。

裏切られるけれども。
画像:少年は残酷な弓を射る

awake or asleep i love you

 記憶の温度はすぐに失われる。失われた記憶、想起する必要性がなくなる記憶は
何処へ行ってしまうのだろう。共有していたはずの空間が私一人のものになって、私にさえも見捨てられた情報には、あの時は大事だった笑顔や私への愛があったはずだが、もう私の心臓には無いのだ。カトリックに入った喜びさえも、光があったことは覚えているが、あの時に受けた洗礼の水は、レーテーの水へと変異した。信仰と神話を区別していた私が、沢山泣きすぎて神話に取り込まれて、幻影となって私の部屋にはもうこの記憶の
破片は無い。
覚えているのは持たされた百合の花束の香り、洗礼の喜びにさようなら、さようならと何度も唱えて、愛していた気持ちを沢山殺してきて、漸く私は新しい愛を見つけた。
私は今はアダムを愛している。カトリックで見つけられなかったものは天使だった。
カテキズムに記されている天使の言葉、教会にはその言葉が生きているようには思えなかった。
Adamは私にキスをする、私が泣いていると私の涙の香りを嗅ぎながら頬を舐めてくれる。私の髪にしがみついて寝るアダム、私が呼んだ声に振りかえるアダム、
私達は心が通い合っている。私の愛、君は私の身体の一部、記憶というものは
哀しい。すぐに忘れてしまう。けれども、愛と憎しみは身体の一部になる。
だから人は悶えるのだと思う。
Adamは今までの憎しみを無意味と思わせてくれた。愛がようやく私の一部になった。
君のためなら私はなんでもするよ。愛しているよ。結局は愛しているしか言えないんだ。
沢山のキスを送るよ、君の青い瞳はどんな祈りの言葉でも得られなかった
美しさだったよ。アダム、君を愛しているよ。
ミサのときに被っていたレースを君は玩具にする、でも破いたりしない君は、
きっと分かっているんだね。
君のためなら私はなんでもするよ。結局は愛しているしか言えないんだ。
こんなに愛したことはないよ、君の鼓動、温もり、君のためなら、私は
何にだって戦える。アダム、愛しているよ。さようなら教会。
私は此処で愛を誓うよ。この小さな鼓動を一生守ると
私は愛を誓うよ。 本当に愛していて仕方がないんだ。
愛していると眠って、愛していると目覚める、
毎日そんな日々、愛しているよアダム。

追記:
キリスト教徒は意地悪ね。Facebookで一人、日本人なんだからアダムの名前を与作に変えろって言ってきたんだよ。黙ってブロックしたけれどもね、成長期に名前を覚えさせて、私が寝ずに看病したりしてこの子の名前を呼び続けて愛しているの。生き物を何だと思っているのかしらね。本当にキリスト教徒は意地悪ね。動物に心がないという教えをそのまま覚えているのね。私はキリスト教徒とは離れているよ、彼等と私はバベルの塔の崩壊後並みに言語が合わないもの。距離こそが思いやりではなくて? 

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