「ツリーオブライフ」

わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い 神の子らは皆、喜びの声をあげた。
旧約聖書ヨブ記38章4節,7節


 ツリーオブライフ

2011年の映画:言葉数少ない記憶の残滓に壮大な自然美。神に与えられた苦難を意味するヨブ記の引用から始まる。主人公ジャックは大人になって成功をしていたが、戦死した弟の何周忌で自らの子供時代である1950年を振り返る。厳しい父親、優しい母親、世俗を生きるのか神の恵みに委ねるのか、旧約聖書の神の御業である自然を「世俗」とするか、「恵み」とするのか、その問いと共に。

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「神はいつ私の心に触れたのか」私は気が付けば世界という言葉が口癖となった。いつ自我に芽生え、神を意識するようになったのはいつだったのか、聖書という書物の言葉は高尚から日常に根差そうとする。このように神の言葉は日常に根差さなければならない。例えばキリスト教徒でも愛の言葉や生誕の喜び、世界に触れた日等、意識して言葉を聖書的に選ぶ日もあれば、意識せずにも現代の言葉で語ることがある。それでも礎になったものは、意識せずともキリスト教的な感覚となる。それは長い時を経て、聖書の言葉や価値観は私達の日常に潜んでいるので偶然にも一致しやすいのである。西洋文学をはじめ、哲学も哲学史を学べばアウグスティヌスが神への対象を哲学的に纏めたことを知る。日本でも保障されている幸福追求、精神的自由も元はキリスト教の価値観である。私達もそうやってキリスト教的価値観は無自覚に手にしている。ただ、御言葉に触れる機会は殆ど無い。話は映画に戻すが、これは遠いアメリカの一組の家族の半生の時の移ろいを通して、宇宙や大自然がダイナミズムに映し出されていく。旧約聖書のように自然賛美がありながらも、家族という小世界がかけがえの無いものように映し出される。

主人公のジャック・オブ・ライエン(Jack O’Brien)の過ごした少年時代の1950年、冷戦時代の保守思考が家庭に反映されていた。しかし彼等も完全に指定された制服を着るように外界から影響を受けてなったとは言い難い。それぞれ信仰を持って、独自の選択で選び取ったものだろう。それでも、大人になったジャックのアメリカは高層ビルに、近代的な建築の家、そこに私たちは親近感を湧く。それは私たちが目の当たりにしている都会に酷似しているからである。家族像も1950年代と、2000年代という構造は、映画の開始にあるように、本来は愛しあった二人が家族を作り選び取ったものだった。それなのに厳しかった父親や、清楚な服の優しい母、近所の色気のある女性、それを映し出せば「1950年」という時代の構造主義に彼等は落ち着いてしまう。時代という器は人間が作り出したもの、そこでの営みが自由なのか閉塞なのか、哲学で言えば、人間が考えることは、人間の社会システムによって無意識に選択しているという「構造主義」なのか? その問いを考えると、何故冒頭の引用が旧約聖書のヨブ記のこの箇所だったのか頷けるだろう。(主人公のJack O’Brienを略するとJOB・ヨブ)

キリスト教も誤解が多いが、特に現代はキリスト教という組織が直接的に一個人の人生を決めることはしない。何によって心が支配されているか、自由になっているのか、真面目に生きているヨブに神は色々な苦難を与えた。ヨブの問いに神が答える話だ。ヨブのこの引用の意味は、神の業が人智で測れないものを意識させるものである。旧約聖書にまだ見られている躍動する自然美は新約のイエスが語る父そのものを意味する。イエスもまた旧約を学んでいる。作中の母親が「あれが神が家よ」と空を差すということは、子供に神を意識させることの始まりだが、私達はだれに忠誠を誓ったのか、何を羅針盤にして生きていくのか、母親の差した神の住処である空は美しい日もあれば、視界に入らない日々がある。神は与えることもあれば、奪うこともあると、ヨブ記と共に繰り広げられる追想は、生きていた弟と共にした時間ではなくなった。弟の死を通した記憶なのである。何故、父親は長男である主人公に厳格だったのか、それは父親が音楽家になりたかった話から始まる。敬虔なクリスチャンの彼は音楽家にならず、工場勤めとなった。そんな父親は自分を誇りに思っていたのではなく、自分のようになってほしくないと長男であるジャックを厳しくする。ジャックは父親に従って大人しくしていた。父親の出張の間に、優しい母親と開放感に溢れた束の間の安息を手に入れるが、父親の不在による油断から、非行に手を少しずつ染めていってしまう。父親が出張から戻ってきたときには、完全に反抗期になっていた。時を経て子供達は成長したが弟の死を知らせる官製葉書が届く。

 該当するベトナム戦争の徴兵制について調べると、1975年までは徴兵は抽選だったようだ。抽選によって死んだ弟に対して長男は父親の意思を継いで稼ぐような大人になった。両親を豪邸のような家に住ませている。その経緯の詳細を隠したまま、自己治癒ともいえるような精神世界が思い描く海に辿り着く。与えることもあれば奪うこともある父親は旧約の神のような存在なのか、そして愛に生きようと言葉少ない母親は聖母マリアのような存在なのか、それにしてもイエスは何処にいるのか、この映画には救世主イエス的な存在はいないのである。

キリスト教徒としての解釈を言うと、私はこの映画にはイエス、救世主の不在を表していたと思う。イエスの不在で有名なのは磔刑の後の復活までの三日間であるが、マルコによる福音書も旅に出る主人としてイエスの不在を表している。映画では旅に出る者として、内から外へと何度も繰り返し、意識が「不在」に出るように仕掛けがあった。物語序盤のピーターラビットの父親がマクレガーさんの家に行った話、後に彼は殺されてしまう。次に父親の出張である。磔刑による不在は非日常的だが、マルコによる福音書の不在は日常に当てはまる。マルコの福音書第13章32-37節のイエスは、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)達に仕事を割り当てて、責任を持たせ、「門番」には目を覚ましているようにと言いつけた。主人はいつ旅から帰ってくるか分からない。主人が突然帰ってきて、家の人が眠っているのを見つけるかもしれない。あなた方に言えることは目を覚ましていなさい、ということだが、役割を当てられた労働者や社会性の一部が、いつ目を覚ます「門番」という存在に自分で気づくか、目覚めたときにイエスが帰還したという証となる。それはキリスト教徒にとっても実際には容易ではない。人は常にいつでも役割を生きているが「門番」という存在になること、そういった奇跡は滅多に訪れない。一瞬の幸福と安らぎがあっても、役割として生きている間は常にイエスは不在である。有名な「愛」という教えは目覚める「糧」として私達は生きている。与えられた賜物、タラントの枚数に満足する人間は少ない。信仰があっても感謝と、不満が共存する。タラントを増やして「存在価値」を満たすことは人生において一瞬なのかもしれない。それを何度も繰り返すのか、もしくは気づかないままなのか、救世主は役割として生きるのではなく、自分が戻ってきたときに開けられる「門番」としての自覚を持てと言う。

 この作品は監督の実体験が元になっているようで、弟は自殺だった(2022年調べ)ようだ。私は、2011年の公開当時は知らなかったが、最近調べたところ実話は弟の自殺と聞いて腑に落ちてしまった。イエスの不在がその証で、当人にとっては信仰が消えたと錯覚してしまうが、そうではなく心情は常に旅に出たイエスだったのだろう。誰も失望した時に、「希望」が旅に出ていることは想像しない。通常は希望を失ったと捉える。自死を戦死に変更したことで、父親への憎しみが思春期の一過性のように見せた。このような変更を加えることによって監督の許しがあったように思える。父親は自分の教育方針が間違っていたと認めて告白したが、息子は大人になって父親は間違っていなかったと許すシーンがある。弟の魂は何処へ行ったのか、天国に行ったのか、「何故貴方(救世主)は来なかったのか」それらは安易に答えを出せないものである。決着できない何かをつくる意味で、旧約聖書の自然を賛美し、それは私達の可視を超えて救世主が世界の果てを旅している。救世主の存在を明確に表さなかったのは、救世主の帰還は定かではないからだろう。私達はイエスが説いた愛の教えは実践しようとするが、救世主の存在を明確に出せなかった。信仰という名詞が動詞となったとしても、信じていない人に「名詞」として存在を明らかにすることは出来ない。相手の心で存在を見出してくれない限り、救世主は誰かの思想の中である。但し、私達は愛の実践はやるべきこととされている。そこに優しさや許しがあると信じている。

生き方を選ぶとしたら世俗を選ぶか神に委ねるのかという問いで、目の当たりにする自然、世界を世俗と呼ぶのか、神の恵みと表すのか、どちらの人生を選ぶのだろう。目の当たりにする現実世界の心をどちらが満たしてくれるのか、それともどちらの苦悩なら享受出来るのか、苦悩はどちらを選んでも必ず訪れる。いつ、私にも決定的にその問いが訪れたのか。

  聖書勉強会の集まりで、何故洗礼を受けたのかという問いがあった。ある人はイエスの奇跡があったからですと答えた。私は何も話せなかった。思い返すのは、あるセミナーの最中に回転扉を開けて出ていく自分の姿だった。見上げれば高層ビルばかりが立ち並んでいて方向感覚を失う、あの日は何処にも答えはなかった。映画にもあった父親の解雇のシーンのように、私の父親も解雇された。この大企業の大規模なリストラクチャリングは、会社の再構成と良い意味で扱われた。母は出ていき、私は研究を捨てて急いで働くことになった。父親達の解雇で株価が何倍になったのか、毎晩、煙草を眠くなるまで吸っていた後ろ姿、その毎日が何だったのか、それらを受け入れられるようになるために、私は何を知らなければならないのだろう。私の家族を癒すものは何だったのだろう。もしも、奪われたのが神によるものなら、また手に入ると思った。神でなければ、ただ奪われただけになる。痛みが、神の恵みであるのなら意味があると思った。それなら耐えられるような気がしたのだ。循環してまた与えられるのだから、私は待つことが出来ると思った。けれども、知っていることは、今、救い主は不在ということだった。私にとっても、救世主は不在だったのだ。しかしこの出来事は長い時間を経て、重要なことでもなくなった。あの当時、父親世代の社員を苦しめた大手の外資が日本から去年撤退した。あの頃の苦悩は時代とともに風化する。私にとって、イエスはいつでも不在である。映画「ツリーオブライフ」はカトリックの神父にとっても、あまり評価が高い映画ではなかった。それもそうで彼等には「在る」という以外は言えないからだ。例えば、「求めなさい。そうすれば、与えられる。」( マタイによる福音書7:7)というように、希望を持たせる存在も世に必要なのだろう。

 私の家には可愛い猫がいる。猫なので言葉が通じないということはない。優しい言葉か、厳しい言葉かこの子は理解している。母は神を信じていなかった。私は、この子に抱きかかえて神の家を教えた。けれども母が子を抱きかかえるのなら、何を話すかは、あまり大差ないことを知った。私は母から神の話を聞くことがなかったが、それでも母の声が好きだった。語ったことが神の話なのか、それが綺麗な空のことなのか、瞬く間に過ぎ去ってしまう時間に私も愛を受け、そしてまた与えるのだと知った。大切なのは凝った信仰宣言ではなかった。貴方を愛しているという言葉だった。

――この来訪者は神の国から

概要

2011年公開の映画「ツリーオブライフ」

キリスト教的映画と評されながらも、この映画を聖職者が評価したのは見たことがなかった。

ヨブ記の引用によって、同級生の死、父親の失業、弟の死と色々奪われていくが、ヨブ記最後の神からの賞賛に値するシーンがなかった。キリスト教特有を愛は痛み、と自己犠牲的でペイシズム的な映画だと思われていたが、あるきっかけで再び見ると、神の象徴である父親、マリアのような母親、に続いてイエス的な存在がいないことに気づいた。マルコの福音書の主人が旅に出るが、

一人に「門番」として待つようにという。それによって「イエスの不在」に気づかされた。

実話では戦死した弟は自死だったそうだ。「イエスの不在」とは私にも長らくそうだった。しかし、最近になって不在について希望(救世主)が旅を出ている、と思えるようになった。世俗(自然)に生きるか、神の恵みに生きるのか、自然ー神の恵みとするのなら、あの自然の映像美はイエスの旅なのかもしれない、そう思えた。

「目を覚ましていなさい」その意味を

文学と私刑 飛翔点(2)

罪からくる報酬は死です ローマ人への手紙6:23



はじめに

 聖書を文学の一つだと答える人もいるが、「聖書は文学ではない。聖書は聖書だ」と言い放った無名の言葉が一番的確だと思っている。作家を目指した若い頃の私は、まず自分の存在は「名も無き虫」と受け入れることから始めた。確かに私は存在している、けれども他人からは知らない虫だった。小説とは自分の伝えたいことを残せるものでもあるが、それをそのまま書いても残らない。そのために推敲で切り捨てる冷静な目が必要だった。大切な人の死を書いても容赦なく「面白くなかった」と批判が来る。それを受け入れること、聖書を頂点として私の自我はへりくだる。何故なら全部、聖書を頂点として過去の遺産に書かれてある。想像の処女性は無い、それが私の執筆生活の幕開けだった。それでも私には長年くすぶってしまった課題が残っていた。「残酷な話を書く」こと、特に「私刑」についてだった。ローマ人への手紙の「罪からくる報酬は死です」という引用は何度も原稿の中で移動し続けた。或る時は序章、或る時は世に出ることがなかった登場人物達がこの引用を語った。実際にこの聖書の言葉はこの続きがある。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのち」と、罪の流れを断ち切ることが出来ない人間にイエスが赦しを与え、死人は罪を犯せないと説明を受ける。

「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学

 私は2018年以降の療養中にアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」も好んだ。この話には探偵は登場しない。三人称視点だが、各々の死体が語りだすような感覚に陥り、真実は黙絶法によって手紙に集約される。ここに集められたのは法で裁かれない罪を犯した10人だった。殺された被害者の一人のエミリー・ブレントは狂信者だったが、妊娠した使用人を自殺に追いやった過去があった。彼女は自分が次は殺されると思ったのか、「夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない」と神の救いを約束する詩編91篇で心の安定を図ったが、祈りも虚しく蜂に刺されて死ぬことになる。この孤島の惨劇は、裁判官のウォーグレイヴの殺害計画によって企てられていた。容赦なく過ぎ去る時間の中で、意識の時間と世界の時間は必ずしも一致しないとはベルクソン的なものだが、エミリーも信仰という内面世界での判断が外界へ歪を生んでいた。犯人も同じである。公刑で裁かれなかった罪、という内包された罪に犯人は目をつけた。純粋に内的な意識が向けられること、純粋持続とはキリスト教的な愛、光や善とは限らない。哲学的な純粋とは、普遍性をさし、倫理に囚われない。制裁による殺意とは、哲学と神学が倫理によって囚われて隠れてしまうものが不文律として浮かび上がる。

 人間の罪とは宗教上は戒められ神から赦しを得られる。しかし、私達が生まれてから目にする社会とはそうとは限らない。罪人というものを戒めることをしないこともある。裁判官はそれに目を向け、この計画を思いついた。この話の醍醐味である見立て殺人の人形はマザーグースの詩に準えていた。インディアン人形、もしくは兵隊人形と翻訳される。この詩も古いもので元は黒人を象徴していたが、次にインディアンと変えられた。占領と迫害を象徴した人形で見立て殺人が行われる。物質は記憶、精神と物質の二元論がこの中にはあった。孤島での時間は誰も所有出来ず、主人公そのものが存在していない。10人を招待したオーエン夫妻(UnKowen)という架空の存在に操られることになる。この島の運命を司るのは姿無き存在だった。物質と空間、そして記憶、これらの関係性は大抵の人が哲学として意識しないでやり過ごす。それでも人形のように、物質が暗示的になり、自分の身が危ういとなるとすぐに認識する。彼等はマザーグースの詩や人形に意味を見出して、真犯人の計画の中で生きることになった。一人一人の過ちを暴露する謎の声を流す蓄音機、つかみどころのない音は聴覚として流体的に生きる。気が付いたら、退屈で眠くなる哲学、物質と精神の交わりに怯えるようにさえなる。

 その光景は仕掛けた判事にとっても芳しいものだったのだろう。食事のテーブルマナーのように、彼は美しく順序よく殺人を行った。銃声の音と共に、犯人であるウォーグレイヴは死んだフリをした。それから起き上がって、更に彼の亡霊劇は加速する。ウォーグレイヴが自己陶酔に陥っていたのは、自分を聖書のカインとアベルのカインに見立てたところに現れている。カインは聖書の始めの殺人を犯し、嘘もついたが神はカインに復讐をさせないようにした。よって、判事は正義という審美眼を錯覚したことになる。何故なら、神の望みというものに私刑は望まれない。ただし、私刑と審美眼は表裏一体である。鳥かごと鳥が別々に描かれたソーマロープは鳥かごの中にいる鳥に見えてくる。ソーマロープを回せば共存してお互い関わっているかのように鳥かごの中に鳥がいる。それに目をつけたのは文学だろう。絵画や音楽等、その他の芸術は「私刑」を扱わない。絵画は裁きに関しては宗教画、もしくは「公刑」に止まっている。

絵画:スチェパン・ラージンの死刑 Sergey Kirillovセルゲイ・キリロフ

言葉は神の言から、詩、箴言、虚構、ジャーナリズムと様々な役割を持つ。絵画や音楽は皆が本気で取り組むことは無いが、言葉は皆が習得し、時には愛を語り、時には嘘を語るように、誰しもが本気になる。しかし、言葉は単純に時間と共に生成消滅をしていく。「愛している」と言う言葉も色褪せていくのは、言葉は知覚や記憶、体感を要するからである。愛というものは言葉のみでは生きられない。愛には付随して感情と行動が伴われる。それでも愛と言う言葉は、しばし多くの人間が連想されやすい。理解しがたい愛の前でも、方向性は認識できる。愛は行動をし、行動によって愛だと知る。対して殺人や私刑というものは因果関係の感情を容易に理解出来ない。マザーグースのインディアンの詩は残酷な詩であり、最後の一人のインディアンは首を吊って死んでしまう。この10人はこの詩の意味を充分に理解する。命が脅かされることによって意識や時間の純粋持続が机上の空論でなくなった。そのうえ彼等は贖罪をすることもなく過去≒記憶によって終わるのである。

ソーマロープ

私刑による魂・善悪に囚われない意識

 10人の招待客のように強制的に強いられなければ、記憶、時間、空間を切り離しては対象として見ることはない。プラトンの三つのイデアによれば、⑴は真、⑵は美、⑶は善に向かう興味であるという。スターンバーグはこの美の審美的興味とした。聖書にはそのような構図が旧約聖書のハガルの話で見られる。アブラハムの妻サラには子供が出来なかったので奴隷のハガルに産ませた。その子供の名前は「イシュマエル」とした。殺されたエミリー・ブレントと境遇は似ているが、ハガルの最後は神から救われる。

聖書世界の「人を殺してはならない」(出エジプト20・13)とうものは神という絶対者の元で、信仰に基づいている。人間は神との約束を破ってしまうので常に債務を負っているということだが、文学は悪戯に約束を破り続けながら「悪」を書いているのだろうか、数多く存在する作家の目的を絞ることは出来ないが、ジョルジュ・バタイユは「文学と悪」によって、文学の最高は世の水脈から悪を探り当てることだと思わせた。想像だけで書くのか、体験があって書くのか、作家は哲学的に整理することもある。そして想像だけでは事足りなくなり、ドラマティックな発言よりも日常化を求めるようになる。だからこの話は静かだ。この「そして誰もいなくなった」の登場人物達は犯人を除いて表面上の出来事しか知ることが出来ない。探偵が存在しないこの作品は悪が善を紐解く鍵にならない。神の存在が確認出来るとすれば、判事が瓶に入れて拾われるはずのない告白文を「漁船」が偶然に拾ったことだ。キリスト教と漁師の関わりは深い。ペトロは漁師であり、イエスに「人間を獲る漁師となる」と言われた。しかし、ミステリー小説という大枠の中でこの観点は砂金のようなものだろう。しかし、現実世界とはそのように「観点」と「意識」が無ければ無味乾燥なものではないのだろうか。カレル・ファブリティウスの絵画が爆発事故での生き残りであると、絵画は燃えてしまえば意味がない。文章はどのように人に影響を与えるのか。文学は言葉や概念が表すものや、人の感情が仏教的に固定的実体を持たない性質を持つ。だからこそ「誰もいなくなった」というのは、文章世界の残酷な一面を表している。

 絵画は言葉で解説をしても、絵画として残っていることを条件とする。文学は聖書と並べられるが、目で見える空間と形には辿り着かない。嘗て絵を描いていた頃にデッサン力や色彩感覚を褒められた。常に思索や概念を抱いては、描くことで自分を探していた。哲学的考察がより一層衝動的になったのはこの時期だろう。若いが故に言葉になれないものは型を求めず、そして何かに頼ろうとして絵を描こうとする。若い間に現れるのは情熱ではあったが、私は円熟したものが欲しかった。意識と自分の技術から跳ね返る自己像に耐えられなかった。抽象絵画のように形からの脱却をしながらも色を用いる限り空間と比率が生まれる。あくる日に私は描きたい空間がなにもないことに気づいた。ゴッホが向日葵を描いたように、そして色を拘ったように出来なかった。私は愛や存在に関する思惑ばかり目に行った。21世紀になった今は哲学も心理学も、宗教は勿論、心や魂から離れながら進んでいる。それらを言い表すのなら宗教的観点が必要となってくるからだ。しかし、文学はまだ魂を書き表せる。ニーチェは復讐感情をルサンチマンとした。道徳的により、弱者が強者を悪とする。この価値の転倒は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」では弱くなっている。

犯人は、代理復讐を装い、快楽に走った。そのような復讐心や道徳的奴隷で殺したのではない。全て10人のインディアンの詩と人形に集約され、人が殺されて消えていく。作中に芸術家は承認欲求が大きくなるとあるが、それはこの犯人のことだろう。隠された欲求と快楽の実現は孤島で行われた。彼が社会的な名誉を欲したのなら、このような事件は起こさなかった。自分の告白文を拾われるかどうか分からないのに瓶に入れて投げ捨てた、魂の確かめ方はこのような事もある。それが「私刑」の末路である。

花を描くことを選ばなかった私の探求は鳥の巣のように集められ、形成を試みていた。それは現象学として、そして詩情として、美しい心情があった。鳥の習性と偶然性で集められた草木は神の御言葉でもあり、棘があるものもある。それは根腐れ、弱い草、枯れた草、

次回作はそのような「悪」を書きたい。

概要

私刑と文学

このテーマに6年かかった。残酷な話を書くということはジャーナリズムのように、自分と他者を切り離せない。小説とは時には自分の悪意も生かしては吐露する必要があるからだ。

アガサクリスティ「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学を扱った。馴染みのない、物質と精神は、哲学として読むと抽象的だと批判されるが、殺人ゲームの前では皆、その意味を理解した。インディアン人形が自分達の命を表し、意味不明なマザーグースの詩の通りに死んでいく。

哲学上の意識とは道徳や倫理に囚われる必要性がない。宗教的な善の必然性がないということ、それらの考えを今回は序章としてまとめた。未発表の小説が本題になるようにしている。「私刑」それは虐げられた、消される魂の承認欲求である。このように追い込まれたことを、被害者だと思っていない。私は必ず復帰する。

関連過去ブログ

この記事は飛翔点(Ⅰ)に続きます。

Die Liebende‐Rainer Maria Rilke

凡庸で一見、外観から想像できない思惑を、時間と思考を刻むように言葉で浮かべながら、何気ない眼差しが、窓を差し込む光が、移ろう感動が、全て意味を持つことが出来るのなら、私は幸せだと思う。そうやって、私は美しいと思うものも、そして生まれてきた意味も実感していた。私は全てを愛している。憎みながらも、愛している。

ChrisKyogetu「意識について」

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リルケの「愛する人」、Das ist mein Fenster「これは私の窓」という始まりは、自分の内部の目覚めと共に、意識出来ない外部への視線が必然となる。それはEben bin ich so sanft erwacht.「たった今、目覚めたばかり」と、白粉が舞うような、甘くてゆったりとした時間を感じさせます。「窓」のような人間の生活に関わっている日常を通して「Bis wohin reicht mein Leben」私の人生は何処へと届くのかと、到達しえない眼路の限界と、その限界を補うための夢想、「und wo beginnt die Nacht?」そして夜は何処から始まるのだろうと、更に夜と宇宙の無限、そして夢と誘います。

「私」はIch könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;(私の周りぐるりと全てが未だ私のような気がする) と、それによって内と外との境界線を失います。

私の窓、「 eben、たった今」この窓とは、この詩の中では外の世界と繋げる存在でもあり、隔たりにもなっている。恋する彼女は外の世界を通して彼への想いや気づきを「窓の外という客観性」として具象化します。けれどもこれは彼女の内省だった。

 彼女の存在は窓の「内」にあります。期待を抱こうが、不安を抱こうが目覚めた「今」とは、ただ自分が開かれた窓の内側にいることです。

―Eindruck―

「私」と、こ の相手との関係の詳細は分かりませんが、想う相手が心の中に居るということは、愛する人とは、自分の意識の下で自分の認識している範囲の記憶を形成するが、

佇立している静かな存在では無い。この詩は 「私」と、「想い人」二人の間に何らか しらの干渉者、管理者(例えば神)を置かずに、外の世界を窓だけで表現しているというのが私の分析です。

本来の現実とはこの詩が終わった余白へと向かうことでしょう。何も書かれていない余白世界、それは詩にとっては自分の心とは関係無く存在していて、詩人が人の心の中に入るということは、読者の視界に変化を与えるということです。その日から窓が特別な存在になれば、成功なのです。内面が育つ、内面が繊細になった視界は美しい。

 美しい詩とは余白まで美しいものだと私は思います。 

2015年の推敲版

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リルケ:「愛する人」Die Liebende ( Rainer Maria Rilke )

これは私の窓、たった今、おもむろに目覚めたばかり。

私は宙に浮いているようだが、私の人生は何処へ向かい、

夜は何処から始まるのだろうか。

私を取り囲む全てが私のままだと思えた。

それは結晶のように深く、透明で、暗くて、無言で、

私はまだ私の中の星をつかめそうだった。私の心は広くなり、

私の心は、彼を再び手放せそうだった。

私が愛し始めたかもしれない、抱きしめたいと思ったかもしれない人だから。

私の運命は、説明のつかない、謎めいた眼差しで私を見ている。

この途切れなく続く私とは何なのだろう。

草原のように香り高く、行き交いながらゆらめいている。呼び声を聞くと恐れてしまうことは、誰かにとっては、別の場所で別れを意味することだから。

(朗読しやすいように翻訳しました)

(原文)

Die Liebende ( Rainer Maria Rilke ) 訳・Chris

Das ist mein Fenster. Ebenbin ich so sanft erwacht.

Ich dachte, ich würde schweben.

Bis wohin reicht mein Leben,und wo beginnt die Nacht?

Ich könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;

durchsichtig wie eines Kristalles Tiefe, verdunkelt, stumm.

Ich könnte auch noch die Sterne fassen in mir, so groß

scheint mir mein Herz; so gerne ließ es ihn wieder los

den ich vielleicht zu lieben,vielleicht zu halten begann.

Fremd, wie niebeschrieben sieht mich mein Schicksal an.

Was bin ich unter diese Unendlichkeit gelegt,

duftend wie eine Wiese, hin und her bewegt,

rufend zugleich und bange, daß einer den Ruf vernimmt,

und zum Untergange in einem Andern bestimmt.

フルバージョンはこちら

The Goldfinch(English)

The Goldfinch Carel Pieterszoon Fabritius

Should be a reflection of something purer.
André Paul Guillaume Gide

On 12 October 1654 an explosion in an explosive’s depot caused a large extent of casualties.

Many Dutch paintings were destroyed in the explosion, and this also damaged the workshop. One of the victims was Rembrandt’s pupil, Carel Fabritius, who was also killed in the accident. This captive bird is still alive today, even though it has lost its owner.

No doubt many people will agree that the “fate” of this painting is the reason for much of its re-evaluation.

Carel Fabritius was an Rembrandt student. His paintings have been influenced by Rembrandt. We can find Rembrandt’s influence in the way he painted light. Rembrandt’s early works show a wide range of colors, but he gradually developed a basis of brown and grey tones, with brighter colors used for the most illuminated objects. He also uses chiaroscuro, a compositional technique that clearly defines light and darkness.

Its influence is also felt by his pupil Fabritius. Overall, the work is completed in opacity, but the color contrast gives the wall a strong light. The walls are darkly shaded by the feeder and the birds as chiaroscuro,  Tarnished natural yellows create a psychological effect of light and shade. What distinguishes this painting from that of Rembrandt, in addition to choosing the bird as a motif, This is using hard paint..Like Van Gogh and the impressionists.

The bird’s background is a flat wall, but we can imagine that what the bird is watching is daylight.

By avoiding all human symbols and imagery, the bird sees the purest things. The light is reflected in her eyes and the imagination is always there. This painting, dressed in “Amor Fati” is a bird who never knew the escape.

This bird lives for a long time and is not capable of flying high.

It was the movie “The goldfinch”(2019) that made this painting instantly famous of our time.

In order to explain the film, a boy and his mother visit a museum and find themselves caught in an explosion. While they escape, the boy steals the goldfinch which has survived. Inspired by the destiny of the original painting of real life, I watched this movie in 2021 with no previous information. The film was inspired by the destiny of the original painting of actual life,and I got a sense of déjà vu from the paintings used in the film.

Had a life of his own for a film accessory. Nothing symbolic at the time, but the color palette was classic. The bird understands the light and is free from superfluous insights. It’s too far from being allowed to exist as a painting, and I’ve seen it before. During the movie, I thought so much about this painting that I didn’t remember exactly what it was about. I didn’t remember exactly what they were talking about, However, the characters began to say that it was a Dutch painting. I looked through the catalogue on the shelf in the other room, thinking maybe I saw this painting once.

In 2012, I was still watching the painting.

I placed a sticky note in the catalogue of Mauritshuis’s exhibition.

The page was “The Goldfinch”. Many Dutch paintings were produced during the boom in microscopic observation, So these are essentially specific tables. Rembrandt’s “Canticum Simeonis” was extremely bright. And Vermeer’s “Het meisje met de parel” tour. I passed by smiling faces art, smiling faces art, and found ‘Goldfinch’ in still life.

It seemed like an incomplete picture. After the human smile, the innocence of the animal, the feathers reflecting the pure light, looked even brighter. In the midst of all these still life’s, observed as the curious mind desires, there is a single and foreign imperfection.

This bird looked at the sky, far beyond the scope of the microscope. This picture was not intended to be framed. Whether it was a piece of trompe l’oeil or a case cover, the purpose of this painting is unknown. In my opinion, the exhibition was not very good, except for the “The Gold finch” and the “Canticum Simeonis” by Rembrandt.

The sound of the birds’ footsteps and the sound of its chain appear to come from a silent painting. Never has this bird been overshadowed by the trials and temptations of fate.

Imperfection, captivity and flight – these three points can strike an agreement with the infirm.

First of all, the downside of not knowing somebody didn’t make it easy for me to talk about that bird. I didn’t have the background or the information to keep it to myself.

The bird hides in the blind spot of memory, but fate so loves him that he comes back alive.

The moment I opened the catalogue, the map of the museum and the advertisements of the museum at that time fell out of the book…Kind of reminded me of a bird wing flapping.

 The way missing memories can be brought back to life is a reminder of the movement of time. Especially when it’s a sign of hope, That’s like a revelation of God.

Loved by fate, this trompe l’oeil, what is it that deceives? Even in the museum, this bird saw the light. A number of times, and through space, this bird sees the light,

I was ready to be deceived again, which made me feel like receiving the light.

Info

Translation, proofreading of past articles has not been completed. I’m finishing up this month.

I am so sorry for the late submission.

The Goldfinch

The Goldfinch:Carel Pieterszoon Fabritius
もっと純粋なものを反射しなければならない
ジッド「日記」第一巻

1654年10月12日に爆薬庫の爆発事故は大規模な範囲の犠牲を生んだ。多くの死者を出し、アトリエも巻き込まれ多くのオランダ絵画が焼失した。その中の一人の、レンブラントの弟子のカレル・ファブリティウスも事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。この捕らわれの鳥は飼い主を失っても今も生きている。

この絵画の再評価の多くの理由は「運命」に惹かれた、という人は少なくないだろう。

 カレル・ファブリティウスはレンブラントの弟子であり、光の描き方がレンブラントの

影響があるだろう。レンブラントは初期の作品は多彩な色使いが見られるが、次第に茶とグレーの階調を基礎とし、一番光が当たるものに明るい色を置く。レンブラントはキアロスクーロという明暗を明確にする構図に惹かれていく。

この影響は弟子のファブリティウスにも見られる。全体的に鈍色で仕上げられているが、対比によって壁に強い光が当たっているように考察出来る。餌箱と鳥の背後の影が濃い。天然色の影響なのか分からないが、くすんでいる黄色が心的な光と影を作り出している。レンブラントとの違いは、宗教的な題材ではなく、鳥を選んだこと、固めの塗料を使用していることである。それは、ゴッホや印象派を連想させる。

鳥の背景は無地の壁であるが、この光の当たり方で鳥が見上げているものは日の光だと想像出来る。イタリア語でCardellinという名前のこの鳥は、カズラの実を好んで食し、イエスの受難を意味している。人間につけられた象徴、想像をよそに、もっとも純粋なものをこの鳥は見つめている。目に光が映りこんで、一瞬という瞬間に想像力が宿る。

Amor fati(運命愛)に纏われたこの絵画は、飛翔することを知らない鳥だった。

それなのに、長い時を経て生きている。

 この絵を現代で一気に有名にしたのは映画「The Goldfinch」(2019)だった。美術館に母親と二人で訪れた少年は爆発事故に巻き込まれる。少年は、逃げる際に生き残ったGoldfinchを盗みだしてしまう。元々の実在の絵画の運命をモチーフとして作られた映画だが、2021年、私はこの映画を前情報無しで見ていた。そこで使われている絵画に既視感を覚えた。映画用の小道具、という短命の運命にしては生命力があった。たかが鳥の絵ではあるが、背景の色が現代の発想で描いたわりには古典的な描写だった。光を理解していて、余計な思想が無い。絵画一枚として存在するにしては構図が右に寄っている、それにやはり見たことがあった。映画の話が頭に入って来ないほど、この絵のことばかり考えていて、登場人物達がオランダ絵画と言いだしたので、もしかしたら一度見たことがあるかもしれないと、別室の本棚から図録を探した。

2012年、私はこの絵をやはり見ていた。

マウリッツハイツ美術展(2012)の図録に付箋を貼っていた。そのページが「The Goldfinch」だった。オランダ絵画は顕微鏡等で観察がブームだった時代のものもあり、基本は精密な絵画が多い。レンブラントの「シメオンの賛歌」は圧倒的な異才を放っていた。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」目当てに美術館のコースが決まっている。人間の笑った顔、笑った顔の作品を素通りしながら、静物画のエリアで「The Goldfinch」を見つけた。

それは未完成のような絵画だった。人間の笑みの後に見ると動物の持つ邪の無さ、純粋な光を反射している羽は余計に輝いて見えた。探求心の欲しいがままに観察された静物画の並ぶところに、一枚の不完全が存在している。顕微鏡で覗けない距離に、その鳥は空を見上げていた。この絵は額に入る予定ではなかった。トロンプ・ルイユ(だまし絵)の一枚か、もしくはケースの蓋だったのか、正体は不明である。正直、この絵画展の評価は低かったが、この鳥の絵とレンブラントの「シメオンの賛歌」だけ良かったと感想を残している。

音を持たない絵画に、鳥の足音、鎖の当たる音の想像が混ざる。この鳥は運命のいかなる試練や誘惑にも消されることがなかった。不完全、捕らわれの身、飛べる存在、この3点は不自由な人間の心を打つのかもしれない。名作と思いながら、この絵画を語る機会がなかった。

まず、誰も知らないというのは不自由さ、語りだすことが難しい。

自分で秘めるにしても、経験と情報が少なかった。

この鳥は私の記憶の死角に潜んでいたが、運命に愛されているので生還する。

 図録を開いた瞬間に、挟まっていった館内マップと、当時の美術館の広告が本から落ちていく。それが鳥の羽ばたきの音を連想させた。消えていた記憶が蘇るとは、時間の動きを感じさせる。特に、それが希望に繋がる場合は、神の啓示にすら思えた。光を享受する力がある生き物の、その瞳の向こうには美しい世界が広がっている。

鎖で繋がれた鳥は、自由の代わりに特定の誰かの愛を受ける。この鳥を愛している人間の眼差しを想像すると、外も悪いものではないのかもしれない。この鳥に餌を与えていたのは誰だったのか、この鳥は多くの時間と空間を超えて、いつも光を見ている。

運命に愛されたこのトロンプ・ルイユ(騙し絵)、何を欺いているのか、生命力の強さに圧倒される。もう一度騙されてもいいので、光を受けてみたいと思わせた。

The Goldfinch(2019)
原作あり

Om det oändliga(English.ver)

" life does not seem to be so sure and prosperous.

Arimasa Mori (By the Streams of Babylon)

In a story, there is a protagonist who reveals what seems to be true feelings. This is what makes a story simple to understand, and is often the case in Manga. But when it comes to art, to the pursuit of an idea, it is possible to write about people and leave the audience behind. If there is a time limit to the number of pages in a work, or to the duration of a film, then a life is artificially speeded up within that limit. Perhaps it is Roy Andersson’s “Om det oändliga” that falls short. There is no narrative technique here. It seems to me that human life is a series of inorganic things, and that there is an existence in motion that others cannot see. It is not a horror, it is a comical story.

For me, the scene in which a human imitation of Jesus walks down Golgotha Hill was comical. The modern costumes, cut down to the expense of a modern opera, the farce of a narcissistic director by his side, were truly an expression of the irony of the modern artist. Or perhaps this is a fashion show for a high brand that makes you think meaningfully. It was irony at its best in this day and age, when critics will praise anything to get a sale, even a bad one, because they want a job. The dream is of a pastor who has lost his faith.

And the pastor, who drinks a glass of wine before the service, was very funny.

People’ expectations of a story begin with their perception of it in their conscious world. It requires imagination to find commonalities and differences between one’s own conscious world and the conscious world of the work, and to fill them. Next, we move on to our own ideals. It is at this point that the work is sometimes evaluated as deviating from its essence. Some people are disciplined enough to read the intentions of the work, while others judge it on the basis of whether it conforms to their own desires.

Descartes found consciousness and innate ideas, but he could not find the real mind.

Science has returned to Descartes again and again, but the real mind is still unclear, even in neuroscience. For anyone who has been able to sort out consciousness from Husserl’s establishment of intersubjectivity to Heidegger’s immanence,

If you are able to organize your consciousness from Husserl’s inter-subjectivity to Heidegger’s immanence, you may find that this film is close to what Heidegger calls “Das Man”.

There is no wise man in this world who lives in his true nature. The film portrays a man who is always buried in a world of cloudy skies and non-essentials. We expect the existence of a person who has stepped out of the world like a person who lives his true nature. One of them is the presence of a role model in the character’s ” truthfulness “.

One of them is the presence of a model student.

I think that the truthfulness is more difficult to find than love. True feelings and love are related to each other, but But they work in different ways.

For example, I have a cat, Adam, who sometimes wakes me up suddenly in the morning. I am sleepy and have a hard time, but I don’t mean to, I don’t feel obliged to, and I always get up, even if I am a little late.

I never complain, I feel that I feel that I really love him.

Love is thus unplanned. If the camera had followed the description of Adam’s embrace and the treatment of him, we would have seen love there.  But if the film stops only at my drowsy inability to wake up quickly, my true feelings seem to be exhausted. My true feelings are unreliable and uninteresting to judge in a short time.

“Om det oändliga” lacks that kind of description that we expect.

People probably assume that there is something “truthfulness” in the work, but the truthfulness is cut out.

However, they can see their own expectations in it. If we wanted to see an unbelieving pastor turn. It would be I can forgive him for drinking wine twice before the service.

That’s how much I value the Holy Family, and how little I know about my own consciousness.

It’s the opposite of what the PR people want, but it’s a place where what you want has been cut out. However, I thought it was a kaleidoscope in which I could see what I wanted in what was cut out.

I think I will continue to delve into the real heart, good and evil, and love.

A lighter version of this is on twitter, but the interpretation is subject to change.

I see it as a new kind of realism. It might be an irony for people who, in more recent years, have lost sight of the authority of the individual voice, and who are no longer able to do more than make a fuss on social media about just that. It is now only celebrities and cartoons that pretend to be conscience or good. But is it possible to enjoy a fictional world that is not so different from the real one? This world exists like a painting, a fictional world itself.

And it is realistic. People don’t think about the rest of the story that was not shown. We look at the outside world with a narrow perception, unaware that it represents so much of who we are. We don’t realism that we are living in a world that has forgotten to enrich the inner world. I don’t understand the meaning of this film because I’m not aware of it.

my lovely Adam. My little one

ホモ・サピエンスの涙

「人生はそんなに確信にみちた、景気よいものではないように思われる」

森 有正(バビロンの流れのほとりにて)

物語には本心らしきものを露わに話してくれる主人公がいる。それが分かりやすい話というもので、漫画等に多い。芸術性、イデア追及に入ってくる作品となると、人を書きながら、観客を置き去りにするような作品が出来上がる。作品のページ数や、上映時間が時間制限であるのなら、その制限以内に一つの人生を人為的に速度調整する。それに物足りなくなったのが、ロイ・アンダーソンの「ホモ・サピエンスの涙」なのかもしれない。ここには起承転結のような、物語の技法は存在しない。此処には人間の人生は無機質の連続なのでないか、他者からも見えない存在が動いているように思える。それを恐怖とせず、コミカルに描いている。

私にとっては、イエスを模した人間がゴルゴタの丘を歩くシーンがコミカルだった。近代オペラのように経費削減された現代衣装、ナルシストな監督が傍にいるような茶番、まさしく現代の芸術家への皮肉が表れていた。もしくは、これは意味深に思させるハイブランドのファッションショーなのかもしれない。批評家が仕事欲しさに、駄作でも売れるためなら何でも褒めるようになった現代では最高の皮肉だった。この夢は信仰を失った牧師が見る。

そしてその牧師は司式の前のワインのラッパ飲みをするが、非常に面白かった。

人間の物語に対する期待は、まずは意識世界での認識から始まる。自分の意識世界と、作品の意識世界との共通項、相違、埋め合わせる想像力を要する。次に、自分の理想へと移行する。そのときに作品の本質と乖離して評価されることもある。作品の意図を読み取る律儀な人もいれば、自分の欲望に沿うかどうかで判断する人もいる。

デカルトは意識や生得観念を見つけたが、本心というものは見つけることが出来なかった。

何度も科学はデカルトに帰るが、本心というものは脳科学でもまだ明確ではない。フッサールの間主観性の成立から、ハイデガーの現存在までの意識の整理が出来ている人なら、

この映画はハイデガーでいうところの「世人」に近いと気づくのかもしれない。

この世界には、本来性を生きる賢明な人間が存在しない。常に曇り空のような非本来性のような世間に埋没している人間像を描きだしている。何処か一歩、本来性を生きる人間のように踏み出した存在というものに、人間は期待する。その一つが登場人物の「本心」に、

模範生があることである。

本心というものは、愛よりも難しいと私は思う。本心と愛は関わり合いながらも、

それぞれ違う働きをする。例えば、私は猫のアダムがいるが、朝方に急に起こされることがある。眠くて辛いが本心でも、義務でもなく、少し遅れることがあっても必ず起きる。

愚痴をこぼすことなんかない、本当に愛していると実感している。

愛はこのように無計画である。アダムを抱きしめる描写、アダムへの扱いにカメラが回っていたのなら、そこに愛が見えるのだろう。けれども、眠そうにすぐに起きられない私の姿のみでフィルムが止まってしまったら、私の本心は疲れきったように見える。

本心というものは、短時間の判断ではあてにならないし、面白みがない。

ホモ・サピエンスの涙は、そういった人間が期待する描写が存在していない。

けれども、そこに自分の期待が見えるのだろう。信仰を持たなかった牧師が回心する

姿を望んだのなら、それが私の資質なのだろう。司式の前に二回もワインをラッパ飲みした事でも許せる。

それほど、私は聖家族を重視している、自分の意識を少し理解した。

広報の売りとは真逆な感想になるが、此処には望むものが切除されている。

しかし、その切除されたものに自分の望んでいるものが見える万華鏡だと思った。

私はこの作品は新しいリアリズムだと思っている。より近年になって個人の声や権限が見えなくなっている、SNSで騒ぐことでしか無くなった人間への皮肉なのかもしれない。良心や善を振りかざすのは、著名人や漫画だけになった。だからといって、現実の空間と左程変わらない虚構世界は楽しいだろうか? この世界は絵画のように存在し、虚構世界そのものである。そして、現実的なのだ。皆は、映されなかった先を考えない。狭い認識の中で外界を見る、こんなに自分を表しているということに気づけない。内面世界を豊にすることを忘れて生きていることを自覚出来ない。自覚していないから、この映画の意味が分からない。

今後も、本心、善悪、愛に関して掘り下げていくと思います。

軽く書いたものはtwitterにありますが、解釈が変わる場合もあります。

*デカルトの生得観念はイギリスのバークリー大陸合理論と対立。

*広告では「千夜一夜物語」のようにと記載があったが、この話だとシェヘラザードは王に

殺されるだろう。

私の可愛いアダムはこちら。

The Joker and Biblical interpretation

しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。マタイによる福音書18章6節~7節

 

罪は愛によって「赦される」ことがあるが、悪は増産し続けている。一つの悪意が消えても、新しい悪意が生まれる。それが人間であり、否定する人間は虚言壁に相当する。

善良な心は教育や環境を要するが、悪意は自然と生まれる。私は性善説否定派ではあるが、国家論を考えるときにはこれが根幹であるし、イエスも悪を躓きの石として、それは人間の力では取り除くことが出来ないとしている。性善説は存在しない、私はこれに間違いはないと思っている。

罪を償うことはあっても、悪が消えゆくことは無い。それでも悪とは一体何なのか、その概念は現代でも議論し続けている。旧約聖書の見解では、人は善と悪とどちらにもなりうるので、選択を迫られる。神はその選択に介入しないが、人間が気づけるように夢のお告げや、使徒や預言者を送り込んでいる。アダムとイブを原罪としたのは、新約聖書以降、キリスト教の歴史である。何故、悪人を野放しにするのかという問いは長年、「弁神論」によって神は善となるように繰り返され、心理学では弁神論では補いきれなかった人間の悪、闇を学問的に治療しようとした。結果、治療をする際に神と切り離すことに成功したのはG・フロイトなのかもしれない。ユングは各々の宗教や口承伝承のイメージで育った人間と治療を切り離さなかった。フロイトの「無意識」にユングは「集合的無意識」と掘り下げた。フロイトはこの研究を否定はしなかったが危険視した。両者とも未だに現在でも結論は出てはいない。

悪は増幅し続けるが、時流によって厳罰化されるものがある。その一つが「演劇」である。

聖アウグスティヌスは演劇をプラトン論に準えてキリストの教えから遠ざけ、痛みを紛らわすための「悪」とした。現代では規制は緩くなったが、映倫や年齢制限、虚構世界のイリュージョンに未だに異議の声は止まらない。「自称善人」は犯罪と快楽に対して、影響する事に畏れ、平和的な作品以外は脅威を抱くからだ。

 それでさえも空気のような慣れを感じていた最中に、映画「ジョーカー」(2019)のジョーカーは立ち現れたと私には思えた。一度見たときは、脚本としては、実在したシリアルキラーのヘンリー・リー・ルーカスやエドモンド・ケンパーの模倣としか思っていなかったが、シェークスピアがハムレットやマクベス王を作り上げるように、最近は虚構世界の「悪人」がこれほど確立された存在はいなかった。

「純粋悪」として最高かどうか、判断しにくいところがあるが、彼の最大の魅力は模倣犯を沢山作り上げたところである。「大きな石臼を首にかけられて海に沈められる」とイエスが最も厳しく罪と定義したものは大衆を導く罪だった。ジョーカーは、元々はアーサー・フレックスという母親と二人暮らしの平凡な男だった。この男には夢があった。コメディアンになるという夢だった。貧しいうえに一発逆転型の夢を抱くものに人々も世間も厳しい。

彼は出世を妄想しつつも、現実では大道芸人の仕事をしていた。不良少年の憂さ晴らしに暴力を振るわれ、上司からも「ぞんざい」に扱われる。非力な男を更に貶めていたのは、笑ってしまう病気だった。この治療のために治療費が欠かせない。恐らく、この病気はPTSDの一種なので、薬物療法が明確ではないと考えらえる。精神薬というものは、治療法が明確でないものほど、大量に要する。医者の当てずっぽう、出来損ないのカウンセリング、当てはまらない薬のために、貧しい賃金から更に薬代に流れる。常に彼は世間の善意の裏に存在する悪意に手をかけられている状態だった。彼が悪意にどんなに押しつぶされそうになっても、生きていられたのは、母親の「どんな時でも笑顔で」という言葉であった。彼は母親を愛していた。

彼は同僚から護身用の拳銃を無理やり渡されてしまうが、ピエロ姿で小児病棟での最中に拳銃を落としてしまう。拳銃を渡した同僚も嘘をついたので解雇を与儀なくされたアーサーは、更に天命か不運か、彼はこんな状況下で余力もないのに、男性に絡まれて困っている女性を「どんな時でも笑顔で」という症状が発症し、女性は逃げることが出来て、男性3人に暴行される。カミュの異邦人の主人公のように、アーサーは引き金を引いたのである。

ここは1981年のゴッサムシティ、治安が悪い最中で銃殺事件なんて珍しくなかったはずだ。しかし、殺されたのが証券会社のエリートだったために、貧困層がピエロの殺人鬼に称賛し始める。アーサーはコメディアンとしての舞台の成功も、片思いの女性との思い出も彼の妄想だった。愛した母親が自分の「どんな時でも笑顔で」という病気を利用していたという事、母親が貴方の笑顔が人を幸せにするという一種の「信仰」が崩された。

誰が彼を貶めたのか、傷付けたのか追いきれないほどになった。彼はシリアルキラーの儀式とも言われる、生んだ存在、母親を殺害する事に成功する。これは殺人鬼にとって通過儀礼のようなものである。

虚構世界の舞台の成功を望んだ男は、現実で聴衆を集めることに成功した。愛や幸せを謡った舞台は聴衆に影響を及ぼして、幸福と共に現実へ降りていくが、彼の舞台はある意味、現実への実現性として皮肉にも成功してしまう。大衆の願望として、彼は「ヴィラン」となった。街中が彼の模倣犯だらけになったが、彼を愛している訳ではない。浅い認識と、大衆の自己実現欲、彼を支持しているという一体感、その幸福に大衆が酔っているだけである。

ジョーカーは複数存在しているところで終わったのが興味深かった。

(私はこのジョーカーが自分の仮装の中に埋もれるシーンが一番好きだ)

設定でもジョーカーは残酷なシリアルキラーとして設定されていたが、「バッドマン」を大衆が望んでいた時代では、ユーモアキャラクターや、バッドマンを助ける(自分が仕留めるために)こともあったりと、明確な設定がない。この2019年度版の「ジョーカー」は続編を考えるのなら更なる変容を可能性としているが、悪というものは、この具体性の無さも共存している。イエスが最も罰するのは大衆を先導するもの、としたのは「偽預言者」というものは愛が喪失するからだろう。それはモーセの偶像崇拝禁止とも一致する。(イエスが、人間の力では取り除くことが出来ないと言った「Skandalon」はスキャンダルの語源でもある。)現代の悪を明確化しているのは「独裁者」であるが、現代は実体を消したような悪の存在が最も脅威を持つ。ジョーカーの正体を知らない間は、彼の模倣犯が火をつける。それが集団による悪であり、人間としては見慣れた暴力なのである。これが既視感を覚えるのなら、私達は既に凡庸の悪を知っているのだ。模倣犯達がお面の被るのも興味深い。いつでも逃げられるかのような卑怯さがある。お面を被って、母体は何処へ行くのか分からない。この、水面下へ悪の根幹が潜っていく様子が21世紀の悪のように思えた。

道化師の悲劇といえばヴェルディの「リゴレット」を思い返す。(ヴィクトル・ユゴー原作)彼もまたジョーカーと同じく、

侯爵や貴族の笑いものとして仕事をしていたが、醜い彼が唯一愛した娘が、貴族にもてあそばれてしまったことを知って復讐するが、成功せず、娘の亡骸を抱く羽目になる。悲劇と喜劇は隣り合わせで、暗転しなければ舞台は楽しくない。しかし、道化師というものは常に闇の中で失意のどん底まで落とされる。

道化師は、この幸福になれない構造の確認出来る原典かと思う。

****

 プラトンの「ソクラテスの弁明」で「正しいことのために本当に戦おうとする者は、僅かな間でも命を全うしようとする場合でも、私人として働くべきで公人として働くべきでない」としたが、この原点に返るものは存在しないように思う。歴史を真面目に勉強すると、人類に絶望する事が多い。進歩を喜べるのは、景気が良いときで、景気が悪いときは構造主義に嵌っていく。ただ、人間という存在は愚かだが、偶然性と必然性を背負って、愛を生むことがある。悪意を知らなければ人間は愛を持てるのだろうか。生まれから自分に影響を与えてくれるのは良きも悪くも人間である。切っても切り離せない存在に対して、愛を失ったら「生ける屍」だろう。私にも悪意は存在する。それでも私は悪意の中でも愛を尊重する。

愛は魂の力量だと思っているからだ。私の一番好きな聖書の引用にコリントを選んでいるのは人間の悪意は拭えないが、愛は魂の方向性を定めると信じているからだ。

私の善意や悪意は誰の影響なのか、私の潜在的なものか、操られているのか、私は私という存在を操作して、私は私を知らない。それでも、魂という概念だけは持ち続けたい。

身体は病気になって心は傷ついても、魂は傷つかない。

私はそれを信じることにしている。

この曲「happy face」Jagwer Twinとジョーカーは無関係のようだが、非常に合っていた。何度もこのバージョンを繰り返して見て気づいたことは、無理して笑うことはないということだった。私達クリスチャンは、神の愛による善意と、悪意と自分の不甲斐なさに苦しむ。

無理して笑うことなんかない、道化になることはないと私は思った。寧ろ、無理して笑ったら、負けなのだ。

 

ゴッサムシティとは何なのだろうか。
此処に何故人は惹かれるのだろうか?
主人公、ジョーカーもゴッサムシティも虚構世界である。
けれども私達は「現実」と言ってしまう。

余談ですが、アーサー自身には同情がありますが、犯罪者っていうのは悪で、恐らく神の裁きを受けるか、もしくは神の愛を受けるか、それは完全には分かりません。カミュの「異邦人」でもあるように、自分がヴィランを選んだ、という可能性は0ではないのですよね。神の恩寵を拒否をした、それも人間の自由選択です。それを境遇や精神病の治療として絶対に変えようとする心理学研究もありますが、私は冷ややかではあります。学生時代は、犯罪者の更生も考えてましたが、今はやはり被害者になったら相手が潰れてほしいと思います。でも、アーサーの時に救いがあったらなとは素直に思いました。大半の被害者は、そういった加害者の負の面、抑圧を背負っていますが、生きる権利を奪われた者にとっては残酷以外何者でもないでしょう。でも、良い映画だったと思います。結局のところ、目の前にいるアーサーに手を伸ばせる人間は少ない。

ゾディアック事件に似ているのかもしれない。
有力容疑者の名前がアーサーだった。

INNOCENT (Ecole)

この記事は2011年に記載したものの改定版です。
読みが浅いものがありますが、当初の見解を歪めないために
大幅な変更はしませんでした。
 
「この感覚は何処から来て何処へ行くのか。イノセントな少女に惹かれる大人達」

何故少女を美と捉えると禁忌なのだろうか。選ばれた一部の少女は美しい。男性の性癖を全否定したいところだが、少しはこの美は男性の妄想に保たれている。だからこそ危うく、不道徳な欲望が存在する。少女時代から美形と称されるのは、本当に少数である。大人になって努力する美とは違った神の恩寵さえ感じさせる。イノセントに包括されて、嘘や小細工や魔性が大なり小なり含まれている。

少女は罪から本当に改心したのだろうか、「ごめんなさい」の言葉の中が何処まで真実が含まれているのか分からないが、美しき少女はイノセントで成り立っている。
********
外界から閉ざされた森の中にある学校。そこは時間を止めているように見える。
無防備で無邪気な魂と成長していく器を持つ少女達を見る大人達の視線(観客)
からは、ありとあらゆる蓋然性が生まれるのは必然としていた。
まるで証拠性でも述べるかのように、何かの象徴ではないかと捉えようとする。

それは木漏れ日から差す光のようで、蝶を捕まえる蜘蛛の巣のように様々な方向から
少女達を眺めていることになる。

ノスタルジック、美、淡色、そして性的に――――。

それでも、この「少女とイノセント」への欲求が絶えないのはアゲハ蝶でいえば四世代交代のように
奪いようのないサイクルから来ている。少女は成長してもまた少女という存在が現れる。

イノセントは心象でも幻想でもなく、ましては象徴性を当てはめられるものでもない。

イノセントに該当する日本語は果たして本当にあるのかどうかをまず疑う。イノセントとは道徳的マイナスのない状態。それは、少女達が持つ揺れ動く感情や成長であり、蝶の変態のようだ。

私はイノセントとは自然による不条理(Nature)がイノセントに近いと思っています。
後半に差しかかるあの授業、蝶が羽化していく瞬間を少女たちが観察するシーンです。
先生が言います。「乳歯がぬけるのが最初の変化(略)繁殖の相手を見つけるときが来た」と。

これは少女達がイノセントという包括からと飛び立つ時が来たという事を暗示しています。
 
夢想と変態
 
蝶の分類とは例えば同じ種類でも、本当はまだ全てが解明されていない。大体が
タイプ標本によって種類を分析される。タイプを基に分析することは良いのかもしれない。けれども、このタイプに統一するということはどうだろうか。

少女という存在は幼虫から蛹の段階であり、成長段階として統一されているようで、
中には変態の間に「夢想」という個性を秘めている。少女達は夢想を抱いている。理想も、エロスへの想像も、恋も期待している。彼女たちは夢想を何も抱かないわけにはいかないからだ。しかし、彼女たちが育てられていたエコール(学校)というものは、一般的な学校と同じで、統一を強いながらも、その個性の成長を妨げることばかりが多い。

ただこの学校は一般的な学校とは少し違う。その一つは芸術品のような「美」を重視しているからだ。

このエコールは生きとし芸術作品を重んじた仮想空間である。
女性の心は複雑なもので、貞操、少女性を残したいとも思いつつ、時の経過に伴い、
大人になっていく。身体や容姿だけが老いて、心が幼稚で稚拙な子どものままの
変態は厄介だろう。理想は、身体や容姿が老いても純粋な童心である。
これが中々保てないのが、人間の成長である。

後、この映画はもう一つ、キーを握っているのに水がある。
この映画の原作はドイツ語。
ドイツ語では魂というseeleには湖と海のsee
含まれる。作中では川でしたが主に水中。
心理学でも無意識は水に例えられる。
しかし、実際に水の中に居続けるということは
人にとっては溺死、窒息死を迎えることになる。
水は生命の母であり、死へと誘う光を伴う水面の揺れを唄っている。


消えていく少女、ランプを持って謎の見張りのために夜中に
出ていく少女、水の中で死ぬ少女、外に出れた少女。
あの学校はまるで蛹のようだたった。
外に出れた少女は初恋を感じさせる相手と噴水で出会う。
あの深遠のような水流ではなく、それを模倣した噴水に。





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映画に絞りましたけれども、元にしているものがドイツの作家なのでドイツ語に沿っていると思われる。
この映画はベルギー・フランス・イギリスの合作映画で

私は原作を読む前に映画のほうを見ましたけれども、
シーン一つ一つがドイツ語の単語の派生のように見えたのを覚えている。
でも話される言語はフランス語なんですよね。

学校制度はベルギーを元にしていると思います。飛び級がありますしね。(2011年調べ)
ベルギーは大学への進学に選抜試験は無くて中等教育の成績で決まります。
成績に見合えば好きなところを選べるわけです。
ドイツ語は
単語の派生、相関図が一つの物語のように美しいと思っている。この形態が
哲学のように思う。ミネハハとインディアン用語を使っているのでキリスト教思想に捕らわれてはならないと思う。調べれば調べるほど、色々と出てくるかもしれないが結局のところ少女が何故美しく、儚く処女を
失って大人になっていく過程が題材になっていくのかは分からない。

しかし、このようにwhywhyを重ねるには表象を解明していくことは
欠かせないとも思っている。女であることを、心の有りようが変化していくこと噛みしめていく
ことが女には永遠の課題だからだ。


*私は芸術として少女を美しいと思う事には反対はありません。しかし聖職者が
子どもを強姦することはこの芸術を汚しています。聖職者なら少女を
壊してはならないと少しは理性を働かせてもらいたい。このような人達がいるから、
私達は美をバカに殺されなければならない。こういう作品を消さなくてはならないと、
バカに合わせて消されるのです。性癖しか無いバカに。





注釈:蝶を選ぶということの心理は何だろう。蝶はキリスト教の図像に採り入れられて復活の象徴に使われますが主に西洋思想では死者の復活をシンボリズムとしていることが多い。それは蝶の毛虫、蛹、蝶というメタモルフォーゼを生―死―復活と捉えているからである。(グノーシス派は腐敗した肉体と捉えていたようですが)

日本語は古代まで遡ると自然という言葉が存在していなかった。自然という言葉は中国から入って来たものである。元々、日本、ヤマトは自然と人間は対立していなかった。本来は虫の成長に意味なんて無い。境界線なんてないのだ。概念は同じ、でもイノセントというものを特別に抜き出した時点で捉え方が日本とは違うのだと思う。




生きのびるために

おすすめのアニメ⑴
Netflix 「生きのびるために」
★★★★★
 タリバン政権下の厳しかった時代、女性は本も読んでもいけないし、一人で外にも出られませんでした。そんな中、父親が連行され幼い主人公は家族を養うために髪を切り男の子になりすまして働き始めるが・・・・・・。
今でもイスラム国崩壊後などの問題が残る中東。
 信仰とは何かも考えさせられる映画。やはり信仰の意義を考えさせられるのは宗派に関わらず、衣食住という基本が宗教と政治によって脅かされるところから始まるとは思います。
ごめんなさいですけど、スコセッシの「沈黙」
とは比べものにならないぐらいレベルが高かかったです。🙏 というのは、作品として評価することになりますが、「生きのびるために」は単純なアニメーションにも関わらず、
タリバン政権下の国民の像が生き生きと描写され、主人公が女の子だと分かっていても
見逃してくれる人や、女の子だと知れば果てしなく暴力を振るおうと追いかけてくる男性もいて、この男性達はイジメというより正義だと思っています。そんな政権下の中で、
主人公達は連行された父親を想い、主人公は父親の安否を確認するために危険な事を
しようとします。政権の強さ、イスラム教の解釈の強さ、そして平凡な家庭を取り戻したいという弱者の強さがぶつかりあい、緊張感がありました。
それに比べてスコセッシの「沈黙」はどれほど江戸時代の幕府が力を持っていたのか、
隠れキリシタンがどれほどまで強い信仰を持っていたのか、この力と力のぶつかり合いが
弱かったのです。処刑=残酷という観客の共通認識に頼りすぎていて、武士というものがどれほど権力を握っていたのか、という力強さの描写が弱かったのでイマイチ伝わらなかった、私はそう思います。生きのびるためには92分という短時間で、よく伝わり、沈黙は160分と長い時間ありながらも、ダラダラとしていたという印象があります。結局何も伝わってないというのが厳しい意見ですが、私は作品としてみたときに無駄なシーンが多かったと思っています。

外国人神父には絶賛でしたが、日本人から見たら微妙という気持ちも分かります。

「生きのびるために」はアイルランドのアニメ会社らしいです。こっちのほうがアカデミー賞ノミネートは当たり前です。まともな作品が選ばれるとまだ神はいるのだなと思います。Netflix契約している人は是非。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

穢れなき悪戯(marcelino pan y vino)

「穢れなき悪戯」を見て。
人は不幸であればあるほどイエスの磔刑までの道のりに近づき、
子どものように無垢であればあるほど天に近づく。
イエスの存在は至福の表しである。
 非情に感想の難しい映画であった。スペインのとある村、
一人の神父が少女の病気を見舞いに行ったときに、周りが賑やかなのは何故かと問われ、
「聖マルセリーノ祭」だよと、聖マルセリーノ祭について語りだす。
それはまだスペインでは(19世紀)では修道院の存在は村人に歓迎されていなかったこと、12人の修道士達は修道院の二階の奥に大きなイエスキリスト像を何故か隠していた。そして、育ての子ども、マルセリーノに見せなかったのかというのは、この村人たちに「歓迎されていなかった」というところに少年の存在とイエスが被っていた。この少年はある日、修道院に捨てられていた。この少年の里親を探すが、適切な人間がいない。鍛冶屋はこきを使わせるために欲しがるが、修道士はこの鍛冶屋のあまりもの暴君加減に嫌気がさし、少年をその日の聖人の名前の「マルセリーノ」と名づけて育て始める。マルセリーノは炊事係のトマス修道士に自分の母親のことを尋ねる。トマス修道士は「彼は母親はもちろん美人で今は神様のところにいる」と答えた。それに、同じ年の友達がいなかったマルセリーノはマヌエルをイマジナリーフレンドとして独り言を言いながら遊ぶ癖がついた。
修道士は少年の数々の悪戯に頭を悩まされながらも、可愛がっていた。しかし、二階にある大きなイエスキリスト像の存在は知らせず、二階だけは行かせなかった。
後は、少年の心理はペロー童話の「青髭」症候群である。見るなと言われると好奇心旺盛な子どもは見たくなってしまう。あとは修道士の目を盗んで二階へ行くだけである。二階へあがって様々な工具が並べられている部屋の奥にもう一つ扉があった。それを勇気を振り絞って開けると、見たことがない大男がいた。
少年は驚いて逃げてしまう。しかし大男が追いかけてこないところから
好奇心旺盛な少年はもう一度、その大男に会いにいく。
するとそこに居たのは大きなイエス・キリスト像だった。少年は、彼にこっそりパンを持ち運び手渡すと、イエス様はそれを受け取った。それをきっかけに度々、イエス様に会いに行く。そしてイエス様は「私が誰だかわかるか?」と尋ねる。マルセリーノは誰に教わったわけでもなく「あなたは、神様です」と言い当てた。そしてラストにイエス様は「母親のところに行きたいか?」と尋ねてくる。少年は何の畏れもなく承諾する。それは本当に何の疑いもない無垢な目だった。そして、少年はイエス様の傍で謎の死を遂げる。そのラストをこっそりと見届けていた修道士は「マルセリーノが天に召された」と皆を呼んだ。
マルセリーノの死、それを神の奇跡とした。それから歓迎されていなかったマルセリーノの墓に人々が花を手向け、二階の奥で隠されていたイエスの像が表に出てきたのである。
そしていろんな人々の祈りの場となった。

これがとある村の「聖マルセリーノ祭」の由来である。

この作品は最もカトリックらしい作品だと言われている。

鍛冶屋は修道士たちが気に入らずに取り壊そうと必死だったが、この少年の奇跡でこの鍛冶屋の存在は消えたかのように、この修道院は寺院へと建て替わっていた。そして、歓迎されていなかったキリスト教の集まる場所に人々が集まるようになるのである。
現代倫理感でいえば、この少年の死は不幸にも思える。自殺にも思える隠喩、イエス像の何かに刺さって死んでしまったとも思えてしまう。しかし、天国は父がいて愛のある場所だ。何故、生だけを肯定し、死を不幸だと私達はこの世に未練を残すのだろうか。この少年が幸福かどうかでさえも捉えられない。以前書いたノヴァーリスの花粉の愛するゾフィーへの想い、「すべての愛する対象は、それぞれ天国の中心である」というのとつながるような気がした。愛した人が行った場所だから、愛があると信じずにはいられない。歓迎されなかった少年、その少年が死を通して愛されている。愛すべき存在である父と、愛されるべき存在の子の結合、マルセリーノも天国の中心、愛が溢れる場所へと行ったと信じるほかないだろう。鑑賞者にはその感情しか残されない。
 画像著作権は株式会社 アイ・ヴィー・シーにあります。

Dekalog episode5

デカローグ エピソード5(ある殺人に関する物語)
 ――恩赦の請願は却下された
 ――誰が弁護しようとも、判決は決まっていた
 まるで晴れることがない天候を表すかのように、このドラマは緑色のフィルターを使って撮影している。監督キェシロフスキによると、不要なものを取り去るためにこのフィルターを使ったようだ。この不穏な天候に相応しい登場人物達が一人、また一人と集まってストーリーを紡いで死刑執行という秩序を完成させていく。その冷徹さが秀逸だった。まずは殺されることになる太ったタクシー運転手。妻がいながら若い女性に色目を使い、乗客を選んでしか乗せない。悪戯にブザーを鳴らして子犬を驚かせては嫌味を吐く。時々は犬に餌を与えるなど、善人な一面も見せるが鑑賞者は誰もこの嫌味な男に好意を抱かないだろう。
 次に、ヤツェック。まだ二十歳の若い青年は、着々と殺人までの準備をしている。彼は事故で妹を失っていて、それから変わってしまったようだ。彼は殺人に使う道具を購入するだけではなく、自分の末路を予見していたかのように、写真屋に妹の聖体拝領の写真の引き伸ばしを頼んだりする。やがて、無差別にタクシー運転手を長い時間をかけて殺害する。

そして主要な登場人物はもう一人いる。それは彼を担当した弁護士だ。

物語は彼の法制度への想いの語りから物語は始まる。

「司法機械とでも呼べる兄弟な法制度が犯す過ちについて考えはじめました。弁護士ならば、その過ちを矯正することが出来る、少なくとも矯正を試みることが出来る、これは立派な社会的機能の一つなのだ」と。

  作中でもあるように、個人と個人の殺人は旧約聖書のカインとアベルの頃から続いている。次に、それを死刑として裁くのが法であり、国である。この措置を「殺人」と呼ぶのか「秩序」と呼ぶのか、これは問いかけているというより、フィルム全体が叫んでいと言えるのだろう。このフィルムは未だに整理がつかない問題を叫んでいる。その代理人が、死刑執行後に叫んだ若き弁護士となる。彼はドラマの最後まで怒りや悔しさを叫び続けた。
 私も昔は法学部で、死刑は賛成か反対かというのは散々考えた。(考えさせられた)けれども、常に答えは流動し、賛成にもなったり反対にもなったりと定まらない。そして、法律から離れると気が付けば考えなくもなった。けれども、それは法律中心に考えなくなったというだけのことで、心の何処かで意識せずにはいられないのだろう。例えば哲学をやっていれば必ずこの問題はやってくるし、小説としても殺人は必要な「設定」となる。このような非日常は常に自分の日常の裏に潜んでいるし、日常になることを恐れながら考えては関わろうとする。
 このドラマを見ていると、二年前、近所の神社で猫の手のようなものが落ちていたことを思い出す。しゃがんでじっくりと見てみると、やはり猫の手で血の跡と猫の華奢な手の切り口から肉が食み出ていた。例えば交通事故によって、猫は死に、偶然にもカラスが摘まんで、手首だけここに置き去りにしたというようなものを想定したが、明らかに、これは人工的なナイフの跡だと分かった。よく言われるのが、このようなものを見つけたら誰かが練習用に使っていると聞いたことがある。立ち上がって辺りを見渡してみると、小鳥達が見えないところで鳴いては木々を飛び移っては微かに木の葉を揺らすだけで誰もいない。ただ私が勝手に作り上げた不穏が立ち込めていた。埋めてあげようかどうか、足が迷いを表した。私は立ち去ることにしたが、結局はすぐに引き返して、ハンカチを取りだしてその猫の手を包んで、手で土を掘ってハンカチごと埋めた。
 良いことをしたとも、悪いことをしたとも思えない出来事。この時間は空虚だった。私はこの手を土に埋めることによって、剥き出しに転がっていた日常を非日常に戻した。この痕跡を近所に残すべきか、魂のことを埋めてしまうべきか迷った。どちらも必要なことだったからだ。私は結局は姿を知らない猫の魂を選んだ。
この小さな出来事、おそらくどんな作家や監督が「殺人」というテーマに挑もうとすると、自分の身体の小さなことに気づくだろう。土に埋めて沈黙すべきか、叫んでみるのか、迷いは必ずあるはずだ。


 この作品でも、カトリックの恩赦の請願は却下され、ヤツェックは司祭の手を接吻しようとするが、それを拒まれるかのように司祭は参列者のところへとすぐに戻ってしまった。若き弁護士の誰にも聞こえない叫びで終わるところから、キェシロフスキも分かっていたように私は思う。そしてこの「小さな」出来事が非日常ではなくて日常として考えられるように、殺人から死刑執行のシーンまで長く目を当てられない程、残酷に撮影されている。
デカローグ(その他) 

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エピソード1
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エピソード8
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エピソード4

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Dekalog episode4

「デカローグ エピソード4」
普通われわれには、自分が恋をしているのだと認める様々な印がある。
マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」





   二十歳の演劇大学生アンカは、やもめの父親ミハウと二人で暮らしている。ある日、父親の書斎の引き出しからミハウの字で「私の死後、開封のこと」と書かれた封筒を見つける。それは、まるで見てほしいと言っているかのようだった。少し体から手紙を離すと、その文字がぼやけて見えるほど、アンカは視力が落ちていて、眼科へと行く。そこから何かを示しているようだ。アンカは外でその手紙を開けてみるが、入れ子式のように母親の手紙が封をされた状態で入っていた。そこには「わが娘、アンカに」と記されている。アンカはこれも開けようとハサミを入れようとするが、入れなかった。

   彼女はこの手紙は自分の出生に関する話だと予感が走り、今までミハウに抱いてきた感情を発露させてしまう。アンカは母親の筆跡を真似て、自分がミハウの子ではないという遺書を作り上げてしまう。それを父親の帰省後に空港で暗唱したかのように聞かせるとミハウはアンカの頬をぶった。すぐにアンカは恋人と結婚すると言い出し、二人は仲直りをしたが、父親はアンカに好きに生きてほしい、このままだと男と女の嫉妬になってしまう。そうはなりたくないと娘以上の感情を抱いていたことを仄めかす。
最後は、ミハウにアンカは本当のことを話す。あの遺書は私が作ったもので本物ではないと。そして二人で「事実」が書かれた封筒を燃やして終わる。
恋愛は四種類あるとスタンダールは言った。一つ目は「情熱恋愛」二つ目は「趣味恋愛」、三つ目は「肉体的恋愛」、四つ目は「虚栄恋愛」。(これは各自調べてください)

 今回のデカローグ、エピソード4はこの四種類に当てはめるとしたらどれかに当てはまるのだろうか。それともどれにも当てはまらないのだろうか、それさえも明確には分からない。ただ、プルーストによれば、恋をしているとそれぞれ印があるようだ。私はこれは信じられる。二人ともその『印』には自覚はあったようだ。それは視聴者には見えない奥深い場所にある。今回のエピソード4はモーセの十戒の「父母を敬え」というものをキェシロフスキの技巧によって複雑にしている。キェシロフスキは「このドラマシリーズは観客が真実を読み取るべきである」と言ったそうだ。最後に燃やしてしまった意味は何だろうか、私もこの選択が一番だったと思う。本能的に事実を突きつけられて先に進むよりも、自分達の心でどうするのか決めたかったのではないかと私は思う。

真実を突きつけられたくなかったのはまだ異性として愛していたからこそでもあり、燃やしたことは何処かへ進まなければならないからこその選択。観客は親子関係が崩れなかったことを見届ける。そしてこの二人の心の旅の道のりはまだこれからも長くなるということの暗示さえ感じさせる。






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デカローグ

エピソード1
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エピソード8
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Dekalog episode1

デカローグ エピソード1「運命に関する物語」
クシシュトフは神や魂を信じていない男だった。彼の妹は敬虔なカトリック信者で愛と神を信じていた。その兄妹の間で彼の息子、パヴェヴは育った。パヴェヴが「人は死んだらどうなるの?」とクシシュトフに尋ねると、彼は「その人がしてきたこと」「その人の周りの人にはその人の記憶が残る」と答えた。それに息子はこう返した。「人は思い出のために生きているの?」と。

クシシュトフとパヴェヴはとても仲の良い親子だ。一緒にチェスを打ったり、コンピューターに質問をしたりする。パヴェヴは池の氷でスケートを滑りたがっていたので、二人はコンピューターで滑れるかどうか、氷の厚さを測っていた。ワルシャワの厳しい寒さの中、漸くパヴェヴが待ち望んでいた日が訪れる。コンピューターによると最高のスケート日和だと結果が出たのだ。父親も事前に本当に大丈夫かどうかを確認しに池の氷の上を歩いている。それでも、悲劇は起きてしまった。氷が割れてパヴェヴは池に落ちて命を落としてしまう。パヴェヴが池に落ちた時間帯に、クシシュトフは翻訳機械についての論文を書いていた。そこで息子の死を暗示するかのように、突然、青いインクの大きな染みが出来る。その前に、彼は大学の講義で、コンピューターには選別能力、つまり意志があり、意識があると言っていた。まだプログラムされる一方だから、人間の意識とは一緒に出来ないが、コンピューターにも個性があると言っていた。そして、エリオットの「詩は翻訳不可能なものを謂う」というのに対してこうも付け足した。「コンピューターは夢を見ている」と。
私はこの場合の「詩」とは信仰のことであり、コンピューターとは日常だと思っている。カトリックは共同体と言うが、各々が抱いている信仰心は翻訳不可能であり、人間の日常は俯瞰視点だとプログラミングされたように動いているからだ。それでも人々の日常は個性があり、日常とはまるで夢の世界のように説明がつかない。
 
 鑑賞者として人の運命を見るということは結局のところ自分の運命と照らすことになる。まるで他人の人生を見て、自分用に翻訳するみたいだ。この話の悲劇は誰しもが翻訳しやすい「神」であり、共感出来る「神」であろうと思う。けれども受け入れがたい話である。実在者であった息子の存在が消え、魂という曖昧な存在になってしまった時に、クシシュトフにとって息子の非存在は神と同列になったと体感したのかもしれない。彼にとっては魂も神も同列の拒絶していた存在だったからだ。だから、建設途中の祭壇に飾られている聖母マリア画へと向かったのだろうと私は思う。そして彼は祭壇に手をかけて押し倒してしまう。


例えば、

Aを拒絶し、Aを受容しない生き方は可能である。その代わり、持続する信念が必要だとする。

神を拒絶し、神を受け入れない生き方は可能である。しかし、人間に愛という必要な感情でもあり不確かな感情があり続ける限り、その信念は脆くなってしまうのではないのだろうか。彼が聖母マリアの元へと足を運んだように。

なぜなら、神は人間を愛しているのだというのだから、心をかき乱さずにはいられない。特に大切な人を失ってしまった後は。


十戒 1.「あなたは私の他になにものにも神としてはならない」






デカローグ エピソード8について
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EL SUR

「たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘に通じていようとも、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも愛がなければ無に等しい」(コリント人への手紙13章2節)
この話にはこの聖書の引用がよく似合うと思った。

 「明日夜が明けたら、お父さん、すぐに墓参りにいきます」と冒頭に放たれた言葉からは、「人は死んだら何が残るの?」と聞かれ「その人がやったことだよ」と答えたキェシロフスキデカローグを思い出させる。エル・スールの主人公、アリアドナの存在は死んだ父親の残した娘であり、父親への想いを語る独白は、アリアドネの糸を手繰り寄せるかのようだ。アリアドナとアリアドネという音は偶然にも近しい。迷宮から出るための道しるべとなったアリアドネが渡した糸。聞けば、迷宮とは道が重なることがなく、振り子状に回転するというではないか。
 自殺をした父親は魔術的な振り子を愛用していた。それで、まず生まれてくる主人公が男の子か女の子か当てたことがある。振り子は何のために揺れているのか、未来を知るためなのか、奥深く埋められているものを見つけるためなのか、アリアドナは父親の死後、残された振り子を揺らす。振り子は父親の「やってきた」事なのだ。そこには本当にあった事実と、そう想いたいと無自覚に振り子を揺らしてしまう不安定さがある。一人の人生こそ、知ろうと思えば迷宮である。
父親の真相についてわかるのは彼女にとっても一部であり、その頼りない独白がより謎が多かった父親像、父親が本当に愛した女性、それらが影を濃くさせていく。「死」と「墓」から始まる原作は映画とは違った時間軸を持っている。映画は父親の死の予感から始まり、過去の回想によって父親の生きている姿が生き生きとしているのに対して、原作はどんなに思い返しても、父が墓にいるところから始まり、死が常に生き続けている。
そんな中で主人公アリアドナは思い返すことによって父親の魂を救出していると私は思う。母でさえも父の墓を見捨てた。誰もが父親の墓を見捨てた。そんな中で父親が生きた証となるのは、この娘の愛ではないのではないのだろうか。
物語全体が恋しがっているような、EL SUR(南へ)、そこにはスペインの分離独立時代の背景がある。
映画では旅立つ直前で終わり、原作では主人公は南に行くことが出来る。
南についても謎が残った本作は、きっと最後はプロローグになっている「私たちは影でないものなど愛せるのだろうか?」に繋がる。
*(映画では、主人公の名前はエストレリャ)
*同じ、映画のビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」は南の話である。
原作者の名前はアデライダ・ガルシア・モラレス
*画像の権利はdvd販売元の紀伊国屋書店、及びブルーレイの販売元のアイ・ヴィーシー社にあります。

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La Barbe Bleue



 Il était une fois un homme qui avait de belles maisons à la ville et à la Campagne, de la vaisselle d’or et d’argent, des meubles en broderie, et des carrosses tout dorés ; mais par malheur cet homme avait la Barbe bleue : cela le rendait si laid et si terrible, qu’il n’était ni femme ni fille qui ne s’enfuît de devant lui.

「昔々、町にも田舎にも美しい家を持ち、金や銀の食器、刺繍の家具や、金の四輪馬車を持つ男がいました。けれども、不幸なことに、この男には青髭がはえていました。そのため、とても醜く恐ろしく見え、どんな女も娘もその前から逃げ出させずにはいられませんでした」(訳:私)

 シャルル・ペローとグリム童話と両方ある「青髭」という話。今回はペロー版についてですが、青髭の妻が再婚するた度に行方知れずになっていると知っていながらも、隣人の高い身分の婦人の妹娘は彼の内面を気に入り結婚します。若き妻となった妹娘に青髭は沢山の部屋の鍵を渡します。そして一つだけの鍵について、「この鍵の大廊下の下にある小部屋は絶対入ってはいけない、入ってしまえば怒って私はお前をどうするか分からない」と言って渡しました。

しかし、若き妻は夫が留守の間に、どんな豪華な部屋を自由に行き来するよりも、好奇心に負けて禁じられた部屋を見てしまいます。そこには、床一面が凝固した血でおおわれ、前の妻らしき女の身体が頭部を切断されて壁際にくくりつけられていたのです。

 
 若き妻は思わず鍵をその血の床に落としてしまいます。急いで拾い上げますが血が全く落ちません。青髭が予定よりも早く帰ってきてしまい、その禁じられた部屋に入ったことがバレてしまいます。青髭が今までの妻のように首を切り落とそうとすると、若き妻は、

donnez-moi un peu de temps pour prier Dieu.(神様にお祈りする時間を少しください)

と言います。この時間稼ぎのようで、宗教的な意味を持つこの瞬間は素晴らしい。この後に若き妻の兄が助けにきてくれ、死なずに済みます。

*****

実写版は、この原作を読み上げる現代人の姉妹と、映画オリジナルの脚色のストーリーとなっています。原作では裕福な家庭の設定でしたが、実写版では、父親の死をきっかけに、私学のカトリック学校を退学させられた貧しい姉妹となっています。

原作者、シャルル・ペローは有名なルイ14世に仕えた作家で、貴族の読み物用に作られた民話と庶民への接点を作り上げたと言われています。そして青髭の青という意味、フランス革命以降、青は「自由」や宗教的意味でも神聖という意味がありますが、ペローは1628~1799年に生きていたので、フランス革命前の「青」の価値観で書かれていると思われます。例えば、フランス語の「青」はギリシャ語由来のκυανοειδης:暗青色、アッシリア語の瑠璃を意味することや、もともと青ざめる、恐怖に感じた、顔色が悪いなどに使われる「青」だということになります。映画では「一番信用出来るかもしれないこの少女まで秘密の部屋を開けてしまった」というような、

人間の普遍的な何らかしら存在する欲求についての、
リアリズムに仕上がっています。
見ているだけでも美しい実写版なので是非。

画像の権利はDVD販売元のCCRE社にあります。

Alice

Jan Švankmajer:Alice

 ルイス・キャロルの不思議の国のアリスを映像化したものは大体全部持ってるのではないかなと思う。

(輸入版が多い)中々、原作通りというものがなく脚色が入っていてもシュヴァンクマイエルのアリスが一番好きかもしれない。理由はよく分からないが、よく分からないからこそシュルレアリスムならでは何だと思う。

視覚効果、触感、触覚、感触を感じさせる映像美、グロテスク、全て文句無し。

 それではDVD版の説明を一部抜き出してみる。

 Q あなたの特有の解釈のため、何故アニメーションという手法を選んだのですか?

幼児期との対話、もしくは原風景の探索には、アニメーションのテクニックを通して初めて夢として必要なリアリティを与えられているのです。アニメーションは幼児期の心像に再び生命を吹き込むことが出来ます。それに

真実性を与えるのです。オブジェクト・アニメは我々の幼年期の真実を支えてくれます。


***



心像には二種類ある。一つは「知覚心像」、もう一つは「記憶心像」である。前者は、現在進行形で起こっていることを知覚しつづけることであり、後者は、すでに心に溜め込まれていることを言う。シュヴァンクマイエルが言っている心像とは幼年期の心像、両者ともさすだろう。純粋な幼少期の心ということになる。そういえば、私がこれを初めて見たのは大人になってからですが、実はこのジャムに画鋲が入っていた夢というのは子どもの頃に見たことがあった。だから惹きつけられたというのがあります。



画像、及び動画の権利は販売元のコロンビアにあります。



L’amant

je suis la préférée de sa vie
私は彼の人生のお気に入り
L’histoire de ma vie n’existe pas. Ça n’existe pas. IL n’y a jamais de centre.
私の人生の物語というものは存在しない、そんなものは存在しない。物語を作るための中心なんてないのだ。
L’amantMarguerite Duras)
(①と②はページでいったら順番は逆)
ILについて、フォントの関係でIlになってしまうのでLも大文字にしました。



   je suis:私は~です、sa、所有されているもの、人が女性名詞の場合にsaを使います。この場合は主人公の少女のことで、このsa 2人が逢瀬を重ねていたことを表しているので、この一文だけでも色気があります。15歳のときにメコン河の上で出会った金持ちの中国人青年との性愛。そのイマージュは河を横断していく間持続する。長男しか愛さない母親、身体が弱い次男、意地悪な兄、家庭に圧迫を感じる中で、自分の持ち物に対しての拘りと、一回り年上の彼が彼女にとって居場所となっていく。
 香り立つように現れた二人はすぐに触れ合う。永遠を考えた男と、小説家としての未来を見ていた少女、男は掟を破ってでも彼女と居たいとは一度は言ったが、彼女には若さと未来があるが故に答えをNOと言った。

 度々、登場するイマージュという言葉、著者は少女時代の視線や記憶をすべてイマージュ(image)と表しました。フランス語ではイマージュとは「再現」という意味もあります。それは生き写しでもあり、忠実な似姿ということにもなります。これは少女にとって経験というイマージュと、著者にとっての再現のイマージュが展開されています。「彼」と言ったら必ず人を差したりしますが、例えば②のようにフランス語は il(彼)というものが、属性にもなるときがあり ます。「彼」と「それ」という意味が私から見ると、話の内容に沿って効果的に利用されているように見えました。「彼」と敬愛を込めて呼んでいるのは老いた著者であり、客観的に「それ」という出来事を見つめているのは少女の頃の著者かもしれません。誰もがこの二人の情事に注目し、彼との想い出を標本のようにしたかったと思うのかもしれませんが、私にとって、IL(彼)は物語にとって中心では無いと宣言しているかのようでした。―――この話の二人は本当に愛し合っていたかどうか、少女は本当に愛していたのかというところに焦点がよく当てられますが、私はこのように恋愛には行き場の無い感情というものはあると思います。行き場の無い想い、想いとは必ずしも常に何かを望み、何処かへ進みたいと具体性を持っているわけではありません。

このように、祝福も受けず、理解や共感もされず、核を失ったような想いがあったとしても、肌が触れ合って、見つめ合えば、心は交わっていきます。
このような交わりの意味を感じ取れる人は、メコン河の抽象的な描写を感じ取れるでしょう。人間の感傷深さとは関係無く、メコン河は貿易や人を渡しながら変わらず流れていきます。ただそれだけで、胸が痛くなることでしょう。その快楽を知り、そしてその内面の破壊を知る。愛の希求を知るつもりが、自分達はまるでメコン河に漂よう藻屑のように思えるのですから。覚えていることは、二人の関係は、メコン河の描写で事足りるかのように全てを呑み込む―――。
 著者であるマグリット・デュラス自身の自伝的小説と言われているこの作品は、1971年に出版さ れ、1984年にゴングール賞を受賞しました。1914年生まれの著者が十代の頃の、それこそ作中の表現であったimage:イマージュというのを出版したのは50代ということになります。小説家としての神の啓示もこの思い出のようです。小説では「練習しても弾けなかった曲、ピアノを断念するきっかけとなった曲」、映画ではショパンのワルツ第10番、ロ短調Op69-2が使われていました。

 彼との触れ合い、小説家への想い、母親や家族に対しての想い、彼の結婚、二度と会えないと漸く気付いたこと、物悲しいようで、老いた口調が安定を与える。

 執筆するときにどのような気持ちだったのか想像出来ませんが、映画では船の手摺りに足をかけていた。もう一度過去に振り返るとき、その水は記憶の水であり、イマージュの水面である。水底に潜らずに、渡し船に乗って運ばれるように、在った出来事だけを記していく。愛が分かっていなかった時、愛していなかったと言えなくなった時を正確に。
読者にはその愛の盲点を示すかのように、

そのイマージュ、その不安定なイマージュ、

少女は彼の愛を頼りに 足をかける。

(画像及び、動画はブルーレイ販売元のユニバーサルに権利があります)

The secret garden

「天の国とはからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」マタイの福音書13章31-32節



   主人公、メアリーレノックスは孤独な少女だった。父親は仕事人間、母親は子ども嫌いでパーティに明け暮れる毎日。召使いはメアリーの言いなりで、彼女は我儘に育った。
彼女の両親や召使いたちはコレラにより死んでしまった。(映画では地震)それによってメアリーは遠い親戚にあたる、イギリスの屋敷に住むことになる。主人はあまり帰らないと聞かされ、メアリーはここでもあまり相手にされない。
けれども違ったのは、年が近く優しいメイドのマーサーやマーサーの弟のディコンと仲良くなれたこと、そして最もメアリーの話し相手になったのは「コマドリ」だった。コマドリとの対話によって、メアリーは次第に年相応の笑顔を取り戻していく。
そんなコマドリに導かれて偶然にもメアリーは
主人が閉じてしまった花園の鍵を見つける。

この鍵こそ、ここの主人が妻との思い出の庭を土に埋め、封印した鍵だった。
ディコンとメアリーは、秘密の巣作りと称して荒れた花園を復活させようとする。そして、この屋敷の主人の息子であり、病弱で車椅子が無いと生活が出来ないコリンも仲間に加わる。主人は失った妻を思い出させるコリンを可愛がったことがない。
そんな、からし種のような弱き、小さな存在達が、荒れた庭に花々を咲かせ、コリンは歩けるようになった。長らく我が子に心を開けなかった父親は、この庭で歩けるようになった息子を受け入れる。

大切なものを失い、自分の一部を無くし、
笑顔を忘れていた三人が庭で復活を遂げる。
聖書でも人々は天国というものをもっと立派で壮大なものだと思っていたが、
イエスは「からし種」のような小さなもので大きく育つと言った。

私は メアリー・レノックス達が行ったことは、
天の国の「生長」ではないだろうかと感動した。
そしてやはり、天の国では子供が一番偉いのだろう。
(マタイによる福音書18章1~5節) 

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子どもの頃は、クラスメイトの誰もがこの話を平凡だと思った。「小公子」で有名となったバーネットだが、たかだか庭いじりをして奇跡が起きたというのは、当時も流行らなく、エンターテイメントにあふれた日本では平凡な作品だった。そう感じたのは私もその一人だ。けれども何処か惹かれるものがあり、時々思い出しては読み返してみるものになった。その影響で古い鍵が売ってるのであれば買ってしまう。鍵がすきな女性がいるのなら、何らかしらその女性は児童文学の影響が強いだろう。この話については、聖書を意識したのかは分からないが、土いじりに意味があるように思えるし、子どもながらに、真似をしてみたくなった。きっとそこに、自分でも計り知れない神の御言葉が育っていたからかもしれない。気付かない間に触っていて、物語からイエスを見つけた。

物語は、神について沢山の例え話を生みだす力がある。だから私は物語が好きですね。
*マタイの福音書13章の前半部分は前回の私の作品でも軸です。「からし種」のたとえは、引用箇所の次の部分ですね。

*映像はイメージで、1993年度に公開された「秘密の花園」1993年、アニエスカ・ ホランド監督で「秘密の花園」を映画化された。制作総指揮はフランシス・フォード・ コッポラ。メアリー役はケイト・メイバリー。
この感想は主に原作から。The Secret Garden is a children’s novel by Frances Hodgson Burnett first published as a book in 1911. from wikipadia 

*画像の著作権はワーナーホームビデオに帰属します。

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