なぜ 世界は存在しないのか(Spin-off)

 

なぜ 世界は存在しないのか(Spin-off

 

この本の解説が途中で止まったまま、私自身が色々病気もあったり、本の紛失など色々経て、本が漸く見つかった。マルクス・ガブリエルが何処へ向かいたいのかは既に分かっているが、私含め、これを哲学としてモノにするのは年齢的に遅いのかもしれない。

 

ですので、私も若い人に分岐点を残すことになる。

 

端的に言えば、これはドイツ神秘主義に立ち返ることになる。それはドイツ哲学の土台とも言える思想で、矛盾理論である。直線と曲線は相反する性質であるが、円となれば関連し、直径が大きくなれば円も大きくなる。直径が極力小さくなれば曲線が近くなる。これはクザーヌスが考えたもので、カトリックの三位一体、絶対に異なる性質で連なっているというものを、その当時でいえば理論的に唱えたものである。ドイツ神秘主義は新プラトン主義(プロティノス)の派生であり、エックハルト、クザーヌス、ベーメ等が代表である。そのあとに、スピノザ、ライプニッツ、ヘーゲル、ハイデガー等が影響を受けている。

(クザーヌスは哲学者の西田幾多郎が研究している)

 

哲学者は未だに、ドイツ神秘主義を超えられていない課題がある。単に、神秘という概念を使わずとして何世紀も渡って哲学として語っているだけともいえるところは否めない。唯一、神学から脱却を試みたのは公的権力のない状態、「自然状態」、ホッブスの社会契約論なのかもしれない。近年に近づくにつれ、現象学的還元によって主観と客観た一致していることの根拠は何かを突き止め、分析哲学により神を何かと考えるのではなく、神という言葉がどのような意味で使われるのかを分析すれば、神という問題が解決するのではないかという事を見出していきます。しかし神に挑むということは、結局は「信仰」も要するという落とし穴があるのです。

それは世界の在り方についても同じである。哲学的分析、考察の限界は既に

到達していると思われる。物理学や脳科学に取って変わってきているからだ。しかし、マルクスガブリエルは再度挑みたいとの試みを見せている。

 世界が存在しないという、直径が大きくなればなるほど、円という世界は存在する。著書ではここに行きたいようだったが、最後はハイデガーの未完の時間と存在の本を参考に終わる。マルケスは、一応昨年にバチカンに行ったので、やはり信仰にベクトルは向いているとは思う。しかしシモーヌ・ヴェイユが言うように、

カトリック(宗教)を哲学的に整理する必要もある。哲学も宗教も切って切り離せない関係であるとは私は捉えている。

 

ただ、存在論の行きたいところは幸福論なのかもしれないが、もう私は既に力(エネルギッシュ)は尽きている気がする。だから若い人に疑問を残すのが仕事になっている。Acadenia.eduに論文、文学としては書籍で今後も継続して残すことにしている。

 

今回はspin offなので本の解説ではありません。クザーヌス、ドイツ神秘主義、シモーヌ・ヴェイユの名前はマルクスの書籍には掲載されていません。

Best wishes for a successful and rewarding year.

 

 the wonderful geometry of her beauty is properly to be called uranometry:the measure from, and splendour of heaven. and surely it is granted her to be clothed with fine linen, bright and pure, for the fine linen signifies the righteous deeds of the saintsREV19:8)

 

 彼女の美しき素晴らしい幾何学的形状は、正しくはウラノメトリー(Uranometria)と呼ばれるべきである。天国からの計測、そして天国の素晴らしさ。 そ確かに、上質の亜麻布は聖人の義の行いを意味するので、明るく純粋な上質の亜麻布を着ることは彼女に与えられています。(黙示録19章18節自由訳)

 

Uranometry→恐らくUranometria(ラテン語で天空測定の意味に近いこと)

 

 

they are that part of his Bride, the Church,that is filled with nothing but hrist‘s fulness,that part which cannot utter an opinion of its own, one that would be contrary to his opinion as Judge.Some part of the judged man who has known God will always stand on the side of the Judged man who has known God will always stand on the side of Judge and will judge the sinner along with him.それらは彼の花嫁、教会のその部分であり、それはキリストの完全さだけで満たされ、それ自身の意見を述べることができない部分であり、裁判官としての彼の意見に反するものです。 神を知っている人は常に裁判官の側に立ち、罪人を彼と一緒に裁きます。Church‘s consciousness; this more than individual element in him belongs to the Church and has from the outset forced his narrow self open that it may participate in the consciousness of Christ‘Bride. 教会の意識は、個人的な要素を超えて教会に属しており、最初から狭い自己を開いて、キリストの花嫁の意識に参加できるようにしているのです。

 

Hans Urs von Balthasar : The glory of the Lord

1       Seeng the Form

 

Seeとは意識を持たずとして自然に視界に入ること。

Seeng the formとは自然と視界に入る三位一体、被造物の織り成す世界のことである。

バルタザールはカトリックでも美学を専門とした神学者である。

 

昨年2020年、私は長い哲学考察の終焉と共に光を見出した。これは私が世界の真理に辿り着いたと言う意味ではない。私の人生の灯の終わりが見えたと言うだけの話である。だから、若い人用に私の軌跡を書き残すことに決めている。聖書の黙示録を破壊とだけ捉えている人達が多く、誤解を招くためにあまり聖母マリア被昇天祭以外は読まれることはない。何故マリア被昇天祭なのか、ここに神の花嫁になるという神髄が書き込まれているからである。

 

私の専門性は文学、及び詩学的な文学だが、長い人生色々な経験があった。頼まれれば法律、頼まれれば、医療ジャーナリスト、頼まれれば心理学で分析をし、依頼があれば企業のコンサルティング。嫌がらせが絶えない時期があり、最終的に疲れ果てたときに、カトリック教会が味方をしてくれた。そして仲間が支えてくれた。

 

 

その時に、この天空との花嫁という解釈を体感したのである。想像ではもっと孤独な人間が世俗離れをして花嫁になるのだと思っていた。けれども、現実はそうでもなかった。

人生は頭頂葉を突き抜けるような興奮を味わったときに、神秘的な上昇がある。

それがエネルギーであり、詩である。聖霊、魂の強さとはこういうことなのだろう。

私の魂は強く、決して屈しない。

#神学 #カトリック #バルタザール

 Best wishes for a successful and rewarding year.

皆さまに成功のある一年になりますように。

 

 

 追記:古代ギリシャ文学の死は暗いものとされていた。ソフォクレスのアンティゴネでは「これから三途の元へ嫁ぐというのに」「あぁ、お墓、そこが花嫁の居間だ」、そしてヨブ記3817でもあるように「死の門はあなたのために開かれていたのか、あなたは死の闇の門を見たことがあるのか」と聖書でも旧約聖書までは死は闇という記載が見受けられる。それを新約聖書の黙示録では天国との花嫁と、信仰伝承の変化が見られる。

John 1

John 1

 

In the beginning was the Word,  and the Word was God. He was in the beginning with God. All things were made through him, and without him was not any thing made that was made. In him was life,1 and the life was the light of men. The light shines in the darkness, and the darkness has not overcome it.

 

はじめに言があった、言は神とであった。この言ははじめに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは名に一つなかった。言の肉に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。

 

暗闇は光を理解しなかった。

 

ヨハネの福音書1:1~

 

 ヨハネの福音書は福音書の中で最も聖霊について書かれている。そしてこの箇所は旧約聖書の創世記の世界の始まりへと立ち返らせる。「はじめに天と地を創造され、地には形がなく、やみが淵の表にあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

神は光あれと言われた、すると光があった。神はその光をみて良しとされた。神はその光と

闇とを分けられた」と神が大空、昼と夜、そして生命と、言の肉に命が宿ったと更に深く読むことが出来る。はじめに言があった、はギリシャ語でロゴスとされているが、

ロゴスとは言葉であり、子、比(黄金比)という意味がある。創世記の天地創造には元々水は存在していたということになるが、水をミュトス(神話)とすれば、ロゴス(言)によって論理的に形成されたことになる。情念的な信仰と神学の形成が上手く表現されていて、美しい世界の始まりとして織り成されている。

 

ロゴスの「子」という意味で先へ進むのなら、それはイエスということになります。

ですので、クリスマス1225日はこの箇所がよく読まれます。

Hans urs von Barthasarはこのヨハネの福音書の1章からエウカリスティア

(聖餐式、ミサや聖別されたパンを示す)についての言及もある。エウカリスティアとは

感謝の祈りを捧げることです。イエスは誰に向かって感謝しているのでしょう、

父なる神にです。しかしそれだけではありません。彼を拝領し、貧しい屋根の下に彼を

受け入れることを望んでいる貧しい罪びとたちにも感謝しています。その中に、聖霊の働きによって自分を生んでくれた少女、「聖母マリア」への感謝も含まれています。

 

聖家族が心の中に入るということは単なる「物語伝承」ではなく信仰告白の伝承も含まれていると考えて良いでしょう。物語伝承が主な福音書の中で、信仰告白の伝承が含まれているこの箇所は最も聖霊がダイナミズムに生きている。

 

 

イエスは最も貧しいところで生まれました。この日に光が生まれ、光を受け入れなかった闇は今後のイエスの足取り、磔刑までの物語を形成していくのです。生誕祭から復活祭までは広がる闇とイエスは人々の良心の光が次第に強くなっていく神聖な時期です。この時期にイエスよりも価値の無い争いや議論は避けるべきでしょう。しかし昨今の情勢ではそうもいかないこともあります。万が一戦うのであれば、家族や愛する者のためにしましょう。

それ以外は沈黙を、不正を犯さないように。

 

 

 

 

参考書籍 Hans urs von Barthasar

ベネディクト16

Der Gott Jesu Christi

Betrachtungen über den Dreieinigen Gott

絵画:ムリーリョ(1650年頃)

羊飼いの礼拝

 

言、言葉と呼ぶがロゴスのことである。

 

 

info

 

   旧ホームページが閉鎖されてから、論文系を載せていなかったのですが、

今後はacademia.eduに掲載することにしました。言語は、英語、ドイツ語、

フランス語の予定ですが、日本語訳を載せるかどうかは検討中です。

https://chriskyogetu.academia.edu/?prem_fnl_first=true

神学、哲学、詩学になります。

来年から掲載予定です。

理念

美は精神的な営みによって形成され、留意することにより理念を浮かび上がらせる。理念が美でないものは良心を失っている。

ChrisKyogetu

セラフィタ 2020年12月09日

 

 

 

La Science est le langage du monde Temporel, 

l’Amour est celui du monde Spirituel.

 

科学は物資世界の言語、

愛は霊的世界の言語

 

バルザックーセラフィタ

 

これ、小説では一番好きな本ですね。作家:バルザックはカトリックのマドレーヌ寺院に

埋葬されています。

 

 天使、熾天使は性別が無い存在で、カトリックでも天使はカテキズムで

記載されています。2018年にローマ教皇様がとりあげましたが、現在は

どうなっているか知りません。

 

過去に何件かセラフィタに関しては取り扱っています。

また後日にもう少し紹介出来たらなと思います。

格言

Abyssus abyssum invocat.
(一つの過失は、もう一つの過失へと
繋がる)
ラテン語
Amici in rebus adversis cognoscuntur.
友人は逆境において認識される
(後日、書き足す予定)

 

イザヤ「正義の神」

 「それゆえ、主は恵を与えようとして あなたたちを待ち

それゆえ、主は憐みを与えようとして 立ち上がられる。

まことに、主は正義の神。 なんと幸いなことか、すべての主を待ち望むものは」

 イザヤ書 3018

教会から届いた封書を開けたときに、イザヤだったことに私は光を見出す。

ChrisKyogetu

(2021年7月)

2022年2月 教会の手伝いをするので公開していた書面は取り下げさせてもらいます。

ユダとヴェイユ

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。

 

「生まれなかった方が、その者のためによかった」

 

マタイ26:14-25の一部より。

 

イエスのこの台詞はユダのこの後を察した愛だと言われる。

ユダは首を吊って死ぬ。

 

 

 

ユダとシモーヌ ・ヴェイユ

 

S・ヴェイユは、被造物(beings created by God.)意識・知覚・感覚を他者・他物との紐帯を担保する人類共通とした。表裏一体として不安定な宗教的紐帯に目を向けていた。

 

ユダは一種の「隣人愛」という見えない紐帯を修復出来ずにイエスを売った。隣人愛とは既に一義的な意味では無い。信仰を持つ者は貧しい中で河床の僅かな霊的な砂金を探すものである。しかし、ユダは世俗的な銀貨30枚を選んでしまう。世俗的なその銀貨そのものも当時は価値が無かった。出エジプト記 2132節によると,奴隷の代価は30シェケル(銀貨)だった。当時のイエスは価値がないものとされていたので宗教者達がこの値段にした。

 

シモーヌ・ヴェイユは自我分裂についても触れている。

 

自我分裂の現象過程には、絶対的自己経験といった相対化を拒否する前史が臥している。

 

その不可視・不可触な経験が、存在論を語ろうとする。素粒子を追うような出来事を通して、能動・受動一切の機能を生理機能から自立したように自我を成立させる。人間は自我分裂の循環に依存しながら、恒常的な存在として無自覚で存在している。

 

ヴェイユが直観していた他者とは、そのような自我分裂の証しを受諾し、神秘的に分解した。そのノエマへの愛が「narcissism」に過ぎない。(ラテン語)

 

けれども、ユダはイエスへの愛と嫉妬ともいえる何か、この人間に存在する自我分裂に負けてしまう。世のイエスへの憎悪や攻撃性、暴力性、排他性が昇華していく大きな躍動にユダは負けてしまうのである。ヴェイユでいえば「他のものをしか愛することができない」

存在、この他者的自己の錘がある間は過度な自己愛となる。隣人愛というものを忘れて、奴隷の給料と同じ値段でイエスさえ売る。

 

ノエシスノエマ構造の空位、人は孤独となり、無価値に惑わされる

 

「生まれてこなければよかった」存在となる。

 

空位、そこに愛と聖霊がないのなら生きる価値は無かったのだろう。

神の愛のみでは肉体は生きられない。

洗礼を忘れた者、神はそこまでを愛するか、証明は出来ないが

死と共に墜落した銀貨が教えてくれるだろう。

 

 

シモーヌ・ヴェイユ

 

 

Hans urs von Balthasar

https://www.balthasarbooks.com/

 

Hans urs von Barthasar

 

 

 神学者としてだけでなく美学も突き詰めたバルタザールは、カトリックの中でも美しき、

希少な神学者です。彼の全集を神学者の和田幹男神父様、

http://mikio.wada.catholic.ne.jp/

から頂きました。何回も分けてこの重たいセットを運んでくださいました。

私はこの感謝を忘れません。彼は旧約聖書のヨブ記の翻訳を担当した人でもあります。

(新共同訳)依頼されたので今回論文を書くことになりました。これを突き詰めながら、

私はカトリックの本来の神秘へと戻っていくこととなります。

 

バルタザールの書籍の世界は、もっとも潔い手で開くことです。

目という世界が所有している器官で、生成されるものを見つめること。

三位一体の愛の神秘の謎、私達が、父と子と聖霊と十字を切るとき、

私達は最も小さき存在になるのである。

 

心を愛で満たし、無になること、希望は深淵よりも更に深くあると意識すること。

神話は超越を私達の具体的な世界と接触させる機能を果たし、それ故に

世界の中、神の内在またはその中の一般のものを表します。

 

人間は世界を何処まで操作できるのか、

イエス・キリストのみが真実の神話であり、神が本当に

世界の中で(真の内在性)知られているかもしれないと

確信しています。

 

イエスが犠牲となった十字架の実在を込めて。

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神学は終わってしまったのでしょうか? 瀕死のこの学問に

息を吹き返したい。様々な困難や不正を乗り越えるために、

夢見がちになるのでなく、魂の上昇を目指して

 

 

詳細はこちらで伏せますが、今回は皆さまに支えられました。

本当にありがとうございました。

 

 

剪定

 

ヨハネの福音書15章5節
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようにな
る。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
私は切り落とされた枝だと思っていた。剪定された枝なのだと思っていた。私はキリストから切り離されて魂が干からびた枝だと思っていた。けれども、そうでもなかったようで、眠りから覚めたら、私は実りを待っていた。明日の光が楽しみね。
ーーーーーーー
 除籍から戻るための相談で良い神父に出会えた。そして、交流があった司教からも
アダムの甘えん坊の話を聞いてもらえた。除籍は相当珍しいものだったらしく、
安易に書いてしまったので、デマが流されてしまったけれども、
そうじゃないことは元の所属教会が証明済み。私は自分で出て行ったのであって、
追い出されたわけではない。しかも別にカトリックに恨みはない。
*現在籍は戻っています。
カトリック除籍についての誤解→
絵画:ウィリアムブグロー

甘えん坊アダム・アダムフォーエバー

The Hail Mary

 

Hail, Mary, full of grace,
the Lord is with thee.
Blessed art thou amongst women
and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God,
pray for us sinners,
now and at the hour of our death. 
Amen.

祈りの言葉はカトリックに慣れてしまった。
*現在籍は戻っていますので誤解を与える内容のため削除しました。


絵:Virgin and Child with Angels バルトロメオ・カバロッツィ


academia edu




来月にはacademia eduに掲載予定です。

ただし論文、ライセンスは

改名前の名前なのでどう掲載されるかは

考え中ですが。

休暇(3)

 

 

可愛い、しっとり系。

芸術なんじゃないかなぁなんて思うほど綺麗。

#アダム #アダムフォーエバー #ラグドール

テヘランの君

 

 

  イギリスでは差別は受けなかった。けれども日本に帰ってきてからの日本人のほうが態度が辛かったのかもしれない。称賛と批判で人の存在が影になった。何か英語喋ってと言われるのも辛かった。辛いと言うとイギリス帰れとすぐ言われてしまう。日本人に戻れとも言われる。段々と私は経歴を隠すことになった。日本は程ほど出来ないフリが楽なのだ。人を「すごい」とほめているほうが楽だった。

 

 先月の8月にテヘランの青年の夢を見た。留学先の神学部に居た青年は私にペルシャ語を教えてくれた。「魂は神の声を聞く」というテーマで話をした。もしかしたら、当時は少し彼が好きだったのかもしれない。でも衝動的でもなく、彼はムスリムで神学部、未来は決まっていたので、ただ彼の声だけを聴くようにした。私の心は盲目を装った。見えてしまったら、きっと愛してしまうので、彼の顔を記憶しようとしなかった。校内でもあまり一緒にいると良く思われないので、私達は隠れて会っていた。それでも、私達は神の話しかしなかった。寧ろ相手を守りながら話すこの感覚に心地良かった。私達は学生という制服が無くなれば別路へ流れていく。一瞬を喜ぶのは魂であって、心は喪失を恐れていく。夢想は常に渇望し、一人になれば本当に訪れる別離を恐れていた。まだ若かった私は魂の声を優先して、私達は「無傷」で本当に分かれた。集合写真は未来を信じられる、昔の写真の私の笑顔は若さだった。

 

夢の中で彼は今、何をしているの?と問いかけてきた。私は「贖罪」と答えた。

 

贖罪だよと答えた私は泣いていた。

 

彼が手を差し伸べようとしたら、触らなくて大丈夫だと断った。

あの時も触らなかったじゃない、

私は強いからと言って彼から去ると共に目覚めた。

 

 この1年半ほどの贖罪は自分の実力が試される期間だった。そして一人でついに対処出来ないことが訪れた。今度は心に焼き付いている愛する「アダム」のために。

私は贖罪を終わらせる一歩としてカトリックに謝罪をした。乗り越えられない障害があるのなら、一緒に助け合おう。この時に、この一年半ほど錘になっていたものが落ちた。所属教会は私とアダムを救うために必要な書類を送ってくれた。私にアダムが全てなのだ。アダムは神に祝福されている。私は罪人だけど、アダムは罪がないのだ。それを汚すことはあってはならない。この子のためなら私は跪く。この子は我が子なのだ。イエスが久しぶり見えた。

 

それは魂が神の声を聞いた証だった。

テヘランの君、元気ですか。

سلام

 

 

アダム1歳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和解 

 

image 高橋 真琴


I was reconciled to Catholicism in order to protect my beloved Adam.I fight criticism with their help, too.

I can cause a great awakening for my beloved Adam.I do not hate Catholics.

Thank you.
Sr.Y
Fr.V 

成長

 

そういえば最近報告していなかったけど、フィリピンにいる娘が大きくなったのよ😊昔は字もかけなかったのに、段々大きくなっているのよ。
って、私が産んだわけじゃなくてチャリティーね。もう3年かぁ。
でもこの子に手紙書いたり、読んだりしているとアダムがやきもち焼いてなくのよw。

perdón

 

Parte del mundo, parte amada.

Odiar una fe.

Privar a los seres queridos de las bendiciones de Dios.

Perderé la religión que me ha hecho una injusticia.

Pondré flores de jazmín en tu tumba.

Iba a seguir el consejo de Miguel Ángel.

El suelo de la tumba habla.Vino de uva al sol.

by Chris Kyogetu 


Poem 

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