INNOCENT (Ecole)

この記事は2011年に記載したものの改定版です。
読みが浅いものがありますが、当初の見解を歪めないために
大幅な変更はしませんでした。
 
「この感覚は何処から来て何処へ行くのか。イノセントな少女に惹かれる大人達」

何故少女を美と捉えると禁忌なのだろうか。選ばれた一部の少女は美しい。男性の性癖を全否定したいところだが、少しはこの美は男性の妄想に保たれている。だからこそ危うく、不道徳な欲望が存在する。少女時代から美形と称されるのは、本当に少数である。大人になって努力する美とは違った神の恩寵さえ感じさせる。イノセントに包括されて、嘘や小細工や魔性が大なり小なり含まれている。

少女は罪から本当に改心したのだろうか、「ごめんなさい」の言葉の中が何処まで真実が含まれているのか分からないが、美しき少女はイノセントで成り立っている。
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外界から閉ざされた森の中にある学校。そこは時間を止めているように見える。
無防備で無邪気な魂と成長していく器を持つ少女達を見る大人達の視線(観客)
からは、ありとあらゆる蓋然性が生まれるのは必然としていた。
まるで証拠性でも述べるかのように、何かの象徴ではないかと捉えようとする。

それは木漏れ日から差す光のようで、蝶を捕まえる蜘蛛の巣のように様々な方向から
少女達を眺めていることになる。

ノスタルジック、美、淡色、そして性的に――――。

それでも、この「少女とイノセント」への欲求が絶えないのはアゲハ蝶でいえば四世代交代のように
奪いようのないサイクルから来ている。少女は成長してもまた少女という存在が現れる。

イノセントは心象でも幻想でもなく、ましては象徴性を当てはめられるものでもない。

イノセントに該当する日本語は果たして本当にあるのかどうかをまず疑う。イノセントとは道徳的マイナスのない状態。それは、少女達が持つ揺れ動く感情や成長であり、蝶の変態のようだ。

私はイノセントとは自然による不条理(Nature)がイノセントに近いと思っています。
後半に差しかかるあの授業、蝶が羽化していく瞬間を少女たちが観察するシーンです。
先生が言います。「乳歯がぬけるのが最初の変化(略)繁殖の相手を見つけるときが来た」と。

これは少女達がイノセントという包括からと飛び立つ時が来たという事を暗示しています。
 
夢想と変態
 
蝶の分類とは例えば同じ種類でも、本当はまだ全てが解明されていない。大体が
タイプ標本によって種類を分析される。タイプを基に分析することは良いのかもしれない。けれども、このタイプに統一するということはどうだろうか。

少女という存在は幼虫から蛹の段階であり、成長段階として統一されているようで、
中には変態の間に「夢想」という個性を秘めている。少女達は夢想を抱いている。理想も、エロスへの想像も、恋も期待している。彼女たちは夢想を何も抱かないわけにはいかないからだ。しかし、彼女たちが育てられていたエコール(学校)というものは、一般的な学校と同じで、統一を強いながらも、その個性の成長を妨げることばかりが多い。

ただこの学校は一般的な学校とは少し違う。その一つは芸術品のような「美」を重視しているからだ。

このエコールは生きとし芸術作品を重んじた仮想空間である。
女性の心は複雑なもので、貞操、少女性を残したいとも思いつつ、時の経過に伴い、
大人になっていく。身体や容姿だけが老いて、心が幼稚で稚拙な子どものままの
変態は厄介だろう。理想は、身体や容姿が老いても純粋な童心である。
これが中々保てないのが、人間の成長である。

後、この映画はもう一つ、キーを握っているのに水がある。
この映画の原作はドイツ語。
ドイツ語では魂というseeleには湖と海のsee
含まれる。作中では川でしたが主に水中。
心理学でも無意識は水に例えられる。
しかし、実際に水の中に居続けるということは
人にとっては溺死、窒息死を迎えることになる。
水は生命の母であり、死へと誘う光を伴う水面の揺れを唄っている。


消えていく少女、ランプを持って謎の見張りのために夜中に
出ていく少女、水の中で死ぬ少女、外に出れた少女。
あの学校はまるで蛹のようだたった。
外に出れた少女は初恋を感じさせる相手と噴水で出会う。
あの深遠のような水流ではなく、それを模倣した噴水に。





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映画に絞りましたけれども、元にしているものがドイツの作家なのでドイツ語に沿っていると思われる。
この映画はベルギー・フランス・イギリスの合作映画で

私は原作を読む前に映画のほうを見ましたけれども、
シーン一つ一つがドイツ語の単語の派生のように見えたのを覚えている。
でも話される言語はフランス語なんですよね。

学校制度はベルギーを元にしていると思います。飛び級がありますしね。(2011年調べ)
ベルギーは大学への進学に選抜試験は無くて中等教育の成績で決まります。
成績に見合えば好きなところを選べるわけです。
ドイツ語は
単語の派生、相関図が一つの物語のように美しいと思っている。この形態が
哲学のように思う。ミネハハとインディアン用語を使っているのでキリスト教思想に捕らわれてはならないと思う。調べれば調べるほど、色々と出てくるかもしれないが結局のところ少女が何故美しく、儚く処女を
失って大人になっていく過程が題材になっていくのかは分からない。

しかし、このようにwhywhyを重ねるには表象を解明していくことは
欠かせないとも思っている。女であることを、心の有りようが変化していくこと噛みしめていく
ことが女には永遠の課題だからだ。


*私は芸術として少女を美しいと思う事には反対はありません。しかし聖職者が
子どもを強姦することはこの芸術を汚しています。聖職者なら少女を
壊してはならないと少しは理性を働かせてもらいたい。このような人達がいるから、
私達は美をバカに殺されなければならない。こういう作品を消さなくてはならないと、
バカに合わせて消されるのです。性癖しか無いバカに。





注釈:蝶を選ぶということの心理は何だろう。蝶はキリスト教の図像に採り入れられて復活の象徴に使われますが主に西洋思想では死者の復活をシンボリズムとしていることが多い。それは蝶の毛虫、蛹、蝶というメタモルフォーゼを生―死―復活と捉えているからである。(グノーシス派は腐敗した肉体と捉えていたようですが)

日本語は古代まで遡ると自然という言葉が存在していなかった。自然という言葉は中国から入って来たものである。元々、日本、ヤマトは自然と人間は対立していなかった。本来は虫の成長に意味なんて無い。境界線なんてないのだ。概念は同じ、でもイノセントというものを特別に抜き出した時点で捉え方が日本とは違うのだと思う。




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